間人穴太部王・三枝部穴太部王
天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が岐多志比賣命之姨・小兄比賣を娶って誕生する御子達の中に、なかなか難読な名前が見受けられる。小兄比賣そのものも、従来ではスッキリとした解釈は行われて来なかったようである。詳細はこちらを参照願って、御子の解読に入ることにする。
古事記原文…、
娶岐多志比賣命之姨・小兄比賣、生御子、馬木王、次葛城王、次間人穴太部王、次三枝部穴太部王、亦名須賣伊呂杼、次長谷部若雀命。五柱。
「間人」=「ハシヒト」と訓読するようである。別書では「穴穂部間人皇女」とも記され、石上穴穂宮のあった場所に関連するところのように伺える。やはり「間人」が何を意味するのか?…いずれにしても地形象形している筈である。
<間人穴太部王> |
「間」の原字(旧字体)は「閒」とある。「間」=「門+月」と分解され、「門の間から月の光が差し込んで[間]という意味を表したもの」と解説される。
「人」は「谷」の地形を示すが、山稜が長く二股に分かれて麓に届く様を表していると思われる。日子人之大兄王などの例があった。
これらを組合せると、「間人」=「二つの山稜の端が門のように並び[月]のような地形が挟まっている」様を表しているのではなかろうか。
[月]の地形を求めると、石上広高宮のあった谷間(田川市夏吉岩屋)が見出せる。
大きな谷間の挟まった[月]の形を「間」の文字で表記したと推測される。いつものことながら古事記編者の空間認識の正確さに驚かされるところである。
「穴太部」は「穴」=「宀(山麓)+ハ(谷)」、「太」=「広がる」、「部」=「小高いところ」と解釈すると…「山麓の谷に小高く広がったところ」と読み解ける。決して「穴」に関係・・・いや、掛けてあるのかもしれない・・・垂仁天皇紀に登場した伊許婆夜和氣王が祖となった沙本穴太部之別で既に読み解いた。
<三枝部穴太部王> |
「三枝部」は京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝辺りと推定される。現在もこの地に大規模な棚田を見ることができる。
古事記が語らないが、複数に記述される「三枝」の地は師木あるいは英彦山と周防灘を結ぶ主要なバイパス通路であったと推測される。日本の古代史におけるランドマークの一つであろう。
図に示した通りに谷間の山麓が小高く盛り上がって広がった地形が見出せる。現在山稜の中腹まで棚田が延びているところである。王が坐した場所は、別名が教えてくれる。
<須賣伊呂杼> |
別名「須賣伊呂杼」は…、
須(州)|賣(孕む)|伊(僅かな)|呂(段々に積重なる)|杼([杼]の形)
勿論当時の地形そのものが残っているとは考え難いが、偶然にしては真に合致した地形を表していると思われる。いずれにせよ、「穴太部王」から推測される谷の出口辺りにあって申し分のない場所であることが解る。
倭建命の系譜の中で「息長」の系列から飯野眞黑比賣・須賣伊呂大中日子王が誕生する。これに含まれる「須賣伊呂」の解釈と全く同じとなる。天皇の同腹兄弟と訳しては勿体ない、のである。
「小兄比賣」の御子達は各地に散らばった。それは当然のことであったろう。彼女の地に御子を養う地はなかったのである。天皇の「力」で行われた御子の拡散、それが有為の人材を生み、一族として勢力範囲を広げることにも繋がったのであろう。
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既に述べたところではあるが、若干の修正を含めて橘豐日命(用明天皇)が「間人穴太部王」を娶って誕生する御子の段を再掲しておく。
欽明天皇が岐多志比賣命之姨・小兄比賣を娶って誕生したのが間人穴太部王である。「石上」の長く深い谷間に坐していたと推定した。誕生する御子達もその地の近隣なのか、それとも各地に飛ぶのか、憶測を排して名前を紐解くことにする。「上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王」と記される。古代史上最も著名な人物の一人が登場する。
上宮之厩戸豐聰耳命
聖徳太子とされて来たが、最近では厩戸皇子と表記されるそうで、ならば神倭伊波禮毘古とすべきかな?…余談はそれくらいにしてこの人物について紐解いてみよう。何せ超有名な為にこの名前の解釈には様々な説が見受けられる。全く捉われることなく安萬侶コードを適用する。
「上宮」は何処を示すのであろうか?…古事記の中で「上」が使われるのは決して多くは無い。それは「神」を表現する場合に用いるために混乱を避けているようである。そう考えると、この「上」は「石上」を表し「宮」は、穴穂宮もしくは廣高宮を示していると思われる。母親「間人穴太部王」の出自と重なる場所と判る。
<上宮之厩戸豐聰耳命> |
厩=厂(崖下)+既(稲と耕す人)
…とできる。「戸」=「家」、「豐」=「段差のある高台」と解釈する。
聰=総(集まる)
…に通じるとある。「耳がよく聞こえる」とは神経を集中することに通じることから派生した意味である。全体を纏めて「厩戸豐聰」は…、
崖下で稲を耕し家が段差のある高台に集まっているところ
<間人穴太部王と御子> |
「耳一族」と言うわけではなく、天之忍穂耳命から始まる「耳」が付いた名前に共通する解釈が適用できる(毛受之耳原)。
さて、そんな場所が見つかるのか?…現在の田川市夏吉、ロマンスヶ丘の麓にある。
仁賢天皇の石上広高宮があった場所に「耳」の形をした縁がある。
ここまで解釈してくると、「上宮」は石上穴穂宮よりむしろ石上廣高宮を示しているようにも受け取れる。
当にこの廣高宮の崖下に位置するところである。穴穂宮の上の高いところにある宮として「廣高宮」を表現していたとも読取れる。辻褄があった話ではあるが、事の真相は定かではないようである(図を参照)。
久米王・植栗王・茨田王
「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米との関連を思い付かせるようであるが、やはり「久米」は幾度となく登場の川の合流点の地形象形であろう。図に示したところは大きな津を作っている。
久米=くの字に曲がる川の合流点
…と解釈される。黒米と繋がって来るのは耕作に都合の良い場所であり、耕地が大きく広がっていたところなのであろう。現地名では田川市夏吉との境にある。
「植栗王」は「栗」の象形とそれを植える「鋤」の象形が組み合わさった地形が見つかる。穴穂宮の近隣(田川市夏吉)である。「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の棚田、おそらく立派なものを示しているのであろう。現地名福智町伊方の長浦が該当するのではなかろうか。上記を纏めて図に示した。
厩戸豐聰耳命が歴史上如何なる事績を残したかを古事記は語らない。が、何かを伝えたいから、そして決して単刀直入には記述できないから、凄まじく凝った名前を付けたものと推察される。素性を曖昧にするのは彼の母親から始まっている。突止めるのもかなりの労力を要さなければならなかった。事情を忖度するのみである。