2022年12月29日木曜日

廢帝:淳仁天皇(15) 〔619〕

廢帝:淳仁天皇(15)


天平字七年(西暦763年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二月丁丑。太師藤原惠美朝臣押勝設宴於高麗客。詔遣使賜以雜色袷衣卅櫃。癸未。新羅國遣級飡金體信已下二百十一人朝貢。遣左少弁從五位下大原眞人今城。讃岐介外從五位下池原公禾守等。問以約束貞卷之旨。體信言曰。承國王之教。唯調是貢。至于餘事非敢所知。於是。今城告曰。乾政官處分。此行使人者喚入京都。如常可遇。而使等約束貞卷之旨。曾无所申。仍稱。但齎常貢入朝。自外非所知者。是乃爲使之人非所宜言。自今以後。非王子者。令執政大夫等入朝。宜以此状告汝國王知。癸巳。高麗使王新福等歸蕃。壬寅。出羽國飢。賑給之。

二月四日に大師の藤原惠美朝臣押勝が高麗(渤海)の使客のために饗宴を催している。詔されて使を遣わし、さまざまな色の袷衣三十櫃を賜っている。十日に新羅國が級飡の金体信以下二百十一人を遣わして朝貢して来ている。朝廷は左少弁の大原眞人今城(今木)、讃岐介の池原公禾守等を遣わして、金貞巻に約束した趣旨を尋ねさせている。「体信」は[國王の命令を承って、ただ調を貢上するに過ぎない。それ以外のことは全く存じない]と答えている。

そこで「今城」が以下のように告げている・・・乾政(太政)官は、[今回の新羅の使人は京都(平城京)に喚し入れて、常の通りに待遇しよう。しかし使人等は「貞巻」に約束した旨について、全く申し及ぶことなく、ただ恒例の貢物を携えて朝廷に参上したのみで、それ以外のことは知らないと言うばかりである。これは使者を命じられた人の言うべきことではない。今後は王子でなければ、政治を執り行っている高官等を入朝させよう]と処分した。この趣を汝の國王に告げ知らせるように・・・。

二十日に高麗使の王新福等が帰っている。二十九日に出羽國で飢饉があり、物を恵み与えている。

三月丁夘。令天下諸國進不動倉鈎匙。以國司交替因茲多煩也。其隨事修造。及似欲濕損。臨時請受。

三月二十四日に天下の諸國に命じて、不動倉(非常時用の穀物倉)の鉤匙を進上させている。國司の交代が頻繁で、鉤匙の引継ぎに煩いが多いためである。國司が随時に修造したり、また湿気による損害がおきていそうな場合は、臨時に請求して鉤匙を受け取るようにさせている。

夏四月甲戌朔。信濃國飢。賑給之。」京師米貴。糶左右京穀。以平穀價。癸未。壹岐嶋疫。賑給之。丙戌。陸奥國飢。賑給之。丁亥。以從五位下石上朝臣奥繼爲少納言。從五位下池田朝臣足繼爲左少弁。從五位上石川朝臣人成爲信部大輔。從五位上布勢朝臣人主爲文部大輔。從五位下榎井朝臣小祖父爲仁部少輔。從五位上阿倍朝臣御縣爲武部大輔。從五位下當麻眞人高庭爲鼓吹正。從五位下藤原朝臣濱足爲節部大輔。從五位下藤原朝臣雄田麻呂爲智部少輔。從五位下豊野眞人篠原爲大膳亮。左大弁從四位下中臣朝臣清麻呂爲兼攝津大夫。從五位下石川朝臣豊人爲造宮大輔。從五位下小野朝臣小贄爲少輔。正五位下市原王爲造東大寺長官。外從五位下山田連銀爲河内介。從五位下津連秋主爲尾張介。正五位下阿倍朝臣子嶋爲上総守。從五位下大原眞人今城爲上野守。參議從四位下藤原惠美朝臣久須麻呂爲兼丹波守。左右京尹如故。外從五位下村國連武志麻呂爲播磨介。從五位下菅生王爲阿波守。從五位下笠朝臣不破麻呂爲豊後守。外從五位下陽胡毘登玲珍爲日向守。

