2021年3月21日日曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(3) 〔499〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(3)


和銅元年(西暦708年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月壬寅。始行銀錢。庚戌。給近江守傔仗二人。庚申。長門國言。甘露降。辛酉。從四位下美弩王卒。

五月十一日に初めて銀錢を発行している。十九日、近江守に仗(武官)二人を給している。二十九日に長門國が「甘露」が降ったと告げている。中国の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体で、後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされた、と知られる。天武天皇即位七年(西暦678年)十月の記事に難波での出来事に登場している。治世が安定していることを表しているのであろう。

三十日に美弩王(三野王、美努王とも表記)が亡くなっている。『壬申の乱』の際、父親の栗隈王が近江朝の使者の要請を撥ねつけた時、弟と共に傍にいて使者を威嚇したと記されていた。その日より多くの任務を与えられ、三十数年が経っている。縣犬養三千代を娶って幾人かの子を誕生させている。また後日に登場されるかもしれない。

六月丙戌。三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也。己丑。詔爲天下太平百姓安寧。令都下諸寺轉經焉。

六月二十五日に但馬内親王が亡くなっている。天武天皇が藤原大臣の氷上娘を娶って誕生した皇女であった。二十八日、天下太平と百姓の安寧の為に都下の諸寺で轉經(順番に読経)をさせている。

秋七月丁酉。内藏寮始置史生四員。」但馬伯耆二國疫。給藥療之。甲辰。隱岐國霖雨大風。遺使賑恤之。乙巳。召二品穗積親王。左大臣石上朝臣麻呂。右大臣藤原朝臣不比等。大納言大伴宿祢安麻呂。中納言小野朝臣毛野。阿倍朝臣宿奈麻呂。中臣朝臣意美麻呂。左大弁巨勢朝臣麻呂。式部卿下毛野朝臣古麻呂等於御前。勅曰。卿等情存公平。率先百寮。朕聞之憙慰于懷。思由卿等如此。百官爲本至天下平民。埀拱開衿。長久平好。又卿等子子孫孫。各保榮命。相繼供奉。宜知此意各自努力。又召神祇官大副。太政官少弁。八省少輔以上。侍從。彈正弼以上及武官職事五位。勅曰。汝王臣等。爲諸司本。由汝等勠力。諸司人等須齊整。朕聞。忠淨守臣子之業。遂受榮貴。貪濁失臣子之道。必被罪辱。是天地之恒理。君臣之明鏡。故汝等知此意。各守所職。勿有怠緩。能堪時務者。必擧而進。乱失官事者。必无隱諱。因授從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂正四位上。從四位上下毛野朝臣古麻呂。中臣朝臣意美麻呂。巨勢朝臣麻呂並正四位下。文武職事五位已上及女官。賜祿各有差。丙午。有詔。京師僧尼及百姓等。年八十以上賜粟。百年二斛。九十一斛五斗。八十一斛。丙辰。令近江國鑄銅錢。

七月七日に内藏寮(中務省、金銀・珠玉・宝器などを管理し、天皇、皇后の装束や祭祀の奉幣などを担う)に史生(四等官の下)四人を初めて置いている。また但馬伯耆の二國で疫病が発生し、薬を給して治療させている。十四日、隱岐國で長雨と大風があり、物を与えている。

十五日に穗積親王石上朝臣麻呂藤原朝臣不比等大伴宿祢安麻呂小野朝臣毛野阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)中臣朝臣意美麻呂巨勢朝臣麻呂下毛野朝臣古麻呂等を御前に召して以下のように勅している。卿等が公平な情を持ち、百寮を率先していることをとても嬉しく思う。思うに卿等がかくの如くあるから百官から平民に至るまで永久に平和で好ましい状態となっている。また卿等の子々孫々も次々と継承して仕えてくれている。この意を知って各自努めて欲しい、と述べている。

また神祇官の大副、太政官の少弁と八省の少輔以上、侍從、彈正弼以上、及び武官職事五位の者を召して勅している。その概略は、王臣等が諸官司の手本となる行いをし、整然として勤めているが、臣下として子のように仕えれば栄誉と貴い地位を得るであろう。そうでなければ罪や辱めを受けることになろう。これは天地の道理である。能力のある者は必ず抜擢し進位する、と述べている。

