2023年1月5日木曜日

廢帝:淳仁天皇(16) 〔620〕

廢帝:淳仁天皇(16)


天平字八年(西暦764年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

八年春正月乙巳。授正三位文室眞人淨三從二位。在唐大使正四位下藤原朝臣清河從三位。從四位下和氣王從四位上。无位猿福貴王從四位下。從五位下奈貴王從五位上。從四位下中臣朝臣清麻呂。石川朝臣豊成並從四位上。正五位下阿倍朝臣子嶋。百濟王元忠並從四位下。從五位上紀朝臣伊保。藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣繩麻呂並正五位下。從五位下柿本朝臣市守。多治比眞人木人。忌部宿祢鳥麻呂。中臣朝臣毛人。下毛野朝臣多具比。大原眞人今城。石川朝臣豊人。高圓朝臣廣世。藤原惠美朝臣小湯麻呂並從五位上。正六位上小治田朝臣水内。巨勢朝臣古麻呂。高橋朝臣廣人。菅生朝臣忍人。石川朝臣氏人。粟田朝臣黒麻呂。坂本朝臣男足。大原眞人宿奈麻呂。上毛野朝臣馬長。大伴宿祢潔足。佐伯宿祢木節。正六位下大神朝臣奥守並從五位下。正六位上六人部連鯖麻呂。麻田連金生。息長丹生眞人大國。粟田朝臣道麻呂。高麗朝臣廣山並外從五位下。女孺无位橘宿祢御笠。從六位下阿倍朝臣豆余理並從五位下。辛亥。授正四位上氷上眞人陽侯從三位。甲寅。播磨。備前兩國飢。並賑給之。丙辰。大隅。薩摩等隼人相替。授外從五位上前公乎佐外正五位下。外正六位上薩摩公鷹白。薩摩公宇志並外從五位下。戊午。以外從七位下出雲臣益方爲國造。己未。以正五位下山村王爲少納言。從五位下阿倍朝臣子路爲左少弁。内藏助外從五位下高丘連比良麻呂爲兼大外記。外從五位下麻田連金生爲左大史。從五位下大伴宿祢潔足爲礼部少輔。正五位下紀朝臣伊保爲仁部大輔。從五位上多治比眞人木人爲主計頭。外從五位下葛井連立足爲助。從五位下甘南備眞人伊香爲主税頭。外從五位下船連男楫爲助。從五位下路眞人鷹甘爲兵馬正。從五位下小治田朝臣水内爲大炊頭。正五位下久世王爲木工頭。從五位下穗積朝臣小東人爲助。從五位下掃守王爲典藥頭。從五位下粟田朝臣黒麻呂爲左京亮。外從五位下蜜奚野爲西市正。正四位下吉備朝臣眞備爲造東大寺長官。正五位下百濟朝臣足人爲授刀佐。從四位下仲眞人石伴爲左勇士率。從五位下大原眞人宿奈麻呂爲左虎賁翼。從五位下藤原惠美朝臣薩雄爲右虎賁率。正五位上日下部宿祢子麻呂爲山背守。從五位下大伴宿祢伯麻呂爲伊豆守。從五位上粟田朝臣人成爲相摸守。從五位上上毛野公廣濱爲近江介。從五位下藤原惠美朝臣執棹爲美濃守。外從五位下池原公禾守爲介。從五位下藤原朝臣繼繩爲信濃守。從五位下田口朝臣大万戸爲上野介。從五位下上毛野朝臣馬長爲出羽介。從五位下藤原惠美朝臣辛加知爲越前守。外從五位下村國連虫麻呂爲介。從五位上高圓朝臣廣世爲播磨守。從五位下藤原朝臣藏下麻呂爲備前守。外從五位下葛井連根主爲備中介。從四位下上道朝臣正道爲備後守。從五位下石川朝臣氏人爲周防守。從五位下小野朝臣小贄爲紀伊守。從四位上佐伯宿祢毛人爲大宰大貳。從五位上石上朝臣宅嗣爲少貳。從四位下佐伯宿祢今毛人爲營城監。從五位下佐味朝臣伊与麻呂爲豊前守。從五位上大伴宿祢家持爲薩摩守。壬戌。上総守從四位下阿倍朝臣子嶋卒。丙寅。備中。備後二國飢。並賑給之。

