天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(24)
慶雲四年(即位十一年、西暦707年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
四年春正月。二月乙亥。因諸國疫。遣使大祓。戊子。詔諸王臣五位已上。議遷都事也。辛夘。主税寮助從六位上掠垣直子人賜連姓。甲午。天皇御大極殿。詔授成選人等位。親王已下五位已上。男女一百十人各有差。又授无位直見王。從六位上紀朝臣諸人。從六位下高向朝臣色夫智。小治田朝臣安麻呂。小治田朝臣宅持。上毛野朝臣堅身。正七位下高橋朝臣上麻呂。從六位下中臣朝臣人足。平羣朝臣安麻呂。正六位上高志連村君。國覓忌寸八嶋。幡文造通並授從五位下。
正月の記事はなく、二月六日からとなる。諸國の疫病のために使者を遣わして大祓をさせている。十九日、五位以上の諸王臣を召して遷都のことを審議させている。二十二日に主税寮助の掠垣直子人(倉垣連子人)が連姓を賜っている。
二十五日、天皇は大極殿に出御して昇位に選ばれた者、親王以下五位以上の男女百十人にそれぞれの位を授けている。また、無位の「直見王」・紀朝臣諸人(古麻呂に併記)・「高向朝臣色夫智」・「小治田朝臣安麻呂」・「小治田朝臣宅持」・「上毛野朝臣堅身」・高橋朝臣上麻呂(若麻呂に併記)・「中臣朝臣人足」・「平羣朝臣安麻呂」・「高志連村君」・「國覓忌寸八嶋」・幡文造通に從五位下を授けている。
「直見王」は最後に述べるとして初登場の人物の出自を調べてみよう。既出の人物として、紀朝臣諸人は紀臣大人の孫、「紀朝臣國益」が父親と知られている。「紀朝臣」一族を纏めた図に示した。高橋朝臣上麻呂については、この名前からでは特定し辛いのであるが、前出の高橋朝臣若麻呂の近隣と推定した。幡文造通は、「幡文通」で登場し、「造」姓を賜ったと言う記述があった。
● 小治田朝臣安麻呂・宅持
「小治田朝臣」については、多数登場する面々を纏めて示した図を再掲する。❷安麻呂の安=宀+女=山稜に挟まれて嫋やかに曲がる谷間と読み解いた。
❸宅持の宅=谷間に長く延びる山稜がある様、持=手+寺=山稜の端が一段小高くなっている様と読み解く。
かつてにも述べたが「寺」の文字は相矛盾する意味を合せ持ち、それによって「持つ」のような動作を表現するのである。漢字の類い稀な特徴であると同時に難解になっているのであろう。記号文字とは全く別物である。我々は殆どそんな意識なく、用いていることに恐怖するところでもある。
延びる山稜に当て嵌めた解釈は、延びて低くなって行くこととその先が一段盛り上がっている矛盾の統一を寺と表現したと理解される。少々小難しい解釈に陥りそうである。
「高向」一族もそれなりに登場している。古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった「高向臣」に由来する氏族であろう。高向=皺が寄ったような山稜が北向きに舞い上がっている様を表すと読み解いた。
調べると色夫智は大足と兄弟であり、麻呂の長男、後の登場となるが三男に人足がいたことが分かった。
既出の文字列であり、色=丸く小高くなった様、夫=寄り集まる様、智=鏃と炎の形の山稜がある様と読み解いて来た。これらの地形要素から成る地が図に示した場所に見出せる。
桶ヶ辻の東にある「色」から延びた山稜が「夫」の形を作り、その麓に「鏃」と「炎」の山稜の端があることが解る。高向朝臣人足はもう少し解り易く、南側の谷間(人)で山稜が延びた(足)ところと推定される。図には「宇摩」からの系譜を示した。
● 上毛野朝臣堅身
元は「上毛野君」と表記されていた一族であろう。出自は現地名の築上郡上毛町と推定した。車持君もその地に出自を持つとしたが、その近隣かと思われる。
堅=臣+又+土=谷間にある手のような様、身=弓なりの様と読み解いて来たが、その地形を西端、友枝川の川辺に見出すことができる。
多くの人材を輩出しているが、まだまだこの地には余裕があるように見える。古事記で御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、豐木入日子命が祖となって以来の由緒ある地から途切れることなく登場しているようである。
● 中臣朝臣人足
「中臣」の谷間に出自を持つ一族の一人であろう。調べると祖父が垂目、父親が嶋麻呂と言う系譜を持っていることが分った。勿論「藤原不比等」の系列ではなさそうである。
「垂」はその文字形の山稜を表し「三つの山稜が並んで延びる様」と解釈して来た。すると北側の谷間にその地形が見出せ、谷間が狭まっている(目)ところが出自の場所と推定される。
父親の嶋=山稜が鳥の形を示す様であり、対岸の少しなだらかに広がった場所と思われる。ここまで煮詰まって来ると、人足=人の足のような山稜が延びているところは容易に特定されることになる。神祇官としての務めを果たされたようである。
兄弟に中臣朝臣名代がいたと知られている。後(聖武天皇紀)に外従五位下で初登場となっている。何とも割を食った感じであるが、叙爵対象者が多くなり過ぎたのか、先ずは外位からのスタートとなったようである。名代=谷間の杙のような山稜の端に三角州があるところと読み解ける。図に示したように人足の西側に接する場所が出自と推定される。
