2021年3月13日土曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(1) 〔497〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(1)


慶雲四年(即位元年、西暦707年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

日本根子天津御代豊國成姫天皇。小名阿閇皇女。天命開別天皇之第四皇女也。母曰宗我嬪。蘇我山田石川麻呂大臣之女也。適日並知皇子尊。生天之眞宗豊祖父天皇。慶雲三年十一月豊祖父天皇不豫。始有禪位之志。天皇謙讓。固辞不受。四年六月豊祖父天皇崩。

元明天皇に関する前書きである。和風諡号は「日本根子天津御代豐國成姫天皇」と記されている(先に読み解いたこちらを参照)。幼名は阿閇皇女(阿陪皇女)、天命開別天皇(天智天皇)の第四皇女であり、母親は「宗我嬪」、蘇我山田石川麻呂大臣の娘である。日並知皇子尊(草壁皇子)に嫁ぎ、天之眞宗豐祖父天皇(文武天皇)を産んでいる。

慶雲三年(西暦706年)十一月に豐祖父天皇が病に罹り、母親に「禪位之志」を持ち始めたが、天皇は固辞したようである。翌年六月に天皇が崩御され、それにより即位されたと記載されている(第四十三代天皇)。

母親の宗我嬪姪娘・櫻井娘とも呼称されていたようだが、更なる別称となろう。「蘇我」も「宗賀」の別称があるが、それを重ね合わせた表記のように伺える。「嬪」=「女+賓」と分解すると嬪=嫋やかに曲がる地がくっ付くように近接している様と読み解ける。櫻=木+目+目+女=山稜の傍らで嫋やかに曲がる谷間が寄り集まっている様と読み解いたが、別表記として申し分のないものであろう。

庚寅。天皇御東樓。詔召八省卿及五衛督率等。告以依遺詔攝萬機之状。
秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關〈母〉威〈岐〉藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月〈尓〉。此食國天下之業〈乎〉日並知皇太子之嫡子。今御宇〈豆留〉天皇〈尓〉授賜而並坐而。此天下〈乎〉治賜〈比〉諧賜〈岐〉。是者關〈母〉威〈岐〉近江大津宮御宇大倭根子天皇〈乃〉与天地共長与日月共遠不改常典〈止〉立賜〈比〉敷賜〈覇留〉法〈乎。〉受被賜坐而行賜事〈止〉衆被賜而。恐〈美〉仕奉〈利豆羅久止〉詔命〈乎〉衆聞宣。如是仕奉侍〈尓〉。去年十一月〈尓〉威〈加母〉我王朕子天皇〈乃〉詔〈豆羅久〉。朕御身勞坐故暇間得而御病欲治。此〈乃〉天〈豆〉日嗣之位者大命〈尓〉坐〈世〉大坐坐而治可賜〈止〉讓賜命〈乎〉受被坐賜而答曰〈豆羅久〉。朕者不堪〈止〉辞白而受不坐在間〈尓〉。遍多〈久〉日重而讓賜〈倍婆〉勞〈美〉威〈美。〉今年六月十五日〈尓〉詔命者受賜〈止〉白〈奈賀羅〉。此重位〈尓〉繼坐事〈乎奈母〉天地心〈乎〉勞〈美〉重〈美〉畏坐〈左久止〉詔命衆聞宣。故是以親王始而。王臣百官人等〈乃〉淨明心以而。弥務〈尓〉弥結〈尓〉阿奈々〈比〉奉輔佐奉〈牟〉事〈尓〉依而〈志〉。此食國天下之政事者平長將在〈止奈母〉所念坐。又天地之共長遠不改常典〈止〉立賜〈覇留〉食國法〈母。〉傾事無〈久〉動事无〈久〉渡將去〈止奈母〉所念行〈左久止〉詔命衆聞宣。又遠皇祖御世〈乎〉始而天皇御世〈乎〉始而天皇御世御世天〈豆〉日嗣〈止〉高御座〈尓〉坐而此食國天下〈乎〉撫賜〈比〉慈賜事者辞立不在。人祖〈乃〉意能賀弱兒〈乎〉養治事〈乃〉如〈久〉治賜〈比〉慈賜來業〈止奈母〉隨神所念行〈須〉。是以先〈豆〉先〈豆〉天下公民之上〈乎〉慈賜〈久〉。大赦天下。自慶雲四年七月十七日昧爽以前大辟罪以下。罪無輕重。已發覺未發覺。咸赦除之。其八虐之内已殺訖及強盜竊盜。常赦不免者。並不在赦例。前後流人非反逆縁坐及移郷者。並宜放還。亡命山澤。挾藏軍器。百日不首。復罪如初。給侍高年百歳以上。賜籾二斛。九十以上一斛五斗。八十以上一斛。八位以上級別加布一端以上。五位以上不在此例。僧尼准八位以上。各施籾布。賑恤鰥寡惸獨不能自存者。人別賜籾一斛。京師。畿内及大宰所部諸國今年調。天下諸國今年田租復賜〈久止〉詔天皇大命〈乎〉衆聞宣。庚子。有事于大内山陵。辛丑。遣使於大宰府。授南嶋人位賜物各有差。丙辰。始置授刀舍人寮。

