2021年3月9日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(25) 〔496〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(25)


慶雲四年(即位十一年、西暦707年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

夏四月庚辰。以日並知皇子命薨日。始入國忌。壬午。詔曰。天皇詔旨勅〈久。〉汝藤原朝臣〈乃〉仕奉状者今〈乃未尓〉不在。掛〈母〉畏〈支〉天皇御世御世仕奉而。今〈母〉又朕卿〈止〉爲而。以明淨心而朕〈乎〉助奉仕奉事〈乃〉重〈支〉勞〈支〉事〈乎〉所念坐御意坐〈尓〉依而。多利麻比氐夜夜弥賜〈閇婆。〉忌忍事〈尓〉似事〈乎志奈母。〉常勞〈弥〉重〈弥〉所念坐〈久止。〉宣。又難波大宮御宇掛〈母〉畏〈支〉天皇命〈乃。〉汝父藤原大臣〈乃〉仕奉〈賈流〉状〈乎婆。〉建内宿祢命〈乃〉仕奉〈覃流〉事〈止〉同事〈敍止〉勅而治賜慈賜〈賈利〉是以令文所載〈多流乎〉跡〈止〉爲而。隨令長遠〈久。〉始今而次次被賜將往物〈叙止。〉食封五千戸賜〈久止〉勅命聞宣。」辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。又詔。益封親王已下四位已上及内親王。諸王嬪命婦等各有差。丙申。天下疫飢。詔加振恤。但丹波。出雲。石見三國尤甚。奉幣帛於諸社。又令京畿及諸國寺讀經焉。」賜正六位下山田史御方布鍬鹽穀。優學士也。

四月十三日に日並知皇子命(父親の草壁皇子尊)が崩じた日を國忌(先帝などの忌日)に初めて加えたと記している。十五日に詔(宣命体表記)されているが、その概要は、藤原朝臣(不比等)の奉仕を褒め、父親の藤原大臣(鎌足)が孝徳天皇に仕えた様子を重ね、更に建内宿祢命に例えている。それに応分のものを給おうとするが不比等は受け取らず、大幅に少なくして(封戸五千から二千に)、その半分を子孫に相続させるようにした、と宣っている。

その日、親王以下四位以上及び内親王、諸王嬪命婦等に封戸を益している。二十九日、天下で疫病と飢饉があり、物を与えた。丹波・出雲・石見の三國は甚だしく、諸社に幣帛を奉納している。また京・畿内及び諸國の寺で読経させている。山田史御方(御形)に布・鍬・鹽・穀を与えている。学問の士を優遇することを示している。「御形」は書紀の持統天皇六年(西暦692年)に新羅で学問僧となり叙位されている。後に聖武天皇の教育係となったようである。

五月己亥。兵部省始録五衛府五位以上朝參及上日。申送太政官。乙巳。以正五位下多治比眞人水守爲河内守。壬子。給從五位下巨勢朝臣邑治。從七位上賀茂朝臣吉備麻呂。從八位下伊吉連古麻呂等。綿絁布鍬并穀各有差。並以奉使絶域也。癸丑。美濃國言。村國連等志賣一産三女。賜穀卌斛。乳母一人。戊午。畿内霖雨損苗。遣使賑貸之。癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴卌餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。乙丑。從五位下美努連淨麻呂及學問僧義法。義基。惣集。慈定。淨達等至自新羅。

五月二日に兵部省が五衛府の五位以上の者が朝参(在京の官人が朝廷へ参上すること)及び参上日数を記録し、初めて太政官に申し送っている。八日、多治比眞人水守を河内守に任じている。十五日に巨勢朝臣邑治(許勢朝臣祖父)、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)、「伊吉連古麻呂」等に綿布などを与えている。絶域(遠く隔たった土地)への使者の役目を果たしたからである。

十六日、美濃國が言うには、「村國連等志賣」が三つ子の女子を産んだそうである。穀四十石、乳母を与えている。二十一日に畿内では長雨で苗に損害が出たため、無利息で貸し与えている。

二十六日、「讃岐國那賀郡」の「錦部刀良」、「陸奥國信太郡」の「生王五百足」、「筑後國山門郡」の「許勢部形見」等に衣一重ね、塩・穀を与えている。彼らは百濟救済の際、官軍は戦況不利となり唐の捕虜となった。身分を落として官戸(賤民の一種)となり、四十年余りを経てそれを免じられている。遣唐執節使粟田朝臣眞人等と出合って帰国したようである。二十八日に美努連淨麻呂及び學問僧義法等が新羅から帰国している。