四月一日に信濃國で飢饉があり、物を恵み与えている。また、京都(平城京)の米価が騰貴している。左右京の米穀(常平倉?)を売り出して、米価を平均させている。十日に壹岐嶋で疫病が流行したので、物を恵み与えている。十三日に陸奥國で飢饉があり、物を恵み与えている。

十四日、石上朝臣奥繼(宅嗣に併記)を少納言、池田朝臣足繼を左少弁、石川朝臣人成を信部(中務)大輔、布勢朝臣人主(首名に併記)を文部(式部)大輔、榎井朝臣小祖父を仁部(民部)少輔、阿倍朝臣御縣を武部(兵部)大輔、當麻眞人高庭(子老に併記)を鼓吹正、藤原朝臣濱足を節部(大蔵)大輔、藤原朝臣雄田麻呂を智部(宮内)少輔、豊野眞人篠原(篠原王)を大膳亮、左大弁の中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を兼務の攝津大夫、石川朝臣豊人を造宮大輔、小野朝臣小贄を少輔、市原王(阿紀王に併記)を造東大寺長官、山田連銀(古麻呂に併記)を河内介、津連秋主(津史)を尾張介、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を上総守、大原眞人今城(今木)を上野守、參議の藤原惠美朝臣久須麻呂(眞從に併記)を左右京尹はそのままで兼務の丹波守、村國連武志麻呂(虫麻呂。子虫に併記)を播磨介、菅生王を阿波守、笠朝臣不破麻呂を豊後守、陽胡毘登玲珍(陽侯史玲珎)を日向守に任じている。

五月戊申。大和上鑒眞物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寶二載。留學僧榮叡業行等白和上曰。佛法東流至於本國。雖有其教無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。乃於楊州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆頼之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時榮叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使大伴宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有勅。校正一切經論。往往誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一一以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。癸丑。伊賀國疫。賑給之。戊午。河内國飢。賑給之。己巳。義部卿從四位下安都王卒。庚午。奉幣帛于四畿内群神。其丹生河上神者加黒毛馬。旱也。

五月六日に大和上の鑑眞が亡くなっている。和上は唐の楊州龍興寺の高僧であった。博く経典やその注釈を読破し、特に戒律に精通しており、長江と淮水の間において、ただ一人指導者と見做されていた。唐の天寶二歳(天平十五年、743年)に留学僧の栄叡・業行(普照)等は和上に以下のように申し上げた・・・仏法は東に広がって我が國に伝わった。しかし、その教えは存在するが、伝授する人がいない。できることならば、和上に東方の國へおいで頂き、教化を盛んにして下るよう、お願いする・・・と言葉が丁寧で請願して怠まなかった。

この熱意に打たれた鑑眞は楊州で船を買入れ、そこから海に乗り出した。しかし、途中で風のため漂流し、船は打ち破られた。和上は一心に仏を念じ、人々はみなこれに頼って死を免れた。天寶七歳(天平二十年、748年)に至り、再び渡海を試みたが、また風に遭って日南(ベトナム北部、海南島とも)に漂着した。この時栄叡が死去し、和上は泣き悲しんで失明した。天平勝寶四(752)年に、我が使節がたまたま唐に赴いた時、業行は宿願を打ち明けた。こうして鑑眞は遂に弟子二十四人と共に、遣唐副使の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)の船(遣唐使船の第二船)に便乗し、帰化した。朝廷は鑑眞を東大寺に安置して供養させた。

この時、勅を下されて、一切の経典と注釈を校正させていたが、しばしば誤字があり、諸写本がみな同じであるため、訂正することができないでいた。和上はそれらを暗誦していて多くの字句を改め正した。また、さまざまな薬物について、真偽を定めさせたが、和上は一つ一つ鼻で嗅いで区別し、一つとして誤らなかった。聖武皇帝はこの人を師として受戒した。光明皇太后が不悆(病気)になった時も和上の進上した医薬が効験があった。

