2023年1月20日金曜日

廢帝:淳仁天皇(18) 〔622〕

廢帝:淳仁天皇(18)


天平字八年(西暦764年)九月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

九月丙申。以太師正一位藤原惠美朝臣押勝。爲都督使。四畿内。三關。近江。丹波。播磨等國習兵事使。戊戌。御史大夫從二位文室眞人淨三致仕。詔報曰。今聞。汝卿一昨拜朝歸家。乃知。年滿懸車。依礼致仕。竊思此事。憂喜交懷。一喜功遂身退能守善道。一憂氣衰力弱返就田家。古人云。知止不殆。知足不辱。卿之謂也。丹懇難違。依其所請。仍賜几杖并新錢十萬文。將以弘益勝流廣勵浮俗。因書遣意指不多云。乙巳。太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄。高野天皇遣少納言山村王。收中宮院鈴印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。將曹牡鹿嶋足等。射而殺之。押勝又遣中衛將監矢田部老。被甲騎馬。且刧詔使。授刀紀船守亦射殺之。勅曰。太師正一位藤原惠美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。并除藤原姓字已畢。其職分功封等雜物。宜悉收之。即遣使固守三關。」授從三位藤原朝臣永手正三位。正四位下吉備朝臣眞備從三位。正五位下藤原朝臣繩麻呂從四位下。正七位上大津連大浦從四位上。從七位上牡鹿連嶋足。正六位上坂上忌寸苅田麻呂。外從五位下粟田朝臣道麻呂。從六位下中臣伊勢連老人。從八位上弓削宿祢淨人。外從五位下高丘連比良麻呂。正五位上日下部宿祢子麻呂並從四位下。從七位下紀朝臣船守從五位下。正七位上民忌寸総麻呂外從五位下。」弓削宿祢淨人賜姓弓削御淨朝臣。中臣伊勢連老人中臣伊勢朝臣。大津連大浦大津宿祢。牡鹿連嶋足牡鹿宿祢。坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸。是夜。押勝走近江。官軍追討。丙午。高野天皇勅。今聞。逆臣惠美仲麻呂。盜取官印逃去者。忝爲人臣。飽承厚寵。寵極禍滿。自溺深刑。仍復刧略愚民。欲爲僥倖。若有勇士。自能謀計。急爲剪除者。即當重賞。又北陸道諸國不須承用太政官印。」又勅。前大納言文室眞人淨三。先縁致仕。職分等雜物減半者。宜改先勅。依舊全賜之。」從三位諱。藤原朝臣眞楯並授正三位。從四位上中臣朝臣清麻呂正四位下。從五位上藤原朝臣宿奈麻呂。從五位下藤原朝臣楓麻呂。正五位下田中朝臣多太麻呂並從四位下。從五位下淡海眞人三船正五位上。從五位下豊野眞人尾張正五位下。正六位上佐伯宿祢三野從五位上。正六位上佐伯宿祢國益。佐伯宿祢伊多治。田口朝臣牛養。大野朝臣眞本。正六位下平群朝臣虫麻呂。從六位下下毛野朝臣足麻呂並從五位下。正六位上刑部息麻呂外從五位下。丁未。授无位眞立王從五位下。從四位上石川朝臣豊成正四位下。從五位下安倍朝臣息道正五位上。從五位下津連秋主。正六位上石川朝臣垣守並從五位上。正六位上船連腰佩。社吉志酒人並外從五位下。」遣正親正從五位下荻田王。少主鈴中臣朝臣竹成。神部鴨田連嶋人。奉幣帛於伊勢太神宮。戊申。以大宰員外帥正二位藤原朝臣豊成。復爲右大臣。賜帶刀卌人。辛亥。以從五位下藤原朝臣繼繩爲越前守。授正六位上佐伯宿祢助從五位下。壬子。軍士石村村主石楯斬押勝傳首京師。押勝者。近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫。平城朝贈太政大臣武智麻呂之第二子也。率性聡敏。略渉書記。從大納言阿倍少麻呂。學算尤精其術。自内舍人遷大學少允。天平六年。授從五位下。歴任通顯。勝寳元年。至正三位大納言兼紫微令中衛大將。軍樞機之政獨出掌握。由是豪宗右族皆妬其勢。寳字元年。橘奈良麻呂等謀欲除之。事渉廢立。反爲所滅。其年任紫微内相。二年拜大保。優勅加姓中惠美二字。名曰押勝。賜功封三千戸。田一百町。特聽鑄錢。擧稻。及用惠美家印。四年轉太師。其男正四位上眞光。從四位下訓儒麻呂。朝獵並爲參議。從五位上小湯麻呂。從五位下薩雄。辛加知。執棹皆任衛府關國司。其餘顯要之官莫不姻戚。獨擅權威。猜防日甚。時道鏡常侍禁掖。甚被寵愛。押勝患之懷不自安。乃諷高野天皇。爲都督使。掌兵自衛。准據諸國試兵之法。管内兵士毎國廿人。五日爲番。集都督衛。簡閲武藝。奏聞畢後。私益其數。用太政官印而行下之。大外記高丘比良麻呂懼禍及己。密奏其事。及收中宮院鈴印。遂起兵反。其夜。相招黨與。遁自宇治。奔據近江。山背守日下部子麻呂。衛門少尉佐伯伊多智等。直取田原道。先至近江。燒勢多橋。押勝見之失色。即便走高嶋郡。而宿前少領角家足之宅。是夜有星。落于押勝臥屋之上。其大如甕。伊多智等馳到越前國。斬守辛加知。押勝不知而僞立塩燒。爲今帝。眞光朝獵等皆爲三品。餘各有差。遣精兵數十而入愛發關。授刀物部廣成等拒而却之。押勝進退失據。即乘船向淺井郡塩津。忽有逆風。船欲漂沒。於是更取山道。直指愛發。伊多智等拒之。八九人中箭而亡。押勝即又還。到高嶋郡三尾埼。与佐伯三野。大野眞本等。相戰從午及申。官軍疲頓。于時。從五位下藤原朝臣藏下麻呂將兵忽至。眞光引衆而退。