2021年3月25日木曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(4) 〔500〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(4)


和銅二年(西暦709年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月丙寅。授正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。正四位上小野朝臣毛野並從三位。正五位上大伴宿祢手拍。大神朝臣安麻呂。土師宿祢馬手。正五位下多治比眞人水守並從四位下。正六位下上毛野朝臣荒馬。正六位上土師宿祢甥。從六位上大伴宿祢牛養。從六位下笠朝臣長目。大春日朝臣赤兄。穂積朝臣老。正六位上調連淡海。正六位下椋垣忌寸子人。正六位上大私造虎並從五位下。戊寅。下総國疫。給藥療之。壬午。詔。國家爲政。兼濟居先。去虚就實。其理然矣。向者頒銀錢。以代前銀。又銅錢並行。比姦盜逐利。私作濫鑄。紛乱公錢。自今以後。私鑄銀錢者。其身沒官。財入告人。行濫逐利者。加杖二百。加役當徒。知情不告者。各与同罪。

正月九日に阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)小野朝臣毛野に從三位、大伴宿祢手拍大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)土師宿祢馬手多治比眞人水守に從四位下、「上毛野朝臣荒馬」・土師宿祢甥大伴宿祢牛養(”壬申の大将軍”吹負の子)・笠朝臣長目(諸石の子)・「大春日朝臣赤兄」・穗積朝臣老調連淡海(調首淡海)・椋垣忌寸子人(倉垣連子人)・「大私造虎」に從五位下を授けている。

二十一日に下総國で疫病が発生し、医薬を給して治療させている。二十五日に以下のことを詔している。概略は、国の政治は民を区別なく救済することが優先され、虚偽を排することが道理である。然るに昨今新たに銀銭に併せて銅銭も頒布したが、姦(邪)な盗人が濫りに鋳造して公の銭と紛らわしく混乱が生じている。私(密かに)銀銭を鋳造した者は身柄を没する、即ち賎民とし、その財産は告発者に与える。また、杖で打つ刑、更には強制労働を課し、事情を知っていて告発しない者も同罪とする、と述べている。偽札(銭)造りの歴史は古い、と言うことであろう。それにしてもその発生は早期だったようである。

<上毛野朝臣荒馬・今具麻呂・足人>
● 上毛野朝臣荒馬

「上毛野朝臣」一族もかなりの数の人物が登場して来た。現地名では築上郡上毛町下唐原辺りと推定した。直近では上毛野朝臣廣人(小足に併記)の叙位が記載されていた。

と言うことで「毛」(鱗状)の地形で「荒馬」を探索することにする。「荒」=「艸+亡+川」=「山稜が水辺で途切れる様」と読み解いた。荒陵寺(四天王寺の別称)などで用いられた文字である。

それに従うならば、荒馬=馬の形の山稜が水辺で途切れる様と読み解ける。「毛」の台地の東側の縁にその地形を見出すことができる。

図に幾人かの人物を記載したが、天智天皇紀に百濟救援で活躍した人物である上毛野君稚子の南隣に位置する場所が出自と推定される。「稚子」の活躍は白村江敗戦の前であり、その後の消息は定かではなく、おそらく敗戦に関わっていたのであろうが、彼の系譜が語られることはないようである。

後(聖武天皇紀)に上毛野朝臣今具麻呂が外従五位下に叙爵されて登場する。今=亼+一=蓋をするように覆い被さる様閉じ込められた様具=鼎+廾(両手)=山稜に囲まれて窪んでいる様と解釈して来たが、現在は大きな溜池となっている場所と思われる。地形の詳細が不明なため、上図に併記することにした。

また、上野國勢多郡少領を務めた上毛野朝臣足人が同じく外従五位下を叙爵されて登場する。地形の変形を辛うじて免れた場所に足人=谷間に足のような山稜が延びているところが見出せる。「馬」に跨った構図となっているが、特に何も関りなしなのであろう。

<大春日朝臣赤兄・家主・果安>
● 大春日朝臣赤兄

「大春日朝臣」は書紀の天武天皇紀における改姓の記事に記載されていた。勿論古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった春日臣に由来する一族であろう。

また壹比韋臣の祖でもあり、この地には後に穗積臣等之祖・內色許男命が住まっていたとされている。その妹の內色許賣命を大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が娶って大毘古命若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)等が誕生したと伝えている。

