2021年3月17日水曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(2) 〔498〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(2)


和銅元年(西暦708年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二月甲戌。始置催鑄錢司。以從五位上多治比眞人三宅麻呂任之。」讃岐國疫。給藥療之。戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。

二月十一日に初めて「催鑄錢司」を置き、多治比眞人三宅麻呂を任じている。同じ日、讃岐國で疫病が発生し、薬を給して治療させている。「鑄錢司」については書紀の持統天皇即位八年(694年)三月に大宅朝臣麻呂等三名が任じられ、續紀の文武天皇即位三年(699年)十二月に中臣朝臣意美麻呂を長官としている。<鑄錢司」に「催」が冠されたのは「和銅」から「鑄錢」にすることを催促する役目を担ったのであろう。差し詰め国家プロジェクトの様相を伝えているように思われる>

十五日に以下のことを詔されている。その概略は、遷都は民の労を強いるものであり、必ずしも急がないが、王公大臣が言うには古より日や星から占い、殷や周の諸王は遷都することによって「太平之稱」(太平の誉れ)に至ったと知れらる。今「平城」の地を見ると真に適切な場所であり、建都すべきと思われるが、くれぐれも民に労を掛け過ぎないように配慮せよ、と述べている。平城京遷都が命じられている(所在地はこちら参照)。

三月乙未。山背備前二國疫。給藥療之。丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲攝津大夫。從五位下佐伯宿祢男爲大倭守。正五位下石川朝臣石足爲河内守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲山背守。正五位下大宅朝臣金弓爲伊勢守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲尾張守。從五位下美弩連淨麻呂爲遠江守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲上総守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲下総守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲常陸守。正五位下多治比眞人水守爲近江守。從五位上笠朝臣麻呂爲美濃守。從五位下小治田朝臣宅持爲信濃守。從五位上田口朝臣益人爲上野守。正五位下當麻眞人櫻井爲武藏守。從五位下多治比眞人廣成爲下野守。從四位下上毛野朝臣小足爲陸奥守。從五位下高志連村君爲越前守。從五位下阿倍朝臣眞君爲越後守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲丹波守。正五位下忌部宿祢子首爲出雲守。正五位上巨勢朝臣邑治爲播磨守。從四位下百濟王南典爲備前守。從五位上多治比眞人吉備爲備中守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲備後守。從五位上引田朝臣尓閇爲長門守。從五位上大伴宿祢道足爲讃岐守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。從三位粟田朝臣眞人爲大宰帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。

三月二日に山背國備前國疫病が発生し、薬を給して治療させている。十三日に以下の人事を発令している。中臣朝臣意美麻呂を神祇伯、右大臣の石上朝臣麻呂を左大臣、大納言の藤原朝臣不比等を右大臣、大伴宿祢安麻呂を大納言、小野朝臣毛野阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)中臣朝臣意美麻呂を中納言、巨勢朝臣麻呂を左大弁、石川朝臣宮麻呂を右大弁、下毛野朝臣古麻呂を式部卿、弥努王を治部卿、多治比眞人池守を民部卿、息長眞人老を兵部卿、竹田王を刑部卿、廣瀬王を大藏卿、犬上王を宮内卿、大伴宿祢手拍を造宮卿、大石王を彈正尹、布勢朝臣耳麻呂を左京大夫、猪名眞人石前を右京大夫、大伴宿祢男人を衛門督、百濟王遠寳(①-)を左衛士督、巨勢朝臣久須比を右衛士督、佐伯宿祢垂麻呂を左兵衛率、高向朝臣色夫知(智)を右兵衛率、高向朝臣麻呂を攝津大夫、佐伯宿祢男を大倭守、「石川朝臣石足」を河内守、坂合部宿祢三田麻呂を山背守、大宅朝臣金弓を伊勢守、佐伯宿祢太麻呂を尾張守、美弩連淨麻呂(美努連淨麻呂)を遠江守、上毛野朝臣安麻呂(小足に併記)を上総守、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)を下総守、阿倍狛朝臣秋麻呂を常陸守、多治比眞人水守を近江守、笠朝臣麻呂を美濃守、小治田朝臣宅持を信濃守、田口朝臣益人を上野守、當麻眞人櫻井を武藏守、多治比眞人廣成を下野守、上毛野朝臣小足を陸奥守、高志連村君を越前守、阿倍朝臣眞君を越後守、大神朝臣狛麻呂を丹波守、忌部宿祢子首を出雲守、巨勢朝臣邑治を播磨守、百濟王南典(①-)を備前守、「多治比眞人吉備」を備中守、佐伯宿祢麻呂を備後守、引田朝臣尓閇(引田朝臣爾閇)を長門守、大伴宿祢道足を讃岐守、「久米朝臣尾張麻呂」を伊豫守、粟田朝臣眞人を大宰帥、巨勢朝臣多益首(多益須)を大貳に任じている。

