高野天皇:称徳天皇(3)
天平神護元年(西暦765年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
夏四月乙丑。授從六位上紀朝臣益麻呂從五位下。」美濃。越中。能登等國飢。賑給之。癸酉。左京人從七位下手人造石勝賜姓雄儀連。甲戌。常陸。武藏二國飢。賑給之。丙子。右大臣從一位藤原朝臣豊成等上表言。臣等曾祖大織冠内大臣踏義懷忠。許身奉國。皇朝藉其不世之勳。錫以無窮之賞。胤子正一位太政大臣。確陳丹誠。抗表固辞。天朝即割賜二千戸。傳及子孫。臣等以。累世家門久沐榮寵。豈悟。逆賊仲麻呂近出臣族。極凶肆逆。若斯之甚。今臣等既以凶逆之囚族。猶霑忠概之餘封。以何面目叨近殊厚。伏願。奉納先代所賜功封。少塞天下之責。無任兢惶之至。奉表以聞。詔許之。丁丑。左右京穀各一千石糶於東西市。以米價踊貴也。癸未。駿河國飢。賑給之。丁亥。左京人外衛將監從五位下石村村主石楯等三人。參河國碧海郡人從八位上石村村主押繩等九人。賜姓坂上忌寸。戊子。丹波國飢。賑給之。
四月四日に紀朝臣益麻呂(益人)に従五位下を授けている。美濃・越中・能登などの國に飢饉があったので物を恵み与えている。十二日に左京の人である「手人造石勝」に「雄儀連」の氏姓を賜っている。十三日に常陸・武藏の二國に飢饉があったので物を恵み与えている。
十五日に右大臣の藤原朝臣豊成等は上表文を進めて以下のように述べている・・・私たちの曽祖父である大織冠内大臣(藤原鎌足)は正しい道を歩んで、忠の心を抱き、一身を捧げて國事に尽くした。そこで朝廷はその類まれな功績に対して、永代までの恩賞をお与えになった。後を継いだ正一位の太政大臣(藤原不比等)は、はっきりと忠誠の真心を述べて。上表して固く辞退した。これに対して朝廷は当初から二千戸を割いて賜り、子孫に伝えることに定められた。---≪続≫---
私たちが思うのに、代々にわたって藤原氏は久しく天皇の恩寵を蒙っている。しかし、最近逆賊仲麻呂は、我が一族の中から出て凶悪を極め、恣に悪逆を行ったが、それがこのように甚だしくなろうとは思いも及ばなかった。今私たちは邪な謀反人である囚人の一族であるにも拘らず、なお忠誠を尽くした先祖の授かった封禄のお陰で潤っている。何の面目があって濫りに格別の厚い恩遇を受けてよいものであろうか。---≪続≫---
謹んで願うには、先代の賜った功封を返納させて頂くことによって、少しでも天下の非難を和らげたいと思う。恐縮至極であるが、上表文を奉って天皇に申し上げる・・・。詔して、これを許可している。
十六日に左右京の穀をそれぞれ千石ずつ、東西の市において売り出している。米価が騰貴したからである。二十二日に駿河國に飢饉があったので物を恵み与えている。二十六日に左京の人である外衛将監の「石村村主石楯」等三人と「參河國碧海郡」の人である「石村村主押繩等」九人に坂上忌寸の氏姓を賜っている(こちら参照)。二十七日に丹波國に飢饉があったので物を恵み与えている。
「手人造」に関連する情報は、予想の通りに全く入手することは叶わないようである。デジタル大辞泉を見ると「手人(テヒト):機織り・裁縫などの技術者。職人。工匠」と記載されている。
元正天皇紀に登場した河内手人刀子作廣麻呂などはその意味を含めた名称と推測される。勿論、手人=手のような山稜の麓に谷間があるところの地形象形表記である。
「左京」だけでは一に特定し辛いが、賜った「雄儀連」に基づく地形から、その出自の場所を求めることができる。雄=厷+隹=山稜が羽を広げた鳥のような様と解釈したが、図に示した通り、「手」の別表現として見做すことができる。
儀=人+義=谷間がギザギザとしている様と解釈されることから、この人物の出自の谷間を推定することができる。残念ながら池が造られていて、詳細を知ることは不可だが、おそらく図に示した辺りと思われる。この池は古くからあって、既に国土地理院航空写真1961~9年で確認される。