図に示したように「大春日臣」は、古事記の「壹比韋臣」の後裔氏族を示すのであろう。即ち、大=平らな頂の麓を表す名称と思われる。幾度か登場した赤=大+火=平らな頂の麓で交差するような山稜に挟まれた谷間に山稜が延び出ている様であり、兄=谷間の奥が広がっている様と読み解いた。おそらく「赤兄」の出自の場所は、古くは「壹比韋臣」と名付けられた場所と思われる。

後(元正天皇紀)に大春日朝臣家主が登場する。頻出の家=宀+豕=山稜が谷間に突き出た豚口のような様であり、主=山稜が真っ直ぐに延びる様と併せて、図に示した場所が出自と推定される。書紀の天武天皇紀に登場した桑内王の出自の場所に隣接しているようである。またその後(聖武天皇紀)に大春日朝臣果安が登場する。頻出の果安=丸く小高い地がある山稜に囲まれて嫋やかに曲がる谷間と解釈した。「家主」の北側に当たる場所と思われる。三者は兄弟、親子関係のようであるが、定かではない。

<大私造虎>
● 大私造虎

文武天皇紀の大寶三年(703年)五月の記事で、由緒正しいことを訴えて賎民から良民となった一族に私小田・私比都自・長嶋等が登場していた(詳細はこちら参照)。

この一族に属すると見做して、出自の場所を求めることにする。「大」は上記と同様であり、「虎」=「虎の縦縞のように山稜が並んでいる様」と読み解いて来た。

多くの例があるが、魏志倭人伝の末盧國に含まれていることを挙げておこう。柱状節理の地形を表現していると解釈した。江南から逃れて来た倭族(人)に共通する”漢字文化”を伺い知れ、古事記編者安萬侶君の暗号ではなかったことが氷解した貴重な文字である。

それは兎も角として、その地形を図に示した場所に見出せる。現在の松田池の水辺の当時の様子を知る術はないが、おそらくもう少し後退していたのではなかろうか。良民認知からほどなくして従五位下に叙位されるにはその地の開拓が大きく進捗したのであろう。

二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。丁未。遠江國長田郡。地界廣遠。民居遥隔。往還不便。辛苦極多。於是分爲二郡焉。

二月一日に詔されて、筑紫觀世音寺は淡海大津宮御宇天皇(天智天皇)が母親である後岡本宮御宇天皇(斉明天皇)を誓願して基を置かれたところなのだが、今迄未了である。人を当てて早く造営せよ、と述べている。本寺の登場は大寶元年(701年)で、その時三十年が過ぎた近江國志我山寺と併せて五年の本寺も食封を停止されている。天智色が浮かび上がって来たように感じられるが・・・。

二十日に「遠江國長田郡」が地の境が広く遠いので民が住まうところが遥かに隔たっていて、往還に不便故に、二郡に分けることにする、と述べている。

<遠江國:長田郡(長上/下郡)-敷智郡-佐益郡>
<山名郡-蓁原郡-磐田郡-城飼郡>
遠江國長田郡

遠江國は現在の遠賀川の河口付近(古遠賀湾)に面する國と推定して来た。地名では遠賀郡水巻町・中間市・北九州市八幡西区に跨る山稜が長く延びた地形の場所である。

この國の詳細は未だ語られることはなく、古事記の淡海之久多綿之蚊屋野、書紀では大井河などの記述が見受けられる。

幾つかの郡に分けられていたことは容易に想像できるが、あらためて續紀中に具体的な郡の名称が挙げられているかを調べてみた。どうやら八郡が記載されているようであり、今回の長田郡を含めて敷智郡佐益郡山名郡(佐益郡から分離)・蓁原郡磐田郡城飼郡であることが分った。

最北の佐益郡(谷間に挟まれた左手のような地が一様に平らで広がったところ)など、図に示したような配置になると思われる。長田郡はそのまま長く延びた山稜の傍らに田がある様と解釈される。上記で二郡に分けたとしているが、おそらく図に示した谷間辺りを境界としたのではなかろうか(長上下郡)。

磐田郡(山稜の端が広がり延びたところ)、敷智郡(布を敷いたような鏃の形の地に炎のような山稜が延びているところ)、城飼郡(狭い谷間の前に平らに整えられた地が広がっているところ)と読み解けるが、詳細は登場時に述べることにする。現在の磐田市及び浜松市の西部(湖西市を含む)と解説されているが、遺跡から出土した”木簡”に基づくと言われている。