<石川朝臣石足-年足-足人>
● 石川朝臣石足

調べると「安麻呂」の子と分かった。蘇賀連子大臣の系譜が広がったのであろう。右図に一族を纏めて示した。石足=山麓の台地が山稜が長く延びた端にある様と読むと、父親の西側に当たる場所と推定される。

更に、後に登場する子に年足が居たと知られている。石足の北側、年=禾+人=谷間に細いが山稜がしなやかに曲がって延びた端(足)が出自の場所と思われる。

少し後に石川朝臣足人が登場する。系譜は不詳のようであるが、出自の場所は図に示すことができる。配置からすると「安麻呂」の子のように思われる。

「連子」の後裔は、現在の白川の支流、舟入川が流れる谷間に広がって行った配置であったことが解る。ともあれ「蘇賀」の地が古代に果たした役割は極めて大きかったことが伺える。書紀に暈されたままの状態、それが悲しい現状であろう

<多治比眞人夜部(吉備)・吉提>
● 多治比眞人吉備

全く素性が知られていない人物のようである。既に読み解いた「丹比(多治比)公麻呂」の三男に「(比)夜部」が登場していた。図を再掲したが、その人物の別名表記ではなかろうか。

その出自の地形は、見事な吉備を表していることが解る。今回彼は備中守に任じられている。それに乗じて改名したと推測される。

後に多治比眞人吉提が「吉備」と並んで正五位下に叙位されている。同じようにその系譜は不詳のようである。吉提=蓋の山稜の先が匙のようになっているところと読み解け、「吉備」の北隣に見出せる。「夜部」の別名が「吉備」である確度が高まったようである。多分、「丹比公麻呂」のご落胤だったように推測されるが、定かではない。

「麻呂」一族から輩出している兄の嶋大臣、その息子(上記中では水守・廣成)に加えて弟の「夜部」等が進位され地方官へと任官されて行く様子が述べられている。

<久米朝臣尾張麻呂・麻呂・三阿麻呂>
● 久米朝臣尾張麻呂

書紀には「久米」の文字列は登場しない。代わりに「來目」と表記されている。ここでも續紀は古事記の表現を採用していると思われる。

右図に示したように古事記では「久米王」(上宮之厩戸豐聰耳命の兄弟)と記述されるが、書紀では「來目皇子」となっている。

いずれにせよこの「久米」の地に関わる朝臣と推測される。名前が尾張=山稜が尾のように延びた端が張り出している様と読み解いた。言うまでもなく「尾張國」の解釈と寸分も異なることはない。

すると難なくこの人物の出自の場所を推定することができるようである。「尾張」の地は、現在の行政区分では田川市夏吉と田川郡福智町とに跨っていて、出自の場所は福智町に属している。

後に久米朝臣麻呂が登場する。正月(713年)の叙位で若手の登用の一人として正七位上から從五位下に躍進している。同族なのであろうが、「尾張麻呂」とのつながりは不詳のようである。「麻呂」では特定不可であるが、「萬侶」の表記とすると図に示した辺りと推定される。「麻呂」の「麻」=「萬」としている例が見られる。例えば、太安萬侶藤原朝臣萬理などがあった。

更に後(元正天皇紀)に、同じように正月(718年)の叙位で久米朝臣三阿麻呂が登場している。系譜は不明であるが、三阿=三つの台地が並んでいる様と読んで図に示した場所と推定した。

乙夘。勅。大宰府帥大貳。并三關及尾張守等。始給傔仗。其員。帥八人。大貳及尾張守四人。三關國守二人。其考選事力及公廨田。並准史生。」以從五位下鴨朝臣吉備麻呂爲玄蕃頭。從五位上佐伯宿祢百足爲下総守。丙辰。以從五位下小野朝臣馬養爲帶劔寮長官。庚申。美濃國安八郡人國造千代妻如是女一産三男。給稻四百束。乳母一人。