正月七日に文室眞人淨三(智努王)に從二位、在唐大使の藤原朝臣清河に從三位、和氣王に從四位上、「猿福貴王」に從四位下、奈貴王(石津王に併記)に從五位上、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)石川朝臣豊成に從四位上、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)百濟王元忠()に從四位下、紀朝臣伊保藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)藤原朝臣繩麻呂に正五位下、柿本朝臣市守多治比眞人木人忌部宿祢鳥麻呂中臣朝臣毛人(麻呂に併記)下毛野朝臣多具比大原眞人今城(今木)・石川朝臣豊人高圓朝臣廣世(石川廣世)・藤原惠美朝臣小湯麻呂(薩雄に併記)に從五位上、「小治田朝臣水内・巨勢朝臣古麻呂」・高橋朝臣廣人(國足に併記)・菅生朝臣忍人(嶋足に併記)・石川朝臣氏人(枚夫に併記)・「粟田朝臣黒麻呂・坂本朝臣男足」・大原眞人宿奈麻呂(今木に併記)・「上毛野朝臣馬長」・大伴宿祢潔足(池主に併記)・佐伯宿祢木節(毛人に併記)・大神朝臣奥守(通守に併記)に從五位下、「六人部連鯖麻呂・麻田連金生」・息長丹生眞人大國(國嶋に併記)・粟田朝臣道麻呂高麗朝臣廣山(背奈廣山)に外從五位下、女孺の「橘宿祢御笠・阿倍朝臣豆余理」に從五位下を授けている。

十三日に氷上眞人陽侯(陽胡女王。塩燒に併記)に従三位を授けている。十六日に播磨・備前の二國に飢饉があり、それぞれ物を恵み与えている。十八日に大隅・薩摩等の隼人を交替させている。それに伴って前公乎佐(前君乎佐)に外正五位下、「薩摩公鷹白・薩摩公宇志」にそれぞれ外従五位下を授けている。二十日、「出雲臣益方」を國造に任じている。

二十一日、山村王を少納言、阿倍朝臣子路(小路)を左少弁、内藏助の高丘連比良麻呂(比枝麻呂)を兼務で大外記、「麻田連金生」を左大史、大伴宿祢潔足を礼部少輔、紀朝臣伊保を仁部大輔、多治比眞人木人を主計頭、葛井連立足を助、甘南備眞人伊香(伊香王)を主税頭、船連男楫(小楫)を助、路眞人鷹甘(鷹養)を兵馬正、「小治田朝臣水内」を大炊頭、久世王(久勢王)を木工頭、穗積朝臣小東人を助、掃守王を典藥頭、「粟田朝臣黒麻呂」を左京亮、蜜奚野を西市正、吉備朝臣眞備を造東大寺長官、百濟朝臣足人を授刀佐、仲眞人石伴(石津王)を左勇士率、大原眞人宿奈麻呂を左虎賁翼、藤原惠美朝臣薩雄を右虎賁率、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を山背守、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を伊豆守、粟田朝臣人成(馬養に併記)を相摸守、上毛野公廣濱(田邊史廣濱)を近江介、藤原惠美朝臣執棹を美濃守、池原公禾守を介、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を信濃守、田口朝臣大万戸(大戸)を上野介、「上毛野朝臣馬長」を出羽介、藤原惠美朝臣辛加知(薩雄に併記)を越前守、村國連虫麻呂(子虫に併記)を介、高圓朝臣廣世を播磨守、藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を備前守、葛井連根主(惠文に併記)を備中介、上道朝臣正道(斐太都)を備後守、石川朝臣氏人を周防守、小野朝臣小贄を紀伊守、佐伯宿祢毛人を大宰大貳、石上朝臣宅嗣を少貳、佐伯宿祢今毛人を營城監、佐味朝臣伊与麻呂を豊前守、大伴宿祢家持を薩摩守に任じている。

二十四日に上総守の阿倍朝臣子嶋が亡くなっている。二十八日に備中・備後の二國に飢饉があり、それぞれ物を恵み与えている。

<猿福貴王>
● 猿福貴王

初見で従四位下の叙爵であることから、皇孫扱いの王であろう。直近では掃部女王(石津王に併記)が同様に登場していた。舎人親王の孫と推測して、その出自の場所を求めた。

「舎人親王」の山稜の東側、現在は全く見る影もなく地形が変わっているが、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、親王の孫・曽孫の出自を、何とか、推定することができた。

少々変わった名前なのだが、例によって一文字一文字が示す地形を読み解くと、猿=犬+袁=平らな頂の山稜がゆったりと延びている様福=示+畐=高台が酒樽のような形をしている様貴=臾+貝=谷間が両手のような山稜に挟まれている様となる。これら三つの地形要素から成る場所を図に示した。

