2023年1月13日金曜日

廢帝:淳仁天皇(17) 〔621〕

廢帝:淳仁天皇(17)


天平字八年(西暦764年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月辛未。美作國飢。淡路國疫。並賑給之。戊寅。以正五位下多治比眞人土作爲文部大輔。從五位上布勢朝臣人主爲上総守。正五位上石川朝臣人成爲武藏守。從五位上田中朝臣多太麻呂爲陸奥守。從五位下巨勢朝臣廣足爲但馬介。癸未。遣使奉幣帛於畿内群神。旱也。」阿波。讃岐。伊豫三國飢。並賑給之。
五月庚子。正三位粟田女王薨。
六月乙亥。從三位授刀督兼伊賀近江按察使藤原朝臣御楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第六子也。

四月一日に美作國で飢饉があり、淡路國で疫病が流行って、それぞれ物を恵み与えている。十一日に多治比眞人土作(家主に併記)を文部大輔、布勢朝臣人主(首名に併記)を上総守、石川朝臣人成を武藏守、田中朝臣多太麻呂を陸奥守(重複記事?)、巨勢朝臣廣足(淨成に併記)を但馬介に任じている。十六日に使者を派遣して幣帛を畿内の神々に奉っている。旱魃のためである。また阿波・讃岐・伊豫の三國で飢饉があり、それぞれ物を恵み与えている。

五月四日、粟田女王が亡くなっている。

六月九日に授刀督兼伊賀・近江按察使の「藤原朝臣御楯」が亡くなっている。平城朝(聖武朝)太政大臣を追贈された「房前」の第六子であった(こちら参照)。

秋七月辛丑。授刀少志從八位上弓削連淨人賜姓弓削宿祢。丁未。先是。從二位文室眞人淨三等奏曰。伏奉去年十二月十日勅。紀寺奴益人等訴云。紀袁祁臣之女粳賣。嫁本國氷高評人内原直牟羅。生兒身賣。狛賣二人。蒙急則臣處分居住寺家。造工等食。後至庚寅編戸之歳。三綱校數名爲奴婢。因斯久時告愬。分雪無由。空歴多年。于今屈滯。幸属天朝照臨宇内。披陳欝結。伏望正名者。爲賎爲良。有因有果。浮沈任理。其報必應。宜存此情。子細推勘浮沈所適。剖判申聞者。謹奉嚴勅搜古記文。有僧綱所庚午籍。書寺賎名中。有奴太者并女粳賣及粳賣兒身賣狛賣。就中異腹奴婢皆顯入由。太者并兒入由不見。或曰。戸令曰。凡戸籍恒留五比。其遠年者依次除。但近江大津宮庚午年籍不除。蓋爲氏姓之根本。遏姦欺之乱眞歟。據此而言。猶爲寺賎。或曰。賞疑從重。刑疑從輕。典册明文。何其不取。因斯覆審。或可從浮。雙疑聳立。各自爭長。淨三等庸愚。心迷孰是。輕陳管見。伏聽天裁。奉勅。依後判。於是益麻呂等十二人賜姓紀朝臣。眞玉女等五十九人内原直。即以益麻呂爲戸頭。編附京戸。而紀朝臣伊保等。猶疑非勅。至是。召御史大夫從二位文室眞人淨三。參議仁部卿從四位下藤原惠美朝臣朝獵。入於禁内。高野天皇口勅曰。前者。卿等勘定而奏。依庚午籍勘者可從沈。是一理也。又検紀寺遠年資財帳。異腹奴婢皆顯入由。粳賣一腹不見入由。據此而言。或可從浮。是亦一理也。罪疑就輕。先聖所傳。是以。從輕之状。報宣已訖。而紀朝臣等猶疑非勅。不肯信受。故今召御史大夫文室眞人面告其旨。復召朝獵。副令相聽。」大學大允從六位上殖栗占連咋麻呂訴請除占字。許之。戊申。遣使宣詔。放紀寺奴益人等七十六人從良。己酉。伊与國周敷郡人多治比連眞國等十人賜姓周敷連。壬子。罷東海道節度使。甲寅。新羅使大奈麻金才伯等九十一人到着大宰博多津。遣右少弁從五位下紀朝臣牛養。授刀大尉外從五位下粟田朝臣道麻呂等。問其由緒。金才伯等言曰。唐國勅使韓朝彩自渤海來云。送日本國僧戒融。令達本郷已畢。若平安歸郷者。當有報信。而至于今日。寂無來音。宜差此使其消息欲奏天子。仍齎執事牒。參大宰府。其朝彩者。上道在於新羅西津。本國謝恩使蘇判金容爲取大宰報牒寄附朝彩。在京未發。問曰。比來彼國投化百姓言。本國發兵警備。是疑日本國之來問罪也。其事虚實如何。對曰。唐國擾亂。海賊寔繁。是以徴發甲兵。防守縁邊。乃是國家之設。事既不虚。及其歸日。大宰府報牒新羅執事曰。検案内。被乾政官符稱。得大宰府解稱。得新羅國牒稱依韓内常侍請欲知僧戒融達不。府具状申上者。以去年十月。從高麗國。還歸聖朝。府宜承知即令報知。