聖武天皇紀の神龜四(727)年正月に、左京職が白雀を献上しているが、その「白雀」の”お宿”の一つが「手人造」の谷間にあったことになる。「白雀」発見の当事者名は記載されていなかったのだが、どうやら「石勝」一家だったのではなかろうか。
五月丁酉。授外從八位上敦賀直嶋麻呂外從五位下。以助官軍也。庚戌。播磨守從四位上日下部宿祢子麻呂等言。部下賀古郡人外從七位下馬養造人上款云。人上先祖吉備都彦之苗裔。上道臣息長借鎌。於難波高津朝庭。家居播磨國賀古郡印南野焉。其六世之孫牟射志。以能養馬仕上宮太子被任馬司。因斯。庚午年造籍之日。誤編馬養造。伏願。取居地之名。賜印南野臣之姓。國司覆審。所申有實。許之。丙辰。左右京籾各一千石糶於貧民。
五月七日に「敦賀直嶋麻呂」に外従五位下を官軍援助の功績によって授けている。二十日に播磨守の日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)等が以下のように言上している・・・管轄下の賀古郡の人である「馬養造人上」が上申して言うには[「人上」の先祖の吉備都彦の子孫である上道臣(吉備上道臣)一族の「息長借鎌」は、難波高津朝廷(仁徳天皇)の時代に播磨國賀古郡印南野に住まっていた。その六世の孫の「牟射志」は馬の飼育に長けていたので、上宮太子(厩戸皇子)に仕えて馬司に任じられた。このことが原因となって庚午年(天智九年、670年)の戸籍が作られた時に、誤って「馬養造」として戸籍に入れられてしまった。謹んで願うには、居住地の地名を取って「印南野臣」の姓を賜りたい]と申している・・・。播磨の國司が再審査したところ、上申が事実であったので、これを許可している。
二十六日に左右京の籾をそれぞれ千石ずつ貧しい人々に売却した。
現在からすると至極当たり前のようであるが、実は「敦賀」の文字列は、記紀・續紀を通じて、これが初見なのである。後に少々この謎めいた名称について述べることにする。
「敦賀」は初見である上に、「敦」の文字を人名・地名に用いた例もこれが初めてなのである。「敦」=「享+攴」に分解される。「享」は通常「受け入れる、捧げる」などの意味と示し、もう少し基本的な解説によると「向かい合う様」を表しているとされる。
「攴」=「山稜が折れ曲げっている様」として、地形象形的には敦=折れ曲がった山稜が向かい合っている様と解釈される。頻出の賀=加+貝=谷間が押し広げられている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。嶋麻呂の頻出の嶋=山+鳥=山稜が鳥の形をしている様であり、出自は図に示した場所と推定される。
この谷間は、古事記の意祁命(仁賢天皇)の娘である橘之中比賣命(財郎女)、及び建小廣國押楯命(宣化天皇)との間に誕生した石比賣命・小石比賣の居処と推定した場所であった(こちら参照)。その後この地を出自とする人物は登場していなかったのである。
上記したように通説は、古の「角鹿(都奴賀)」を「敦賀」と表記したとされている。言い換えると現在の地名では「角鹿」が消失して「敦賀」が残っていることになる。續紀中に二度と用いられることはなく、何とも希少な文字列である。それを残した?…理由は明らかであろう。
現在の「敦賀」は、「角鹿」の地形とは似ても似つかぬ場所だからである。「角鹿」は、珍しく分り易い地形象形表記である。「敦賀」に「角」を求めることは全く不可能であろう。だから、この希少な文字列、尚且つそれが表す地形は極めて難しいものを抽出したことになる。「敦(ツル、ツヌ)」と訓することは、異常であろう。越前國角鹿郡、あるいはその周辺に「敦賀」の地形を持つ谷間があった、どうやら、それが真の歴史のように思われる。
● 馬養造人上・牟射志
播磨國賀古郡印南野は、聖武天皇が播磨國に行幸された時に登場していた。「邑美頓宮」の造営を命じたり、かなり大掛かりな準備をするほど珍しい出来事だったのであろう。