三野等乘之。殺傷稍多。押勝遥望衆敗。乘船而亡。諸將水陸兩道攻之。押勝阻勝野鬼江。盡鋭拒戰。官軍攻撃之。押勝衆潰。獨与妻子三四人乘船浮江。石楯獲而斬之。及其妻子從黨卅四人。皆斬之於江頭。獨第六子刷雄以少修禪行。免其死而流隱岐國。甲寅。美濃少掾正六位上村國連嶋主坐逆黨被誅。是日。討賊將軍從五位下藤原朝臣藏下麻呂等凱旋獻捷。詔曰。逆〈仁〉穢〈岐〉奴仲末呂〈伊〉詐姦〈流〉心〈乎〉以〈天〉兵〈乎〉發朝庭〈乎〉傾動〈武止之天〉鈴印〈乎〉奪復皇位〈乎〉掠〈天〉先〈仁〉捨岐良〈比〉賜〈天之〉道祖〈我〉兄鹽燒〈乎〉皇位〈仁方〉定〈止〉云〈天〉官印〈乎〉押〈天〉天下〈乃〉諸國〈仁〉書〈乎〉散〈天〉告知〈之米〉。復云〈久〉今〈乃〉勅〈乎〉承用〈与〉。先〈仁〉詐〈天〉勅〈止〉稱〈天〉在事〈乎〉承用〈流己止〉不得〈止〉云〈天〉。諸人〈乃〉心〈乎〉惑乱。三關〈仁〉使〈乎〉遣〈天〉竊〈仁〉關〈乎〉閇一二〈乃〉國〈仁〉軍丁〈乎〉乞兵發〈之武〉。此〈乎〉見〈流仁〉仲末呂〈可〉心〈乃〉逆〈仁〉惡状〈方〉知〈奴〉。然先〈仁〉之〈我〉奏〈之〉事〈方〉毎事〈仁〉姦〈美〉謟〈天〉在〈家利〉。此〈乎〉念〈方〉唯己獨〈乃未〉朝庭〈乃〉勢力〈乎〉得〈天〉賞罸事〈乎〉一〈仁〉己〈可〉欲〈未仁未仁〉行〈止〉念〈天〉兄豊成朝臣〈乎〉詐〈天〉讒〈治〉奏賜〈流尓〉依〈天〉位〈乎〉退〈多末比天〉是〈乃〉年〈乃〉年己呂在〈都〉。然今〈方〉明〈仁〉仲末呂〈可〉詐〈仁〉在〈家利止〉知〈天〉本〈乃〉大臣〈乃〉位〈仁〉仕奉〈之武流〉事〈乎〉諸聞食〈止〉宣。」復勅〈久〉。惡〈久〉姦〈岐〉奴〈乃〉政〈乃〉柄〈乎〉執〈天〉奏〈多末不〉事〈乎〉以〈天〉諸氏氏人等〈乎毛〉進都可方〈須己止〉理〈乃〉如〈毛〉不在〈阿利都〉。是以〈天〉今〈与利〉後〈方〉仕奉〈良武〉相〈乃末仁末仁〉進用賜〈武〉。然之〈我〉奏〈之久〉此禪師〈乃〉晝夜朝庭〈乎〉護仕奉〈乎〉見〈流仁〉先祖〈之〉大臣〈止之天〉仕奉〈之〉位名〈乎〉繼〈止〉念〈天〉在人〈奈利止〉云〈天〉退賜〈止〉奏〈之可止毛〉此禪師〈乃〉行〈乎〉見〈尓〉至〈天〉淨〈久〉佛〈乃〉御法〈乎〉繼隆〈武止〉念行〈末之〉朕〈乎毛〉導護〈末須〉己師〈乎夜〉多夜須〈久〉退〈末都良武止〉念〈天〉在〈都〉。然朕〈方〉髮〈乎〉曾利〈天〉佛〈乃〉御袈裟〈乎〉服〈天〉在〈止毛〉國家〈乃〉政〈乎〉不行〈阿流己止〉不得。佛〈毛〉經〈仁〉勅〈久〉國王〈伊〉王位〈仁〉坐時〈方〉菩薩〈乃〉淨戒〈乎〉受〈与止〉勅〈天〉在。此〈仁〉依〈天〉念〈倍方〉出家〈天毛〉政〈乎〉行〈仁〉豈障〈倍岐〉物〈仁方〉不在。故是以〈天〉帝〈乃〉出家〈之天〉伊未〈須〉世〈仁方〉出家〈之天〉在大臣〈毛〉在〈倍之止〉念〈天〉樂〈末須〉位〈仁方〉阿良祢〈止毛〉此道鏡禪師〈乎〉大臣禪師〈止〉位〈方〉授〈末都流〉事〈乎〉諸聞食〈止〉宣。」復勅〈久〉天下〈乃〉人誰〈曾〉君〈乃〉臣〈仁〉不在〈安良武〉。心淨〈久之天〉仕奉〈良武〉此〈之〉實〈能〉朕臣〈仁方〉在〈武〉。夫人〈止之天〉己〈我〉先祖〈乃〉名〈乎〉興繼比呂〈米武止〉不念〈阿流方〉不在。是以〈天〉明〈久〉淨〈岐〉心以〈天〉仕奉〈乎方〉氏氏門〈方〉絶〈多末方須〉治賜〈止〉勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉勅。又宣〈久〉。仕奉状〈尓〉隨〈天〉冠位阿氣賜治賜〈久止〉宣。」又勅。以道鏡禪師。爲大臣禪師。所司宜知此状。職分封戸准大臣施行。」授正二位藤原朝臣豊成從一位。從四位上和氣王。正五位下山村王並從三位。從五位上藤原朝臣濱足。津連秋主並正五位下。正四位下池上女王。正五位上藤原朝臣百能並從三位。无位藤原朝臣玄信從五位下。乙夘。授從五位下藤原朝臣藏下麻呂從三位。丙辰。勅。逆人仲麻呂執政。奏改官名。宜復舊焉。丁巳。從五位上稻蜂間連仲村女。從八位下醜麻呂等二人賜姓宿祢。内舍人正七位下縣犬養宿祢内麻呂等十五人縣犬養大宿祢。」正六位上阿倍朝臣淨目。美和眞人土生並授從五位下。從五位下吉備朝臣由利。從五位上稻蜂間宿祢仲村女並授正五位上。」以從五位下阿倍朝臣淨目爲越前介。己未。以正四位上文室眞人大市爲民部卿。從四位下藤原朝臣魚名爲宮内卿。從四位上大津宿祢大浦爲左兵衛佐。從五位下平群朝臣虫麻呂爲能登守。外從五位下船連腰佩爲越後介。庚申。授正六位上上毛野公石瀧外從五位下。壬戌。勅曰。今月廿八日覽大臣禪師讓位表。具知來意。唯守沖虚。確陳退讓。然欲隆佛教。無高位則不得服衆。勸獎緇徒。非顯榮。則難令速進。今施此位者。豈煩禪師以俗務哉。宜昭斯意。即斷來表。所司一依前勅施行。癸亥。勅。逆賊惠美仲麻呂。爲性凶悖。威福日久。然猶含容冀其自悛。而寵極勢凌。遂窺非望。乃以今月十一日。起兵作逆。掠奪鈴印。竊立氷上鹽燒爲今皇。造僞乾政官符。發兵三關諸國。奔據近江國。亡入越前關。官軍賁赫。分道追討。同月十八日。既斬仲麻呂并子孫。同惡相從氷上鹽燒。惠美巨勢麻呂。仲石伴。石川氏人。大伴古薩。阿倍小路等。剪除逆賊。天人同慶。宜布告遐邇。咸令聞知。」又勅曰。逆臣仲麻呂奏右大臣藤原朝臣豊成不忠。故即左降。今既知讒詐。復其官位。宜先日所下勅書官符等類悉皆燒却。是日。充八幡大神戸廿五烟。」以陸奥守從四位下田中朝臣多太麻呂爲兼鎭守將軍。