七月六日に授刀少志の弓削連淨人(道鏡に併記)に弓削宿祢の氏姓を賜っている。十二日、これより前に文室眞人淨三(智努王)等は以下のように奏上していた・・・謹んで去年十二月十日の勅を承ると、[「紀寺」の奴の「益人」等が訴えて言うには、「紀袁祁臣」の娘である「粳賣」は、「木國氷高評」の人、「内原直牟羅」に嫁いで、「身賣・狛賣」の二人の子を産んだ。急にある事情が起こったので、私が取り計らって紀寺に住まわせ、工人等の食事を作っていた。その後、庚寅年(持統天皇四[690]年)の戸籍作成の年に当たり、三綱が人数を調べた時、彼等を奴婢としてしまった。こういう理由で、長い間この間違いを訴えて来たが、はっきりと誤りを正す手立てがなく、むなしく多くの年月を過ごして、今に至るまで間違ったままになっている。幸いに、今の天子の朝廷が天下の輝かしく治められる時代になったので、心に塞がり晴々としなかった思いを述べたい。慎んでお願い申し上げることは名を正したいということである。人が賤民となったり、良民となったりすることは、原因があって、そのような結果になるのである。

身分の浮き沈みは道理に従って行われるべきであり、道理による報いは必ず現れる。所司はこの事情を承知して、仔細に身分の浮き沈みの経緯を推し測って考え、判断し報告せよ]と述べられている。そこで我等が謹んでおごそかな勅を承り、古い記録の文を捜したところ、僧綱所の保存してあった庚午年(天智天皇九[670]年)の籍に、寺の賤民の名が記していある中に、奴の「太者」と娘の「粳賣」及び「粳賣」の子、「身賣・狛賣」の名があった。賤民のうち、両親のどちらかが奴婢であるために奴婢とされた者は、皆入れられた理由を明らかにしているのに、太者と子は、その理由が記されていない。

ある人は[戸令に…すべて戸籍は常に五比(六年×五=三十年間)保存し、古いものは順次廃棄せよ。但し近江大津宮(天智天皇)の庚午年の籍は廃棄しない…と記載されている。これは庚午年の戸籍が氏姓の根本となるためであり、後世氏姓を偽り欺く者が真実を乱すことの防ぐためであろう。従ってこれによれば、庚午年の戸籍に賤民とある以上、やはり寺の賤民とすべきであろう]と言い、また、ある人は[賞を行う場合、功績が疑わしい時は重い賞を下し、刑に処する場合、疑わしい時には軽い刑に処する、ということが古典に明記されている。どうしてこれを取り上げずに済ますことができようか。

