天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(23)
慶雲三年(即位十年、西暦706年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
秋七月壬子。以從四位上巨勢朝臣太益須爲式部卿。辛酉。以從五位下笠朝臣麻呂爲美濃守。乙丑。丹波。但馬。二國山火。遣使奉幣帛于神祇。即雷聲忽應。不撲自滅。」大倭國宇智郡狹嶺山火。撲滅之。戊辰。以從五位下阿倍朝臣眞君爲大倭守。己巳。周防國守從七位下引田朝臣秋庭等獻白鹿。」諸國飢。遣使於六道。〈除西海道。〉並賑恤之。」大宰府言。所部九國三嶋亢旱大風。拔樹損稼。遣使巡省。因免被災尤甚者調役。
七月十一日、巨勢朝臣太益須(巨勢朝臣多益須)を式部卿に任じている。慶雲二年(西暦705年)十二月二十日に葛野王が亡くなった記事が記載されていたが、この時の職位が式部卿だったらしく、その後任なのかもしれない。書紀の持統天皇紀に藤原不比等等と共に判事に任命されたり、有能な官人だったのであろう。
二十日に笠朝臣麻呂を美濃守に任命している。二十四日、丹波・但馬(こちら参照)の二國で山火事があったが、使者を送って幣帛を奉ったら雷鳴が忽ちに応じて、撲することなく自然に消火したと述べている。また大倭國宇智郡(田川市伊加利)の「狹嶺山」でも同じように火が出たが、撲滅させている。
狹嶺山
大倭國宇智郡にある山を探索すると、山ばかりで・・・名称をきっちりと読み解くことであろう。狹=犬+夾=平らな頂の山稜に挟まれた様、嶺=山+令+頁=山稜の頂を寄せ集めた様と読み解いて来た。
図に示した山が示す地形をそのまま表していることが解る。宇智郡の中で最も高い場所である。
ともあれ宇智郡の所在がこの山の名称で確からしさが一気に向上したように思われる。山麓の高低差のない裾野より地形が明確な山名の登場は大歓迎である。
現在、群馬県足利市で山火事延焼中とのこと、ヘリからの空中散布などない時代、自然の雨を待つか、撲するしか手はなかったのであろうか、山火事は極めて危険な自然災害、足利の出火は人災のような・・・どうやら鎮火できたようである。
二十七日、阿倍朝臣眞君を大倭守に任じている。二十八日、周防國守の「引田朝臣秋庭」等が「白鹿」を献上している(こちら参照)。が、特段喜ばれた様子は語れていない。また諸國で飢饉が発生し西海道を除く六道に使者を遣わしている。大宰府が言うには、所管の「九國」と「三嶋」で旱魃と大風で樹木が抜け収穫に損害が出ている。巡省(察)使を遣わして甚だしく被災した者の調役を免じている。
大宰府が所管する場所は、西海道であろう。故に飢饉で使者を派遣したのが西海道を除く六道と記載されている。前記で筑紫七國と記述されていた。それらを東から日向國・安藝國・伯耆國・因幡國(書紀の因播國)・隱伎國・筑前國・筑後國と推定した。現地名では遠賀郡岡垣町・宗像市・福津市に跨る地域である。前出の全体地図を再掲する。
残る二國は、伊豆國と大宰府の所在地筑紫國となろう。さて、「三嶋」は何と解釈されるか?…西海道の沿った海原に浮かぶ島と見做し、無人ではなかろうが「國」として認知されていない島と考えると、現在の男島・女島・大島がその航路に隣接することになる。伊邪那岐が生んだ六嶋に含まれる知訶嶋・女嶋・大嶋である。
筑紫七國しかり、いくら何でも、續紀編者でもこれらの国々の名前をあからさまにするわけには行かなかったであろう。それ故に例によって読み手に想像させる表現を用いたのである。「九國」は、九州島に広がり、「三嶋」は対馬・壱岐・種子島と拡散するようである。
最後の”種子島”が入るのは、竺志惣領が所管しているような記述が根拠なのかもしれない。だが、「竺志惣領」と「筑紫大宰」は別物、まんまと罠に陥った、わけである。「七國」、「九國」と續紀が記載する。最終的には「九國」で落ち着くのだが、従来より時期がずれていたりどうも合わない様子で、結局編者の誤り、先走りなどと解釈されている。繰り返すようだが、一国を前(中)後に分割した命名ではない。