「賀古郡」に加えて「明石郡」も登場、「印南野」も含めて兵庫県西部の地名がズラリと…「明」の地形象形は「三日月の地に炎が出ている様」なんですが・・・。
人上=盛り上がった地の前で山稜が[人]の形に岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この盛り上がった地を「馬」の形と見做すと、馬養も立派な地形象形表現と思われる。上記本文の「上宮太子被任馬司」は、何だか續紀編者の戯れ…事実と重なっていて、実に面白い…と本文掲載が決定したのかもしれない。
既出の文字列である牟=〇+牛=[牛]の頭部のような様、射=身+寸=山稜の端がふっくらと弓なりに曲がっている様、志=之+心=川が蛇行している様と解釈すると、図に示した場所が見出せる。「印南野」の北辺である。
本文の記述を、古事記の表記に置換えると、「借鎌」は比古伊佐勢理毘古命(亦名大吉備津日子命)の子孫の吉備上道臣一族だったことになる。
借鎌の「借」=「人+昔」と分解される。更に「昔」=「𠈌+日」から成る文字で、「𠈌」=「幾つも上に重なる様」を表していると解説されている。纏めると地形象形的には、借=谷間で幾つも上に重なっている様と解釈される。鎌=山稜が鎌の形をしてる様とすると、図に示した場所が出自と推定される。
古事記の「吉備品遲君」に含まれる「品」=「段々に積み重なっている様」と解釈した。地形の表現として「借」と「品」は類似していることが解る。重要な関連性を示唆しているものと思われる。また、息長=谷間の奥から山稜が長く延びているところであり、その地形を示す場所である。そして、息長日子王との繋がりも暗示しているようにも思われる。
六月辛酉朔。備中國賀陽郡人外從五位下賀陽臣小玉女等十二人賜姓朝臣。」甲斐國飢。賑給之。丙寅。左京人大原眞人魚福等二人賜姓波登理眞人。戊辰。備後國飢。賑給之。己巳。山背國宇治郡少領外從五位下笠臣氣多麻呂賜姓朝臣。庚午。左右京籾各一千石。大膳職塩一百石。糶於貧民。癸酉。勅。天下諸國郡司六位已下及白丁。糶米三百石叙位一階。毎加二百石進一階叙。其絁六百疋。商絲一千六百斤。調庸綿六千屯。調布一千二百端。商布三千五百段。亦各叙階准上。又令諸司六位已下雑任已上者糶米二百斛。叙位一階。毎加一百五十石進一階叙。他物亦准此。皆限七月廿九日。於東西市出賣。唯五位以上及正六位上。別奏其名。
六月一日に備中國賀陽郡の人である賀陽臣小玉女等十二人に朝臣姓を賜っている。六日に左京の人である「大原眞人魚福」(眞福にもつくる)等二人に「波登理眞人」の姓を賜っている。八日に備後國に飢饉があったので物を恵み与えている。九日に山背國宇治郡の少領の「笠臣氣多麻呂」に朝臣姓を賜っている。十日に左右京の籾をそれぞれ千石ずつと大膳職の塩百石を貧しい人に売却している。
十三日に次のように勅されている・・・天下の諸國の郡司で六位以下の者から無位の庶民までが、米三百石を売却したならば位一階を昇進させ、それ以上の場合は二百石ごとに一階ずつ昇叙せよ。また絁ならば六百疋、商糸ならば千六百斤、調庸の真綿ならば千二百端、商布ならば三千五百段、それぞれ叙位することを米の場合に准じる。また諸々の官司に勤務する六位以下で雑任以上の者が、米二百石を売却したならば、位一階を昇叙し、それ以上の場合は百五十石ごとに一階ずつ進めて叙位せよ。米以外の物資を売却した場合もこれに准じる。以上全て七月二十九日までに、東西市において放出し売却せよ。但し、五位以上の者と正六位上の者が売却した場合は、別途にその名前を奏上せよ・・・。
かなり頻度で登場している「大原眞人」であるが、直近では都良麻呂が淨原眞人の氏姓を賜ったと記載されていた。
高安等の系列とは異なり、系譜不詳の人物が多く、彼等は「大原眞人」を改名している。その後にまた復帰したり、些かややこしい状況でもある。この人物もどうやらそんな系列に属していたようである。
