2021年3月30日火曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(5) 〔501〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(5)


和銅二年(西暦709年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙夘朔。以從五位上上毛野朝臣安麻呂爲陸奥守。」令諸國運送兵器於出羽柵。爲征蝦狄也。丁夘。令越前。越中。越後。佐渡四國船一百艘送于征狄所。

七月一日に上毛野朝臣安麻呂(小足に併記)を陸奥守に任じている。四月の記事に前任者の上毛野朝臣男(小)足が亡くなったとあり、その後任であろう。同日、蝦狄を征伐する為に諸國から「出羽柵」に兵器を運び送らせている。前記で建郡された越後國出羽郡に、設置の記述は省略されているが、造られていたようである。おそらく郡司が居住する場所を兼ねていたと思われる。十三日に越前越中・越後・佐渡の四國に「征狄所」へ百艘の船を送らせている。

律令施行が辺境の地に行き渡るには些か時間を要したことを告げているようである。「蝦狄」にしてみれば調・庸などを納めることへの不満は解消するわけはなく、継続的に反抗する機運が潜んでいたと推測される。「征狄所」は如何にも曖昧な表現である。

文武天皇即位四年(700年)正月に越後・佐渡の二國に「石船柵」を修繕させている。この柵は、書紀の孝徳天皇紀に「治磐舟柵、以備蝦夷。遂選越與信濃之民、始置柵戸」と記載された「磐舟柵」であろう。この記述の流れからすると「石船柵」近隣を「征狄所」と呼んでいたと思われる。

「百艘の船」は越前國は海路で、越中・越後・佐渡は現在の奥畑川を下って搬入しろと命じられたと推測される。佐渡は自国で造って標高差50m強の”船越”をするか、越後國への協力で事なきを得たのかは、確かではないようだが・・・。

八月乙酉。廢銀錢。一行銅錢。」太政官處分。河内河内鑄錢司官属。賜祿考選。一准寮焉。戊申。征蝦夷將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下紀朝臣諸人。事畢入朝。召見特加優寵。辛亥。車駕幸平城宮。免從駕京畿兵衛戸雜徭。

八月二日に銀銭を廃止して全て銅銭を使用することにしている。この日、太政官処分として河内の鋳銭司の官人の禄、叙位などを寮に準じるとしている。二十五日、征蝦夷將軍の佐伯宿祢石湯、副将軍の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)が事を終えて入朝し、特別の恩寵を与えられている。二十八日に平城宮に行幸。随行した京・畿内の兵衛の労役を免じている。

三月に征越後蝦夷將軍として出向いたと記載されていた。文武天皇即位元年(697年)十二月に越後蝦狄に物を与えているが、懐柔策は万全ではなかったのであろう。大寶二年(文武天皇即位六年、702年)三月の記事で越中國四郡を越後國に属させたと記載されたが、この目的も越後蝦狄取り込みの一環であったと推測される。手を尽くしたが、結局征伐するしかなかったのであろう。

<征越後蝦夷戦闘配置>
ここで改めて本蝦夷征伐の戦闘状況を眺めてみよう。三月に「佐伯宿祢石湯」を将軍に任命して征蝦夷軍を北陸道から越後國に向かわせている。

七月に入って出来たばかりの出羽郡に柵を設け(おそらくこの征伐用に)、兵器を搬入させている。かなり大掛かりな様相を漂わせている。

更に船(百艘)を「征狄所」に運び送れと命じているのだが、その目的は何であったのか?…その場所は上記で蝦夷侵攻に備える石船柵(磐舟柵)と推測したが、もう一つ備えるべき場所があった。

書紀の斉明天皇即位六年(660年)正月の記事に「阿倍臣闕名率船師二百艘」が陣取った場所、大河側である(こちら参照)。

この地を拠点として肅愼國との戦闘に入り、征伐したと記載されていた。「渡嶋」の南西麓であり、「佐渡國」の北端に当たる場所と推定した。「征狄所」と曖昧な表記を續紀が行った所以である。船百艘を揃えれば、敵はたじろぐ、とでも言っているようである。

配置図を示したが、征蝦夷軍が出羽柵に陣取り、越後蝦夷(狄)を攻める時に、東西の蝦夷(狄)の背後攻撃を防ぐ必要があったのである。越後蝦夷にすれば完全孤立状態に陥った状況を作り出したわけである。戦闘の詳細は語られないが、天皇の喜びようからすると完勝だったと推測される。

九月乙夘。授大倭守從五位下佐伯宿祢男從五位上。造宮大丞從六位下臺忌寸宿奈麻呂從五位下。是日。車駕巡撫新京百姓焉。丁巳。賜造宮將領已上物有差。戊午。車駕至自平城。乙丑。賜征狄將軍等祿各有差。己夘。遠江。駿河。甲斐。常陸。信濃。上野。陸奥。越前。越中。越後等國軍士。經征役五十日已上者。賜復一年。」遣從五位下藤原朝臣房前于東海東山二道。検察關剗。巡省風俗。仍賜伊勢守正五位下大宅朝臣金弓。尾張守從四位下佐伯宿祢大麻呂。近江守從四位下多治比眞人水守。美濃守從五位上笠朝臣麻呂。當國田各一十町。穀二百斛。衣一襲。美其政績也。