九月二日に大師(太政大臣)の藤原恵美朝臣押勝を、都督四畿内・三關(鈴鹿關/不破關/愛發關)・近江・丹波・播磨等の國の兵事使(押勝が申し出て創設された)に任じている。

四日に御史大夫の文室眞人淨三(智努王)が官職を退いている。ねぎらいの詔は次のようであった・・・汝、文室卿よ。一昨日朝廷を拝して家に帰ったことを、朕は今聞いた。それで卿の年が七十歳に満ちて、礼に従って自ら官職を退いたことを知った。ひそかにこの事を思うと、憂いと喜びがこもごもよぎる。一つは卿が功成り退くことによって、正しい道を守ることができたことを喜び、今一つは、気力が衰え体力が弱ったということで、田舎にある自分の家に帰り、閉じこもってしまうことを憂えるのである。---≪続≫---

古人は[分に安んじてとどまることを知っていれば、あやういことはない。満足することを知っていれば辱められることはない]と言っているが、正に卿のことであろう。真心をこめた懇望に背くことはできないので、卿の願いの通りにしなさい。そこで、肘掛と杖と新銭十万文を賜与して、大きく名門の人の役に立て、広くうわついた世俗の人々を励まそうと思う。書面によって、朕の意向を伝える。朕の気持ちは十分に伝わらないが・・・。

十一日に大師の「押勝」が謀反を起こそうとしていることが、かなりの程度で漏れて来た。高野天皇は少納言の山村王を派遣して、中宮院(淳仁天皇の御所)の驛鈴と内印を回収させようとしたが、「押勝」は息子の藤原惠美朝臣訓儒麻呂(久須麻呂。眞從に併記)等に待ち伏せさせて、奪わせている。高野天皇は授刀少尉の坂上苅田麻呂(坂上忌寸苅田麻呂)と授刀将曹の牡鹿嶋足(牡鹿連嶋足)等を遣わして、「訓儒麻呂」等を射殺させている。すると「押勝」は、中衛将監の「矢田部老」を遣わし、甲を着け、馬に乗り、しばらくは詔使の山村王を脅したが、授刀舎人の「紀船守」に射殺されている。

高野天皇は次のように勅されている・・・大師の「押勝」とその子や孫が兵を起こして叛逆した。そこで官位を剥奪し、藤原という姓の字を除くことを既に終えた。またその職分(田・食封)、功封等から徴収された雜物は、全て没収せよ・・・。そして直ちに使を遣わして三關を厳重に守らせている。

この日、藤原朝臣永手に正三位、吉備朝臣眞備に従三位、藤原朝臣繩麻呂に従四位下、「大津連大浦」に従四位上、牡鹿連嶋足坂上忌寸苅田麻呂粟田朝臣道麻呂中臣伊勢連老人(伊勢直族大江に併記)・弓削宿祢淨人(弓削連。道鏡に併記)・高丘連比良麻呂(比枝麻呂)・日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)に従四位下、「紀朝臣船守」に従五位下、民忌寸総麻呂(眞楫に併記)に外従五位下を授けている。

また、弓削宿祢淨人に弓削御淨朝臣、中臣伊勢連老人に中臣伊勢朝臣、「大津連大浦」に大津宿祢、牡鹿連嶋足に牡鹿宿祢、坂上忌寸苅田麻呂に坂上大忌寸の姓を賜っている。この夜、「押勝」は近江に逃走し、官軍はこれを追討している。

十二日に高野天皇は次のように勅されている・・・今聞いたところによると、逆臣「恵美押勝」が太政官印を盗み取って逃走している。忝くも人臣として、この上もなく厚い恩寵を受けて、恩寵が極まって禍が満ち、自ら刑罰を乱用するはめになった。そしてまた、愚かな人民を脅かして支配し、偶然の幸福(勝利)を得ようとしている。もし勇士がいて、自分で計略をめぐらして、すぐさま「押勝」を討ち滅ぼし除くならば、直ぐに手厚い褒賞をとらせるであろう。また、北陸道の諸國は太政官印のある文書を受取り通用させてはならない・・・。

また次のように勅されている・・・前大納言の文室眞人淨三(智努王)は、先頃官職を退いたので、官職に関わって支給される雜物を半分に減じたが、先の勅を改めて、旧来通り全額を与えよ・・・。

この日、諱(白壁王)と藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)に正三位、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)に正四位下、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)田中朝臣多太麻呂に従四位下、淡海眞人三船(御船王)に正五位上、豊野眞人尾張(尾張王)に正五位下、佐伯宿祢三野(美濃。父親今毛人に併記)に従五位上、佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)・「佐伯宿祢伊多治」・田口朝臣牛養(御直に併記)・「大野朝臣眞本」・平群朝臣虫麻呂(人足に併記)・「下毛野朝臣足麻呂」に従五位下、刑部息麻呂(勝麻呂に併記)に外従五位下を授けている。

十三日に眞立王(厚見王に併記)に従五位下、石川朝臣豊成に正四位下、安倍朝臣息道に正五位上、津連秋主・「石川朝臣垣守」に従五位上、「船連腰佩・社吉志酒人」に外従五位下を授けている。また正親正の荻田王と少主鈴の中臣朝臣竹成(伊加麻呂に併記)と神部の「鴨田連嶋人」を派遣して幣帛を伊勢太神宮に奉らせている。

十四日に大宰員外帥の藤原朝臣豊成を、再び右大臣に任じ、帯刀資人四十人を賜っている。十七日に藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を越前守に任じ、「佐伯宿祢助」に従五位下を授けている。

十八日に軍士の「石村村主石楯」が「押勝」を斬殺し、その首が京に伝達された。「押勝」は近江朝(天智朝)の内大臣藤原朝臣鎌足の曽孫で、平城朝(聖武朝)の贈太政大臣「武智麻呂」の第二子であった。彼の性格はさとく、おおかたの書物を読んでいた。大納言の阿倍少麻呂について算術を学び、とりわけその術に精通していた。内舎人から大学少允に転任し、天平六年に従五位下を授けられて、次々と顕職を歴任した。天平勝寶元年、正三位大納言で紫微令と中衛大将を兼任し、大事な政治は彼一人の判断で行われた。このため他の勢力の大きな家や名門の家柄の者は、皆彼の勢力を妬んだ。

天平字元年、橘奈良麻呂等が謀議して、「押勝」を排除しようとした。しかし企みが天皇の廃立にまで及んだため、逆に滅ぼされてしまった。その年に紫微内相に任命され、二年、大保(左大臣)を拝命した。手厚い勅があり、姓の中に「惠美」の二文字を加え、名を「押勝」と呼び、功封三千戸と田一百町を賜った。また、特に銭貨の私的な鋳造や稻を出挙すること、及び惠美家の印を用いることが許された。四年、大師(太政大臣)に転任し、その息子の「眞先(光)・訓儒麻呂(久須麻呂)朝獵」はそれぞれ参議となり、「小湯麻呂・薩雄・辛加知執棹」は、みな衛府や關のある國の國司に任命された。