阿倍朝臣宿奈麻呂を正四位上、下毛野朝臣古麻呂中臣朝臣意美麻呂巨勢朝臣麻呂を正四位下を授けている。文武職事の五位以上及び女官に禄を、それぞれ与えている。

十六日に京師の僧尼と百姓の八十歳以上の者に粟を与えている。百歳に二斛(石)、九十歳に一斛(石)五斗、八十歳に一斛(石)としている。二十六日、近江國に銅錢を鋳造させている。

八月己巳。始行銅錢。庚辰。兵部省更加史生六員。通前十六人。左右京職各六員。主計寮四員。通前十人。閏八月丙申。制。自今以後。衣褾口闊。八寸已上一尺已下。隨人大小爲之。又衣領得接作。但不得褾口窄小。衣領細狹。丁酉。攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。

八月十日に初めて銅銭を使用させている。二十一日、兵部省に、更に史生を六人加え、合せて十六人としている。左右京職に各六人、主計寮に四人、合せて十人としている。閏八月七日に以下の様に制定している。今後は衣の袖口は八寸以上一尺以下とし、人の大小に従うこと。また領(襟)は袷せ作っても良い。但し袖口を狭めたり、襟を細く狭めてはならないと定めている。

八日に攝津大夫の高向朝臣麻呂が亡くなっている。難波朝廷(孝徳朝)刑部尚書の「國忍」の子と記している。「國忍」は書紀では「國押」と記載されていた。古事記の「忍坂」を書紀は「押坂」と表記(こちら参照)、ここでも續紀は古事記の表現に戻っているようである。

九月壬戌。以從四位下安八万王爲治部卿。從四位下息長眞人老爲左京大夫。正五位上大神朝臣安麻呂爲攝津大夫。壬申。行幸菅原。戊寅。巡幸平城。觀其地形。庚辰。行幸山背國相樂郡岡田離宮。賜行所經國司目以上袍袴各一領。造行宮郡司祿各有差。并免百姓調。特給賀茂。久仁二里戸稻卅束。乙酉。至春日離宮。大倭國添上下二郡勿出今年調。丙戌。車駕還宮。」越後國言。新建出羽郡。許之。戊子。以正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位下多治比眞人池守。爲造平城京司長官。從五位下中臣朝臣人足。小野朝臣廣人。小野朝臣馬養等爲次官。從五位下坂上忌寸忍熊爲大匠。判官七人。主典四人。

九月四日に安八万王(安八萬王)を治部卿、息長眞人老を左京大夫、大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)を攝津大夫に任じている。「安八万王」については、慶雲二年(705年)正月に無位から從四位下を授けられ、高市皇子の子として既に出自の場所を求めた。十四日に菅原に行幸されている。二十日、平城に巡行し、その地形を観ている。

「菅原」は現地名田川郡福智町伊方、田川市夏吉に隣接した地、「平城」は現地名田川市夏吉、「藤原」は現地名田川市夏吉、田川郡香春町に隣接した地と推定した。今回の行幸は「藤原」を出発し、最も西側の「菅原」に赴き、帰りがてらに「平城」を視察した(巡幸)と述べている。

二十二日に山背國相樂郡にある「岡田離宮」に行幸され、途中経過した國司の目以上に袍袴(上着と袴)を、行宮を造営した郡司にそれぞれ禄を与えている。併せて百姓の調を免じている。特に「賀茂・久仁」の二里では戸ごとに稲三十束を給している。二十七日、「春日離宮」に至り、大倭國添上下二郡の今年の調を免じている。翌日、帰還。この日に越後國が「出羽郡」を建てたいと申し出て、許されている。

三十日に阿倍朝臣宿奈麻呂多治比眞人池守を造平城京司の長官に、中臣朝臣人足小野朝臣廣人小野朝臣馬養等を次官に、坂上忌寸忍熊を大匠に任じ、判官七名、主典四名としている。