大僧正の位を授けたが、にわかに僧綱としての庶務が煩雑になったため、改めて大和上の称号を授け、備前國の水田一百町を施入し、また新田部親王の旧宅を施入して、これを戒院とした。今の「招提寺」(唐招提寺)がこれである。和上はあらかじめ自己の没日を悟っていて、死期が迫ると端座して、やすらかに逝去した。ときに年は七十七歳であった。

十一日に伊賀國で疫病が流行し、物を恵み与えている。十六日に河内國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十七日に義部(刑部)卿の安都王(阿刀王。大市王に併記)が亡くなっている。二十八日に幣帛を畿内四ヶ國の群神に奉っている。そのうち「丹生河上神」には黒毛の馬を加えて奉っている。日照りのためである。

<招提寺>
招提寺

所謂、唐招提寺として伝わっている寺である。奈良大和にあって世界遺産にも登録されているようである。勿論、續紀が記す「招提寺」の地ではない。それにしても、そっくりそのまま移転したのだから、大変なエネルギーを費やしたのであろう。

孝謙天皇紀に「以備前國墾田一百町。永施東大寺唐禪院十方衆僧供養料」と記載されていた。この”唐禪院”を移して新田部親王の旧宅を改修したと述べている。

「招提」の意味は「四方から僧たちの集まり住する所」とのことであり、”十方衆僧”の表現と合致していることが分かる。「招提」の文字列は、地形象形表記に用いられている文字要素から成っていることは一目瞭然であろう。

招提=匙の形の山稜の前で腕を曲げたように延びているところと解釈される。図に示した通り金鍾寺(東大寺)の北側に当たる場所である。関連する資料が幾つか現存しているようで、そこに記載されている筈の地名・人名も地形象形表記として解読してみたく思うが、後日としよう。

<芳野水分峯神>
丹生河上神

文武天皇即位二(698)年四月に「奉馬于芳野水分峯神。祈雨也」と記載されていた。持統天皇紀に引き続いて頻繁に日照りが生じていた時期であった。

四畿内の名山などで雨乞いを繰り返した後に「芳野水分峰神」に馬を奉納すると、その後は雨乞いの記述が途切れている。おそらく、その場所と馬の奉納に効験があったとみなされたのであろう。

その場所を現地名の北九州市小倉南区平尾台の北辺と推定した。四方台と呼ばれ、正に”水分”に適した地形を示している。

今回の日照りに対しても、特に黒毛の馬を奉納しているが、故事に習ったものであろう。再掲した図を参照すると、四方台の西側(物部一族の居処)で丹生=谷間の隙間から生え出た山稜が延びているところの隙間を流れる川を丹生河と呼び、河上に位置する場所(四方台)を表したのではなかろうか。

六月戊寅。尾張國飢。賑給之。丙戌。越前國飢。賑給之。壬辰。能登國飢。賑給之。丙申。大和國飢。賑給之。戊戌。美濃國飢。攝津。山背二國疫。並賑給之。 

六月七日に尾張國で飢饉があり、物を恵み与えている。十五日に越前國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十一日に能登國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十五日に大和國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十七日に美濃國で飢饉があり、攝津・山背の二國で疫病が流行している。それぞれ物を恵み与えている。

秋七月乙夘。以從五位下大伴宿祢田麻呂爲參河守。從五位上高元度爲左平凖令。從五位上藤原朝臣田麻呂爲陸奥出羽按察使。外從五位下高松連笠麻呂爲日向守。從五位下忌部宿祢呰麻呂爲齋宮頭。丁夘。備前。阿波二國飢。並賑給之。

七月十四日、大伴宿祢田麻呂(諸刀自に併記)を參河守、高元度を左平凖令(常平倉の長官)、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を陸奥出羽按察使、高松連笠麻呂を日向守、忌部宿祢呰麻呂を齋宮頭に任じている。二十六日に備前・阿波の二國に飢饉があり、物を恵み与えている。

