2019年7月31日水曜日

近淡海の『近』 〔360〕

近淡海の『近』


古事記の中で「近淡海國」の文字列が登場するのは、大年神が天知迦流美豆比賣を娶って大山咋神(別名山末之大主神)誕生し、彼が祖となった地名「近淡海國之日枝山」である。大年神は速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生したと記される。櫛名田比賣を娶って誕生する八嶋士奴美神系列(末裔に大国主命が誕生)とは異なる大年神系列の神が祖となった地名である。

ところで世の中には古事記の解釈本なるものが、マンガも含め夥しく存在するようなのだが、読み間違いも夥しく見受けられる。「遠淡海國」(0回)は古事記に出現しないが、「遠江國」(1回)は登場する。「近淡海」(5回)→「近江」(0回)と気安く置換えるが、何ら根拠は存在しない。

もう少し他の例を挙げると、「遠津」(5回)はあるが、「近津」(0回)は出現しない。「高志之八俣遠呂智」は登場するが「近呂智」は、勿論登場しない。即ち古事記の「遠・近」の文字は距離的なことを示す以外の意味を表していると気付かされる。「遠津」については、本ブログで詳細に述べたこちらを参照願う。

「遠近」揃っているのは「遠飛鳥・近飛鳥」のみであろう。これは明らかに距離的な遠近を重ねた表記である。相対的な距離を述べるには当然のことながらその視点を明確にする必要がある。それが記載されない、遠・近のどちらか一方しか記述されない場合は、距離的な意味を表していないと読み取ることが自然である。

そんなこともお構いなしに「近淡海」→「近江」(都に近い淡水の海:琵琶湖)であり、遠いところの「遠淡海」→「遠江」(浜名湖)とされている。更に古事記は「淡海」と「近淡海」とを明確に区別していることも無視して、総て「近江」と記載されている。

その結果出雲と近江(大和も含めて)とが異常に近接した場所となる解釈に陥ることになる。その言い逃れは、古より出雲との関係が深かった・・・大物主大神が大和の三輪山に坐していたようになる。挙句に所詮古事記など信用できない・・・。高志之八俣遠呂智の場合と同じである。出雲と高志(越)の位置関係、神話でバッサリである。

前置きが長くなったついでに、読み間違えの際たるところ「竺紫日向」であって「筑紫日向」ではない!…古事記が1,300年間読み取れなかったのは当然であろう。この相違が全く理解されて来なかったのである。さて本論に戻ろう・・・。

関連する古事記原文…、

大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。又娶香用比賣此神名以音生子、大香山戸臣神、次御年神。二柱。又娶天知迦流美豆比賣訓天如天、亦自知下六字以音生子、奧津日子神、次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、次大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、次庭津日神、次阿須波神此神名以音、次波比岐神此神名以音、次香山戸臣神、次羽山戸神、次庭高津日神、次大土神、亦名、土之御祖神。九神。上件大年神之子、自大國御魂神以下、大土神以前、幷十六神。

いつものことながら唐突に「近淡海國」が出現する。しかも母親である天知迦流美豆比賣は秋津の出身である。胸形(現宗像市)の地に居た比賣なのであり、九人の御子を誕生させる。彼らの名前から推定された場所は出雲の南部、即ち父親の大年神が統治する領域であることが解った。

大年神は伊怒比賣、香用比賣及び天知迦流美豆比賣の三比賣を娶って十六人の御子を誕生させ、その大半を出雲の地に配置したと伝えている。そして八嶋士奴美神と重なることはなく、そればかりかそれを取り囲むように、である。言い換えると出雲の大部分は大年神の系列によって埋め尽くされたのである。


<大山咋神(山末之大主神)>

既に述べたように八嶋士奴美神の一族は、細々と出雲の地にあり、その一系列は「天」に舞い戻ることになった、と記述されている。

その舞い戻りの系列から大国主命(神)が誕生する。神々の名前の羅列の中に潜められた速須佐之男命の系譜の変遷であり、「葦原中国=出雲」の地で生じた天神達の”誤算”の歴史である。

大山咋神(別名山末之大主神)は図に示した場所に出自を持つと紐解いた。出雲のど真ん中、その山稜が長く延びた端に坐していたと推定した。

地元の比賣が生んだ御子と棲み分けた場所である。いや、だからこそこの地を離れ旅に出たのかもしれない。地元優先、秋津の地では多くの御子を育てるには狭く、葦原中国に移り住まわせたのであろう。