既出の文字列である魚福(福)=[魚]の形のように酒樽のような高台があるところと読み解ける。この場合の[魚]は、四つの鰭が並んでいる様と見做したのであろう。その地形を図に示した場所、「都良麻呂」の南側に見出せる。賜った波登理眞人の波登理=水辺に覆い被さるように延びた山稜(波)に挟まれた高台から延びる谷間(登)が整えられた筋目のようになっている(理)ところと解釈すると、その「魚福」の別表現であることが解る。
また、後に服部眞人眞福と記載されるが、やはり、本姓の「大原眞人」に復されている。この表記が実は極めて興味深いものなのである。即ち、波登理(ハトリ)=服部の関係を表している。「服部」に「ハトリ」の訓は不可能であろう。調べてみると「服部」=「機織(ハタオリ)部」が由来だとか・・・機織りは「服」に限ったものではなかろう。
もう少し話を進めると、では「服」の地形象形は如何なものであろうか?…「福」と「服」の洒落か?…のように解釈するのは、本著の趣旨に似付かわしくない。服=箙とする。古事記の伊服岐能山で用いられた文字である。矢と、それを携帯する時の筒状の入物の形として表現している。図に示したように丸く取り囲む山稜とその山稜が区分けされている姿を表したと思われる。
尚、文武天皇紀に服部連佐射が登場している。類似する解釈で出自の場所を求めることができる。この一族は、書紀の『八色之姓』で連姓を賜った一覧に殿服部造の後裔と思われる。いずれも訓は不明であったが、ここで「服部(ハットリ)」の由来が明らかになったのではなかろうか。
● 笠臣氣多麻呂
「笠朝臣」一族の中で朝臣姓を貰い忘れたのか?…今までの登場人物からからすると、それはあり得ないであろう。しかも山背國宇治郡の少領とまで詳しく記されいている。
少領クラスは、概ね地元採用の様子であることから、先ずは宇治郡で「笠」を求めることにする。ところで、「宇治郡」は初見であるり、かつ續紀中二度と記載されることはないようである。
聖武天皇が恭仁宮を留守にして行幸された地、宇治及山科で登場し、おそらく後に郡として設置されたのであろう。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊と推定した場所である。繰り返すようだが、「仲麻呂」一派が集まった「宇治」では、決して、ない。
すると、笠の地形が見出せる。馬ヶ岳の東側の峰である(馬ヶ岳城二の丸跡)。吉備の「笠」と比べると…その必要もなし、これぞ「笠」と言う見事な山容である。吉備と同じく「笠臣」の居処は、その麓と思われる。氣多麻呂の氣多=山稜の端の三角形(州)の地がゆらゆらと延びているところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。「宇治郡」と同様に、この人物も續紀中二度と登場されることはない。
秋七月戊戌。右京人内匠寮史生正八位上息長連清繼賜姓眞人。甲辰。左京人甲斐員外目丸部臣宗人等二人賜姓宿祢。」糶左右京籾三千三百餘石於諸司官人。庚戌。從四位下藤原朝臣楓麻呂爲右兵衛督。
「丸部臣」一族については、聖武天皇紀に大石が外従五位下に叙爵された記述が最後であった。父親の君手(書紀の表記では和珥部臣君手)が『壬申の乱』の功臣して褒賞を受けている。
前記で述べたように「丸部」=「[丸]に近接するところ」を示し、現地名は田川郡香春町柿下大坂と推定した。「丸」は、その薬師谷と呼ばれる場所である。
古事記が、その影を匂わす邇藝速日命の後裔が蔓延った地である。しかしながら書紀や續紀に登場する人物は極めて少なく、それ故に関連する情報も限られているのが現状である。
先ずは今回登場の宗人=谷間に[人]の形の高台があるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「丸部臣(宿祢)」の領域が少々広がっていることが伺えるが、その南側は「穂積朝臣」一族の居処であり、どうやら、この人物が端境となるようである。