飛鳥田女王の「鳥」の頭を「福」と見做し、胴体と羽との間を「貴」で表していることになる。興味深い読み解きとなったのだが、この後續紀での登場は見られないようである。

<小治田朝臣水内>
● 小治田朝臣水内

「小治田朝臣」一族については、「諸人」が直近で登場し、従五位上に叙爵されている。古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった小治田臣の系譜となる古豪であろう。

狭い谷間に多くの人物が輩出し、文武天皇紀に登場した「當摩」に纏めて図に示した(こちら参照)。そろそろ飽和の状況なのだが、果たして今回の人物の居場所があるのか、やや杞憂するところではある。

名前の水内の「内(內)」=「冂+入」と分解される。地形象形的には「内(內)」=「囲われた地入って行く様」である。書紀の天武天皇陵である大内陵などにもちいられた文字である。纏めると水内=囲われた地に入って行くと池があるところと読み解ける。出自は図に示した場所と推定される。

図に示したようにこの地は蘇我入鹿大臣の出自の場所、「石河宿禰」が同じく祖となった「蘇我臣」の地に隣接する。と言うか、少々侵出気味の様相である。「蘇我臣」一族の凋落を暗示しているような有様と思われる。

<巨勢朝臣古麻呂-津麻呂>
● 巨勢朝臣古麻呂

連綿と途切れることなく登用されている「巨勢朝臣」一族であるが、直近の淳仁天皇紀に廣足(淨成に併記)が従五位下を叙爵されている。

彼等は、天平字五(761)年四月に亡くなった關(堺)麻呂のように確たる系譜が知られていなかったようで、逆に系譜が不詳の系列の場所が出自と推測される。

古麻呂は、頻出と言えるくらいに用いられている名称である。古=丸く小高い様であるが、それだけに特定するには難がある表記であろう。調べると別名に「古萬呂」があったことが分かった。「麻呂=萬呂」と読むのは、日常のことだったのかもしれない。

図に出自の場所を示した。「淨成」等の背後に一際目立つ「古」が確認される。そして、その北麓に「萬」の地形を見出すことができる。續紀での登場は、これが最初で最後のようである。

少し後に巨勢朝臣津麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。この人物も系譜は定かでなく、名前が示す地形から出自の場所を求めると、図に示したところであったと推定される。津=氵+聿=水辺で筆のような山稜が延びている様と解釈する。

<粟田朝臣黑麻呂>
● 粟田朝臣黒麻呂

初見で従五位下を叙爵されていることから「粟田朝臣」一族の奔流に属する人物であったと思われる。前出の道麻呂は、朝臣姓を賜ったばかりであり、今回外従五位下を叙爵されている。

直近の登場人物は、「粟田」の谷奥を出自とすることが多く、その地は大きく地形が変化している場所であり、国土地理院航空写真を参照しながらの作業であった(こちらこちら参照)。

黒麻呂黑=囗+米+灬=谷間(囲われた地)に[炎]のような山稜が延びている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。「馬養」の東側、未だ変形のないところである。

外従五位下から昇進を重ね従四位下・参議にまで上りつめた道麻呂に対して、この人物は、後に左京亮に任じられるが、以後消息は不明のようである。「道麻呂」が傑出していたのであろうが、反ってそれが禍したのか、最後は配流されたと伝えられている。

<坂本朝臣男足>
● 坂本朝臣男足

「坂本朝臣」は、何と言っても『壬申の乱』の功臣であった「財」の子、「鹿田」の系列が登用されて来た(こちら参照)。

男足=男のような山稜が二股に岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。地形的には、かなり明瞭であり、名付けられた根拠は確からしく思われる。

残念ながら「男足」の系譜は伝わっていないようである。「宇豆麻佐」の子として伝わっている人物に該当する者は見当たらず、子孫が不明な「阿曾麻呂」の子だったのかもしれない。坂本氏系図が知られているが、そこに「男足」の記載も見られない。

少し後に隠岐守に任じられたりしているが、その後の消息は不明のようである。古事記の木角宿禰が祖となった坂本臣、上記の「小治田臣」と同じく古豪の一族であろう。

<上毛野朝臣馬長-稻人>
● 上毛野朝臣馬長

元明天皇紀に荒馬が登場していた。追記することも考えたが、時代が過ぎてしまったようで、改めて掲示することにした(こちら参照)。

荒陵寺(四天王寺の別称)などで用いられた文字である「荒」=「艸+亡+川」=「山稜が水辺で途切れる様」と解釈され、荒馬=馬の形の山稜が水辺で途切れるところと読み解いた。

