2021年4月2日金曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(6) 〔502〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(6)


和銅三年(西暦710年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月壬子朔。天皇御大極殿受朝。隼人蝦夷等亦在列。左將軍正五位上大伴宿祢旅人。副將軍從五位下穗積朝臣老。右將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下小野朝臣馬養等。於皇城門外朱雀路東西。分頭陳列騎兵。引隼人蝦夷等而進。戊午。授无位門部王。葛木王。從六位上神社忌寸河内並從五位下。壬戌。制。授位者不得通計前考。」散位從四位下高橋朝臣笠間卒。甲子。授无位鈴鹿王。六人部王並從四位下。正六位上吉野連久治良。黄文連益。田邊史比良夫。刀利康嗣。正六位下大倭忌寸五百足。山田史御方。從六位上路眞人麻呂。押海連人成。車持朝臣益。下毛野朝臣信並從五位下。丙寅。大宰府獻銅錢。丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。戊寅。播磨國獻銅錢。」日向國貢采女薩摩國貢舍人。庚辰。日向隼人曾君細麻呂。教喩荒俗。馴服聖化。詔授外從五位下。

正月一日に天皇は大極殿で朝賀を受けられたが、隼人・蝦夷等も列席したようである。左將軍の大伴宿祢旅人、副將軍の穗積朝臣老、右將軍の佐伯宿祢石湯、副將軍の小野朝臣馬養等が皇城門の外にある朱雀路の東西に分れて先頭に立って騎兵を整列させ、隼人蝦夷等を率いて行進している。前記で「大伴宿禰旅人(多比等)」の出自の場所は兄弟の宿奈麻呂と併せて求めた。最終従二位・大納言となり、多くの和歌を残した歌人でもあったと知られている。

七日に無位の門部王、「葛木王」、從六位上の「神社忌寸河内」に從五位下を授けている。「門部王」及び下記の「鈴鹿王」は高市皇子の子で、「長屋王」の兄弟であり、既に併せて出自の場所を求めた。十一日に授位された者は以前に考課された期間を合わせてはならない、と定めている。その日、無官職の高橋朝臣笠間が亡くなっている。

十三日に無位の鈴鹿王・「六人部王」に從四位下を、「吉野連久治良」・「黄文連益」・「田邊史比良夫」・「刀利康嗣」・大倭忌寸五百足山田史御方・「路眞人麻呂」・「押海連人成」・「車持朝臣益」・「下毛野朝臣信」に従五位下を授けている。十五日に太宰府が銅銭を献上している。

十六日に天皇は重閣門に出御されて、文武百官並びに隼人蝦夷と宴会されている。諸方樂(唐楽、高麗樂か?)を奏でて、従五位以上の者に衣一揃を、隼人蝦夷等には授位及び禄をそれぞれ与えている。二十七日、播磨國を銅銭を献上している。また、「日向國」が「采女」、「薩摩國」が「舎人」を貢している。

二十九日に「日向隼人」の「曾君細麻呂」は、荒々しい風俗を教え諭して天皇の德に馴染むようにした故に外從五位下を授けている。<「薩摩國」から舎人とは?…どうも「日向」、「薩摩」の配置があやしげな記述のように感じられる。下記で詳細を述べることにする。>

<葛木(城)王・佐爲(狹井)王>
● 葛木王

出自は、栗前(隈)王の孫、三野(美努)王の子と知られている。後に臣籍降下して「橘諸兄」と名乗っている。母親が橘(縣犬養)三千代であり、その橘姓を使ったようである。正一位左大臣まで昇進している。

和銅元年(708年)五月に父親が亡くなっているが、その家系を引き継ぐ叙位のようである。

「葛木」の文字列は役君小角が修行をした葛木山で既に登場していて(こちら参照)、葛木=遮られて閉じ込められた(葛)ような山稜(木)があるところと読み解いた。

図に示した場所にその地形を見出すことができる。父親「三野(美努)王」の西隣の山稜の端である。別名に葛城王とも記されたと知られるが、木(山稜)が閉じ込められたと見るか、城(盛り上げられた地)と見ることもできる地形である。正にそれを表しているように受け取れる。

弟に佐爲王が居たと知られる。同じく臣籍降下して橘佐爲と名乗ったようである。「爲」の登場は少なく、あらためて読み解いてみよう。「爲」=「爪+象」と分解されている。「爪」=「下向きの手」を象っていて、「象」を操る様を表す文字である。これで通常に用いられる意味を表していると解説されている。

