2019年6月25日火曜日

天照大御神が生んだ五柱男子 〔355〕

天照大御神が生んだ五柱男子


天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で初めに速須佐之男命が胸形三柱神を産み、それに続いて天照大御神が「五柱男子」を生んだと記載される。「天」に散らばった命達であるが、今一度その居場所を見つめ直してみようかと思う(前回参照)。

文中「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」についてはこちらを参照願う。古事記原文[武田祐吉訳]…、

速須佐之男命、乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纒右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纒御𦆅之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纒左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纒右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命。自久下三字以音。幷五柱。
於是天照大御神、告速須佐之男命「是後所生五柱男子者、物實因我物所成、故、自吾子也。先所生之三柱女子者、物實因汝物所成、故、乃汝子也。」如此詔別也。
[次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏いておいでになつた大きな勾玉の澤山ついている玉の緒をお請けになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌いで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏かれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方の男神が御出現になりました。
ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました]

代わって須佐之男命が生ませた神は…、

①正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
②天之菩卑能命
③天津日子根命
④活津日子根命
⑤熊野久須毘命

<忍穂耳命>
…と記述される。一番目の天之忍穂耳命は幾度か古事記に登場する。また邇藝速日命の父親ということになっている。

前記したように現在の福岡県田川郡赤村に関連する「吾勝」「葛野」の由来かもしれない。が、古事記は語らない。情報が少ないが彼らの居場所を求めてみよう。

①正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
 
「勝」は「舟が浮かび上がっている様」を象った文字のようである。「天之常立神」との関連で大地が持ち上がった光景を連想させる。壱岐市勝本町の名前にも関連しているようであるが、不詳である。

「忍穂耳」を何と解釈するか、であろう。
 
忍(一見では分からない)|穂(稲穂の形)|耳(縁)

…「穂」は二つの川に挟まれた地形と解釈する。おそらく一方の川が小さく穂の形として判別し辛いところを表しているのであろう。「耳」=「耳の形」と思われる。図に示した勝本町新城東触にある新城神社辺りが該当すると解る。
 
<正勝吾勝勝速日>
さて、「勝」=「大地が持ち上がった様」と読んだが、一文字一文字を紐解いてみよう。

「勝」=「朕+力」と分解され、「舟が浮かび上がった様」を示し、際立っている状態を表す文字と解説される。地形象形的には「小高く盛り上がっている様」と紐解ける。

「正」=「囗+止」であり、「止」=「足を止めた様」即ち「足跡」を象った文字と言われる。図中に金文と甲骨文字を示した。

例によって「囗」=「大地」であろう。すると上記の「忍穂」の地形がその通りの形をしていることが解る。

同様に「吾」=「五+囗」の「五」の甲骨文字を図に載せたが、交差する状態、地形では縊れた様を表していると思われる。「正勝吾勝」は同じ場所の別表現であることが解る。忍穂耳命は偏平足ではなかった?…冗談ですが・・・。

更に「勝速日」は「日(炎)」の地形を「勝」が束ねている様を表している。「天津」に近付き、州の先端が寄り集まる山稜の端と接近する状態である。何とも丁寧な表記であろうか・・・皇統に係る重要人物、さすがに坐した場所の説明には力が籠っている、と解釈しておこう。

②天之菩卑能命

「菩卑」を何とするか?…後の記述に「卑=比」とされる。「菩」は仏教がらみの解釈が多くみられるが、時代が異なる。「菩」=「艹+咅」と分解すると「咅」=「ふっくらとしたつぼみ(子房)」と解説される。「卑」=「いやしい、低い」の意味を持つ。これらを併せると…、
 