これによって改めて審議すれば、或いは身分を上げて良民とするのが良いと言っている。問題を含んだ二つの説が対立しており、それぞれ長所を争っている。我々「淨三」等は愚かであって、どちらが正しいのか迷っている。軽はずみながら自分達の狭い意見を述べ、慎んで天皇の裁決を仰ぎたく思う・・・。これに対する勅を承ると、後の方の判断によれ、ということであった。これにより、「益麻呂」(益人の子孫)等十二人を賤民の身分から解放し、紀朝臣の姓を、「眞玉女」等五十九人に内原直の姓を賜い、そのまま「益麻呂」を戸頭(主)として、京の戸籍に編入している。ところが紀朝臣伊保等は、それでもなお、天皇の勅ではないのではないか、と疑っている。

そのため本日に至って御史大夫(大納言)の文室眞人淨三(智努王)と参議で仁部(民部)卿の藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)を召して、内裏の中に呼び入れ、高野天皇(孝謙太上天皇)が口頭で次のように勅されている・・・先に卿等が考え定めて[庚午年の戸籍によって考えれば、身分を下げて賤民にすべきである]と奏上した。これは一つの道理である。また、[紀寺の古い資財帳を調べると、異腹の奴婢は皆賤民に入れる理由を明記しているのに、「粳賣」の生んだ子等だけは、その理由が見えていない。これを根拠にして申すならば、或いは、身分を上げて良民とすべきである]とも述べている。これもまた一つの道理である。罪が疑わしい場合、軽い方にすることは、昔の聖人が伝えるところである。これを根拠に軽い方に従い良民とすべきという結論は、すでに答えを宣べた。ところが、「伊保」等は天皇の勅ではない、と疑い、敢えて信じ受け入れようとはしない。そこで今、御史大夫の「淨三」を召し、対面してその旨を告げた。また「朝獵」を召して「淨三」のそばに控えさせて、その旨を聞かせる・・・。

この日、大学大允の「殖栗占連咋麻呂」が訴えて、「占」の文字を除くことを申請したので、これを許している。十四日に「伊与國周敷郡」の住人、「多治比連眞國」等十人に周敷連の氏姓を賜っている。十七日に東海道節度使を廃ししている。

十九日に新羅使の大奈麻の金才伯等九十一人が「大宰博多津」に到着している。そこで右少弁の紀朝臣牛養と授刀大尉の粟田朝臣道麻呂等を派遣して、その理由を尋ねさせている。金才伯等は以下のように述べている・・・唐國では勅使である韓朝彩が渤海から新羅に来て、[日本國の僧戒融を送って、既に故郷に届けさせた(高内弓等と同乗して帰朝)。もし戒融が無事に故郷に帰ったならば、当然その報告がある筈である。ところが今日まで、全く何の知らせもない。そこでこちら(新羅)の使を派遣して、その消息を確かめ、唐の天子に奏上したい]と述べた。そこで新羅の執事部の牒(文書)を持って、大宰府に参った。「朝彩」は出発して新羅の西の港にいる。本國(新羅)の唐への謝恩使である蘇判の金容は、大宰府からの返事の牒を「朝彩」に付託するため、まだ新羅の京におり、出発していない・・・。

「牛養」・「道麻呂」等が以下のように尋ねている・・・近頃、新羅から慕ってやって来る人民が[新羅では兵を集めて、警備している。これはおそらく日本國が攻めて来て新羅の罪を問うからであろう]と言っている。この事は本当かどうか・・・。「才伯」等が以下のように答えている・・・唐國が乱れて海賊がたいへ多い。そのため武装兵を徴発して、海岸線を防ぎ守らせている。すなわちこれは、国防のためであって、警備していることは全てうそではない・・・。