八月辛未朔。勅曰。如聞。去歳霖雨。今年亢旱。五穀不熟。米價踊貴。由是百姓稍苦飢饉。加以疾疫。死亡數多。朕毎念茲。情深傷惻。宜免左右京。五畿内。七道諸國今年田租。壬申。近江。備中。備後三國飢。並賑給之。壬午。初遣高麗國船。名曰能登。歸朝之日。風波暴急。漂蕩海中。祈曰。幸頼船靈。平安到國。必請朝庭。酬以錦冠。至是縁於宿祷。授從五位下。其冠製錦表絁裏。以紫組爲纓。甲申。丹波。伊豫二國飢。並賑給之。戊子。山陽。南海等道諸國旱。停兩道節度使。」廢儀鳳暦始用大衍暦。」丹後國飢。賑給之。己丑。糺政臺尹三品池田親王上表曰。臣男女五人。其母出自凶族。臣惡其逆黨不預王籍。然今日月稍邁。聖澤頻流。當是時也。不爲處置。恐聖化之内。有失所之民。伏乞。賜姓御長眞人。永爲海内一族。詔許之。癸巳。遣使覆損於阿波。讃岐兩國。便即賑給飢民。甲午。新羅人中衛少初位下新良木舍姓前麻呂等六人賜姓清住造。漢人伯徳廣道姓雲梯連。

八月一日に次のように勅されている・・・聞くところによると、去年は長雨が降り、今年は日照りが続き、五穀が稔らず、米価が騰貴したという。これにより人民は既に飢饉に苦しんでいる。それだけでなく、疫病が流行して、死亡者が数多いという。朕はこれを念うたびに心中深く悲しみ憐れに思う。左右京・五畿内・七道諸國の今年の田租を免除するようにせよ・・・。

二日、近江・備中・備後の三國で飢饉があり、物を恵み与えている。十二日に最初高麗(渤海)國に遣わす船を名付けて能登と言った。帰りの日に風波が荒れ狂い海中を漂った。船上の人々は、神に祈って[幸いに船の霊力のおかげで、無地帰り着いたならば、必ず朝廷に申請して、錦の冠を戴き、船に酬いたいと思う]と言った。無事に帰り、この日になって予ねてからの祈りにより、船に従五位下が授けられている。その冠のつくりは表を錦、裏を絁でこしらえ、紫の組紐を冠の紐としたものである。

十四日に丹波・伊与の二國で飢饉があり、それぞれ物を恵み与えている。十八日に山陽道・南海道などの諸國で日照りがあり、このため両道の節度使を停止している。また儀鳳暦を廃止して、初めて大衍暦を使用している。この日、丹後國で飢饉があり、物を恵み与えている。

十九日に糺政(弾正)臺尹の池田親王が以下のように上表している・・・臣の息子と娘五人の母親は凶族(橘奈良麻呂の一族)の出身である。臣はその逆党であることを憎み、彼等を王籍から削除した。しかし今や、月日も漸く過ぎ去り、天子の恩沢が広く行き渡っている。恐らくは天子の徳化のなかにあって、所属(戸籍)のない民が出て来ることになる。彼等に「御長眞人」(池田親王周辺:舎人親王の山稜の中心にあることに由来する)の姓を賜り、永く海內(日本)の一族に加えて下さるよう、伏してお願いする・・・。詔を下してこれを許している。

二十三日に使者を遣わして、阿波・讃岐両國の飢饉の損害を詳しく調査させ、すぐに物を恵み与えている。二十四日に新羅人で中衛の「新良木姓前麻呂」ら六人に「清住造」の氏姓(こちら参照、縣麻呂に併記)を、また漢人の「伯徳廣道」には「雲梯連」の氏姓(こちら参照、廣足に併記)を賜わっている。