菩(ふっくらとしたつぼみのようなところ)
卑(低い)・比(並ぶ)|能(隅)|命

…「並んだ(低い)ふっくらとしたつぼみのようなところの隅」の命と紐解ける。現地名の片山触にある標高73.1m76.0mのほぼ同じ形をした山が並ぶところがある。

「卑」と表記されることから、低い方の隅に坐していたのではなかろうか。敢えて二つの文字を使ってより詳細な場所を示す。幾度か行われている記述である(下図参照)。この神は出雲に降臨したのだが、梨の礫の行動を取り、天神達はお気に召されなかった様子である。これも籠められた表記であろう。その代りに息子の活躍が記載される。

③天津日子根命

現在の谷江川が複数の川と合流する最も津らしいところであろう。「天津」は…、
 
天(阿麻:擦り潰された台地)|津(集まる)

…「擦り潰された台地が集まったところ」を表している。「天の津」と解釈しても良し、だが、確実に地形象形表現と重ねられていると思われる。その近隣として比定できそうである。「日子根」とは…、
 
日子(稲穂)|根(根付く)

…「稲穂が根付くところ」の命と紐解くと、「天の津の傍らで稲穂を根付かせる命」となる。「日子」=「日(太陽)の子(生み出したもの)」の意味と表していると思われる。津の周辺を開拓したように受け取れるが、これでは居場所を示すには不十分であろう。

「日子」の意味は、上記のそれとして、地形象形しているのではなかろうか?…、
 
日([炎]の地)|子(生え出る)|根([根]の形)

<天石屋・伊都之尾羽張神>

…「[炎]の地から生え出た[根]の形のところ」と読み解ける。

既に登場した「伊都之尾羽張」とは「炎」の地から長く延びたところと推定した。

「日子根」は、それから更に延びたところを表していると解る。

その「根」の先に「天津」がある地形を「天津日子根」と表記したと紐解ける。

「伊都之尾羽張神」が坐していたところを示した。命が坐した詳細な場所までは特定されないが、「天津」に近接するところであったと思われる。現地名は新城東触(下図参照)。

④活津日子根命

「活」=「氵+舌」と分解すると川に挟まれた[舌]の形をした地形と思われる。上記の「天津」と同じく「活津」は…、
 
活([舌]の地形)|津(集まる)

…「[舌]の地形が集まったところ」と紐解ける。すると「天津」ではないところに同じ「日子」の「根」を見出すことができる。現在では、この津を境に勝本町仲触・北触・新城西触・西戸触に分かれるところである(下図参照)。

⑤熊野久須毘命

文字解釈を試みてみよう…、
 
熊野(隅の野)|久須(くの字の州)|毘(田を並べる)|命
 
<天照大御神の御子>
…「隅にある野で[く]の字形の州に田を並べる」命と紐解ける。

神岳の麓の川(天安河)が蛇行し、ほぼ直角に曲がるところ(隅)を示していると思われる。

更に「能」はなく「熊」の文字を使っているのは、その「隅」が「灬(炎)」の地形を示していると思われる。図を参照願う。

北九州に比べると何とものっぺらな地であるが、それなりに地形の特徴を掴むことが可能と判る。

天津日子根命を除き古事記が活躍を記述することが少ない神たちである。

彼らは壱岐で暮らし子孫を残していっただろう。がしかし「天神」一族は東へ東へと向かい立去って行ったのである。

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前回<速須佐之男命が生ませた五人の命〔174〕>も概ね御子達の居場所を言い当てていたようにも感じるが、やはり「活津日子根命」の場所は幾度か彷徨ったようである。「舌」の地形は、とりわけ「天」には多数出現していたからとも思うが、「日子根」の解釈が曖昧であったことが最大の理由であろう。

「正勝吾勝」の「正」と「吾」の文字解釈、解けて初めて漢字を用いた地形象形の奥深さを感じさせられた。この”文化”が今に残っていないことが不思議なくらいである。今暫くは「漢字学」とのお付き合いであるが、白川漢字学が持て囃されるとは、如何に漢字そのものへの理解が浸透していないか、と気付かされる。やはり訳の分からない「令和」の意味が横行するのも頷ける。

最後に、いつも参考させて頂いているブログサイトに謝意を込めて、引用させて頂く。