八月庚申朔。從三位和氣王坐謀反誅。詔曰。今和氣〈仁〉勅〈久〉。先〈尓〉奈良麻呂等〈我〉謀反〈乃〉事起〈天〉在〈之〉時〈仁方〉仲麻呂〈伊〉忠臣〈止之天〉侍〈都〉。然後〈仁〉逆心〈乎〉以〈天〉朝庭〈乎〉動傾〈止之天〉兵〈乎〉備〈流〉時〈仁〉和氣〈伊〉申〈天〉在。此〈尓〉依〈天〉官位〈乎〉昇賜治賜〈都〉。可久〈方阿礼止毛〉仲麻呂〈毛〉和氣〈毛〉後〈仁方〉猶逆心以〈天〉在〈家利〉。復己〈毛〉先靈〈仁〉祈願〈幣流〉書〈乎〉見〈流仁〉云〈天〉在〈良久〉己〈我〉心〈仁〉念求〈流〉事〈乎之〉成給〈天波〉尊靈〈乃〉子孫〈乃〉遠流〈天〉在〈乎方〉京都〈仁〉召上〈天〉臣〈止〉成〈无止〉云〈利〉。復己怨男女二人在。此〈乎〉殺賜〈幣止〉云〈天〉在。是書〈乎〉見〈流仁〉謀反〈乃〉心〈阿利止方〉明〈尓〉見〈都〉。是以〈天〉法〈乃末尓末尓〉治賜〈止〉宣。」和氣者。一品舍人親王之孫。正三位御原王之子也。勝寳七歳賜姓岡眞人。任因幡掾。寳字三年。追尊舍人親王。曰崇道盡敬皇帝。至是。復属籍授從四位下。八年至參議從三位兵部卿。于時皇統無嗣。未有其人。而紀朝臣益女以巫鬼著。得幸和氣。心挾窺窬。厚賂幣物。參議從四位下近衛員外中將兼勅旨員外大輔式部大輔因幡守粟田朝臣道麻呂。兵部大輔兼美作守從四位上大津宿祢大浦。式部員外少輔從五位下石川朝臣永年等。与和氣善。數飮其宅。道麻呂時与和氣密語。而道麻呂佩刀觸門屏折。和氣即遺以裝刀。於是。人等心疑。頗泄其事。和氣知之。其夜逃竄。索獲於率河社中。流伊豆國。到于山背國相樂郡。絞之埋于狛野。又絞益女於綴喜郡松井村。是日。又下詔曰。粟田道麻呂大津大浦石川長年等〈尓〉勅〈久〉。朕師大臣禪師〈乃〉宣〈久〉。愚痴〈仁〉在奴〈方〉思和久事〈毛〉無〈之天〉人〈乃〉不當无礼〈止〉見咎〈牟流乎毛〉不知〈之天〉惡友〈尓〉所引率〈流〉物在。是以此奴等〈毛〉如是〈久〉逆穢心〈乎〉發〈天〉在〈計利止方〉既明〈仁〉知〈奴〉。由此〈天〉理〈波〉法〈乃末尓末尓〉治給〈倍久〉在。然此遍〈方〉猶道鏡〈伊〉所賜〈天〉彼等〈我〉惑心〈乎方〉教導〈天〉貞〈久〉淨〈伎〉心〈乎〉以〈天〉朝庭〈乃〉御奴〈止〉奉仕〈之米无止〉宣〈尓〉依〈天〉汝等〈我〉罪〈方〉免給。但官〈方〉解給〈不〉。散位〈止之天〉奉仕〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈倍止〉宣。又勅〈久〉從今往前〈尓〉小過〈毛〉在人〈仁〉所率〈流止之〉所聞〈波〉必法〈乃末尓末仁〉罪〈奈比〉給岐良〈比〉給〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈倍止〉宣。」居十餘日。以道麻呂爲飛騨員外介。以其怨家從四位下上道朝臣斐太都爲守。斐太都到任。即幽道麻呂夫婦於一院。不通往來。積月餘日。並死院中。從四位上大津連大浦爲日向守。奪其位封。從五位下石川朝臣永年爲隱岐員外介。到任數年自縊而死。壬午。以正四位下石川朝臣豊成爲大宰帥。甲申。讃岐國人外大初位下日置毘登乙虫獻錢百万。授外從五位下。
八月一日に和氣王(舎人親王の孫)が謀反の罪に問われて誅せられ、次のように詔されている・・・今、「和氣」に勅して言うに、先に「奈良麻呂」(橘宿祢奈良麻呂)等の謀反の事が起こっていた時には、「仲麻呂」(藤原惠美朝臣押勝)は忠臣として仕えていた。しかしその後に叛逆の心を起こして朝廷を揺るがし傾けようとして、武器を整えていた時に「和氣」は、そのことを上申してきた。このことによって官位を昇進させるように取り計らった。このように初めはよくしていたけれども、「仲麻呂」も「和氣」も、後にはやはり反逆の心を抱いていたのである。---≪続≫---