地形象形的には、「爲」=「象のように大きな山稜の傍に手のような山稜がある様」と読み解ける。頻出の「佐」=「人+左=谷間で山稜が左手のように延びている様」と解釈した。合わせると佐爲=象のように大きな山稜の傍に左手のような山稜があるところと読み解ける。図に示した場所が弟の出自と推定される。

風流侍従の一人とされた狭井王ではないかとされているが、狹井=平らな頂の山稜に挟まれた四角いところであり、見事に合致する地形であることが解る。間違いなく同一人物だったと思われる。尚、長屋王の子にも「葛木王」が居たと知られている。ご登場の際に読み解くことにするが、こちらは「城」とは言えない地形であって、別名を持っていなかったようである。

<神社忌寸河内>
● 神社忌寸河内

「神社」は書紀の孝徳天皇紀に神社福草が登場していた。何ともありがたい名前なのだが、現地名の田川郡香春町、香春一ノ岳の南麓と推定した。

「忌寸」姓を賜って河内も読み飛ばせばあまり気にならない感じなのだが、地形象形的にはきっちりと見定めて置こう。

図に示した麓の地形から当時の金辺川が大きな川幅を有していたことが推測される。図中の「新町」と記載された場所は一段高くなっていることが分り、それも併せて複数の川が流れる様相であったことが伺える。それが河内の由来と思われる。

この人物の登場で、「神社」の場所の確度が高まったようである。「カミヤシロ」の訓からでは全く読み取れない出自の場所であろう。古事記で記載される「神」も全て「曲がって長く延びる高台」と解釈したが、續紀もしっかりと踏襲していると思われる。

<六(身)人部王・長田王>
● 六人部王

出自は定かではなく、一説に高市皇子の子ではないか、と言われているようである。また別名に身人部王があり、それも併せて出自の場所を求めることにする。

六人部王六人=谷間(人)で盛り上がって広がる(六)地があるところ、その近隣の場所を表していると思われる。高市皇子の山の呉川対岸にある山を田身嶺(山)と推定したが、その北麓に多くの谷間が見られる中にそれらしき場所が見出せる。

図に示した西側の山稜が大きく弓なりに曲がりながら延びている場所と思われる。この弓なりの地形をで表現したと思われる。妊婦の姿そのものであろう。「六」は身籠った子と見做せるかもしれない。

おそらく出自の場所は現在の道の駅香春辺りかと推測される。位置的には高市皇子の子として問題は無いようである。彼の妻が田形皇女(天武天皇の皇女)と知られ、それなりの出自であることと矛盾しないように思われる。本叙位から十数年後に亡くなられたとのことで、活躍する機会は少なかったと思われる。

少し後に長田王が正五位下に叙爵されて登場する。系譜も含めて全く情報が欠落している王である。また、五位からの昇進となると皇孫でもないように思われる。そんな背景であるが、「六人部王」の東側の谷間が長田の地形を示していることに気付かされた。ありふれた名前で地形的な確証はないが、多分この地が出自と推定される。

<吉野連久治良>
● 吉野連久治良

「吉野連」は天武天皇紀に「吉野首」に授けた姓であった。吉野首は、古事記で神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が吉野に侵出した時に出会ったと記載されていた。

また吉野人宇閉直弓も天武天皇紀に登場していた。「白海石榴」を献上したと記されるが、その地を開拓して公地にしたと解釈した。

久治良は既出の文字列であり、そのまま読み下せば久治良=くの字に曲がった延びる耜のような山稜の麓のなだらかなところと読み解ける。

續紀では「吉野連」が記載されるのはこれが唯一であり、表舞台での活躍はなかったのであろう。神武天皇、後には天武天皇が深く関わった地として語り継がれていたのではなかろうか。

<黃文連益>
● 黄文連益

「黃文連」は「備」、「大伴」、「本實」が登場していた(こちら参照)。「大伴」が山背守に任じられているようになかなかに有能な人材を輩出した一族であろう。

今回登場のもその一員と思われるが、前出の彼らとの系譜は知られていないようである。

山背國、現地名の京都郡みやこ町犀川大村で益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた一様に平らな様を求めると図に示した辺りが該当するかと思われる。

この後も彼らの子孫が度々登場するようであるが、その際に出自の場所を求めることにする。

<田邊史比良夫>
● 田邊史比良夫

「田邊史」は書紀の孝徳天皇紀に「鳥」が登場してから續紀の文武天皇紀に「首名・百枝」が登場するまで暫く間が空き、そして今回の登場となる。

「鳥」の地形に散らばっていた一族と思われる。但し系譜は確かではないようである。

既出の文字列である比良夫=並んでいるなだらかな地がくっ付くような様であり、図に示した場所と推定される。續紀の出現も今回限りであって、河内の主要な場所ではあるが、あまり表立った活躍はなかったのかもしれない。