三月二十二日に以下のことを勅している。大宰府帥及び大貳、並びに「三關」と尾張守等に傔仗(武官)を給している。帥は八人、大貳及び尾張守には四人、「三關」・國守には二人としている。彼らの勤務評定・叙位及び公廨田(官衙の費用にあてる田)などは史生(官吏四等官の下)に準じること、と記載されている。

その日、上記で下総守となっていた鴨朝臣吉備麻呂を玄蕃頭(寺院・僧尼の名籍や外国使節の接待などを司る役所の長官)に任じ、後任に佐伯宿祢百足がなったと記している。翌二十三日には小野朝臣馬養を帶劔寮(授刀舎人寮と同じ、親衛隊)の長官に任じている。

二十七日に美濃國安八郡の人、「國造千代」の妻、「如是女」が三つ子の男子を産んでいる。稲、乳母を与えている。

三關:鈴鹿關・不破關・???

「記紀・續紀」を通じて明確に「關」と記載されるのは鈴鹿山道を塞ぐ鈴鹿關だけである。また同じく『壬申の乱』に「關」とは記載されないが、不破道を塞ぐと言う重要な戦略拠点があった。道を塞ぐことによって敵を遮断できる場所として「不破關」と呼べるであろう。

『壬申の乱』ではもう一つ、勝敗を決定する最も直接的な道が記述されていた。倉歷道である。近江直入ルートでは避けることができない、近江と東國との間にある深い谷間の道と記述されていた。当然この道に「關」を設けることは極めて効果的な場所となろう。名付ければ「倉歷關」である。

<愛發關>
勿論こんな名称は何処にも出現しない。調べてみると「愛發關」と呼ばれた場所があったようである。

「愛」=「旡+心+夂(足)」と分解される。「旡」=「満ちる、尽きる」の意味を表す文字要素である。「發」=「癶+弓+殳」と分解される。「両足を開いて弓矢を放つ様」と解説されている。

両文字共に些か解釈が難しいようだが、地形象形的には、文字要素を組み合わせて解釈できると思われる。愛=広げた足のような山稜の端()が延びて尽きる様發=二つの山稜に挟まれた谷間()に弓なりになった地と矛(殳)のような地がある様と読み解ける。

この地形要素を有する場所を求めると、「倉歷道」の谷間を出て、暫く北方に向かったところが見出せる。この深い谷間に「關」を設けることは不可能であって、その入り口付近が選択されたのではなかろうか。

あらためて『壬申の乱』の全体図を眺めると、「三關」は倭國中心地への侵入ルート上に位置することが明らかであろう。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が筑紫之岡田宮から青雲之白肩津、紀國竈山、熊野村を経て高倉下・八咫烏の助けを借り、何とか切り抜けた道(こちらこちら参照)、その由緒ある道への出入口を抑える「關」、それが「愛發關」だったと推測される。

太宰府帥・尾張守・不破關・愛發關に「傔仗」を与えたと言う記述は、倭國侵入東回りルート上に配置されていることが解る。南下の直入ルート上には鈴鹿關を配置、実に合理的な倭國防衛体制であったことを伝えているのである。

通説の解釈では、倭國中心地の飛鳥及び近江大津を取り囲む「關」とされているが、飛鳥は当然としても何故今頃になって近江大津を防がねばならないのか、全く不自然であろう。飛鳥は奈良大和の最南端にあったとする。ここでも空間認識の欠如が露呈されているようである。

<國造千代・如是女>
● 國造千代・如是女

「美濃國安八郡」は書紀で美濃國安八磨郡と記載されていた地であろう。現在の貫川が流れる谷間が広がった領域を表す表記と読み解いた。

國造千代の「千」=「人+一」=「谷間が寄り集まった様」、「代」=「人+弋」=「谷間にある杙のような様」と解釈して来た。

千代=谷間が寄り集まった地に杙のような地がある様と読み解ける。図に示した谷間の出口辺りの場所と推定される。國造=大地が造(牛)の様と読むとこの人物の出自の場所をより正確に表していると思われる。

彼の妻、如是女の「如」=「女+囗」=「大地が嫋やかに曲がる様」、「是」=「匙のような様」とすると、如是=大地が嫋やかに曲がった端が匙のようになっている様と読み解ける。「千代」の西隣の場所を表していると推定される。太安萬侶の出自場所が貫川の対岸となる。