また、「和氣」が己の祖先の霊に祈願したところの文書を見ると、言っていることには[自分の心に思い求めていることを成し遂げたならば、尊い御霊の子孫で遠方に流されている方達を、都へ召し上がらせて臣と成すであろう]とある。また、[自分の仇敵に男女二人(道鏡と称徳天皇)がある。この二人を殺して下さい]と言っている。この文書を見れば、謀反の心があることは明らかに現れている。故に、法の通りに処分するのである、と申し渡す・・・。
「和氣」は一品の舎人親王の孫で、正三位の御原王の子にあたる(こちら参照)。天平勝寶七歳(755年)、姓を岡眞人と賜り、因幡國の掾に任じられた。天平寶字三(759)年舎人親王に崇道尽敬皇帝の尊号が贈られた際に皇族の籍に復し、従四位下を授けられた。天平寶字八(764)年、官位は参議・従三位・兵部卿に至ったが、時に天皇の血筋には後継ぎがなく、未だ皇太子も決まっていなかった。そこに紀朝臣益女(益人に併記)は巫女としてよく知られ、「和氣」の寵愛を得ていたが、「和氣」は心中密かに皇位に就くことを望み、多くの物を贈って、呪いを頼んでいた。
参議の近衛員外中将兼勅旨省員外大輔・式部大輔・因幡守の粟田朝臣道麻呂、兵部大輔兼美作守の大津宿祢大浦(陰陽師として有名)、式部員外少輔の石川朝臣永年(名足に併記)等は「和氣」と親しい仲で、しばしば「和氣王」宅で飲食を共にした。或る時、その帰路で「道麻呂」の腰に帯びている刀が門の塀に当たって折れてしまった。そこで「和氣」は豪華な錺り太刀を贈った。このことが人々の疑心を招き、陰謀がかなり世間に漏れてしまった。
「和氣」はそれを知り、その夜の内に逃れて隠れたが、彼が「率河社」に隠れているところを捜索し捕まえ、伊豆國に流した。その途中、山背國相樂郡に到った時、「和氣」を絞首し、遺体は「狛野」に埋めた。また、紀朝臣益女を「綴喜郡松井村」で絞首した。
この日、また次のように詔されている(以下宣命体。粟田道麻呂、大津大浦、石川長年等に仰せになる)・・・朕の師である大臣禅師(道鏡)が言われるには、[愚かで頑なな輩は思慮分別もなくて、他人が不当であり無礼であると見咎めていることも知らずに、悪友に引き摺られるものである]。それ故にこの者達も、このように叛逆の悪い心を起こしていたことは、全て明らかに知っている。これによって道理としては法に照らして、その通りに処分すべきである。---≪続≫---
しかし、この度はやはり道鏡が彼等の身柄を賜って、彼等の惑っている心を教え導き、貞しい清い心で朝廷の臣下として仕えさせよう]と言われるので、お前たちの罪は許すことにする。但し、官職は解任する。散位として仕えるように、と仰せになるお言葉を承れと申し渡す。また、今後は例え僅かな過ちでもある人に誘われていると聞いたならば、必ず法の通りに処罰し、追放するであろう、と仰せになるお言葉を承れと申し渡す・・・。
十日余りして「道麻呂」を飛騨員外介に、彼に予てより恨みを抱いていた上道朝臣斐太都を飛騨守に任じている。「斐太都」は任地に到るや否や、「道麻呂」夫婦を垣根を巡らせた一郭に幽閉し、外部との交通をさせなかった。月を重ねて夫婦共にその中で死亡した。「大浦」を日向守に任じ、その位封は剥奪している。「永年」を隠岐員外介に任じたが、着任後数年にして、首をくくって自殺している。
二十三日に石川朝臣豊成を大宰帥に任命している。二十五日に讃岐國の人である「日置毘登乙虫」が銭を百万文献上したので外従五位下を授けている。
率河社
上記本文によると、「和氣王」の処罰は「伊豆國」への配流と決まったと記されている。ところが、それは表向きの裁断であって、端から絞首するつもりだったのであろう。さすが道鏡の極悪人振りをあからさまにした記述と思われる。
消沈の「和氣王」もそれを信じて従ったのであろう。これが重要なヒントを提供している。「相樂郡」を経るならば、「率河社」の場所は、大和國添下・上郡辺りと推測される。尚且つ、小さな社ではなく、それなりに名の通った社だったと思われる。