六月二十四日に天皇は東楼に出御して八省の卿、五衛府の督・率に詔をし、遺詔に従って萬機(天下の政治)を執り行なうと告げている。

七月十七日、大極殿にて即位し、以下のことを詔している。宣命体表記の概略は・・・、

持統天皇とその孫の藤原宮御宇倭根子天皇(文武天皇)とが並んで天下を治めて来たが、近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の不改常典(改めることのない常の典)に基づいている。

流石、天智天皇の皇女であろうか。「關〈母〉威〈岐〉」=「口に出すのも恐れ多い」、宣命体も興味深いところだが、今は流しておこう。

「御宇」=「天下を統治する」及び「食國」=「天下を治める」と訳される。地形象形としては御宇=谷間で延びた山稜を束ねる食國=山麓のなだらかな大地と解釈した。天智天皇は「倭根子」、偉大な祖先の雰囲気だが、大=平らな頂である。きめ細かく地形を表記していることが解る。

前天皇の遺志を尊重した日嗣であったことを述べ、親王以下の王・臣・百官等が浄く明らかな心で天皇を支えれば天下が揺らぐことなく続くであろう、そして代々天皇は民を我が子のように慈しんで来た、と述べている。

上記のように思う故に今日(慶雲四年七月十七日未明)以前の罪を大赦する。但し殺人・強盗・窃盗の罪はこの限りではないとしている。軍を掠めた者は自首しろ、さもなくば赦さないとも述べている。高齢者、寡夫・婦などに物を与え、京師・畿内・大宰府所管諸國の今年の調、及び諸國の田租を免じている。

七月五日(?)に大内山陵で変事があったようなのだが、詳細は不明。六日、大宰府に使いを遣わして南嶋(多褹など)人の冠位と物を与えている。二十一日に授刀舍人寮(親衛隊か?)を初めて設置している。

八月辛巳。入唐副使從五位下巨勢朝臣邑治等進位有差。從七位上鴨朝臣吉備麻呂授從五位下。水手等給復十年。
九月丁未。正五位下大神朝臣安麻呂爲氏長。
冬十月戊子。從四位下文忌寸祢麻呂卒。遣使宣詔。贈正四位上。並賻絁布。以壬申年功也。

八月十六日に遣唐使節団の副使であった巨勢朝臣邑治等をそれぞれ進位させ、鴨朝臣吉備麻呂に從五位下を授けている。水手(水夫)等の租税を十年間免除している。九月十二日、大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)を氏長としている。

十月二十四日に文忌寸祢麻呂(書首根摩呂)が亡くなっている。進位させた上に布他を与えている。『壬申の乱』の際、村國連男依隊の一員であったことが記載されていた。

十一月丙申。賑恤志摩國。」以從五位下安倍朝臣眞君。爲越後守。甲寅。葬倭根子豊祖父天皇于安古山陵。戊午。彈正尹從四位下衣縫王卒。

十一月二日、志摩國に物を恵み施している。その日、安倍朝臣眞君(阿倍朝臣眞君)を越後守に任じている。古来の「阿倍」ではなく、この人物とすれば「安倍」の地形表記が好ましかったのであろう。気分で文字を変えたのではなく、それなりのわけあって、だったと推測される。