九月庚子朔。勅曰。疫死多數。水旱不時。神火屡至。徒損官物。此者。國郡司等不恭於國神之咎也。又一旬亢旱。致無水苦。數日霖雨。抱流亡嗟。此者國郡司等使民失時。不修堤堰之過也。自今以後。若有此色。自目已上宜悉遷替。不須久居勞擾百姓。更簡良材速可登用。遂使拙者歸田。賢者在官。各修其職務無民憂。癸夘。遣使於山階寺。宣詔曰。少僧都慈訓法師。行政乖理。不堪爲綱。宜停其任。依衆所議。以道鏡法師爲少僧都。甲寅。以從五位下奈紀王爲石見守。從五位下采女朝臣淨庭爲豊後守。庚申。尾張。美濃。但馬。伯耆。出雲。石見等六國年穀不稔。並遣使覆損。」河内國丹比郡人尋來津公關麻呂坐殺母。配出羽國小勝柵戸。丙寅。授從五位上山村王正五位下。從四位下池上女王正四位下。

九月一日に次のように勅されている・・・疫病の死者が多数にのぼり、洪水と日照りが思いがけない時に起こっている。また、神火がしばしば発生し、無益に官物を損耗している。これは國司・郡司が國神に恭しく仕えていないための天罰である。また十日も日照りが続いて、水のない苦しみを味わったかと思うと、数日にわたって長雨が降り、土地を失って流亡の嘆きを抱く者もいる。これは國司・郡司が民を使役する時期が適当でなく、堤と堰を修造しなかったための過失である。

今より以後は、もしこのような類のことがあれば、目以上を悉く交替させよ。いつまでも任地に留まって、百姓たちを労れ煩わせるべきではない。更に良い人材を選んで早く登用するようにせよ。こうして拙い者は故郷に帰らせ、賢い者を官人に取り立てよ。各人がその職務に励んで、民の憂いをなくすように・・・。

四日に使者を山階寺(興福寺)に遣わして、次のような詔を宣べさせている・・・少僧綱の慈訓法師は僧綱の政務を行う際に、道理に合わないことをしており、僧綱となるに相応しい人ではない。よろしくその任務を停止し、衆僧の意見によって、「道鏡法師」を少僧綱に任命するようにせよ・・・。

十五日に奈紀王(奈貴王。石津王に併記)を石見守、采女朝臣淨庭を豊後守に任じている。二十一日に尾張・美濃・伯耆・出雲・石見など六國において、今年の穀物が稔らなかった。それぞれに使を遣わして損害をくわしく調査させている。また、河内國丹比郡の人、「尋来津公關麻呂」が母親を殺す罪を犯して、出羽國小勝の柵戸に配属されている。二十七日に山村王に正五位下、池上女王に正四位下を授けている。

<道鏡・弓削連櫛麻呂-淨人-秋麻呂>
● 道鏡

孝謙上皇(後に称徳天皇)の寵を受けて、とんでもない位に就くことになったと伝えられている。この後も歴史の表舞台で活躍されることになる。

唐突に登場されるが、素性を調べると、俗姓は弓削連であり、具体的な人名では弓削連元寶兒が書紀の持統天皇紀に記載されている。

彼等の居処は河内國若江郡、現地名では行橋市入覚と京都郡みやこ町勝山池田の境にある地域と推定した。

「道鏡」に含まれる「鏡」=「金+竟」=「山稜が出合う地で三角に尖っている山稜が延びている様」と読み解いた。「竟」=「坂合」を表す地形象形表記である。天武天皇紀に記載された鏡王などの例がある。纏めると道鏡=首の付け根のように窪んでいる傍らに山稜が出合う地で三角に尖っている山稜が延びているところと読み解ける。

父親が櫛麻呂と知られていて、その居処を図に示した。櫛=木+節=山稜が折れ曲がっている様と解釈される。親子の配置として申し分ないものであろう。少し後に弟の弓削連淨人が「弓削宿祢」姓、更に「弓削御淨朝臣」姓を賜ったと記載されている。淨人=谷間の水辺で両腕のような山稜に囲まれたところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