書紀の持統天皇紀に菟名足社が登場していた。「奉新羅調於五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足」と記載され、末尾ではあるが、大社に並べられている。早速に「率河社」の率河が示す地形を読み解いてみよう。「率」は、人名・地名に用いられた例はなく、初見と思われる(渡来系を除く)。
「率」=「玄+八+八+十」と分解される。文字要素は、見慣れた地形象形表記に活用できるものであることが解る。纏めると率=二つの谷間を束ねる山稜がしなやかに曲がって延びているところと読み解ける。「菟名足社」の背後の地形を、この一文字で表現しているのである。頻出の河=氵+可=水辺で谷間が出口が広がっている様であり、その前面の地形を述べていることが解る。
狛野
道鏡に謀られた「和氣王」の終焉の地名、狛野と記載されている。山背國相樂郡でその地を探すと、図に示した場所と推定される。頻出の狛=犬+白=平らな頂の山稜がくっ付いて並んでいる様であり、その近傍が野原となっていることを表している。
相樂郡の北辺であり、恭仁宮から紫香樂宮へ向かう道を東北道と呼称されていた、その入口に当たる場所である。恭仁宮が完成することはなかったが、大和國と難波津を結ぶ重要な地には変わりはなかったのであろう。
それにしても、通説における伊豆國への行程は如何なものなのであろう。紀伊半島を横断して、陸路で延々と?…将又伊勢に抜けて船路?…難波津から船路は上記の行程に合わず?…黙して語らぬ古代史であろう。神懸かりな解釈は、もう既に通用しない時代である。
山背國綴喜郡松井村
「和氣王」の寵愛を受けた紀朝臣益女も共に捕らえられて同行していたのであろう。「相樂郡」から少し先に向かった場所で殺害したと記載されている。一緒に葬らなかったのには、様々な憶測ができるが、命を奪うとは、実に残忍な場面のようでる。
「難波津」に向かうかなら、「東北道」から紫香樂宮に通う峠越えの道を用いて、難波に出た筈であろう。綴喜郡は山背(代)の地、現在の御所ヶ岳山塊の南麓である。これも端から殺害する計画だったことが伺える。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。
松井=[松]の葉ように細長く延びた山稜の麓に四角く囲まれた地があるところと解釈すると、図に示した辺りが「益女」殺害の現場だったと推測される。
些か陰惨な事件だったと思われるが、舎人親王一家を根絶やしにすることが目的だったようでもある。大炊王(淳仁天皇)の甥に当たり、おそらく若手皇族の中では才気煥発の人物だったと思われる。道鏡にしてみれば、ここで手を打たなければ後顧に憂いを残す、と策略したのであろう。
上記本文に記載されているように、粟田朝臣道麻呂の場合も悲惨である。彼に対して恨みを持つ人物が左遷先で上司となる。何だか現在に繋がる陰湿さが漂って来る気分である。今暫くは、じめじめとした読み物となろう。
● 日置毘登乙虫
爵位は銭で買えた・・・それはともかくとして、地方で開拓に成功した事例として挙げられたのであろう。讚岐國からの登場人物は、実に限られている。
文武天皇紀に白村江の戦闘で捕虜になったが生き永らえて戻って来た讚岐國那賀郡の錦部刀良等の記述があった。郡名は明らかにされず、名前が示す場所を求めてみよう。
既出の日置=[火]のような地形の傍らで真っ直ぐな谷間が塞がれているところと解釈した。直近では聖武天皇紀に登場した日置女王に用いられていた。正にその地形を図に示した場所、谷間が入組んで奥まった地に見出せる。現地名は北九州市若松区迫田町である。
乙虫(蟲)=山稜の端が三つに岐れた前が[乙]の形になっているところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。山間であり、決して広々とした地形ではないが、開拓を進めて財を成したのであろう。後(光仁天皇紀)に外従五位下の日置首若虫が漆部正に任じられている。「首」文字の使用が解禁されたついでに「乙」を「若」に変えたのではなかろうか。