また、それは大年神にとっては統治の領域を拡大する上において好ましい状況を作り出した。古事記は八嶋士奴美神との地政学的戦略の優劣を語っているようである。そんな背景の中、大倭豐秋津嶋へ飛び出た大山咋神の行動は出色であろう・・・がしかし結果として「用鳴鏑神」威圧的侵出では国造りは叶わなかった、と述べている。
 
近淡海國之日枝山


<近淡海国之日枝山>
その彼が坐したところが記される。「此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也」。

祖となったのではなく、「坐」したのである。それぞれの場所はこちらを参照願う。

「日枝山」とは?…「日(炎)」として、「枝」=「木(山稜)+支(分かれる)」と分解すると…、
 
[炎]の形の山稜が枝のように分かれているところ

…と紐解ける。現地名は行橋市上・下稗田(ヒエダ)辺りと推定される。この文字の読みが複数に派生する。「日枝(ヒエ)」→「日吉」、「比叡」など。真に壮大な国譲りであろう。

比叡山の東には近江があり、西には葛野(京都市)がある。古事記の舞台が北九州辺りと推定した説もあるが…この壮大な国譲りを論破するには荷が重過ぎた?…それほど全てが揃っている配置なのである。

尚、「日枝山」に対して「枝」のところは「比賣陀」と表記される。「[貝]の地形が並んだ崖があるところ」と読み解ける。詳細はこちらを参照願う。

では「近淡海國」とは何と紐解けるのであろうか?…日枝山が現在の行橋市にあるとしたが、その行橋市は現在の姿ではなかった、と言うか現在の行橋市の中心地の大部分は海面下にあった、のである。
 
<近淡海:当時の海岸線(白破線推定)>

既に述べたが、縄文海進を推定した当時の海岸線を図に再掲する。


図は現在の標高7-10mを目安として当時の海岸線を推定したものである(白破線)。黄色の文字の玖賀、宇沙及び長江は既に登場した地名で図の場所を比定した。

縄文海進のレベルは現在の標高3-5mのところが海面であったと言われる。一方沖積の効果も大きく、それとの兼合いで当時の海岸線を見積もることになる。

遠賀川・彦山川流域の古代海面の研究結果からこれらの流域では、現在の標高10-13m辺りまでが海水面と同じ標高であったと推定されている。

それを参考にして求めたのが図に示した「近淡海國」の海岸線である。この海岸線が浮かび上がったところで、「近」の示す意味が氷解したのである。

「近」=「辶+斤」と分解され、更に「斤」=「⺁+T」と分解される。「斧」のような器具で凹ませて二つに分ける様を表していると解説されている。図に示したように「斧」のような「長江」が「近淡海」を「墨江」と「大江」に切り分けた様を示していると解釈される。即ち「近淡海國」は…、
 
[斧]で切り分けられた淡海に面する國

…と紐解ける。「辶」=「地形(空間)」を表すと解釈する。この象形は特異である。故に「近」の地形象形の表記は唯一「近淡海」となったのである。勿論「伊波禮」の近くにある淡海の雰囲気も漂わせているのであるが・・・。
 
<近淡海の『近』>
因みに類似の「斯」=「其+斤」で「斤」が含まれる。この場合は「其(箕:分ける)+斤(斧:切る)」=「切り分ける」と解釈する。


通常は扇状に広がる入江となるが、複数の、同じような川が注ぐ入江で発生する地形…現在の川でも北から小波瀬川、長峡川、井尻川、犀川(今川)、祓川などが流れ込む…極めて特徴的な入江を形成していたからであろう。

興味深いのは現在の行政区分においても行橋市の西側に京都郡みやこ町が入り込んだようになっていて、上記の近淡海の折れ曲がった形をそのまま少し西側に移した区分となっている。「斧」の「長江」の存在を伝えているように思われる。

既に述べたように古事記の「淡」=「氵+炎」で、[炎]の形そのものを使って表記したものと解釈した。「味が薄い」の意味では用いていない。更に「近」は「遠」と併記されてはいない。

「遠」=「辶+袁」であって「ゆったりとした山稜の端の三角州」と紐解いた(遠津など)。ならば「近」も同様な地形象形表現では?…と気付きながら、何と「形」そのものを表していたのである。

「近淡海」→「近江」(都に近い淡水の海)とする限り、古事記もさることながら万葉集も含めて全く読み解けていないのが現状であろう。解釈本に何度も登場する「不詳」の文字をそのまま放置してしまうのである。放置するならまだしも、妄想で固めて媚び諂った論説が横行する羽目に陥っているのである。<2010.05.08改>