九月二日に大倭守の佐伯宿祢男に一階進めて從五位上を、造宮大丞の臺忌寸宿奈麻呂に二階進めて從五位下を授けている。この日に天皇は新京を巡って、百姓を慰撫している。四日に造宮の將領(木工の技術者)以上に、それぞれ物を与えている。五日、平城宮から藤原宮に帰っている。十二日に征狄將軍等にそれぞれ禄を与えている。

二十六日に遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後等の國(こちらなどを参照)の兵士で征狄の役に五十日以上参加した者には租税を一年間免除している。また、藤原朝臣房前を東海・東山二道に遣わして、關や剗(柵)を検察し、その風俗(生活文化の程度)を巡察させている。その結果、伊勢守の大宅朝臣金弓、尾張守の佐伯宿祢大(太)麻呂、近江守の多治比眞人水守、美濃守の笠朝臣麻呂にそれぞれの國の田十町や穀・衣類を政治の業績を褒めて与えている。

冬十月癸未朔。日有蝕之。甲申。制。凡内外諸司考選文。先進弁官。處分之訖。還附本司。便令申送式部兵部。庚寅。備後國葦田郡甲努村。相去郡家。山谷阻遠。百姓往還。煩費太多。仍割品遲郡三里。隷葦田郡。建郡於甲努村。癸巳。勅造平城京司。若彼墳隴。見發堀者。隨即埋斂。勿使露棄。普加祭酎。以慰幽魂。丙申。禁制。畿内及近江國百姓。不畏法律。容隱浮浪及逃亡仕丁等。私以駈使。由是多在彼。不還本郷本主。非獨百姓違慢法令。亦是國司不加懲肅。害蠧公私。莫過斯弊。自今以後。不得更然。宜令曉示所部検括。十一月卅日使盡。仍即申報。符到五日内。无問逃亡隱藏。並令自首。限外不首。依律科罪。若有知情故隱。与逃亡同罪。不得官當蔭贖。國司不糺者。依法科附。戊申。薩摩隼人郡司已下一百八十八人入朝。徴諸國騎兵五百人。以備威儀也。庚戌。詔曰。比者。遷都易邑。搖動百姓。雖加鎭撫。未能安堵。毎念於此。朕甚愍焉。宜當年調租並悉免之。

十月一日に日蝕があったと記している。二日、以下のように制定している。京内外の諸司の考選文(勤務評定の文書)は、先ずは弁官に進め、決済の後に元の司に返し、その後に式部・兵部に申し送るようにせよ、としている。

八日、「備後國葦田郡」の「甲努村」は郡家から隔たり、山や谷が険しく遠く、百姓の往還に際して煩いや費えが甚だ多い。故に「品遲郡」の三里を割いて、「葦田郡」に属させ、甲努村に郡を建てることにした(甲努郡)、と記載している。十一日に造平城京司に勅して、若し古墳墓を発き掘り出すことがあれば、即座に埋め直し棄てることがあってはならない。酒を祭って幽魂(死者の魂)を慰めよ、と述べている。

十四日に禁制を下している。概要は、畿内・近江國の百姓が法を恐れずに浮浪者や逃亡者を囲って使用している。國司が取り締まらないことも一因である。公私を損なう忌々しき事である。今より所管の國の実情を調べ終えること(十一月三十日まで)、自首しなければ罰則を与え、國司が糾明しなければ法に従って処する、と記載している。求人倍率が極めて高い時代であっただろう。國司ぐるみの違反がかなり多かったのかもしれない。

二十六日に薩摩隼人郡司以下百八十八人が入朝している。諸國の騎兵五百人を儀礼に備えさせている。二十八日、天皇が詔されて、遷都の為に百姓が動揺しているようであり、当年の調・租を悉く免じることにしている。

備後國甲努郡
備後國葦田郡甲努村

前記で備後國龜石郡が登場した。下関市に鬼ヶ城・竜王山山系を横切り吉見峠の東側の谷間を推定した。備後國は、この山系の東麓で南北に広がる地域であると思われる。

今回は葦田郡と記される。幾度か登場した葦=艸+韋=山稜に囲まれた様であり、盆地に田が張り巡らされて地形を示している。容易に龜石郡の北隣の地に見出すことができる。

その北端に甲=平らに広がった様努=女+又+力=山稜が嫋やかに曲がり長く押し延ばされた様の地形要素を満足する山稜が一目で認めることができる。この地を甲努村と名付けていたと思われる。

また品遲郡も登場する。品遲=犀の角のような山稜の麓が段々になった様と読み解ける。図では省略されているが、石畑川の東側の山稜の地形を表していると推定される。この郡の三里を甲努村と併せ新しく甲努郡としたと記載している。備後國の地形要素が盛り沢山に記述された記事であり、それらを満たす場所が現地名の下関市内日上(ウツイカミ)であると思われる。

十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲伯耆守。正五位下阿倍朝臣廣庭爲伊豫守。
十二月丁亥。車駕幸平城宮。壬寅。式部卿大将軍正四位下下毛野朝臣古麻呂卒。

十一月二日に長屋王を宮内卿、田口朝臣益人を右兵衛率、高向朝臣色夫智を山背守、平羣朝臣安麻呂を上野守、金上元を伯耆守、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)を伊豫守に任じている。

十二月五日に平城宮に行幸されている。二十日、式部卿大将軍の下毛野朝臣古麻呂が亡くなっている。

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『續日本紀』巻四巻尾。