<伊吉連古麻呂>
● 伊吉連古麻呂

伊吉連博徳の近隣と思われる。現地名の壱岐市芦辺町箱崎中山触辺りと推定したが、この人物の系譜を調べると父親が網田であることが分った。

多く見られる「古」の地形のどれに該当するかは父親の場所に依ることになるであろう。「網田」は「見えなくなった田」の意味であろうが、地形象形的には谷間の奥にある田と解釈した。書紀の皇極天皇紀に登場した葛城稚犬養連網田で読み解いた。

図に示した山稜に取り囲まれた谷奥が網田の出自の場所であろう。すると古麻呂の「古」は近辺で最も大きな山の麓辺りと推定される。この「古」は、古事記の別天神の一人、宇摩志阿斯訶備比古遲神に含まれる「古」の一つに当たる。使節団の一員に加わっていたのであろう。それにしても何とも懐かしい古事記冒頭部の記述を思い出せる記述である。

氏名伊吉(イキ)を(ユキ)と別称していたと知られている。「雪」の古文字は「䨮」=「雨+彗」と知られている。「彗」=「甡+又」と分解され、彗=手(腕)のような山稜の先が細かく枝分かれした様と解釈される(彗星など)。雨=平らな頂から複数の山稜が延びる様を表し、図に示した古麻呂の東北麓を示していることが解る。出自の地形を自在に漢字を用いて表現したことが伺える。この後も幾度か登場されるようである。

<村國連等志賣・志我麻呂>
● 村國連等志賣

美濃の村國とくれば、村國連男(小)依の出自の地であろう。即ち美濃國安八磨郡の下流域の場所と推定した。勿論、女性の名前だろうが、記述されたなら地形象形している筈である。

等=竹+寺=山稜に挟まれた蛇行する川がある様志=蛇行する川であり、要するに蛇行する川に取り囲まれた地形を表していると思われる。

これで十分な情報が得られたようである。図中中貫本町と記載された谷間に蛇行する川が流れ、その先には大きく蛇行する貫川に合流する地が出自と推定される。

「村國」の北側は当時は海であったと推測される。この台地の狭い麓に人々が住まっていたのであろう。水田稲作の時代よりもっと古い時代から開けた地であったと思われる。天武の謀反は、そんな埋もれた人材を歴史の瞬間に表舞台に登場させたのであろう。

後(元正天皇紀)に「小依」の息子として村國連志我麻呂が登場する。『壬申の乱』の功臣である父親達の子等に田が授けられている。その筆頭に記載されている。我=ギザギザとした様と読み解いた。志我=蛇行する川の傍らにギザギザと山稜が突き出ているところと読み解ける。図に示した場所にその地形が見出せる。

<讃岐國那賀郡・錦部刀良>
讃岐國那賀郡

讃岐國、現地名の北九州市若松区の東北部を探索することになる。書紀の天智天皇紀に対唐・新羅防衛ラインとしての幾つかの城を築いた一つ、讚吉國山田郡の東側の谷間が那賀=押し広げられた谷間がしなやかに曲がって延びているところを示していることに気付かされる。

「那賀郡」はこの谷間沿いの地域を表していると思われる。山岳地帯の讃岐國にあっては実に貴重な大きな谷間である。

錦部刀良の「錦」は幾度か登場し、錦=金+帛=山稜が延びた端が盛り上がっている様と読み解いた。図に示した山稜の端の地形を示していることが解る。部=近接地を示すとして、の地形、そしてなだらかに傾斜()している場所を見出すことができる。

<陸奥國信太郡・生王五百足>
陸奥國信太郡

陸奥蝦夷と十把一絡げの表記からすると随分と発展があったように感じられるが、未開の地陸奥の詳細に踏み込むことになりそうである。

信=人+言=谷間が耕地にされた様太=大きく広がった様とすると、既出の城養蝦夷の優𡺸曇郡の東側の広大な谷間を表していると思われる。

現地名は北九州市門司区畑であるが、この地名も広範囲であり、そもそもの由来を物語っているのかもしれない。勿論現在のようななだらかな水田地帯には至っておらず、谷川・井手谷川の川辺は手付かずの状態であったと推測される。

生王五百足は既出の文字から成り、生=生え出る様王=台地が大きく広がった様五百=小高く盛り上がったところが連なり交差する様足=山稜が延びた端と解釈すると、図に示した場所辺りがこの人物の出自と推定される。おそらく凹凸のある地面が広がった状態であったと推測される。

<筑後國山門郡・許勢部形見>
筑後國山門郡

この郡の概略は前記で述べた。「筑」の文字が表す山稜を挟んで「前・後」の國名としていると解釈した(こちら参照、現地名は宗像市・福津市)。具体的な郡及びこの地を出自に持つ人物の登場となる。