二十日に倭根子豊祖父天皇を安古山陵に葬っている。二十四日、彈正尹(監察機関の長。役人の不正の摘発。唐名では御史大夫)の衣縫王が亡くなっている。

十二月乙丑朔。日有蝕之。戊辰。伊豫國疫。給藥療之。辛夘。詔曰。凡爲政之道。以礼爲先。无礼言乱。言乱失旨。往年有詔。停跪伏之礼。今聞。内外廳前。皆不嚴肅。進退无礼。陳荅失度。斯則所在官司不恪其次。自忘礼節之所致也。宜自今以後嚴加糺彈革其弊俗。使靡淳風。

十二月一日に日蝕があったと伝えている。四日、伊豫國で疫病が発生し、薬を給し治療させている。二十七日に詔が下され、爲政之道は何事に先んじて礼をもって為されるべきであるが、それが随分と乱れているように聞かされた。この後厳しく取り締まるようにせよ、と述べている。

和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命〈乎。〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原〈由〉天降坐〈志。〉天皇御世〈乎〉始而中今〈尓〉至氐尓。〉天皇御世御世天〈豆〉日嗣高御座〈尓〉坐而治賜慈賜來食國天下之業〈止奈母。〉隨神所念行〈佐久止〉詔命〈乎〉衆聞宣。如是治賜慈賜來〈留〉天〈豆〉日嗣之業。今皇朕御世〈尓〉當而坐者。天地之心〈乎〉勞〈弥〉重〈弥〉辱〈弥〉恐〈弥〉坐〈尓〉聞看食國中〈乃〉東方武藏國〈尓。〉自然作成和銅出在〈止〉奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗〈乃〉相于豆奈〈比〉奉福〈波倍〉奉事〈尓〉依而。顯〈久〉出〈多留〉寳〈尓〉在〈羅之止奈母。〉神随所念行〈須。〉是以天地之神〈乃〉顯奉瑞寳〈尓〉依而御世年號改賜換賜〈波久止〉詔命〈乎〉衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號〈止〉定賜。是以天下〈尓〉慶命詔〈久。〉冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。高年百姓。百歳以上。賜籾三斛。九十以上二斛。八十以上一斛。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。優復三年。鰥寡惸獨不能自存者賜籾一斛。賜百官人等祿各有差。諸國國郡司加位一階。其正六位上以上不在進限。免武藏國今年庸當郡調庸詔天皇命〈乎〉衆聞宣。是日。授四品志貴親王三品。從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。正四位上高向朝臣麻呂從三位。正六位上阿閇朝臣大神。正六位下川邊朝臣母知。笠朝臣吉麻呂。小野朝臣馬養。從六位上上毛野朝臣廣人。多治比眞人廣成。從六位下大伴宿祢宿奈麻呂。正六位上阿刀宿祢智徳。高庄子。買文會。從六位下日下部宿祢老。津嶋朝臣堅石。无位金上元並從五位下。

和銅元年(西暦708年)正月十一日に「武藏國秩父郡」が和銅(自然銅)を献上している。元号の謂れを含めて詔されている(宣命体、以下概略)。

前詔と同じく「現神」が冠された天皇が言われるには、東方の武藏國で「天坐神地坐祗」の祝福によってもたらされた「自然作成和銅出在」が献上された。これに拠って元号を「和銅」と改める。

例によって大赦するが、殺人・窃盗に加えて反逆、禁書を隠し持っている者も自首しなければ、その限りではないと述べている。また高齢者に物を与え、「孝子・順孫・義夫・節婦」には三年間の租税を免じる。上記も同様だが「鰥寡惸獨」に「惸」(身寄りのない者)が加わっている。

百官達には禄を与え、諸國司・郡司(正六位未満)の位階を進める。武藏國の今年の庸及び秩父郡の調・庸を免除する。

この日に志貴親王を三品、石上朝臣麻呂藤原朝臣不比等を正二位、高向朝臣麻呂を從三位、阿閇朝臣大神・「川邊朝臣母知」・笠朝臣吉麻呂小野朝臣馬養上毛野朝臣廣人(小足に併記)・「多治比眞人廣成」・「大伴宿祢宿奈麻呂」・阿刀宿祢智徳(安斗連智德)・「高庄子」・「買文會」・「日下部宿祢老」・津嶋朝臣堅石(對馬連堅石)・「金上元」(无位)を從五位下にしている。