実に見事な「馬」の地形があったのである。「荒馬」は、馬の尻尾の辺りを出自としていたと推定した。ならば馬長=馬の頭部に当たるところと読み解けるであろう。

後(称徳天皇紀)に上毛野朝臣稻人が従五位下を叙爵されて登場する。系譜などの情報はある由もなく、名前を頼りに出自場所を求めることになる。「稻」=「禾+爪+臼」=「しなやかに曲がる山稜が窪んだ地に延び出ている様」と解釈した。稻人=谷間にあるしなやかに曲がる山稜が窪んだ地に延び出ているところと読み解ける。図に示した「馬長」の北側の谷間が出自と推定される。

<六人部連鯖麻呂>
久々の「上毛野朝臣」からの登用だったのであるが、いよいよ上野國多胡郡との境の地に侵出することになる。果たして如何なることになるのか、楽しみにしておこう。

● 六人部連鯖麻呂

孝謙天皇紀に六人部藥が登場し、右京の地にその出自の場所を求めた。今回登場の人物は、連姓を賜っていて、異なる氏族と思われる。調べると、山背國を居処としていたようである。

勿論、六人部六人=谷間(人)で盛り上がって広がる(六)地があるところの地形象形表記であることには変わりはない。その地形を図に示した場所、現地名の京都郡みやこ町犀川谷口に見出せる。

名前の鯖麻呂の幾度か登場した鯖=魚+靑=魚の形をした山稜の傍らに四角く区切られた地がある様と解釈した。「六」の山稜を「魚」と見做した表記であることが解る。後に六人部連廣道が登場するが、図に示した辺りが出自と推定される。廣道=首の付けのような地が広がっているところと解釈する。

<麻田連金生-眞淨>
● 麻田連金生

聖武天皇紀に多くの渡来系の人々に氏姓を賜われ、その中に荅本陽春に「麻田連」を授けていたと記載されていた。「淺田連」とも表記されたことが知られているが、むしろ「淺」の文字の方が実情(地形)に即していたのであろう。

『壬申の乱』において、近江朝の右大臣中臣連金が斬首された場所、「淺井田根」の近隣に位置する地域だったのである(こちら参照)。些か配慮された氏姓だったと思われる。

金生=三角に尖った高台が生え出ているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。益々近付いた場所、もうすでに多くの年月が過ぎて人々の記憶も薄らいで来たであろう。「陽春」の子らしいのだが、資料が残っていないようである。

後(称徳天皇紀)に麻田連眞淨が従六位下を叙爵されて登場する。眞淨=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地が寄り集まった窪んだところと読み解ける。前出の「眞淨」=「[眞]の傍らにある[淨]のところ」と読んだが、父親丹比宿祢眞嗣に掛けた解釈を行ったが、こちらが本来の解釈であろう。

<橘宿祢御笠>
● 橘宿祢御笠

調べると橘宿祢佐爲(佐爲王)の娘(女孺)だったことが分かった。前記で子供等は「廣岡朝臣」氏姓を賜ったと記載されていたが、「橘宿祢」ままなのは何故?…と訝るところであろう。

既出の文字列である御笠=笠のような山稜を束ねるところと解釈される。すると、「綿裳」の東南側にその地形を見出すことができる。無漏女王の南に当たる場所である。

「御笠」は「廣岡朝臣」の氏姓を賜っていない。彼女の出自の場所は「廣岡」とは言えない地形だったからである。御祓川が流れる渓谷であろう。記紀・續紀を通じて、名称は地形象形表記であることを裏付けていると思われる。

この後、幾度か登場され、若干の曲折を経ながら、命婦として正五位上に昇進されたようである。佐爲王の子等が、地形の凹凸が顕著であり、かつ現在までの変形が極めて少ない場所に蔓延り、臣籍降下による賜姓で更に多彩な名称を有したことにより、續紀解読への重要な情報を提供してくれたようである。

<阿倍朝臣豆余理>
● 阿倍朝臣豆余理

「阿倍朝臣」一族であるが、系譜は伝わっていないようである。従って名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。全て既出の文字である。豆=高台になっている様余=山稜の端が広がっている様理=切り分けられている様である。

これらの地形要素が集まった場所として、図に示した、現在の大久保貯水池の西側にある高台の麓が見出せる。長田朝臣等の居処と推定されるが、元明天皇紀に彼等は「阿倍朝臣」一族として認知されたと記載されていた。