<刀利康嗣・宣令>
● 刀利康嗣

「刀利康嗣」は續紀中一度の出現だが、『藤氏家伝』に拠ると大学博士であったらしく、漢詩が残されたりしている。少し後に「刀利宣令」が登場し、同じく大学博士の称号を持ち、伊豫掾(國司の三等官)であったと伝えられている。

百濟から渡来した一族であって、重宝な人材となっていたのであろう。地方に埋もれた宝探しも重要であったと推測される。

そう考えると「刀利」は伊豫國に求められるのでは?…と思い付き、その地を探索することにした。

伊豫國の北部に宇和郡と風速郡の二郡があったと書紀が記載していた。「刀利」は、その宇和郡の「宇」が示す長く延びた山稜の端の地形を象った表記と読み解けた。即ち山稜の端が切り分けられて(利)二股に(刀)なった様を表していると解釈される。

「康」=「广+隶」と分解する。「隶」=「追い付く、くっ付く」の意味を表す文字と知られる。地形象形的には、康=崖がくっ付くような様と読み解ける。古事記に多用される「糠」=「米+康」に含まれていて、筋目のように狭いがくっきりとした谷間を示すと解釈した。例えばこちらなど参照。因みに「糠」=「米に覆い被さって(广)くっ付いている(隶)様」を表すと解釈される。

「嗣」=「口+冊+司」と分解される。「司」=「人+口」から文字である。地形象形としては、嗣=谷間の口が二つの山稜で挟まれて狭まっている様と読み解ける。「刀」の中の詳細な地形を示していることが解る。流石に大学博士、見事な文字使いの名前と言えるであろう。

もう一人の宣令は、「宣」=「宀+亘」と分解され、宣=山稜に挟まれた小高い地が丸く広がった様と読み解ける。令=亼+卩=三角の形に寄り集まった様と解釈すると、「刀」の南に隣接する山稜の地形を表していることが解る。こちらも流石の表記と思われる。

<路眞人一族>
● 路眞人麻呂

「路眞人」は難波皇子を祖父として、父親がその子、石川王であったと知られている。既に現地名の田川郡赤村内田と赤との境の地、古事記では登美能那賀須泥毘古の出自の「登美」の地と推定した。

「迹見(登美)」には四人の子があり、大人、麻呂、蟲麻呂、野上と名付けられていたと知られる。大人は既に登場済みだが、今回は次男の麻呂と言うわけである。

例の如く「麻呂」は特定不可の表記である故に残りの兄弟の居場所を求めながら、推定してみることにした。蟲麻呂山稜の端が細かく分岐した様であり、図に示した最も西側の山稜の麓辺りと思われる。

野上=野の上にあるところを表すとすると「登美」の谷間の最上部辺りと推定される。この配置からすると麻呂は図に示した父親の東側にある谷間、多分「麻」=「萬」で置き換えることができると思われる。

後(聖武天皇紀)に路眞人宮守が外従五位下を叙爵されて登場する。その後に”外”が外されるが、系譜は定かではないようである。頻出の文字列である宮守=谷間が奥にまで広がり肘を張ったような山稜に囲まれたところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。「登美能那賀須泥毘古」の長い谷間に広がって行った眞人だったことが伺える。

<押海連人成>
● 押海連人成

「押海」は「忍海」の別表記であろう。書紀では忍海造荒田などが並んでいた地であり、續紀の文武天皇紀では大倭國忍海郡と記載されていた。

おそらく彼らのように忍海状態の彦山川辺ではなく、少々奥まった谷間を表していると推測される。

頻出の文字列である人成=谷間にある平たく盛り上がった様と読み解くと、図に示した忍海造荒田の北側に出自の場所が見出せる。

拡大膨張した當摩一族との境の地であるが、「忍海郡」内に広がった一族の系譜は全く不詳のようである。「葛城」に隣接地でもあり、古くから人々が寄り集まっていたのであろう。反ってそれが系譜を複雑にしていたのかもしれない。

<車持朝臣益・長谷・國人>
● 車持朝臣益

「車持君(朝臣)」は既出であって、書紀の履中天皇紀に初登場している。後の天武天皇紀に『八色之姓』と言われる記載の中で「朝臣」姓を賜っている。上毛野朝臣と同族であることも知られている。

車持=車輪を持ったような様と読み解いて、上毛野朝臣の中にその出自の場所を求めた。現在の上毛中学校のある高台を車輪に見立てた地形象形表記と思われる。

今回初めて名前が記載されたことになる。頻出する益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた一様に平らな様であり、この車輪の北側に広がる場所を出自としていたことが解る。現地名は築上郡上毛町下唐原であるが、西~北側は宇野、垂水となっていて、端境の地のようである。友枝川の川幅の変遷を伺わせるように感じられる。