<武藏國秩父郡・高麗郡>
武藏國秩父郡

武藏國は現在の北九州市小倉南区沼本町辺りと推定した。相摸國・駿河國・上総國に囲まれた地域である。その地に「秩父」が示す地形の場所を探索することになる。

「秩」=「禾+失」と分解される。「失」の解釈が意外に難しいようで、巫女が失神している様(白川漢字学)のような意味不明な解釈もあるとのこと。

「失」=「手+乙」として手から漏れ落ちる様とするのが幾らか真っ当に見えるが、古典に拠ると「秩は次なり」とのことで「順々に並んでいる様」を表すと解釈される。漏れ落ちては、全く繋がらない感じである。

最後に「失」=「手+乁」と分解すると言う説がある。「乁」=「はらいぼう:移る、流れる、及ぶ」の意味があると知られる。が、漸く、「失う・並ぶ」の意味を真っ当に解釈できたようである。地形象形的には「山稜(手)が順々に移って並ぶ様」となる。纏めると秩父=手のような山稜の端が並ぶ麓で延びた山稜が交差しているところと読み解ける。図に示した通りに必要な地形要素を持つ場所と思われる。武藏國の西部に当たる。

「自然作成和銅」の発見は画期的であっただろう。鉱石中1%にも満たない銅を取り出すには大変なエネルギーが消耗される。貨幣価値よりもその材質の価値が高ければ通貨の機能を果たせなくなってしまう。よちよち歩きであろうが、貨幣経済へと歩み始められたことを告げていると思われる。硬貨「和同開珎」との関係もまだまだ不明なところが残されているようだが、それは後日としよう。

後(元正天皇紀)に高麗郡が登場する。各地に散らばっていた高麗人を集めて駿河國に住まわせその地を高麗郡と称したと記載されている。高麗人だから郡名をそのまま・・・勿論そうなのであるが、ちゃんと場所が判るように地形象形していると思われる。既に読み解いたように高麗=皺が寄ったような地の麓で山稜の端が並んでいる様であった。蘇我高麗、また「狛」とも表記される地形を表している。図に示したように「秩父」の東隣の谷間と推定される。

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<自然銅>

少々余談ぽくなるが、「和銅」の名称の由来は如何であろうか?…Wikipediaでは…、

続日本紀卷四には、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)から、和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊が発見され朝廷に献上されたことを祝い、年号が慶雲から和銅に改められたと記されている。 

…と記載されている。図に塊状・樹枝状などの”集合体”として産する自然銅の外観を示したが、和=寄せ合せられた様が伺える。実に的確な表記と思われる。地形象形の含めて古代日本人の漢字表現の確からしさを”露出”しているようである。

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<川邊朝臣母知・河邊朝臣智麻呂>
● 川邊朝臣母知

古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった河邊臣一族の後裔と思われる。既に書紀では多くの人物が登場していたが、系譜は明らかではないようである。

「母」=「母が子供を両腕で抱えるような様」を象った文字であり、地形象形的には二つの山稜で囲まれた地形を表していると解釈した。

古事記で多用される文字であり、一例を挙げれば、夜麻登登母母曾毘賣命などがあった。魏志倭人伝でも用いられていて不彌國の副官、卑奴母離などに含まれている。頻出の知=矢+口=鏃の形であり、これらの地形が寄り集まった場所が出自と推定される。

図に示した現地名京都郡苅田町鋤崎の山稜の端辺り、当時はこの東側は海であったと推測した地である。「河」は水が流れる谷間の出口を象形した文字と思われるが、「川」を用いたのはその脇にある場所を表しているのではなかろうか。とすると実にきめ細やかな表記となるが、果たして・・・。

後(元正天皇紀)に河邊朝臣智麻呂が登場する。新人の初登場で従五位下を授けられている。上記と同じく「知」を含む名前であるが、「日」が加わって、図に示した場所が出自と推定される。勿論、「河」が用いられている。

<多治比眞人廣成-廣足>
● 多治比眞人廣成

調べると左大臣であった多治比眞人嶋の子であることが分った。既に幾人かの兄弟が登場しているが、彼らを纏めて図に示した(こちら参照)。

流石に大臣ともなれば多くの封戸を抱えることができたのであろう。地領が東側へと格段に広がった様子である。

廣成=平らに広がった様であり、図に示した東側の谷奥の場所と推定される。後に廣足=広がった山稜が延びた端が登場する。どうやら「多治比」から「難波」へ一族が拡散して行ったようである。この兄弟は、時期は異なるが共に太政官第三位の席次まで昇進することになる。