更に後に弓削御清朝臣秋麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「道鏡・淨人」の弟のような感じなのだが、系譜は定かではないとのことである。既出の秋=禾+火=稲穂のような山稜の端が[火]の形に延びている様と解釈した。その地形を、やや不鮮明だが、「道鏡」と「淨人」の間に見出せる。もしかしたら、道鏡の隠し子?…天国の梅原氏にお任せしよう。この後多くの弓削連(宿祢)の人物が登用されるが、楽しみに待つことにしよう。

<尋來津公關麻呂>
● 尋來津公關麻呂

「尋來津公」は記紀・續紀を通じて初見のようである。調べると関連する氏姓を持つ人物が存在していたことが分かったが、希少な一族だったのであろう。

河内國丹比郡を頼りにして、名前が示す地形を探索する。すると、正に絵にかいたようなそのものズバリの地形が見出せた。

既出の文字列である尋來津=左右の手のような山稜(尋)と広がり延びた山稜(來)が水辺で寄り集まっている(津)ところと読み解ける。御所ヶ岳の北麓、行橋市津積にある住吉池を取り囲む山稜の形を表していることが解る。

その近隣に古事記の大雀命(仁徳天皇)の宮、難波之高津宮があったと推定した場所である。「高津」の「高」は「高いところにある」ではなく、「皺が寄ったように山稜が並んでいる」と解釈した。それを「尋來」と表現しているのである。關麻呂は、その寄り集まった谷間の出入口を出自としていたのであろう。

犯罪人の名前を記載する。それは空白の地を埋めるため・・・どうやらそれが目的のような感じであろう。焼け落ちた宮の周辺に住まっていた人物であった。

冬十月癸酉。幸山背國授介外從五位下坂上忌寸老人外從五位上。從五位下稻蜂間連仲村女從五位上。乙亥。左兵衛正七位下板振鎌束至自渤海。以擲人於海。勘當下獄。八年之乱。獄囚充滿。因其居住移於近江。初王新福之歸本蕃也。駕船爛脆。送使判官平群虫麻呂等慮其不完。申官求留。於是。史生已上皆停其行。以修理船。使鎌束便爲船師。送新福等發遣。事畢歸日。我學生高内弓。其妻高氏。及男廣成。緑兒一人。乳母一人。并入唐學問僧戒融。優婆塞一人。轉自渤海相隨歸朝。海中遭風所向迷方。柁師水手爲波所沒。于時鎌束議曰。異方婦女今在船上。又此優婆塞異於衆人。一食數粒。經日不飢。風漂之災未必不由此也。乃使水手撮内弓妻并緑兒乳母優婆塞四人。擧而擲海。風勢猶猛。漂流十餘日。着隱岐國。丙戌。參議礼部卿從三位藤原朝臣弟貞薨。弟貞者平城朝左大臣正二位長屋王子也。天平元年長屋王有罪自盡。其男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鈎取王亦皆自經。時安宿王。黄文王。山背王。并女教勝。復合從坐。以藤原太政大臣之女所生。特賜不死。勝寳八歳。安宿。黄文謀反。山背王陰上其變。高野天皇嘉之。賜姓藤原。名曰弟貞。乙未。淡路國飢。賑給之。丁酉。前監物主典從七位上高田毘登足人之祖父嘗任美濃國主稻。属壬申兵乱。以私馬奉皇駕申美濃尾張國。天武天皇嘉之。賜封戸傳于子。至是坐殺高田寺僧。下獄奪封。

十月四日に山背國に行幸され、坂上忌寸老人(犬養に併記)に外従五位上、稻蜂間連仲村女に従五位上を授けている。

六日に左兵衛の「板振鎌束」は渤海より帰る際に、人を海中に投げ込み、これにより取調べを受け断罪され、獄に下っている。その後天平字八年の乱(恵美押勝)で獄囚が充満したため、近江國に移住させている。最初渤海使の王新福が帰る時に、その乗船が腐って脆くなっていて、送使の判官の平群虫麻呂(人足に併記)等は壊れてしまうのを心配して、太政官に申して留まることを求めている。