● 引田朝臣秋庭
「引田」の名前を継承しているのであるが、「比羅夫」からの系譜は全てが明らかでなく、「秋庭」もその類の一人のようである。
周防國守の任命は記されていないが、上記と同様に「引田」の地から赴任したのであろう。残された場所は、図に示した宿奈麻呂と安麻呂の間、と言うことになるのではなかろうか。
現在は墓地となって整地されているが、辛うじて秋=禾+火=山稜が火の形をしている様を見出すことができそうである。庭=山麓で山稜が平らに延び出た様である。不都合なくこの地が出自の場所と推定される。
八月甲戌。越前國言。山災不止。遣使奉幣部内神救之。壬辰。以從五位下美努連淨麻呂。爲遣新羅大使。庚子。遣三品田形内親王。侍于伊勢大神宮。
八月三日に越前國の山火事が収まらないと告げ、使者を遣わしてその地の神社に幣を奉納させて救っている。二十一日、「美努連淨麻呂」を遣新羅大使に任命している。二十九日に「田形内親王」を伊勢大神宮に遣わし、仕えさせている。天武天皇が蘇我臣赤兄の子、大蕤娘を娶って産まれた田形皇女と思われる。
前記で出現しているが、あらためて述べると…調べても出自は全く不詳のようである。がしかし、古事記を読んでいれば、”有名”な地名であることを思い出させている。
疫病が流行った御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する意富多多泥古が住まっていた河内之美努村である。
「淨麻呂」の淨=氵+爪(手)+ノ+又(手)=水辺で二つの手が引張り合っている様と読み解いた。飛鳥淨御原宮などに用いられた文字である。
その地形に類似する場所を見出すことができる。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。後(元正天皇紀)に美努連岡麻呂が登場する。岡=山稜で挟まれた小高い地がある様と読み解くと、「淨麻呂」の南西側の場所と推定される。
それにしても續紀は、書紀の随所に見られる捻じれた表記とは異なり、古事記の文字使いを採用していることがここでも確認される。何かの呪縛から解き放たれた感じであろう。
九月甲辰。以從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲三河守。丙辰。遣使七道。始定田租法。町十五束。及點役丁。丙寅。行幸難波。
九月三日に坂合部宿祢三田麻呂を三河守に任じている。十五日、七道に使者を遣わして初めて田租法、即ち一町当たり十五束と定めている。また労役の者を指名している。二十五日、「難波」に行幸されている。山背國を抜けて孝徳天皇の難波長柄豐碕宮周辺、難波大郡・小郡辺りを経て、攝津國に向かわれたのであろう。下記にその時の功労者が挙げられている。
冬十月壬午。還宮。攝津國造從七位上凡河内忌寸石麻呂。山背國造外從八位上山背忌寸品遲。從八位上難波忌寸濱足。從七位下三宅忌寸大目。合四人各進位一階。乙酉。從駕諸國騎兵六百六十人。皆免庸調并戸内田租。
十月十二日に行幸から帰還されている。また攝津國造の「凡河内忌寸石麻呂」、山背國造の「山背忌寸品遲」、「難波忌寸濱足」、「三宅忌寸大目」の四人の冠位を一階進めている。勿論行幸に関わった故の昇位であろう。十五日には行幸従者の騎兵六百六十人の庸調並びに戸内の田租を免除している。
● 凡河内忌寸石麻呂
「凡河内」は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった凡川內國造で登場する地である。何とも由緒正しい・・・。
少々怪しげなのだが、古くから開けた土地であったのであろう。上記の「山背國造」と同様、「國造」は改姓されて「忌寸」になったと思われる。
「石麻呂」は、何とも簡略で、多くの地形が示すことになり、一に特定が難しい感じであるが、図に示した場所が最も目立つ石=山麓の小高いところと推定される。