更に、その他の顕官・要職も姻戚でない者はいなかった。一人権威を独占するにつれ、人を疑って用心することが、日々激しくなった。その時、道鏡がいつも宮中に侍って、高野天皇から特別に寵愛されるようになった。「押勝」は、このことを心配して、心が自ずと安まらなかった。そこで高野天皇にそれとなく次のように告げた…[都督使となって兵士を掌握して自衛し、諸國の兵を試練する法に則って、管内の兵士を國ごとに二十人、五日を一交替として都督使の役所に集め、武芸を検閲することにする]。奏聞し終わって以後、自分勝手にその兵士數を増やし、太政官の印を使用して、このことを通達した。大外記の高丘比良麻呂は文書偽造の禍が自分に及ぶことを恐れて、密かにその事を奏上した。

中宮院(淳仁天皇の御所)の驛鈴と内印を高野天皇が回収するに及んで遂に「押勝」は兵をあげて反乱を起こした。その夜、仲間を呼び招き、「宇治」を経て「近江」へ逃走し、ここを拠り所としようとした。しかし山背守の日下部子麻呂と衛門少尉の「佐伯伊多智」等が、直ぐに「田原道」を通って、先に「近江」に入り、「勢多橋」を焼いた。「押勝」はこれを見て顔色を変えて驚き、直ぐに高嶋郡に走って、前の少領の「角家足」の宅に泊まった。この夜、「押勝」の寝ている建物の上に星が落ちた。その大きさは甕のようであった。

「伊多智」等は越前國に駆けつけて、越前守の辛加知を斬った。「押勝」はその事を知らずに、鹽燒王を偽って擁立し、今の帝とし、眞先朝獵等みな三品とした。他の者の位は各々差があった。そして選りすぐった兵数十人を派遣して愛發關に入ろうとした。しかし授刀舎人の「物部廣成」等が拒んで、「押勝」軍を退却させた。進退の拠り所をなくして、そのまま船に乗り、浅井郡の「塩津」に向かおうとしたが、突然逆風に遭い、船が漂流して沈みそうになった。このため上陸して更に山道を通り、直接愛發關を目指した。「伊多智」等はこれを拒み、「押勝」軍の八、九人が箭に当たって死んだ。

「押勝」は、そこからすぐにまた来た道を戻って、高嶋郡の「三尾埼」に到着し、「佐伯三野」や「大野眞本」等と戦った。戦いは午の刻(午前十一時から午後一時)から申の刻(午後三時から五時)に及んで、官軍は疲れが甚だしくなった。その時、藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)が兵を率いて突然到着した。眞光(先)は手勢を引き連れて退却し、「三野」等はこれに乗じて、「押勝」軍を多数殺傷した。「押勝」は、遠くから手勢の敗れるのを見て、船に乗って逃げた。官軍の諸将は水陸の両方からこれを攻め、「押勝」は「勝野鬼江」に拠って、精鋭の兵力を尽くして防ぎ戦った。官軍はこれを攻撃して、「押勝」の軍勢は敗れて散り散りとなり、妻子三、四人と共に、船に乗って「鬼江」に浮かんだ。そこを「石楯」が捉えて、斬った。またその妻子と従者三十四人も、全て「鬼江」の畔で斬った。ただ第六子の「刷雄」のみは、年少の頃より仏道修行をしていたという理由で、死罪を免除し、隠岐國に流した。

二十日に美濃少掾の「村國連嶋主」は、逆党に加わった罪で誅殺されている。この日、討賊将軍の藤原朝臣藏下麻呂等が平城宮に凱旋して、朝廷に戦利品を献上している。

高野天皇は次のように詔されている(以下宣命体)・・・道理に反したよこしまな奴である「仲麻呂」は、詐りねじけた心で兵を挙げ、朝廷を転覆させようとして、駅鈴と内印を奪い、また皇位を掠め取ろうとして、先に高野天皇によって退けられた道祖王の兄塩燒王を皇位に定めたと言って、太政官印を押して天下の諸國に文書をばらまいて知らせ、また「仲麻呂」が言うには[今から下す勅を承って用いるように。先に詐って勅と言っているものを、承って用いてはならない]と言って、諸人の心を惑わせて、三關に使者を遣わして、密かに關を閉め、一、二の國に兵士を差し出すことを乞い、兵士を徴発させた。---≪続≫---

これを見ると、「仲麻呂」の心が道理に反してよこしまであることがわかる。従って、以前に奏上したことは、一つ一つ偽りと諂いであったのだ。このことを思うと、ただ自分一人のみが朝廷の勢力を握って、賞罰のことをひたすら自分の欲望の赴くままに行おうと思い、兄の豊成を詐って讒言して奏上したので、豊成の位を免じて、この数年来そのままにして来たのである。けれども今、明らかに「仲麻呂」が詐っていたのだとわかって、元の大臣の位に仕えさせることを、みな承れと申し渡す。

また、仰せなるには・・・よこしまな心がねじけた奴が政治の根本を握って奏上したことによって、諸氏の氏人どもの位を進め使うことが必ずしも道理に叶っていなかった。そこで今から後は、仕える様子に従って、進め用いることにしよう・・・。---≪続≫---

さて、あれ(仲麻呂)が、「この禅師(道鏡)が昼夜朝廷を護り仕え申し上げる様を見ていると、先祖が大臣としてお仕え申し上げた地位と名を継ごうと思っている人物である。退けなさいますように]と奏上したけれども、この禅師の行いを見るに、いたって淨らかで、仏法を継いで広めようと思われ、朕をも導き護って下さる我が師を、どうして簡単に退け申そうか、と思わっていた。---≪続≫---

ところで朕は髪を剃って仏の御袈裟を着てはいるけれども、国家の政治を行わないでいることはできない。仏も経典にも[国王が王位につかれている時には、菩薩の守るべき淨らかな戒を受けなさい]と仰せられている。これによって思うと、出家をしても政治を行うのに何ら障害となるべきものはないのである。それ故、このようなわけで、天皇が出家しておいでになる時代には、出家をしている大臣もあってよかろうと思って、願っておられる位ではないけれども、この道鏡禅師に大臣禅師という位をお授けすることを、みな承れと申し渡す・・・。

また・・・天下の人は、誰が君主の臣下でないであろうか。心が淨くてお仕え申し上げる、これこそ本当の朕の臣下であろう。いったい人として自分の先祖の名を興し、継いで広めようと思わない者はない。それゆえ、明るく淨い心を以って、お仕え申し上げれば、氏氏の門流は絶やすことなく、取り計らってやろう・・・と仰せになる天皇の御言葉をみな承れと申し渡す。

また・・・天皇に仕える状態に従って、位階をあげ取り計らってつかわそうと仰せになる。また、高野天皇は次のように勅されている・・・道鏡禅師を大臣禅師に任じる。所司は十分にこの事情を承知するように。職分の封戸は大臣に准じて施行せよ・・・。

この日、藤原朝臣豊成に從一位、和氣王山村王に従三位、藤原朝臣濱足津連秋主(津史)に正五位下、池上女王藤原朝臣百能に従三位、「藤原朝臣玄信」に従五位下を授けている。