そこで送使のうち史生以上はみな渡航を停止し、船を修理したうえで、「鎌束」をそのまま船師(船頭)に任じ、新福等を送って出発させている。渤海から帰る時に、留学生の「高內弓」とその妻の高氏及び息子の「廣成」・緑児一人・乳母一人、更に入唐学問僧の戒融と優婆塞一人が、それぞれ渤海を経由し、「鎌束」等に随行して帰ろうとしたが、船は海中で暴風に遭って方向を失い、舵取と水手も波にさらわれて沈んでしまっている。

この時「鎌束」は[異国の婦女が今この船に乗っている。またこの優婆塞は常人とは異なり、一食に米を数粒しか食べないのに、何日経っても飢えることがない]と主張し、水手に命じて「内弓」の妻と緑児・乳母・優婆塞の四人を捕まえてさしあげ、海中に投げこませている。その後も風の勢いはなお猛烈で、漂流すること十日余日の後に、隠岐國(現在の宗像市地島)に到着している。

十七日に参議で礼部(治部)卿の藤原朝臣弟貞(山背王)が亡くなっている。「弟貞」は平城朝(聖武天皇)の左大臣「長屋王」の子であった(こちら参照)。天平元(729)年に「長屋王」は罪を犯して自殺し、その息子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王等もまた皆自ら首を括って死んでいる。

この時安宿王・黃文王・山背王や娘の「教勝」もまた連座する筈であったが、藤原太政大臣(不比等)の娘(藤原長娥子)が生んだ子であったために、特に死を免じられていた。天平勝寶八(九?)歳に「安宿王」と「黃文王」が謀反を企てた時(橘奈良麻呂の変)、「山背王」は密かにこの変を上告し、高野(孝謙)天皇はこれを喜び、藤原姓を賜って、「弟貞」と名乗らせている。

二十六日に淡路國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十八日に前の監物主典であった高田毘登足人の祖父(高田首新家)は、かつて美濃國の主稻に任ぜられ、壬申の兵乱にあたって私馬を天武天皇の乗用に奉り、天皇は美濃・尾張の両國に行幸され、これを褒めて封戸を賜り、子に伝えさせた。ここに至って「足人」は高田寺の僧を殺害する罪を犯し投獄され封戸を奪われている。

<板振鎌束>
● 板振鎌束

今から思えば何とも残酷な物語となるが、自然の猛威の前で人身御供を行うことしか術がなかった時代とは言え、罪に問われている。「板振」の氏名の登場は、この人物に限られていて、出自に関する情報は極めて限られているようである。

「板」を含む氏名については、板持連一族が河内國錦部郡に蔓延っていたと推定した(こちらこちら参照)。現在の行橋市下崎である。また、元正天皇紀に登場した板安忌寸犬養の出自を板持連の北側の谷間としたが、この地の地形を共通する「板」で表現したと推測した。

「振」=「手+辰」=「腕のような山稜が二枚貝が舌を出したように並んでいる様と解釈される。即ち板振=麓で腕のような山稜が延びて二枚貝が舌を出した形に並んでいるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。鎌束=鎌のような山稜を束ねたところと読むと、”貝殻”が合わさったところを示していると思われる。鎌末の別名があったと知られているが、妥当な表記であろう。

<高内弓-廣成>
● 高内弓

「高」と名乗るのだから高麗系渡来人の系列と推測される。直近での記事で登場する迎入唐大使使を命じられた高元度の近隣を出自とする人物だったのではなかろうか。現地名は行橋市長井である。