● 平羣朝臣安麻呂
安=宀+女=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる谷間を表すと解釈した。それに最も適する地形は現在の田川市奈良、現在は大浦池となっておる谷間と思われる。
「平群都久宿禰」が祖の記述では、「平群臣」ではなく「佐和良臣」の出自の場所と推定した。不確かなことではあるが、「平群」ではなく「平羣」と記載した根拠が透けて来るように感じられる。
この谷間の出口辺りは寺社、学校などが集中していて、おそらく旧の中心地だったのではなかろうか。いずれにしても平群都久宿禰も含めて建内宿禰の子孫に関して平群臣(闕名)のような曖昧な記述にした書紀の後遺症を引き摺っているようである。
● 高志連村君
書紀の記述によって、すっかり「越」にすり替わったように感じられるが、古事記の「高志」の表記が残っていることを示しているのであろう。
何とも古めかしいが高志國之沼河比賣が坐していた地域のことを表していると推測される。勿論、この地を出自に持つ人物は登場しないようであり、今回も歴史の表舞台から遠ざかった地からの人材発掘だったのであろう。
幾度も用いられている村=木+寸(又+一)=山稜が指を拡げて長さを計るような様と解釈する。その地形が谷間に延びた山稜の端に見出せる。おそらく開いた指先が出自の場所だったのであろう。
近隣に登場した地域名、人物名を記載したがある意味入組んだ配置となっているが、「越」と「高志」が書き分けられてそれぞれの領域がきちんと収まっている様子が伺える。かつても述べたが續紀は「記紀」の記述を十分に理解した上で、表記を整理している感じである。今後にも有用な情報が得られたと思われる。
<國覓忌寸八嶋・勝麻呂・(弟麻呂)> <國覓連高足> |
● 國覓忌寸八嶋
「國覓忌寸」については殆ど情報がない。後に登場する勝麻呂が造反した陸奥蝦夷の征伐に駆り出されたようである。それを頼りに陸奥國周辺を覓するのであるが、先ずは文字解釈を行ってみよう。
「覓」=「爪(手)+見」と分解される。「手をかざして見る」から通常使われる「探し求める」意味となる(例:覓國使)。地形象形的には更に「見」=「目+儿(足)」と分解すると「見」=「山稜が延びた傍らにある谷間」と解釈される。
纏めると覓=手のような山稜と足のように延びた山稜に挟まれた谷間と読み解ける。すると陸奥國の北隣の大きな谷間を表していることが解る。更に決め手は、幾度か登場の八嶋=谷間で山稜が鳥の形をしている様であろう。山稜の端に三角形の鳥形が見出せる。
勝麻呂の出自の場所は、大地が盛り上がったような様(勝)であり、些か入組んでいるようだが、その谷間に少し入り込んだ場所ではなかろうか。また弟麻呂と言う人物も居たと知られているようである。幾度か登場した弟=ギザギザとした様であり、図に示した場所を表していると思われる。拡大したこちらのデジタル標高地形図を参照。
ずっと後(称徳天皇紀)になるが、國覓連高足が外従五位下を叙爵されて登場する。おそらくどこかの時点で忌寸姓から連姓に改姓されたのであろう。いずれにせよ「國覓」一族は、この人物を最後として續紀に記載されることはないようである。既出の文字列である高足=皺が寄ったような山稜から足が延び出ているところと解釈すると図に示した場所が出自と思われる。
三月庚子。遣唐副使從五位下巨勢朝臣邑治等自唐國至。庚申。從四位上下毛野朝臣古麻呂。請改下毛野朝臣石代姓爲下毛野川内朝臣。許之。甲子。給鐵印于攝津伊勢等廿三國。使印牧駒犢。
三月二日に遣唐副使の巨勢朝臣邑治等が帰国している。遣唐執節使粟田朝臣眞人の帰国は既に述べられたいたが、副使に昇格してその後(約四年間)滞在していたようである。
二十二日、下毛野朝臣古麻呂が下毛野朝臣石代の姓を下毛野川内朝臣に改めたいとの申し出を行い、許可されている。二十六日に攝津・伊勢國等の二十三國に鉄印を給し、牧場の駒・犢(子牛)に押させている。
前掲の図を右に示した。現在の山国川と佐井川に挟まれた巨大な中州に住まう朝臣であり、更に幾つもの川が流れている地形である。どちらも「川内」に変わりはないようだが、どうやら同族なのだが系譜が異なることに拘ったのかもしれない。
いずれにしても彼らの居場所の北側は巨大な入江であったと推測される。この時代には、下流域と言うか河口付近にまで開拓が進んでいたことを伺わせる記述と思われる。
● 直見王
無位の王ほど情報の少ない王はいないようで、全く素性は明かされていない。と言うことで、名前と飛鳥周辺でそれらしき場所と求めることにする。「見」は上記で読み解いた地形象形表記として、直見=長く延びた山稜の傍らにある真っ直ぐな谷間と読んでみる。するとこちらの谷間を表しているのではなかろうか。
出自の場所は古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)が娶った意富本杼王の妹、忍坂之大中津比賣命(あるいは木梨之輕王)の出自の場所に重なるように思われる。誕生した御子には木梨之輕王、穴穗命(後の安康天皇)、大長谷命(後の雄略天皇)などがいた。極めて由緒ある地、それ故に端折った記述にしたように思われるが、さて?・・・。