後(聖武天皇紀)に車持君長谷が「朝臣」姓を賜ったと記載される。書紀の天武天皇紀に朝臣姓を授けられたのだが、出自がこれに漏れていた一族だったのかもしれない。兎も角も真面に扱われるようになって目出度し、であろう。長谷=長い谷間故にその詳細な場所は曖昧である。

更に後に車持朝臣國人が外従五位下を叙爵されて登場する。國人=谷間の前に区切られた大地があるところと読むと、図に示した場所辺りが出自と思われる。

<下毛野朝臣信・蟲麻呂・帶足・稻麻呂>
● 下毛野朝臣信

前年に式部卿大将軍であった下毛野朝臣古麻呂が亡くなっている。その跡継ぎのような叙位かもしれない。いずれにしても久志麻呂→古麻呂の一族からの登用と思われるが、系譜は定かではないようである。

信=人+言=谷間が耕地にされた様と読み解いて来た。その地形を求めると図に示した辺りと推定される。

谷間と言うには些か高低差が少なくなった山稜の末端部ではあるが、山稜に囲まれて段差が認められる場所として特定できるかと思われる。

「下毛野朝臣」はこの後も引き続いて登場するが、元正天皇紀に下毛野朝臣虫麻呂が登場する。系譜は定かではないようで、その名が示す場所を求めると、蟲=山稜が細かく三つに岐れて延び出ている様から、「古麻呂」の先でその地形が見出せる。

また後(聖武天皇紀)に下毛野朝臣帶足が”外従五位下”を叙爵されて登場する。この由緒ある一族に”外”はないのでは?…天皇の若者への叱咤激励のようである。「帶(タラシ)」ではあるが、帶=帯のような様と解釈して、そこから延び出たが出自の場所と推定される。

更に下毛野朝臣稻麻呂が同様に外従五位下を叙爵されている。稻=三つの山稜が窪んだ地に延び出ている様のところが出自と思われる。併せて上図に示した。現地名は細分されているが、「信・稻麻呂」は築上郡吉富町別府・土屋、「蟲麻呂」、「帶足」は同町鈴熊と思われる。
 
<薩摩國舎人・日向國采女>
<曾君細麻呂>
日向國貢采女薩摩國貢舍人

さらりと読み飛ばせば、「采女・舎人」を献上したようになるが、勿論、通説はそのように読んでいるが、「采女」も「舎人」も本来は地形象形表記であった。

ならば、本文で「薩摩國貢舍人」と記載された意味は、「舎人」の地を貢進したと解釈される。左図に示したように舎人=谷間に山稜が延びた先で広がり残ったところが見出せる。

薩摩國の場所には、未だその全体を把握されてはいないが、久々の開拓地の献上物語として読み解くことが可能であることが解った。ならば、「日向國貢采女」の日向國は、何処に求めることができるのか?…文脈からしても、天孫降臨の”日向國”ではありえない。

● 曾君細麻呂 「日向隼人」と記載されている。日向=炎のような山稜が北向きに並んでいるところと読み解いた。その地形を図に示した薩摩國の北に接する場所に見出せる。現在の鴻巣山の南麓の地形である。この地を日向國と表記しているのである。

曾君細麻呂に含まれる頻出の曾=積み重ねられた様と解釈する。幾度か登場の「細」=「糸+囟」と分解される。「囟」=「泉門」であり、頭蓋骨の窪んだ様を象った文字と知られている。=細長く窪んでいる様と読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

また、采女=狭い隙間のような谷間が並ぶところと解釈されるが、「細麻呂」の南側の地形が、小ぶりながら、確認することができる。例によって開拓地の献上物語は、その地の地形を詳細に伝えているのである。

二月壬辰。信濃國疫。給藥救之。庚戌。初充守山戸。令禁伐諸山木。
三月戊午。制。輙取畿外人。用帳内資人。自今以去。不得更然。待官處分。而後充之。辛酉。始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。

二月十一日、信濃國で疫病が発生し、医薬を給して救援している。二十九日に守山戸を初めて割り当てて諸山の伐採を禁じている。

三月七日に以下の様に制定している。畿外の人物を帳内(親王に仕える)・資人(五位以上者に仕える)の官人として採用する時は太政官の処分を得てからにせよ、と記している。十日に初めて「平城」への遷都を行ったと述べ、それ故に左大臣の石上朝臣麻呂を(藤原宮の)留守役に任じている。