夏四月己巳。授无位村王從五位下。癸酉。制。貢人位子。无考之日。浪入常選。白丁冐名。預貢人例。此色且多。是由式部不察之過焉。今宜按覆検實申知。其式部史生已上。若能知罪自首者免其罪。終隱執不首者准律科罪。亦其位子。准令。嫡子唯得貢用。庶子不合。今即兼用。此亦式部違令。若其庶子雖授位記。皆追還本色。但其才堪時務。欲從貢人例者聽之。又諸國博士醫師等。自朝遣補者。考選一准史生例。考第各從本色。若取土人及傍國者。並依令條。又諸位子貢人堪貢名籍。皆令本部案記。臨用。式部乃下本部追召之。壬午。從四位下柿本朝臣佐留卒。

四月七日に無位の「村王」に従五位下を授けている。十一日に以下のことを制定している。その概略は、貢人(官吏に採用されるように推挙された諸国の国学生)及び位子(内六位以下八位以上の位階を有する者の子)の叙位期間が水増しされたり、「貢人・位子」の資格のない白丁(庶民)が成り済ましたりしている。これは式部省の監察不行き届き結果である。実情を調べ、また官人で犯した罪を自首すれば免じるが、さもなくば令に従って処罰する、と述べている。

また本来は「位子」は「嫡子」に限られるが「庶子」も区別なく登用されている。調べて元の身分に戻すようにするが、能力あれば「貢人」の扱いとせよ、述べている。諸国の博士・医師も定められた職位で評価すること、また「貢人・位子」の名簿を作成し、登用する時の資料とせよ、と定めている。

<柿本朝臣佐留-建石-濱名・大庭・人麻呂>
● 柿本朝臣佐留

二十日に「柿本朝臣佐留」が亡くなっている。書紀の天武天皇紀に柿本臣猨として登場していた人物であろう。「猨」の表記ではかなり広い場所を示すと読み解いたが、今一度詳細に調べてみよう。

父親が大庭、弟に人麻呂が居たと伝えられている。大庭=平らな頂の麓で平らに延び出た様と解釈される。図に示した愛宕山の山麓にある平らな場所を表している。

「佐」=「人+左」=「谷間で左手のような山稜が延びている様」、「留」=「卯+田」=「隙間を押し開く様」と解釈した。纏めると、佐留=押し広げたように谷間から左手のような山稜が延びているところと読み解ける。「大庭」の西側の谷間を表していることが解る。おそらく現在の須佐神社辺りが出自の場所と推定される。

の地形象形を大坂山・愛宕山の山稜から長く延びた山稜を手長猿の手と見做した解釈を行ったが、改めて見ると、「猨」=「犬+爪+于+又」と分解される。「爪」=「三本の山稜が延びている様」、「于」=「山稜が長く延びている様」、「又」=「山稜が手のような形をしている様」、そして「犬」=「平らな頂の山稜」である。これらは図に示した「佐留」の地形を満たす文字構成であることが解る。実に多様に重ねられた、巧みな表記でだったのである。

息子に柿本朝臣建石柿本朝臣濱名がいたと知られている。前者は後(聖武天皇紀)に従五位下の位階を授かって登場する。建=廴+聿=筆のように山稜が延びた様であり、「佐留」の南側の山稜辺りが出自の場所と推定される。後者は外従五位下からの叙爵と記載されている。濱名=水辺の近くに山稜の端があるところと読み解ける。図に示した父親の左手の先辺りが出自の場所と推定される。

「佐留」の弟の柿本人麻呂は記紀・續紀には登場しない。勿論超有名な万葉歌人であり、本著でも幾度か登場して頂いた人物である。人麻呂=谷間で平らに積み重なった様と読めるが、人丸と別称していたとも知られている。すると「大庭」の東側の谷間に一際目立つ「丸」があることに気付かされる。その麓、少々入組んでいるが、辺りが出自の場所と推定される。

万葉歌人として多くの事績を残したが、その生涯については不明なままとのこと。梅原猛氏の「佐留(猨)」との同一人物説などがあるが、別名表記ではない。石見國(現地名北九州市小倉南区石代)の湯抱鴨山で生涯を閉じたと言われる。幾度も登場した「湯」が絡む場所(急流の河畔)は何らかの処罰を受けて流されたようにも思われる。續紀が片付いたら、次は万葉集かな?・・・。