三月辛酉。隱岐國飢。賑恤之。壬戌。陸奥越後二國蝦夷。野心難馴。屡害良民。於是遣使徴發遠江。駿河。甲斐。信濃。上野。越前。越中等國。以左大弁正四位下巨勢朝臣麻呂爲陸奥鎭東將軍。民部大輔正五位下佐伯宿祢石湯爲征越後蝦夷將軍。内藏頭從五位下紀朝臣諸人爲副將軍。出自兩道征伐。因授節刀并軍令。辛未。取海陸兩道。喚新羅使金信福等。庚辰。初置造雜物法用司。以從五位上采女朝臣枚夫。多治比眞人三宅麻呂。從五位下舟連甚勝。笠朝臣吉麻呂爲之。甲申。制。凡交關雜物。其物價銀錢四文已上。即用銀錢。其價三文已下。皆用銅錢。

三月四日、隱岐國が飢饉となり、物を与えている。和銅元年(708年)七月に長雨と大風があったと記されていた。かなりの災害が発生したのであろう。五日、陸奥・越後の二國の蝦夷は野蛮な心で馴らすことが難しく、屡々良民に害を加えている。それ故に遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中等の國(こちら参照、上野:上毛野、現地名築上郡上毛町)から徴兵して遣わすことにしたと述べている。

左大弁の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎭東將軍、民部大輔の佐伯宿祢石湯を征越後蝦夷將軍、内藏頭の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)を副將軍として、兩道(東山・北陸)から征伐させることにしたと記している。節刀並びに軍令を授けている。

十四日に海陸両道を取らせて、(大宰府に着いた)新羅の使者を召喚している。二十三日に初めて「雜物法用司」(平城京造営の資材調達?)を置き、采女朝臣枚夫多治比眞人三宅麻呂・舟連甚勝(船連秦勝)・笠朝臣吉麻呂を任じている。二十七日に以下の様に制定している。種々の物を交易する場合、その物の価値が銀銭四文以上ならば銀銭を、三文以下なら銅銭を用いることにする。

夏四月丁亥朔。日有蝕之。壬寅。從四位下上毛野朝臣男足卒。

四月一日、日蝕があったと記している。十六日に和銅元年(708年)三月に陸奥守に任じられていた上毛野朝臣男(小)足が亡くなっている。

五月庚申。筑前國宗形郡大領外從五位下宗形朝臣等抒授外從五位上。尾張國愛知郡大領外從六位上尾張宿祢乎己志外從五位下。乙亥。河内。攝津。山背。伊豆。甲斐五國。連雨損苗。是日。新羅使金信福等貢方物。壬午。宴金信福等於朝堂。賜祿各有差。并賜國王絹廿疋。美濃絁卅疋。絲二百絢。綿一百五十屯。是日。右大臣藤原朝臣不比等引新羅使於弁官廳内。語曰。新羅國使。自古入朝。然未曾与執政大臣談話。而今日披晤者。欲結二國之好成往來之親也。使人等即避座而拜。復座而對曰。使等。本國卑下之人也。然受王臣教。得入聖朝。適從下風。幸甚難言。况引升榻上。親對威顏。仰承恩教。伏深欣懼。

五月五日に筑前國宗形郡大領の「宗形朝臣等抒」に一階進めて外從五位上を、及び「尾張國愛知郡」大領の「尾張宿祢乎己志」に一階進めて外從五位下を授けている。二十日、河内・攝津・山背・伊豆・甲斐の五國(こちらこちらを参照)で降り続く雨で苗に損害が発生している。この日に新羅の使者金信福等がその地の産物を献上している。

二十七日に金信福等と宴会して禄を与え、併せて新羅國王に絹、美濃特産品、綿を贈っている。この日、右大臣の藤原朝臣不比等が新羅使を弁官廳内に招いて以下の様に述べたと記載している。その概略は、新羅國使者は古くから入朝して来ているが、執政大臣との談話することはなかった。今日そうするのは親しく往来することを願うからである。そう告げられた使者等が恐れ入り、畏まった、と述べている。

<宗形朝臣等抒・鳥麻呂>
● 宗形朝臣等抒

「宗形」の文字が示す場所は、前記で述べたように現在の釣川の西岸、当時は山麓近くまで汽水の状態であったと推測されるが、南北に長く延びた地域と推定される。

その中心地は、間違いなく現在の宗像大社がある場所と思われる。幾度も登場の等=山稜に挟まれた谷間に蛇行する川が流れる様である。

「抒」=「手+予」と分解される。地形象形的には「山稜が横切るように延びる様」と読み解ける。既出の「杼」と類似の解釈である。

図に示したように宗像大社の背後の山稜は極めて特徴的な地形をしており、延びる山稜が大きく曲がっていることが解る。この配置を「抒」で表現したと思われる。頻出の「等」=「竹+寺」=「揃って並んでいる様」と解釈する。纏めると抒=揃って並んでいる山稜を横切るように延びているところと読み解ける。出自の場所は図に示した場所と推定される。