二十一日に藤原朝臣藏下麻呂に従三位を授けている。二十二日に高野天皇は[反逆人仲麻呂が政治をとっていた時、奏上して官名を改めたが、元の官名に戻すようにせよ]と勅されている。二十三日に稻蜂間連仲村女と醜麻呂等二人に宿祢姓、内舎人の縣犬養宿祢内麻呂(八重に併記)等十五人に縣犬養大宿祢姓を賜っている。また、阿倍朝臣淨目(小路に併記)・美和眞人土生(壬生王)に従五位下、吉備朝臣由利(眞備に併記)・稻蜂間宿祢仲村女に正五位上を授けている。また、阿倍朝臣淨目を越前介に任じている。

二十五日に文室眞人大市を民部卿、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を宮内卿、「大津宿祢大浦」を左兵衛佐、平群朝臣虫麻呂(人足に併記)を能登守、「船連腰佩」を越後介に任じている。二十六日に上毛野公石瀧(眞人に併記)に外従五位下を授けている。

二十八日に次のように勅されている・・・今月二十八日付の道鏡が大臣禅師の位を辞退する上表文を見て、くわしくその意向を知った。ひたすら雑念を去って心をむなしくする境地を守り、強く辞意を述べている。しかしながら仏教を盛んにしようと望むなら、高い位が無ければ、人々を従わせることはできない。また、僧侶をすすめ励まそうとすると、輝き栄える地位にいなければ、速やかに進めることは難しい。今、この位を授けることが、どうして俗務で禅師を煩わせることになろうか。この意向をはっきりさせて、直ちに上表を謝絶し、所司は専ら前の勅に従って施行するようにせよ・・・。

二十九日に次のように勅されている・・・逆賊の「恵美仲麻呂」は、生まれつき心が悪く人に逆らう性格で、権力で人を脅したり恩恵を施して人を手なずけることを長く続けていた。しかしながら、それにもかかわらず朕は我慢して許し、自ら悔い改めることを願っていた。しかるに寵愛が極まり権勢にとどめがなくなって、ついに分不相応な望みを密かに懐いて、今月十一日に兵を挙げ反逆し、驛鈴と内印を掠奪し、密かに氷上鹽燒を立て今の天皇とした。そして乾政官符を偽造して、三關のある諸國に兵を徴発し、自らは近江國に逃げて拠り所とし、更に越前の關に逃げ入ろうとした。官軍は憤慨し、攻撃の道を分けて追討した。

同月十八日には、既に「仲麻呂」並びにその子孫、同じく悪事に従った氷上鹽燒恵美巨勢麻呂(仲麻呂に併記)・仲石伴(石津王)・石川氏人(枚夫に併記)・大伴古薩(小薩)・阿倍小路等を斬った。逆賊を取り除いて、天も人も同じく喜んでいる。このことを遠くにも近くにも布告して、みなに聞かせ知らせよ・・・。

また、次のように勅されている・・・逆臣の「仲麻呂」は右大臣の藤原朝臣豊成の不忠を奏上したので、直ちに左遷した。しかし今、もはやそれが中傷であり詐りであることを知って、その官位を元に戻した。従って先の日に下したところの勅書・官符等の類は、全てみな焼却するようにせよ・・・。この日、八幡大神に封戸二十五戸を宛てている。陸奥守の田中朝臣多太麻呂に鎮守将軍を兼ねさせている。

<矢田部老>
● 矢田部老

「押勝」の命で、驛鈴と内印の争奪戦に武装して参加した人物と記載されている。この事変の初戦で、反逆側は簡単に戦死者を出すことになったようである。

武装して驚かせると、退散するような相手ではなかった。授刀舎人に射殺されている。この後に授刀衛は近衛府と名称変更されたとのことである。

「矢田部」は書紀で「矢田部造」として登場し、『八色之姓』で連姓を賜っている。古事記の大雀命(仁徳天皇)の后、八田若郎女の名代から派生し、その西隣が母親の矢河枝比賣の場所である。矢田部は「八」と「河枝」に跨る場所を表していると推測した。

具体的な人物名としては極めて希少な記述であろう。頻出の老=海老のように山稜が曲がっている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。矢で命を落とすことになったとは、皮肉なことであった。全般に感じることは、「押勝」の叛逆体制の準備不足のようであるが、高野天皇の行動が素早かったのかもしれない。

<紀朝臣船守>
● 紀朝臣船守

調べると久々に系譜が明確な人物であることが分かった。とは言え大口の曽孫に当たり、祖父(飽邑)・父親(猿取)は歴史の表舞台には登場していなかったようである。

先ずは祖父から、その出自の場所を求めてみよう。飽邑飽=食+包=なだらかな山稜が包むように取り囲んでいる様邑=囗+巴=寄り集まって小高くなっている様と解釈される。その地形をを図に示した場所に見出せる。

猿取猿=犬+袁=山稜の端が平らにゆったりと延びている様取=耳+又=山稜の端が耳のような形をしている様と解釈すると、「飽邑」の西側の山稜の形を表していることが解る。「弓張」の北側に接する場所である。既出の「大口」の子等が占めていた中で空白の場所である。

さて、ご当人の船守=船のような地の傍で両肘を張り出したようなところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。「大人・麻呂」に東隣の地と推定される。祖父・父親に目立った活躍がなかったのだが、乾坤一擲の謀反人の射殺だったのであろう。従弟・はとこが重用されるのを横目で眺めていたのかもしれない。早々に従五位下を叙爵されたと記載されている。

<大津連大浦>
● 大津連大浦

正七位上から十階飛びで従四位上に叙爵されたと記載されている。何故?…寶龜六(775)年五月に亡くなり、生前の事が述べられている・・・「從四位上陰陽頭兼安藝守大津連大浦卒。大浦者世習陰陽。仲満甚信之。問以事之吉凶。大浦知其指意渉於逆謀。恐禍及己。密告其事。居未幾。仲満果反」・・・。

「仲麻呂」と陰陽を通じて親しい間柄だったのであろう。「仲麻呂」にしてみれば、仲間に裏切られた様子であり、故に「高野天皇」にすれば、信頼できる情報を入手できたことになる。恐ろしき密告の世界である。

「大津連」は、和銅七(714)年三月に「沙門義法還俗。姓大津連。名意毘登。授從五位下。爲用占術也」と記載されていて、大津連意毘登の出自の場所を「近江大津宮」の東側(現地名行橋市天生田)に求めた。”大津”は”近江大津”である。因みに難波大津の表記は存在せず、難波津もしくは難波三(御)津である。

大浦=平らに水辺で広がったところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。現地名は京都郡みやこ町彦徳となっている。後に宿祢姓まで賜わるのであるが、度重なる政変に巻き込まれて紆余曲折を経たようである。