<山背國相樂郡:岡田離宮>
山背國相樂郡:岡田離宮

山背國相樂郡は既に登場していて、書紀の文武天皇紀に「山代國相樂郡令」の記述があった。この地は古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記載された山代國之相樂と解釈した。

また續紀の文武天皇紀に双子三連荘で誕生させた鴨首形名の記事があった。今回は賀茂里久仁里の二つの里が登場している。すると賀茂里鴨首の西側の麓辺りを示していると思われる。

久仁=[く]の字形の谷間が二つくっ付いて並ぶ様と読み解ける。北側の谷間を示していると推定される。これが相樂郡にあった里の詳細な配置を表していることが解る。

岡田離宮の「岡」=「网+山」=「二つの山稜に挟まれた山の様」であり、岡田=二つの山稜に挟まれた山の傍らに田がある様と読み解ける。現在の山浦大祖神社辺りが離宮があった場所と推定される。古事記の筑紫之岡田宮など類似の地形を示している。

<春日離宮>
春日離宮

春日ならば・・・ではなく、調の免除した郡からして、どうやら添上・下郡にあった離宮のようである。

添下郡については、書紀の天武天皇紀に倭國添下郡鰐積吉事が海石榴華のような瑞鶏を献上した記事があった(こちら参照)。

その「海石榴」を表す山稜の地形を眺めると、「春」=「艸+屯+日」=「草のように山稜が曲がりながら生え出ている様」であることが解る。既に読み解いた春日=太陽のような山の前で延び出た山稜が[炎]のように細かく岐れているところである。「太陽=岩石山」と見做しているのである。

本家の「春日」(現地名田川郡赤村内田)の図を併記したが、実に相似な地形を示している。おそらく離宮の場所は、現在の添田神社天満宮辺りだったのではなかろうか。通説は、邇藝速日命後裔の穗積臣が蔓延った地、そこに開化天皇が伊邪河宮を造った「春日」の地も全て同じ場所とするようである。地名ありきでは、前記の柿本朝臣人麻呂も苦笑するしかなかったであろう。

<越後國出羽郡>
越後國出羽郡

文武天皇紀に越中國四郡を越後國に属するようにしたと言う記事があった。調べるとその四郡名は頸城郡古志郡魚沼郡蒲原郡と言われていたと分かった。

出羽=羽のような地形が延び出た様と読み解ける。山稜の端が細かく岐れている地形を表していると思われる。図に四郡と共に示した。

ここまでしっかりと郡制が敷かれたら、出羽の地を残すわけには行かなかったであろう。ほぼ埋まった感じであるが、さてこの後登場される郡があるや否や、期待しておこう。余談だが、現地名の「春日町」、山稜の形が上記に類似していように伺えるが、果たして由来は?・・・。

冬十月庚寅。遣宮内卿正四位下犬上王。奉幣帛于伊勢太神宮。以告營平城宮之状也。
十一月己未朔。日有蝕之。乙丑。遷菅原地民九十餘家給布穀。己夘。大甞。遠江但馬二國供奉其事。辛巳。宴五位以上于内殿。奏諸方樂於庭。賜祿各有差。癸未。賜宴職事六位以下。訖賜絁各一疋。乙酉。神祇官及遠江但馬二國郡司。并國人男女惣一千八百五十四人。叙位賜祿各有差。
十二月癸巳。鎭祭平城宮地。

十月二日に宮内卿の犬上王を遣わして伊勢太神宮に幣帛を奉納し、平城京の造営を報告している。

十一月一日、日蝕があったと記している。七日に菅原の民の九十余家を移住させ、布・穀物を給している。行幸された時に現状を見たことに依る対応なのであろうが、詳細は不明。二十一日に遠江・但馬の二國(こちらこちら参照)が大甞祭の行事に奉仕している。

二十三日に内殿で五位以上の者と宴会、禄を与えている。二十五日は職事六位以下と宴会し、絹織物を与えている。二十七日、神祇官及び遠江・但馬の二國の郡司、並びに男女合せて一千八百五十四人にそれぞれ叙位し、禄を与えている。

十二月五日に平城京の地鎮祭を行っている。いよいよ京の造営が始まるところまで整ったようである。