新羅使の帰る日に、大宰府は新羅の執事部に対する返事として以下のような牒を出している・・・書類を検討したところ、乾政官(太政官)から届いた符(命令)では、[大宰府からの解(上申)をみると、受け取った新羅の牒には、内常侍の韓朝彩の要請によって、僧戒融が帰着しているかどうかを知りたく思う、とあり、大宰府は事情を具備して申し上げる]とあった。そこで政府が調査したところ、戒融はすでに去年十月、高麗(渤海)國から帰還している。大宰府はこの事情を承知して、直ぐに返答せよ]と記載されている。

<紀袁祁臣-粳賣-身賣-狛賣・益人-益女>
● 紀袁祁臣:粳賣・身賣・狛賣/益人

その時点から七十数年前に遡る物語が記載されている。物事の判断を如何にしていたかを知るには、興味深いところではあるが、当時の人物の居処を求めるとなると、一筋縄ではいかないようでもある。

千数百年たった今で、地形象形表記として解読しているのだから、勿論、できないことはないであろう。「紀袁祁臣」の表記は「紀臣袁祁」として読んでみよう。

「紀朝臣」一族の場所、古事記では木國として表記された地である。木角宿禰が祖となって「木臣」等の多くの臣を蔓延らせた地の一つと記述されている。通説では紀伊國とされるが、全く間違いである。”紀伊朝臣”なる人物は記紀・續紀に登場しない。

袁祁=山稜の端がなだらかに延びた地に高台が寄せ集められたようになっているところと読み解ける。既出の紀朝臣の居処以外にその地形を図に示した場所に見出せる。更に娘の粳賣粳=山稜が二つに岐れた麓に米粒のような高台がある様の地形を父親の東側に確認される。

生んだ二人の子、身賣身=ふっくらと弓なりに曲がっている様狛賣狛=小高い地が二つくっ付いて並んでいる様の地形も、その近隣に見出すことができる。当時は、父親の元ではなく、母親の居処で誕生した子等が育てられたのである。

紀寺の奴婢の益人益人=谷間に挟まれた平らな台地で人の形に岐れたところと読み解ける。父娘・孫の谷間を出て延びる山稜が示す地形を表していることが解る。「益人」が関わった理由は不明だが、おそらく「紀袁紀臣」が亡くなり、この地で暮らすことができなくなったのではなかろうか。

少し後に紀朝臣益女が従五位下を叙爵されて登場する。おそらく「益人(後に益麻呂)」の近隣が出自であり、下記するように紀寺の奴だったのであろう。死霊が乗り移る巫女として有名となり、政変に関わって絞殺されたとのことである。

<木國氷高評:内原直牟羅・眞玉賣>
本國氷高評

上記本文では「本國」と記載されている。文脈からすると「粳賣」等は「益人」の計らいで「紀寺」に移住したわけで、彼女等のもとの國、即ち「紀臣」の地である「木國」を示している。

「紀伊國」との解釈も可能とする、編者の文字使いであろう。「紀寺」は木國にある寺ではないことを示唆しているが、詳細は後に述べることにする。

氷高評(郡)の氷高=皺が寄ったような山稜がある麓を二つに分け割いたところと解釈した。氷高皇女などで用いられた文字列である。その地形を図に示した場所で確認することができる。下地名は豊前市下河内、前出の紀朝臣馬主等の西側に当たる。

● 内原直牟羅・眞玉賣 「粳賣」を娶った人物である。内原=野原が谷間の入口にあるところ牟羅=谷間に挟まれた山稜が連なっているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。当時の通い婚でも、娶った先が没落すると誕生した子等を養育したであろう。おそらく「紀袁紀臣」と前後して、「牟羅」も他界していたのではなかろうか。

天皇の裁可によって、「益人」の子孫が紀朝臣姓を、そして「牟羅」の一族と思われる眞玉賣が内原直姓を賜っている。眞玉=玉のような山稜が窪んだ地に寄せ集められているところと解釈すると、「牟羅」の東側の谷を表している。紀朝臣伊保等が難色を顕わにしたのは、「益人」の子孫の扱いであろう。