<佐伯宿祢伊多治-助-久良麻呂>
<-藤麻呂-牛養>
● 佐伯宿祢伊多治・佐伯宿祢助

佐伯一族として武勲を立てた両者であり、從五位下に叙爵されるが、この後も大きく昇進することになったようである。上記本文に記載の通り、「伊多治」の働きは優れたものであったらしく勲二等(最終従四位上)を授与されている。

とは言え、系譜は不詳であり、名前が示す出自場所を求めてみよう。頻出の文字列である伊多治伊=人+|+又=谷間で区切られた山稜が延びている様多=山稜の端が三日月の形ようになっている様治=氵+台=水辺に耜のような山稜が延びている様と解釈した。図に示した場所が出自と推定される。

別名に伊多智・伊太智があったと知られている。「治」を智=矢+口+日=[鏃]と[炎]のような地がある様に置換えると、更に詳細な地形を表していることが解る。「多」を「太」とすると山稜の端が広がっている様を強調した表記となろう。自在に表記を変えられる地形である。如何に読み下しても「イタチ」なのだが、その素早い行動で敵の行く手を遮り、更に先手を打つという離れ業を成し遂げたようである。

助=且+力=押し上げられたように積み重なった様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。淳仁天皇の最後を看取る役目を仰せつかり、その後地方官などを歴任して最終従四位下まで昇進されている。

少し後に佐伯宿祢久良麻呂が従五位下を叙爵されている。久良=[く]の形になだらかに山稜に延びているところと解釈される。麻呂=萬侶とも表記されていたようである。その地形を図に示した場所に見出せる。「伊多治」の北側となる。その後昇進されて最終従四位上・左京大夫であったと伝えられている。

後(光仁天皇紀)に佐伯宿祢藤麻呂佐伯宿祢牛養が従五位下を叙爵されて登場する。藤=艸+朕+水=水溜まりが積み上げられたような様と解釈した。地図上で確認し辛いが、蛇行する川が作る水溜まりが連なって、積み上げられたような地形と推察され、図に示した場所が、この人物の出自と思われる。

また、頻出の牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所がこの人物の出自場所と思われる。

<大野朝臣眞本-石本>
● 大野朝臣眞本

大野朝臣一族の系譜が伝わっているようで、「東人」の孫、「横刀」の子と知られている(こちら参照)。一族の蔓延った場所は、現地名の築上郡吉富町と推定した。

「眞本」も上記のように武勲を立てた一人として叙位されたようである。父親「横刀」の近隣が出自として探索することになろう。

眞本の「眞」=「鼎+匕」=「寄り集まって窪んだ様」、「本」=「木+一」=「山稜が途切れている様」と解釈した。纏めると眞本=山稜が途切れた地が寄り集まって窪んでいるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

未だ登場されていないが、弟に大野朝臣石本がいたことが知られている。図に示したように山稜の端で小高くなっている場所を示していると思われる。陸奥國での活躍が伝えられているようである。

<下毛野朝臣足麻呂>
● 下毛野朝臣足麻呂

「下毛野朝臣」一族については、古麻呂等の系列とは異なる石代の系列があったように記述されている。「古麻呂」が言上して「石代」等を「下毛野川内朝臣」を名乗るようになったことから、どうやらこの二つの系列間での確執があったことが伺た。

この二系列の間に「大野朝臣」の一族がいたわけだから、各々同族でありながら分派していたのであろう。元は古事記の「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」と記載された一族に違いないと思われる(こちら参照)。

背景としては以上のようであるが、果たして足麻呂はどちらの「下毛野朝臣」なのか、名前が示す地形を探索してみよう。すると、図に示した場所に見出すことができる。足=山稜の端が足のように二股に岐れている様麻呂=萬呂と解釈される。

上記の「大野朝臣眞本」とは距離的に近い。逆賊を捕えれば多大の褒賞に与ることができると勢い込んで共に馳せ参じたのではなかろうか。埋もれかかった人材が飛び出てくる戦乱、である。

後(光仁天皇紀)に下毛野朝臣船足が従五位下を叙爵されて登場する。船足=[船]の形の地に[足]のような山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

<石川朝臣垣守-望足-名主>
● 石川朝臣垣守

全く途切れることを知らない「石川朝臣」一族である。枚夫を中心に据えた配置で多くの登場人物を纏めて示したが、少々混み合って来た様子なので、改めて図を作成することにした。

相変わらず系譜は定かではないようであり、名前を頼りに出自の場所を求めることになる。前記で登場した氏人のように、麓を上った場所辺りではなかろうか。

垣守垣=土+亘=盛り上がった地がぐるりと取り巻いている様と解釈した。頻出の守=宀+寸=谷間で山稜が両肘を張ったようになっている様であり、その地形を「宮麻呂」の北側に見出すことができる。

初見で授与されたのが従五位上と記載されていて、功労が認められたのであろう。この後も地方官も含めて活躍され、最終は正四位上・宮内卿だったと伝えられている。

後(称徳天皇紀)の河内國行幸時に介であった石川朝臣望足が従五位下を叙爵されている。系譜不詳のようであり、上記同じく名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。「望」を地名・人名に用いられたのは初出かもしれない。「望」=「亡+月+王」と分解すると、地形象形的には「望」=「山稜を端の三角の地を見えなくしている様」と解釈される。

纏めると望足=足のような山稜が山稜を端の三角の地を見えなくしているところと読み解ける。「石川朝臣」の地を隈なく探すと、「垣守」の北側の地形を表していることが解る。谷間が複雑に入り組んだ場所であり、特異な地形であることを示している。後に幾度か登場されるようである。

更に後(光仁天皇紀)に石川朝臣名主が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳のようである。名主=山稜の端の三角の地が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、「望足」の北側、見えなくなっている山稜の端の麓が出自と思われる。

<船連腰佩>
● 船連腰佩

「船連」一族なのだが、外従五位下を叙爵されている。名前も倭風ではなく、些か見慣れぬ文字列で表記されている。おそらくこの二文字を名前に用いたのは初見であろう。

地形象形表記として解釈を試みると、「腰」=「月+要」と分解される。身体の要の部位を表す文字と知られているが、腰=山稜が縊れて細くなった様と解釈する。

また、「佩」=「人+凡+帀」と分解される。「凡」=「帆」の原字であり、「帀」=「丸く小高くなっている様」を表すと解釈する。「師(木)」に含まれている文字要素でもある。纏めると佩=谷間で丸く小高い地が連なって帆のようになっている様と読み解ける。

図に示したように腰佩の出自場所は、長く延びる山稜が縊れたところと推定される。古事記で(蝮之)水齒別命(反正天皇)を「御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠」と表記しているが(こちら参照)、その「齒」の部分を「腰佩」で表現している。こんなところで蝮に再会できるとは、望外の出来事であった。

<社吉志酒人>
● 社吉志酒人

全く関連情報が欠如している人物のようである。手掛かりは「吉志」であろう。”姓”として用いられて、一時は多くの渡来系の人物が登場していた(吉士、吉師など)。

ただ逆に広範囲に出自の場所を示すことから特定が難しく感じられる。そこで冠されている「社(社)」に注目すると、社=示+土=盛り上げられて高台になっている様と解釈される。