内弓=谷間の入口に弓なりに曲がって延びる山稜があるところと解釈すると、図に示した、「元度」の西側に当たる場所が見出せる。

この留学生の名は、後に再登場されている・・・近年日本使内雄等。住渤海國。學問音聲。却返本國。今經十年。未報安否。由是。差大使壹萬福等。遣向日本國擬於朝參。稍經四年。未返本國。更差大使烏須弗等卌人。面奉詔旨。更無餘事。所附進物及表書。並在船内・・・。

内雄(内弓)は、渤海で”音聲=音楽”を勉強していたようで…楽器演奏らしい…優れた演奏者だったのかもしれない。先走りだが、渤海使への返答は上表文の内容が無礼と言うことで追い帰している。雄=鳥が羽を広げた様は、「弓」の形を含めた全体の山稜の姿を表していると思われる。

<敎勝>
● 教勝

上記にも詳細に記載されているように、「教勝」は安宿王・黃文王・山背王と共に藤原朝臣長娥子が母親であったことが知られている。名前は、多分、出家後であり、幼名は不詳のようである。

勿論、出自の場所の地形を表していることには変わりはない。「黃文王・山背王の周辺に求められるのではなかろうか。

教(敎)勝の敎=爻+子+攴=生え出た山稜が交差するように延びている様と解釈される。勝=朕+力=盛り上がっている様であり、その地形を「山背王」の東隣に見出すことができる。

少々余談ぽくなるが、「教」=「孝+攴」と分解される。「孝」=「耂(老)+子」から成る文字である。旧字体「敎」とは、全く異なる意味を表す文字なのである。漢字の本来の姿が見えなくなる簡略化・改変は、如何なものかと思うのだが・・・。

十二月己丑。攝津。播磨。備前三國飢。並賑給之。丁酉。礼部少輔從五位下中臣朝臣伊加麻呂。造東大寺判官正六位上葛井連根道。伊加麻呂男眞助三人坐飮酒言語渉時忌諱。伊加麻呂左遷大隅守。根道流於隱岐。眞助於土左。其告人酒波長歳授從八位下。任近江史生。中臣眞麻伎從七位下。但馬員外史生。

十二月二十一日に攝津・播磨・備前の三國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十九日に礼部(治部)少輔の中臣朝臣伊加麻呂、造東大寺司判官の葛井連根道(惠文に併記)、「伊加麻呂」の息子の「眞助」等三人が酒を飲み、話が時の忌諱に触れたという罪で、「伊加麻呂」は大隅守に左遷され、「根道」は隠岐に、「眞助」は土左にそれぞれ流されている。密告した酒波長歳(人麻呂に併記)には従八位下を授け、近江史生に任じている。同じく密告した「中臣眞麻伎」には従七位下を授け、但馬員外史生に任じている。

<中臣眞麻伎>
● 中臣眞麻伎

「中臣」だから、ではなくて但馬國が出自の人物と思われる。上記の「酒波」と同様にその出自の地で官吏に登用されたのであろう。「中臣」の地形も決して稀有なものではないことも事実である。

先ずは名前の眞麻伎の地形を求めてみよう。表す地形は眞麻伎=擦り潰されたような平らな谷間が岐れている地が寄せ集められた窪んだところと読み解ける。

図に示した場所がその地形を示していると思われる。更に中臣の山稜が延びているが、何と”鎌”の形をしていることが解る。正に”本家中臣”の地形に類似する場所であろう。

古事記によると、新羅の王子である天之日矛の子孫が蔓延った地域であり、図に示したように多遲麻毛理・多遲摩比多訶など多くの人物の居処と推定した。「眞麻伎」は、彼等の末裔だったのではなかろうか。但馬國(多遲麻國)の内陸部へは古くから渡来があったが、登用する人材が出て来なかったようである。

● 中臣朝臣眞助 中臣朝臣伊加麻呂の息子と記載されている眞助=積み重なって盛り上げられた地(助)が寄り集った窪んだ(眞)ところは、父親の極近くに住まっていたのであろう。「伊加麻呂」の別名としても成り立つような名前である。と言うことで、図は省略することにした。

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『續日本紀』巻廿四巻尾