「益人」の善行に遅ればせながら報いた天皇の裁量に、奴婢一族を”良民”とするのは分かるが、”紀朝臣”はない!…と言ったところであろうか。「益麻呂」等は京の戸籍に編入したと記載されている。即ち紀寺は京にあったことになる。その場所は、些か情報不足の故に引用図で示しておこう(左京のこちら参照、紀=山稜が畝って曲がっている様と解釈。通常、紀氏が檀家となって建立した寺だとか)。

最後に「粳賣」は、「紀寺」の奴婢の「太者」の嫁になっていた。これも「牟羅」が亡くなって未亡人であったことを示している。調査した官人も、「粳賣」が紀朝臣の子孫とは信じ難く、不明の空欄としてしまったのであろう。口頭伝承が中心の世界では、人が亡くなると共に歴史は消滅する。

いずれにしても、「紀袁祁臣」及び「氷高評」を出自に持つ人物が登用されず空白の地となっているが、それを歴史の表舞台に引き摺り出したような記述であろう。幾度か見られた手法である。九州島の東北部に隈なく蔓延った人々の生業を記載しているのである。

<殖栗占連咋麻呂・殖栗連息麻呂>
● 殖栗占連咋麻呂

「殖栗占連」から「占」を取って欲しいと願って許されたと記載されている。「占」が抜けると「殖栗連」、元明天皇紀に殖栗物部名代が賜った氏姓であった。こちらは「物部」を抜かしたわけである。

現地名は北九州市小倉南区母原である。物部の派生一族が貫山北西麓の谷間ごとに蔓延り、それぞれの地形に基づく名称を名乗ったと推定した。

占=卜+囗=大地が「卜」字形に分岐している様と解釈した。図に示した山稜の形を表していることが解る。咋=囗+乍=大地がギザギザとしている様と解釈したが、その山稜の麓の地形を示していると思われる。と言う訳で改名されたのだが、續紀にこの後登場されることはないようである。

後(称徳天皇紀)に奴婢となっていた息麻呂を解放して殖栗連の氏姓を与えたと記載される。何らかの罪を犯したのであろう。「息麻呂」の息=自+心=谷間の奥から息を吐くように山稜が延びている様と解釈した。「名代」の東側に、その地形を見出せる。上記も含めて麻呂=萬呂の表記と思われる。

<大宰博多津>
大宰博多津

新羅が来朝した時の具体的な着船した場所が記載されることはなかった。ここで初めて津(港)の名称が明かされている。「大宰」と「博多」とくれば、現在の大宰府市を示し、「大宰府」はここにあったことの動かぬ証左、と言うのであろうか?…残念ながら大宰府に「津」は存在し得ない。

御笠川を遡れば?…小型の漁船ではなく総勢百名近くが乗船している船では、到底叶わぬことであろう。座礁の危険を見知らぬ地で犯すほど間抜けではない。この時は、標高25m以上の大宰府近くまで博多湾が広がっていた、とでものべるのであろうか・・・。

与太話はこれくらいにして、筑紫大宰の地形をあらためて見てみよう。図に示したように博多=山稜は端が大きく広がった地大宰=区切られたような平らな台地津=海に面しているところである。それをそのまま表記したのが大宰博多津と読み解ける。

現在の標高10mが当時の海岸線と仮定してみると、「津」の形をしたところが見出せる。古事記が記す美和河(現妙見川[寒竹川])の河口付近であったと推定される。幾度も述べたように、地名は固有ではないのである。

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上記本文における出来事の流れを纏めてみると、先ず新羅使が「大宰博多津」に到着、その知らせを太政官(平城宮)が受取り、紀朝臣牛養等を派遣する。「牛養」等と新羅使のやり取りがあって、それを、また、太政官へ報告し、調査した結果を大宰府に伝えて、返答するように命じている。奈良大和に平城宮があったとするなら、一体どれくらいの時間を要したのであろうか?(太政官が大宰府に出向いては調査不可)…新羅使の帰る日を「其歸日」と記載している。續紀編者か、もしくは読み手の時空感覚が麻痺しているとしか思えないであろう。新年早々、古代史学者等の杜撰さを、あらためて指摘する羽目になったようである。