とは言え、「豆」の麓としてまでは求められたが、詳細は不明であろう。実は別名が知られている。都予(豫)理都与利とも表記されたようである。これも既出の文字列であり、都=寄り集まった様豫=山稜が横切る様理=切り分けられている様与(與)=噛み合っている様利=禾+刀=山稜が区切られている様である。

図に示したように二つの山稜の端が曲がって延びている様を「豫」で表していることが解る。これで「豆」の麓であり、二つの山稜が寄り集まった場所がこの女孺の出自と求められる。上記の「御笠」と同じく正五位上にまで昇進されたとのことである。

<薩摩公鷹白-宇志>
● 薩摩公鷹白・薩摩公宇志

「薩摩公(君)」ならば、薩摩國を代表する人物であろう。そんな人物を登場させるのも、薩摩國が漸く天皇家の配下の地になって来たからと推測される。

また、帰りの遣唐使船が海難に遭遇すると緊急に避難する場所でもあり、海路の要所としても、益々重要になって来たことが伺える。博多大津、歴史の不動点の一つであろう。

鷹白の「鷹」=「广+人+隹∔鳥」=「麓の谷間に二羽の鳥が並んでいる様」と解釈した。すると鷹白=二羽の鳥が並んでいる麓の谷間がくっ付いて並んでいるところと読み解ける。図に示した場所に、その地形を見出せる。

頻出の文字列である宇志=谷間に延びる山稜の麓を川が蛇行して流れているところと読み解ける。「鷹白」の西側の谷間を表していると思われる。この山稜が二つに岐れて延びている間を流れる川を「志」で表記したのであろう。”宇志=牛”を重ねているのかもしれない。現在の鴻巣山山塊の南麓に当たる場所である。

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上記本文に「丙辰。大隅。薩摩等隼人相替。授外從五位上前公乎佐外正五位下。外正六位上薩摩公鷹白。薩摩公宇志並外從五位下」と記載されている。「大隅隼人」は、”大隅國の隼人”ではない。何故なら、「隼人相替」によって叙位されたのが前公乎佐なのである。

この人物は、日向國姶羅郡の住人と推定した。その郡は、大隅隼人加志君和多利・佐須岐君夜麻等久久賣の居処でもあったのである。古事記の竺紫日向の北西端にある氣多之前に由来する「前公乎佐」と「薩摩公」二名が”隼人交換”を成し遂げたと述べている(薩摩隼人はこちら参照)。勿論、これは薩摩國の平定、更には発展に大きく寄与したことであろう。

遣唐使に抜擢されるほどの優秀な人材の消耗を防ぐためにも、そして、それを緊急の課題として認識した、即効性のある大胆な手立てを行ったように思われる。いずれにせよ、西海の動静は極めて重要に位置付けられていたことが伺える。

「隼人相替」を”隼人(防人)任期”の短縮と関連付けた解釈では、全く續紀編者の意図を読み取ることは叶わないであろう。辞書によると、「相替・相博」=「古代・中世の日本において当事者間の合意に基づいて土地・財産・労役を等価交換すること」と記載されている。

更に、上図に示したように「薩摩公」の居処は、現在の鴻巣山の南麓と推定した。何故か違和感を感じるのは、この地形は”薩摩=山稜が並んで延びた先が細かく岐れているところ”の地形とするには無理があるように思われる。また、”多褹”の表記とも相容れない地形なのである。

最適な地形象形表記は、日向=炎のような山稜が北向きに延びているところであろう。漸くにして、「日向・薩摩・多褹」、そして少し後に登場する「麑嶋信尓村」がある大隅の四國が揃っていることが解った。古事記の時代に大雑把に捉えた地形象形表記から次第に細かく分けて、より詳細な地形を表現しようとしたために発生したのであろう。また、それが曖昧な解釈、即ち読み手に任せるのには都合が良かったのかもしれない。

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<出雲臣益方-國上>
● 出雲臣益方

登場人物も少なく、系譜も定かなように思われるが、父親が「廣嶋」(前々國造)か「弟山」(前國造)であったかは伝えられていないようである(系譜・出自の場所はこちら参照)。

益方=谷間に挟まれて小高く平らになっている地が四角く区切られているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

現在は本願寺鎮西別院として広大な領域を占めているところである。出雲の中心に位置するが、正に古事記の葦原中國である。恒例によって神賀事を奏する役目でこの後も登場されているようである。