後(聖武天皇紀)に宗形朝臣鳥麻呂が宗形の神に仕えることになったと奏上し、外従五位下を授けられている。の地形の麓辺りが出自の場所と思われる。併せて図に記載した。

古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で最初に誕生する胸形之邊津宮の田寸津比賣命が坐した地であり、時代が少し進んで大國主神の子、高(下光)比賣命が坐した地でもある。”国譲り”されない唯一の地点である。悠久の時を経て登場した人物達であろう。

<尾張國愛知郡・尾張宿禰乎己志>
尾張國愛知郡

愛知國尾張郡ならば・・・要するに現在の地名は勝手気儘に名付けられたと言うことであろう。調べてみても、この地の真面な解説に出くわすことは不可である。

正史續紀の記述は殆ど無視されているようであるが、本著は真面目に愛知の場所を求めてみよう。

前記した愛=旡+心+夂=山稜の端が足のように延びて尽きる様と解釈した。愛發關などを参照。頻出の知=矢+口=鏃の様であり、これらの地形要素を満足する地を探すと図に示した現地名小倉南区長野本町辺りに見出すことができる。

当時は現在の長野川流域は海面下であったと推測され、「愛」の山稜は海に突き出た半島のような地形であったと思われる。勿論、この地に書紀が記す尾張熱田社があったのである。その風景をそっくりそのまま、南北反転しているが、”国譲り”である。

● 尾張宿禰乎己志 「尾張宿禰乎己志」の「乎」=「口を開いて息を吐きだす様」と象った文字と知らる。魏志倭人伝の卑彌呼に含まれている。地形象形的には「谷間に延びる山稜がある様」となる。既出の「己」、「志」を用いて纏めると乎己志=谷間に延びる山稜が畝るように延びた先に蛇行する川があるところと読み解ける。

正に古事記風の名称であるが、地形そのものを忠実に表していると思われる。上記の「宗形朝臣等抒」も「外」が付く叙位と記されている。「天神族」との繋がりが定かではない人物達だったのであろう。

六月丙戌朔。金信福等還國。甲午。上総越中二國疫。給樂療之。辛丑。遣使雩于畿内。乙巳。令諸國進驛起稻帳。」筑前國御笠郡大領正七位下宗形部堅牛。賜益城連姓。嶋郡少領從七位上中臣部加比。中臣志斐連姓。辛亥。紀伊國疫。給藥療之。癸丑。散位正四位下犬上王卒。」從七位下殖栗物部名代。賜姓殖栗連。」勅。自大宰率已下至于品官。事力半減。唯薩摩多祢兩國司及國師僧等。不在減例。

六月一日に新羅使者が帰国している。九日、上総・越中の二國(こちら参照、但し上総は下総の北側、越中は越後の南側)で疫病が発生し、医薬を給し治療させている。十六日に畿内に於いて雨乞いをさせている。二十日、諸國に驛起稻(駅の費用に充てる稲)の帳簿を進上させている。また「筑前國御笠郡」の大領の「宗形部堅牛」に「益城連」姓を、「嶋郡」の少領の「中臣部加比」に「中臣志斐連」姓を与えている。

二十六日、紀伊國で疫病が発生し、医薬を給し治療させている。二十八日に犬上王が亡くなっている。同日、「殖栗物部名代」に「殖栗連」姓を与えている。天皇は勅され、大宰率以下品官に至るまで事力(従者・雑役担当)を半減する。但し薩摩・多祢(薩摩多褹)の両國司及び國師の僧等は除く、とされている。

外敵の脅威が未知であったか、やはりそれなりの備えを要していたのかもしれない。薩摩の属国のような表記から、「薩摩」と「多禰」がそれぞれ國として存在していたことを告げているようである。

<筑前國御笠郡・嶋郡>
筑前國御笠郡・嶋郡

筑前國の詳細が述べられる。前記の宗形郡に加えて御笠郡・嶋郡の登場である。容易にこれらの二郡は釣川の東岸地域と推測されるが、地形を表しているかを確認することになる。