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<伊与國周敷郡:多治比連眞國>
伊与國周敷郡

「伊与國」は二度目の登場である。一度目は元正天皇紀に土左國への官道は伊与國経由であるが、不便でなことから阿波國経由に変更したいとの嘆願がなされたと記載されている。

「与」の文字を用いることによって、土左國の北に隣接する地であることを表しているのである。古事記では五百木と表記されているが、この地を出自とする人物は極めて少なく、大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、五百木之入日子命・入日賣がぐらいであろう。

● 多治比連眞國 その希少な登場人物の居処を求めてみよう。頻出の多治比の地形、一見異なるようだが図に示した場所に見出せる。そして眞國=囲まれた大地が寄り集まっている窪んだところを「多治比」の間に確認できる。

<周敷伊佐世利宿祢>
周敷連の氏姓を賜ったと記載されているが、少し後に周敷伊佐世利宿祢を賜ることになったようである。長たらしい、この名称によって彼等の居処が明確になるのであるが、詳細を左図に示した。

頻出の文字列であるから、一文字一文字を読み解いてみよう。「伊」=「人+尹」=「谷間で区切られた山稜が延びている様」、「佐」=「人+左」=「谷間に左手のような山稜が延びている様」、「世」=「途切れずに繋がっている様」、「利」=「切り分けられている様」となる。

纏めると伊佐世利=谷間で途切れずに延びた山稜が切り分けられているところと読み解ける。「眞國」の西側の山稜を表していることが解る。何だか、これでもか!…と念を押したような表記であろう。

周敷郡周敷=ぐるりと取り囲まれた地が平らに広がっているところと解釈される。周防國などに用いられた「周」=「囗+米+囗」の解釈そのものである。郡域の全容は未だ語られることはないが、かなり広い範囲だったのではなかろうか。

「周敷」だけでは、他の住人から文句が出たのかもしれないし、ご当人もその領域を統治する気もなかったのであろう。多分、異なる一族が蔓延っていた土地と思われる。後日に登場されるのかもしれない。

八月戊辰。節部省北行東第二雙倉災。己巳。以中納言從三位氷上眞人塩燒爲兼文部卿。從五位下中臣朝臣鷹主爲武部少輔。從五位下橘宿祢綿裳爲上野員外介。外從五位下村國連子老爲能登守。從五位下淡海眞人三船爲美作守。營城監從四位下佐伯宿祢今毛人爲兼肥前守。甲戌。賜救節部省火雜色已上絲綿有差。」山陽南海二道諸國旱疫。丙子。石見國疫。賑給之。己夘。遣使築池於大和。河内。山背。近江。丹波。播磨。譛岐等國。辛巳。多褹嶋飢。賑給之。

八月三日に節部(大蔵)省の北の列の東から二番目の双倉(こちら参照)が火災している。四日、中納言の氷上眞人塩燒に文武(式部)卿を兼任させ、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を武部(兵部)少輔、橘宿祢綿裳(廣岡朝臣から復姓)を上野員外介、村國連子老(子虫に併記)を能登守、淡海眞人三船(御船王)を美作守、営城監の佐伯宿祢今毛人を兼務で肥前守に任じている。

九日に節部(大蔵)省の火事を消すのに尽力した雑色以上の者に、絹糸・真綿をそれぞれ与えている。山陽・南海二道の諸國で旱魃が起こり、疫病が流行っている。十一日に石見國で疫病が流行ったので物を恵み与えている。十四日に使者を派遣して、池を大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐等の國に築かせている。十六日に多褹嶋で飢饉があり、物を恵み与えている。