<大伴宿禰宿奈麻呂・旅人・稻君>
● 大伴宿祢宿奈麻呂

宿奈麻呂大伴連安麻呂の五人の子供の四男だったと知られる。後に登場する長男の旅人がおり、併せて出自の場所を求めることにする。

「安麻呂」は大臣「長德」の子であり、「長德」の谷間に広がった後裔達と思われる。「宿」の文字は「宿禰」にも含まれていて、姓になってその地形象形の意味は消え去ったような感じである。

あらためて宿=宀+人+㐁=山稜に挟まれた谷間の地にある小高くなった(こじんまりとした)様と読み解いて来た。奈=木+示=山稜が高台のようになっている様と解釈した。

高低差が少なく辛うじて地図上で確認される場所を示した。谷間に段差があり、その段になったところの端に当たるところを表していると思われる。兄の大伴宿祢旅人の「旅」=「㫃+从」と分解される。「㫃」=「旗」を意味する文字であり、「从」=「人+人」から成る文字である。そもそも旅とは「旗の下で人が集団で並んでいる様」を意味する文字であったと知られる。

地形象形的には極めて特徴的な表現となる。旅=旗のような地にある二つの谷間が並んでいる様と読み解ける。「旗」は「長德」の地形を表している。そこに白川(石河)に並行して山側(西側)にもう一つの川が流れているのが確認される。即ち谷間が並行している状態と思われる。図に示した場所が旅人の出自の場所と推定される。

「多比等」の別称があったと言われる。多比等=山稜の端が揃って並んでいるところを表している。確かにこれでは平凡な名前となってしまうが、「旅人」は些か汎用的ではない地形象形だったのであろう。藤原朝臣不比等(史)に類似した地形である。

後(聖武天皇紀)になって因幡守に任じられた大伴宿祢稲君(従五位下)が登場する。出自の場所は、宿奈麻呂の東側、稻君=しなやかに曲がって延びる山稜が区切られて小高くなった地の麓と読み解ける。併せて図に示した。

<買文會>
● 買文會・高庄子

情報は殆ど見当たらないが、倭國添上郡に関わる人物だったようである。思い起こせば山於億良も山上憶良にように和名っぽく変えられているが、本来は地形象形そのものの表記であったと読み解いた。

ならば買文會も地形を表す名前であり、その地が添上郡にあるとして探索する。既に述べたように彦山川の上流域の谷合の地である。

買=网+貝=谷間が見えなくなる様文=山稜が交差する様會=三角州と読み解いて来た。それらの地形要素が集まった場所が見出せる。中国から朝鮮半島を経て流れ着いた人々が住まっていた場所であろう。対馬海峡を通じて東西の文化が交流していたことが伺える。

尚、高庄子については、この時点では全く情報がなく、その出自の場所を求めることができなかったが、後(聖武天皇紀)に、同族の高正勝が「三笠連」姓を賜ったと記載され、現地名の行橋市元永と推定した(こちら参照)。

<日下部宿禰老>
● 日下部宿祢老

書紀の表記「草壁」が古事記の「日下部」に元に戻されている。「日下(クサカ)」と訓する謂れを古事記が詳述していた。それだけ重要な意味のある地名なのであるが、書紀は事も無げに「草壁」としていた。

書紀の捻くれた表現を理解する上に於いても續紀の解読は欠かせないように思われる。更に言えば、書紀の表現に基づいた解釈は誤謬を導くだけ、となろう。

兎も角も老=海老のように曲がった様の地を求めると図に示した場所が見出せる。後に阿倍老とも表記されている。阿倍=台地が谷間で二つに岐れて延びているところと解釈した。その地形を示す場所であることが解る。

元は舎人を輩出した地であり、後に「右衛士督」に任じられている。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)に記載された長谷部舍人の地に当たる。

<金上元>
● 金上元

「金上」氏は陸奥國及び会津の地に関わる氏族と知られているようである。前記で登場した陸奥國信太郡の、おそらく更に北方に住まっていた一族と推測される。

すると金=三角形の山稜の麓にある高台と解釈して来たが、その地形が見出せる。元=〇+儿=山稜の間に丸く小高い地がある様と読むと、図に示した場所が出自と推定される。

この延びた山稜の先は、古事記で登場した「相津」である。大毘古命が息子の建沼河別命と劇的な再会を果たしたところと記載されていた(こちら参照)。本著もあやかって、久々に「相津」に出会えたわけである。