山門=山稜が門のようになっている様と読む。図に示した大きな谷間の両端にある山稜と見做した表記と思われる。

許勢部形見の「許勢」は、古事記で登場する建内宿禰の子、許勢小柄宿禰に含まれた表記である(書紀は「巨勢」)。許勢=丸く小高い地の傍らで耕地が杵のつくように延びているところと読み解いた。

その通りの地形がこの谷間に見出せる。当然ながら「巨」の文字では些か具合が悪いようで、何故なら谷間の中心を「杵」(巨の中央部)が貫かない地形なのである。續紀は古事記の表記を丁寧に継承しているようである。

形=井+彡=四角いところで山稜が交差する様と読み解いた。図に示した谷奥の山肌を表している。見=目+儿(足)=長く延びる山稜に挟まれた谷間であり、部=近接地とすると、これらの地形要素を満足する場所がこの人物の出自と推定される。

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全くの余談だが、「筑後國山門郡」は魏志倭人伝の”邪馬台国”の所在地として有力な候補の一つに挙げらている。「邪馬台(ヤマト)」の音を充てるのであるが、「壹」と「臺」の話題やら臺(タイ)→(ト)の音の是非やら、延々と論じられている有様である。勿論場所は国譲り後の有明海沿岸部になるが、「門」の地形は何と考えているのであろうか?…記号文字化した”ひらがな・カタカナ”は和語を表記する上において重要な寄与をしたが、漢語(字)の本質を見えなくしてしまったようにも思われる。記紀・續紀の編者達は漢語の世界に住まう連中だったと理解すべきであろう。

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六月丁夘朔。日有蝕之。辛巳。天皇崩。遺詔。擧哀三日。凶服一月。壬午。以三品志紀親王。正四位下犬上王。正四位上小野朝臣毛野。從五位上佐伯宿祢百足。從五位下黄文連本實等。供奉殯宮事。擧哀着服。一依遺詔行之。自初七至七七。於四大寺設齋焉。

六月一日に日蝕があったと記している。十五日、天皇が崩御されている(享年二十四)。擧哀(哀悼の声を発する儀式)は三日、喪服は一ヶ月着用としている。十六日に志紀親王犬上王小野朝臣毛野佐伯宿祢百足黄文連本實等に殯宮の行事に仕えさせ、擧哀・喪服は遺言通りとしている。初七日から四十九日まで四大寺で設齋を行ったと述べている(七日毎)。

冬十月丁夘。以二品新田部親王。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位下佐伯宿祢太麻呂。從五位下紀朝臣男人爲造御竃司。從四位上下毛野朝臣古麻呂。正五位上土師宿祢馬手。正五位下民忌寸比良夫。從五位上石上朝臣豊庭。從五位下藤原朝臣房前爲造山陵司。正四位下犬上王。從五位上采女朝臣枚夫。多治比眞人三宅麻呂。從五位下黄文連本實。米多君北助爲御装司。


十一月丙午。從四位上當麻眞人智徳率誄人奉誄。謚曰倭根子豊祖父天皇。即日火葬於飛鳥岡。甲寅。奉葬於桧隈安古山陵。

<檜隈安古山陵>
十一月十二日に當麻眞人智徳が人々を率いて弔辞を述べ、謚として倭根子豐祖父天皇としている。「智德」は四年前の太上天皇(持統天皇:大倭根子天之廣野日女尊)の誄も担当していた。

その日に飛鳥岡に火葬された記載している。二十日、「桧隈安古山陵」に埋葬したと伝えている。續紀巻第三が終了。

檜隈安古山陵

迷うことなく檜隈の地で「安古山」を探すことになろう。安=宀+女=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間であり、古=丸く盛り上がった様とすると、図に示した中元寺川の畔、祖父母が眠る大内(山)陵の西方の対岸にある場所と推定される。

以前にも述べたが、大内(山)陵には「檜隈」が冠されない。その地ではなかったからである。安古山陵檜隈坂合陵の対岸にある。「檜隈」と言う地名ありきの解釈では「記紀・續紀」は読み下せないのである。檜隈及びその近隣には多くの天皇達が眠っていることになるが、火葬となった墓所はどのように変わったのであろうか。書紀も續紀も決して多くは語らないようである。

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續紀巻第一~三が漸くにして解読された。途中に幾度か述べたように書紀とは大きく趣を異にする記述であった。古事記表記に寄り添った雰囲気を示し、それが古事記解読の大きな助けとなったことも事実である。長さに挫けず、先に進んで行こう・・・。