これでかなり目先が明るくなったようである。書紀の皇極天皇紀に國勝吉士水鶏が登場している。この「勝」は現在の行橋市にある矢留山を示していると推定した。そして今回はそれを「社」で表記したのであろう。酒人酒=氵+酉=水辺に酒樽のような山稜がある様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

今回で外従五位下を叙爵されたのだが、この後に登場される機会はなかったようである。ひょっとすると近隣の住人であり、信望していた大津連大浦の従者として、功を成したのかもしれない。

<鴨田連嶋人>
● 鴨田連嶋人

またしても関連情報のない人物の登場である。名前に「鴨」があり、「鴨(賀茂)朝臣」の周辺かと思われるが、この一族が”神祇”に関わった記述は見当たらない。

「嶋人」は、神部に所属していることから、どうやら「山背國」の「賀茂神」に関わっていたのではなかろうか(こちら参照)。

現地名は京都郡みやこ町犀川大村であり、聖武天皇の行宮である甕原離宮が「賀茂」の谷間の出口辺りにあったと推定した場所である。孝謙天皇紀に瑞兆を届けた賀茂君繼手も近隣が出自であったと思われるが、いかさま登場人物の少ない土地柄だったようである。

鴨田連嶋人鴨田は、賀茂の谷間が平らに広がっている様を示している。嶋人=鳥の形をしている山稜の麓で谷間が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。渡来系の秦氏が祭祀する賀茂神も次第に認知されつつあったのではなかろうか。

<石村村主石楯-押繩>
● 石村村主石楯

「石村村主」は初見であるが、續紀の天平神護元(765)年四月に「丁亥。左京人外衛將監從五位下石村村主石楯等三人。參河國碧海郡人從八位上石村村主押繩等九人。賜姓坂上忌寸」と記載されている。

「仲麻呂」の首を斬って止めを刺したわけだから、それなりの褒賞を授かったと思われるが、上記本文には軍士と冠されるいるだけで、爵位もない付記されていない有様である。

従五位下を叙爵され、また一族と思しき連中と共に「坂上忌寸」の氏姓を賜ったと述べらている。本人は左京に住まっていたようだが、本貫の地が「參河國碧海郡」であったことが伺える。この郡名は、勿論、記紀・續紀を通じて初見である。

<三川之衣・穂>
參河國碧海郡

「參河國」は、古事記の三川之衣・穗と登場し、現地名は北九州市小倉南区湯川及びその周辺の地域と推定した(左図を再掲)。

「參河」ではなく「三川」と表記するのは、川が直角に曲がりくねっている様子を表していると解読した。現在の小原川にその名残を見ることができる。

また、「穗」に当たる場所は豐玉毘賣命・玉依毘賣命の出自の場所と推定し、邇邇藝命の天孫降臨以降の早期に登場する地でもある。

碧海郡の「碧」=「玉+石+白」と分解される。地形象形的に解釈すると碧=[玉]のような地と[石]とがくっ付いて並んでいる様となる。即ち、「衣」と「穗」がくっ付いて並んでいる地形を表していることが解り、その周囲は「海」であったことを示している。尚、現在の標高10mを当時の海岸線と推測した(図中水色破線)。

石村村主石楯石村=磯辺に腕のような山稜が延びているところと解釈する。上記の「海」に繋がった名称であろう。既出の石楯=山麓にある山稜の端が谷間を塞ぐように延びているところと読み解いた。出自の場所は図に示した辺りと推定される。

ついでに、石村村主押繩押繩=山稜が押し広げられた繩のように延びているところと読むと、北側の山稜を表していると思われる。「石楯」は、郷里の仲間を募って参戦したのであろう。その住環境が巧にした操船技術を持つ彼等にかかっては「仲麻呂」は為す術がなかったように推測される。

他の史料によると、より古い時代では碧海郡は、「靑見・靑海」のように記載されているとのことである。碧(あおみどり色)に通じるが、靑=生+井=四角く区切られた地が生え出ている様と解釈される。この海は四角かったのである(こちら参照)。

<物部廣成(入間宿祢)・入間郡>
尚、「左京人」と記載されているが、元明天皇紀に「石村池邊宮御宇聖朝」(用明天皇)と記されている。勿論、石村=磯村であり、ひょっとしたらこの辺りに住まっていたのかもしれない(こちら参照)。

● 物部廣成

後の神護景雲二(768)年七月に「壬午。武藏國入間郡人正六位上勳五等物部直廣成等六人賜姓入間宿祢」と記載されている。本変で勲五等を授かって、「直」から「入間宿祢」に改姓されている。

調べると古事記の无邪志國造の子孫であることが分かった。直近では元正天皇紀に武藏國が献上した赤烏の場所である。物部は、邇藝速日命の子孫(こちら参照)だけではなく、それが表す地形の場所を出自とする一族だったのである。

「物部直」は兄(麻呂)=谷間の奥が広がっている(麻呂)から始まる氏族とのことであり、併せて図に記載した。廣成=平らに整えられた地が広がっているところと解釈すると、出自の場所が求められると思われる。この後も軍事に優れた人材として蝦夷征討を任じられたりして、最終従五位下に昇進したと伝えられている。

<村國連嶋主>
尚、賜った入間宿祢の「間」=「閒」=「門+月」と分解して、入間=門のようになっている地に山稜の端の三角(州)が入り込もうとしているところと解釈される。類似の用法は有間などがあった。

● 村國連嶋主

「村國連」も「男(小)依」から始まって、途切れることなく登用されている。直近では子老(子虫に併記)が外従五位下で能登守に任じらている。

今回の登場は、残念ながら誅殺されてしまうのであるが、「男依」の孫と言われているようである。嶋主=鳥の形の山稜の麓に真っ直ぐに延びる地があるところと読むと図に示した場所が出自と推定される。「孫」として申し分のない配置であろう。

祖父は『壬申の乱』において、倉歷道を通って「近江」に直入し、近江朝軍を悉く退け、瀬田橋で謀反人天武天皇側の勝利を確定した勇将であった。「押勝」に、その道の案内を依頼され助力したのであろうか・・・特記された誅殺には、そんな背景の匂いが感じられる。

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登場人物の出自が明らかになったところで、「押勝」及びその従者等の追い詰められて彷徨した様子を纏めて示してみよう。全体図は最後として、重要な出来事が語られた順に読み解くことにする。

<宇治・勢多橋・田原道>
宇治・勢多橋・田原道

戦いの火ぶたが切られて、「押勝」は手勢を宇治に集結させ、「近江」へ逃走しようと試みたようである。擁立した大炊王(淳仁天皇)が定めた保良宮(北宮、近江國愛知郡)を拠点としようと目論んだのであろう(近江國各郡)。

また、前記で「押勝」は淺井郡と高嶋郡にある鐵穴を賜っていた。軍備も行える地であった。更に愛發關を抜ければ、東國へ通じ、高野天皇に対抗するには、実に重要な拠点であったと思われる。