御笠=笠のような山を束ねる様と読むと、図に示した孔大寺山系から延びる山稜の端が高くなり、三つの山が並んでいる様を捩っていると思われる。

その東南隣にある島状、当時は川幅が大きく広がっていたと推測されるが、の嶋郡があったと推定される。勿論、嶋=山+鳥=山稜が鳥のような様も重ねた表記であろう。

登場する人物二名については下記に詳細を述べるが、その一人「宗形部堅牛」は宗形の近隣の地が出自であることを示している。即ち宗形郡と御笠郡とは隣接していることを意味する名称と思われる。

記紀・續紀を通じて人名・地名が密接に関わっていることを見逃しては編者等の伝えることが読み取れないのである。古事記の胸形三柱神の次女、「市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮」と記されている。この比賣は「嶋」に坐していたことを表しているが、現在の大島(古事記では大嶋)ではないと解釈した。上図「嶋郡」の東南の角辺りが中津宮があった場所と推定した。全てが繋がり、以前にも述べたが、古事記は”神話風”に記述した史書、更に言えば地政学書であることが確認されたように思われる。

<宗形部堅牛(益城連)・加麻麻伎(穴太連)>
● 宗形部堅牛

「御笠郡」は釣川の東岸であって、全て「宗形部」に当たる故に名前の「堅牛」が残された情報となる。幾度か登場の堅=臣+又(手)+土=谷間で延びた山稜が手のような様と読み解いた。

「牛」は牛の頭部を象った表記とすると、「御笠郡」の最北部にその地形を見出すことができる。「手」の中に牛の角が含まれると言う貴重な地形を示している。現地名は宗像市江口辺りである。

益城連の氏姓を賜ったと記載されている。頻出の益=八+八+一+皿=二つの谷間で挟まれた一様に平らな様と読み解いたが、更に城=平らに盛り上げられた様を加えて、正にその通りの地形であることが解る。現存する地形が明瞭であり、極めて確度の高い場所と思われる。

直ぐ後に宗形部加麻麻伎穴太連姓を授けたと記載される。[麻]=[擦り潰されたような様]として、加麻麻伎=[麻]に[麻]を加えて分岐したところと読むと、「堅牛」の南隣の地と思われる。穴太=谷間の地に広がって延びる山稜があるところと読み解ける。更に南側の山稜の地形を表していることが解る。

<中臣部(志斐連)加比・漢人法麻呂>
● 中臣部加比

「中臣」一族と関連付ける根拠は全くなく、中臣=山稜が谷間を真っ直ぐに突き通るところに合致する地形を探索することになる。すると「嶋」の最北部にその地形を見出すことができる。

「中臣部」=「中臣の近隣」であることを表している。既出の文字列である加比=並んでいる山稜を押しくっ付けているところと読むと、「中臣」の西側の細い谷間を示していることが解る。

現地名は宗像市池浦であり、出自の場所はその谷間の出口辺りではなかろうか。中臣志斐連の氏姓を賜っている。これも既出の文字列である志斐=蛇行する川が流れる狭い谷間が括れているようなところと読み解けば、正にその地形を忠実に再現した表記と思われる。

後(聖武天皇紀)に漢人法麻呂が同じく「中臣志斐連」姓を賜っている。幾度か登場の法=氵+去=水辺で区切られて囲まれた様と解釈した。漢人=谷間で川が大きく曲がるところとすると、図に示した場所と推定される。現在は小学校の校庭が広がっているが、国土地理院年代別写真(1961~9年)を参照すると、「法」の地形がより鮮明に確認される。

<殖栗物部名代>
● 殖栗物部名代

多くの分家がある物部一族の一家と思われる。例えば「物部」の北側に隣接する谷間には置始連大伯が居を構えていたと推定した。

「殖栗」の殖=歹+直=真っ直ぐに延びた山稜が岐れて尽きる様と読み解いた。書紀の天武天皇紀に積殖山口などに用いられた文字である。「置始連大伯」の谷間の東北にある谷間に「殖」が延びる栗のような山稜を見出すことができる。

名代=谷間(人)で杙のような(弋)山稜の端に三角州(夕+囗)がある様と読み解けば、その場所がこの人物の出自と推定される。「物部」を外して「殖栗連」としたと記載している。現地名は北九州市小倉南区母原である。

物部一族は、古事記の邇藝速日命(天火明命、邇邇芸命の兄)の子、宇摩志麻遲命を祖として、現地名の田川郡赤村内田・赤の戸城山麓から采女の地、北九州市小倉南区長行辺りまで広がっていたと推測してきたが、記紀が語らない部分を續紀が埋め尽くそうとしているように伺える。