律令編纂に関わった鍜造大角や天武天皇が祭祀した龍田立野風神があった場所の北側に当たる。通説は「凡」の意味から河内全域を支配した豪族のように解釈されているようだが、全くの誤りであろう。風神の「風」(凡+虫)の文字形と関連付けた重要な地形を表す文字なのである。
後(元正天皇紀)に河内忌寸人足が登場する。解工(農業土木)に長けた人物として褒賞されている。「凡」の文字が付かなくても「河内忌寸」で十分通じるであろう。人足=谷間でなだらかに山稜が延びているところと読み解ける。急峻な山麓にあって唯一なだらかさが伺える場所、図に示したところが出自と推定される。全くの谷奥の地を巧みに開拓したのであろう。
● 山背忌寸品遲・難波忌寸濱足・三宅忌寸大目
難波に向かう道は山背國の山麓を通り、「多治比」に抜ける行程を採用したと推測される。すると彼らは現地名の京都郡みやこ町犀川大坂に出自の地を有する「忌寸」達と思われる。
正しく山背=山が背にある様、品遲=段々になった犀の角のような様と読めば、図に示した場所の山稜の形を表している。
三宅=谷間に長く延びた三つの山稜がある様、大目=平らな頂の傍の谷間と読めが、犀川大坂浦谷の地形を示していると思われる。
難波は固有の名称ではないことを幾度も述べて来たが、現在の大坂川(古事記では飛鳥河と記載)がほぼ直角に曲がるところを表していると思われる。濱足=水辺にすれすれに近付いた山稜の端と読み解ける。
紛うことなく、彼らは行程に沿って並んでいたことが解る。古事記の品陀和氣命(応神天皇)が近淡海國に行幸する際に通った道である(こちら参照)。騎兵六百六十人、諸々合せると千人近い集団が通過すると言う、大移動だったと推測される。だがこうして道路が整備され、後の人々の交流に役立ったのであろう。
十一月癸夘。賜新羅國王勅書曰。天皇敬問新羅國王。朕以虚薄。謬承景運。慚無練石之才。徒奉握鏡之任。日旱忘飡。翼々之懷愈積。宵分輟寢。業業之想弥深。冀覃覆載之仁。遐被寰區之表。况王世居國境。撫寧人民。深秉並舟之至誠。長脩朝貢之厚礼。庶磐石開基。騰茂響於麕岫。維城作固。振芳規於鴈池。國内安樂。風俗淳和。寒氣嚴切。比如何也。今故遣大使從五位下美努連淨麻呂。副使從六位下對馬連堅石等。指宣往意。更不多及。戊申。從五位下大市王爲伊勢守。
十一月三日に新羅王に勅書を送っている。自分は天地遍く仁徳を及ぼせるように日夜務めている。新羅王は代々朝貢を欠かさず行って来たが、跡継ぎが途絶えることなく民が安泰であることを願っている。寒さ厳しき折柄、ご自愛下さい、と言う内容のようである。上記の遣新羅大使美努連淨麻呂と副使「對馬連堅石」等を遣わしている。八日に大市王(天武天皇の孫)を伊勢守に任じている。
<對馬連堅石> |
● 對馬連堅石
「對馬連」と姓が付けられた名称としては初登場であろう。素性などを調べても不明であり、對馬國内についての資料が欠如していたようである。いずれにしても既に登場した人物を頼りにその出自の場所を求めることにする。
堅=臣+又+土=谷間にある手のようなところと読み解いて来た。石=山麓の小高い様であり、図に示した忍海造大國の北隣の山稜の端がその地形を示していると思われる。
遣唐使を再開し、新羅との円満な外交を保持することに注力していた時代と推測される。西海からの脅威はかなり低減されていたのであろう。むしろ疫病が最大の難敵になりつつあったように感じられる。
十二月辛未朔。日有蝕之。丙子。遣四品多紀内親王。參于伊勢大神宮。己夘。有勅。令天下脱脛裳。一著白袴。是年。天下諸國疫疾。百姓多死。始作土牛大儺。
十二月一日に日蝕があったと述べている。六日、多紀内親王(託基皇女)を伊勢大神宮に参らせている。九日に文官男子が着用していた脛裳を止めて白袴を着けさせよ、と命じている。この年、諸國で疫病が蔓延して百姓が多く死んで、初めて土牛(陰陽道に拠る)を作って大儺(追儺、疫鬼や疫神を追払う儀式)を行ったと述べている。