ところが宇治に居る「押勝」の眼前で、進むべき勢多橋が一早く田原道を通って来た山背守の「子麻呂」及び「伊多智」によって炎上崩落させられてしまったと記載されている。本文の記述は「燒勢多橋。押勝見之失色」とあり、「押勝」は”顔面蒼白”の状態に陥ったのである。

三つの名称が表す地形を解釈すると、宇治=谷間に延びる山稜が水辺で耜のような形をしているところ勢多橋=丸く小高くなった山稜の端にある三角州に架かっている橋田原道=田が広がっている地を通る道となる。そして宇治勢多橋は目視できる距離であり、これ等の要件を満たす場所を図に示した。

宇治は、近江國志賀郡にあった場所と推定される(より詳細には聖武天皇紀の禾津頓宮があった近隣)。勢多橋は、現在の吉野川に架かっていた橋であろう。この橋を通って東に向かい、海路で保良宮がある愛知郡、更に淺井郡へと向かう目算がご破算になってしまったから、”失色”したのである。

聖武天皇が行幸された宇治・山科の「宇治」ではなかろう。また道照和尚が造った「山背國宇治橋」は、その「宇治河」に架けたのであろう。幾度も述べたように地名は固有ではないのである。ましてや「勢多(セタ)橋」を「瀬田橋」と読んでは、混乱の極みとなる。詳細は後程。

<高嶋郡:角家足・三尾埼>
田原道は、田邊史(後に上毛野公)一族が住まっていた地を通る道と思われる。また、この道は『壬申の乱』で男依隊が駆け抜けた道(こちら参照)でもある。

高嶋郡:角家足・三尾埼

勢多橋を破壊されて東に向かうことができなくなり、混乱の中で急遽北上することに決めたようである。目指すは、もう一つの所有する鐵穴がある高嶋郡とし、その地に住まう角家足の宅に向かっている。

角=角ように山稜が延びている様家=宀+豕=山稜の端が豚の口のような形をしている様足=山稜の端が足のような形をしている様と解釈されるが、その地形を図に示した場所に見出せる。これまでに全く登場していない場所である。

「押勝」は、まだまだ望みを捨ててはいないことが分かる。この地は極めて険しいが、倉歷道を経て近江國の東部そして愛發關を通過できれば東國に通じることが可能なのである。上図は、更なる戦闘の結果で戻って来た行程を示しているが、後程述べるとして、愛發關周辺での出来事を図に示してみよう。

<淺井郡塩津>
淺井郡:塩津

「押勝」は、愛發關の様子伺いのために精兵を向かわせたが、「物部廣成」に蹴散らされてしまい、止む無く船で淺井郡塩津(鹽津=鑑のように平らな津)に向かおうとしたが、更に武運がなく、座礁してしまったようである。

授刀舎人で正六位上程度の一介の人物であった「廣成」ごときに精兵が退却させられて、「押勝」の思惑は地に落ちた様相であろう。淺井郡に一旦引き下がって態勢を整えようとするも、それも叶わず、更に強行突破を試みたが、獅子奮迅の活躍の「伊多智」に阻まれて、万事休すの状況となり、元来た道を帰ったと記載されている。

高嶋郡三尾埼は、上図に示した通り、高嶋郡の東側を取り囲む山稜の尾が三つに岐れている先にあるところと推定される。行程は尾根伝いに向かったのかもしれないが、急勾配の斜面を下ることになり、女・子供を携えていたならば、やはり上図の道を通ったのではなかろうか。

<勝野鬼江>
ここで「三野・眞本」そして、やおら討賊將軍
の「藏下麻呂」がお出ましになった。「押勝」と共に戦う者はいなくなり、僅かな付き人共に船で逃げたと語られている。

勝野鬼江

「押勝」の終焉の地名が記載されている。勝野=盛り上げられた地の麓にある野と読む。鬼江=奥が丸くなっている谷間の水辺で窪んだところと解釈される。そのものズバリの地形を図に示した場所に見出せる。

操船技術に巧みな「石村村主石楯」及びその一族が待ち構えていた。彼等に逃げ延びようとする者達の素性を知る由もなく、江頭(入江のほとり)で見境なく斬殺してしまったのかもしれない。

家臣として最高位に就き権勢を恣にし、皇位を自在に操った「藤原朝臣仲麻呂」の最後、それだけに些か異なって無残だったようでもある。「刷雄」を残したのは、通例に従って一族を根絶やしにはしないためであろう。下図に「押勝」敗走の全行程を纏めた。

<「押勝」敗走全行程>
何と言っても❶宇治と❷勢多橋との場所と位置関係が重要な意味を持っていることが解る。

「押勝」は、この橋を通るつもりであったからこそ、失色し、急遽逃亡先を変更したのである。

通説に基づく❶、❷や高嶋郡、❹愛發關の場所は、現在の琵琶湖西方に南北に並んでいる。

❶宇治(京都府宇治市)から❷勢多橋(大津市瀬田唐橋)に向かう必要はなく、それでは越前國に抜けるには大きく迂回することになる。

また、北上すれば山科盆地に入り、その東側を見ることは不可である。全く「押勝」の狼狽振りを感じ取ることができず、琵琶湖西岸を北上したに過ぎなくなってしまうのである。

續紀編者等は具体的に記載しないが、❸角家足の宅から愛發關方面に抜けるには厄介な倉歷道を通過するしかなく、それ故に村國連嶋主(男依の孫)を登場させている。これも重要な意味を暗示していると思われる。古事記で記載された神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が熊野村から吉野河之河尻へ抜ける際に八咫烏に導かれた道は、古代史上何度も登場しているのである(こちら参照)。

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<藤原朝臣玄信(元信)-伊久治>
● 藤原朝臣玄信

上記本文で藤原朝臣百能が従三位を賜ったのに続いて、无位から従五位下に叙爵されている。女官は実に高い爵位を授かったようである。「百能」との関係は定かではないが、名前が示す地形から出自を求めてみよう。

「玄」の文字が表す地形は、その文字の意味通りに曖昧な感じであり、地形としても同様に一に特定するには用い難い文字であろう。

調べると別名に元信があったと知られていることが分かった。元=〇+儿=丸く小高い地から山稜が足のように延びている様と解釈した。すると「不比等」の山稜の頂を「〇」と見做した地形象形であることが解る。

玄=谷間が糸を垂らしたように曲がって延びている様を読むことができる。また、図では確認することが難しいが、信=人+言=谷間が耕地になっている様と推測される。「百能」の近隣が出自と思われるが、系譜は記録に残ってないのであろう。

少し後に藤原朝臣伊久治が事変の功績で従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である伊久治=谷間に区切られた山稜が[く]の字形に曲がって延びた先が耜のようになっているところと読み解ける。図に示した場所が出自の女孺だったと推定される。系譜が定かではないようである。

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九月記のみで、久々のロングバージョンとなってしまった。『壬申の乱』ほどではないが、追走劇は、多くの情報を提供してくれたように思われる。「鬼江」の地形象形表記は、実に興味深い。通説の滋賀県高島市にある乙女ヶ池では、決してあり得ない、と思われる。