後(光仁天皇紀)に外従五位下の出雲臣國上が國造に任じられている。「益方」の任期は、およそ九年間だったとのことである。どうやらこの人物が「弟山」の子であたらしい。國上=取り囲まれた地が盛り上がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

些か余談だが、ほぼ全体が現存している出雲國風土記の編者は「廣嶋」であり、期間は和銅六(713)年五月~天平五(733)年二月三十日と伝えられている。元明天皇による風土記撰修の詔(和銅六年)に従ったものであろう。いずれ紐解くことになるかもしれない。

二月辛巳。授女孺无位箭口朝臣眞弟從五位下。丙申。石見國飢。賑給之。

二月十四日に女孺の「箭口朝臣眞弟」に従五位下を授けている。二十九日に石見國に飢饉があり、物を恵み与えている。

<箭口朝臣眞弟>
● 箭口朝臣眞弟

「箭口(朝臣)」は記紀・續紀を通じて初見である。調べると蘇我稻目(宗賀之稻目宿禰)から派生した氏名であったようである。古事記に記載されている「蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也」の”等”に含まれたいたのであろうか。

これを信じて出自の場所を求めることにする。箭口=矢口=鏃と解釈すると、現地名の京都郡苅田町稲光にある場所が見出せる。豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)の出自と推定した北隣である。

眞弟=ギザギザとした地が寄せ集められたところと読み解くと、図に示した場所がこの女孺の出自と思われる。「眞弟」は極めて特徴ある地形を表していて、かなり確度高く特定される場所と思われる。尚、「箭口朝臣」は、二度と續紀に登場されることはないようである。

三月癸夘。志摩國疫。賑給之。丙午。武藏守從四位下石川朝臣名人卒。辛亥。攝津。播磨。備前。備中。備後等五國飢。賑給之。丙辰。淡路國。比年亢旱。無種可播。轉紀伊國便郡稻。以充種子。出雲國飢。賑給之。己未。勅曰。周急之言。義著曩聖。救飢之惠。道茂先脩。頃年水旱。民稍餧乏。東西市頭。乞丐者衆。念斯失所。情軫納隍。而聞。糺政臺少疏正八位上土師宿祢嶋村。出己蓄粮資養窮弊者壹拾餘人。其所行雖小。有義可襃。仍授位一階。自今已後。若有如此色者。所司検察。録實申官。其一年之内。貳拾人已上加位一階。五十人已上加位二階。但正六位上不在此例。

三月六日に志摩國に飢饉があり、物を恵み与えている。九日に武藏守の石川朝臣名人(枚夫に併記)が亡くなっている。十四日に攝津・播磨・備前・備中・備後等の五國に飢饉があり、物を恵み与えている。十九日に淡路國では、近年旱魃が続いて、播くべき種子がない。そこで紀伊國の適当な郡の稲を転用して、充てている。この日、出雲國に飢饉があり、物を恵み与えている。

二十二日に次のように勅されている・・・危急に陥っている者を救う言葉は、その意義が昔の聖人によって述べられており、飢えを救う恩恵は、その方法が昔の賢人によってさかんに行われている。近年洪水や旱魃が続いており、人民は次第に飢えて貧しくなっている。このように人民が不遇の状態にあることを考えると、心は自分が溝に落ち込んでいるように痛むのである。ところが聞くところによると、糺政台(弾正台)少䟽の「土師宿祢嶋村」は、自分の蓄えていた食料を出して、十人余りの暮らしに困っている人達を助け養っているという。その道義の心は褒め称えるべきものがある。従って位一階を授ける。この後、もしこの種の事があれば、所管の宮司は取調べ、その事実を記録して、太政官に申告せよ。一年の内に二十人以上を助けた者には位一階、五十人以上の者には位二階を加えよ。但し正六位上の者は、この限りではない・・・。

<土師宿祢嶋村>
● 土師宿祢嶋村

「土師宿祢」一族には、多くの系列があったことが知られているが、その一系列である「弟麻呂」の子、「百村」に「五百村・千村」の子がいたと伝えられている(こちら参照)。

「村」は村落の意味ではなく、村=木+寸=山稜が指を開いた手のように延びている様を表すと解釈する。これで白村江の場所が特定されるのである。

そんな背景で「村」の周辺を探索すると、小ぶりだが、ちゃんとした嶋=山+鳥の地形が見出せる。「百村・五百村」の奥の谷間である。

この配置からすると「百村」の子孫と思われるが、記録に残っていないのであろう。道義に満ちた人物ではあるが、この後にお目に掛かれることはないようである。