2022年12月22日木曜日

廢帝:淳仁天皇(14) 〔618〕

廢帝:淳仁天皇(14)


天平字七年(西暦763年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

七年春正月甲辰朔。御大極殿受朝。文武百寮。及高麗蕃客。各依儀拜賀。事畢。授命婦正四位下氷上眞人陽侯正四位上。丙午。高麗使王新福貢方物。庚戌。帝御閤門。授高麗大使王新福正三位。副使李能本正四位上。判官楊懷珍正五位上。品官着緋達能信從五位下。餘各有差。賜國王及使傔人已上祿亦有差。宴五位已上及蕃客。奏唐樂於庭。賜客主五位已上祿各有差。壬子。授從五位下道守王從五位上。无位桑原王。田上王並從五位下。正五位上大和宿祢長岡從四位下。正五位下日下部宿祢子麻呂正五位上。從五位上阿倍朝臣毛人。多治比眞人土作並正五位下。從五位下阿倍朝臣御縣。布勢朝臣人主並從五位上。從六位上波多朝臣男足。正六位上當麻眞人吉嶋。從六位上中臣朝臣宅守。正六位上大伴宿祢小薩。笠朝臣不破麻呂。藤原朝臣繼繩。紀朝臣廣純。藤原朝臣藏下麻呂。藤原惠美朝臣執棹並從五位下。正六位上坂合部宿祢斐太麻呂。大友村主廣公。村國連子老。淨岡連廣嶋。贄土師連沙弥麻呂並外從五位下。无品不破内親王四品。從四位上圓方女王正四位上。從四位下秦女王從四位上。无位掃部女王從四位下。无位廣河女王。石上朝臣絲手。藤原朝臣乙刀自。藤原朝臣今兒。藤原朝臣人數。從六位下大野朝臣中千。縣犬養宿祢姉女。外從五位下稻蜂間連仲村女並從五位下。以從五位下大伴宿祢東人。藤原朝臣藏下麻呂。並爲少納言。外從五位下伊吉連益麻呂爲大外記。從四位下中臣朝臣濂麻呂爲左大弁。從五位上小野朝臣都久良爲左中弁。從五位下大原眞人今城爲左少弁。從五位上粟田朝臣人成爲右中弁。從五位下紀朝臣牛養爲右少弁。從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲信部少輔。從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲大監物。從四位下上道朝臣正道爲中宮大夫。播磨守如故。從五位下小野朝臣小贄爲内藏助。從五位下伊刀王爲縫殿頭。從五位下陽胡毘登玲璆爲内匠助。從五位下文室眞人高嶋爲内礼正。從五位上石上朝臣宅嗣爲文部大輔。侍從如故。從五位上藤原朝臣綱麻呂爲礼部大輔。侍從如故。從五位下大藏忌寸麻呂爲玄蕃頭。從五位下豊國眞人秋篠爲雅樂頭。從五位上巨曾倍朝臣難破麻呂爲仁部大輔。從五位下阿倍朝臣繼人爲主税頭。從三位藤原朝臣永手爲武部卿。從五位下大伴宿祢小薩爲少輔。從五位下田口朝臣大万戸爲兵馬正。外從五位下村國連子老爲主船正。從五位下藤原朝臣楓麻呂爲大判事。外從五位下李忌寸元環爲織部正。出雲介如故。外從五位下廣田連小床爲木工助。從五位下奈紀王爲大炊頭。從五位下荻田王爲正親正。從五位下當麻眞人吉嶋爲主油正。從五位下豊野眞人尾張爲糺政弼。從五位上布勢朝臣人主爲右京亮。正五位下市原王爲攝津大夫。從四位下佐伯宿祢今毛人爲造東大寺長官。從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲造宮大輔。上野守如故。從五位下石川朝臣豊人爲少輔。從五位下石川朝臣豊麻呂爲鑄錢長官。正四位上坂上忌寸犬養爲大和守。從五位下阿倍朝臣息道爲介。正五位下阿倍朝臣毛人爲河内守。從五位下石川朝臣名足爲伊勢守。從五位下佐味朝臣宮守爲安房守。在唐大使仁部卿正四位下藤原朝臣濂河爲兼常陸守。從五位上佐伯宿祢美乃麻呂爲介。從五位上藤原朝臣田麻呂爲美濃守。正五位上日下部宿祢子麻呂爲上野守。從五位下百濟王三忠爲出羽守。從五位下高橋朝臣子老爲若狹守。從五位下石川朝臣弟人爲越後守。正四位下高麗朝臣福信爲但馬守。從五位下巨勢朝臣廣足爲介。從五位下大原眞人繼麻呂爲伯耆守。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂爲出雲介。外從五位下上毛野公眞人爲美作介。從五位上甘南備眞人伊香爲備前守。從五位上道守王爲備中守。從五位下小野朝臣石根爲長門守。從三位百濟王敬福爲讃岐守。外從五位下池原公禾守爲介。從四位下和氣王爲伊与守。從五位上中臣丸連張弓爲介。從五位下紀朝臣廣純爲大宰員外少貳。從五位下中臣朝臣鷹主爲肥前守。從五位下笠朝臣不破麻呂爲日向守。戊午。詔曰。如聞。去天平寳字五年。五穀不登。飢斃者衆。宜其五年以前公私債負。貧窮不堪備償公物者。咸從原免。私物者除利收本。又役使造宮。左右京。五畿内及近江國兵士等。寳字六年田租並免之。庚申。帝御閤門。饗五位已上及蕃客。文武百官主典已上於朝堂。作唐吐羅。林邑。東國。隼人等樂。奏内教坊踏歌。客主主典已上次之。賜供奉踏歌百官人及高麗蕃客綿有差。」高麗大使王新福言。李家太上皇少帝並崩。廣平王攝政。年穀不登。人民相食。史家朝議。稱聖武皇帝。性有仁恕。人物多附。兵鋒甚強。無敢當者。鄧州襄陽已属史家。李家獨有蘇州。朝聘之路。固未易通。於是。勅大宰府曰。唐國荒亂。兩家爭雄。平殄未期。使命難通。其沈惟岳等。宜往往安置優厚供給。其時服者並以府庫物給。如懷土情深。猶願歸郷者。宜給駕船水手。量事發遣。甲子。内射。蕃客堪射者亦預於列。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。文武の百官人及び高麗(渤海)の蕃客はそれぞれ儀式に則り拝賀を行っている。儀式の後、命婦の氷上眞人陽侯(陽胡女王。塩燒に併記)に正四位上を授けている。三日に高麗の使の王新福が、その土地の産物を貢上している。

七日に閤門(大極殿の門)に出御されて、高麗大使の王新福に正三位、副使の李能本に正四位上、判官の楊懐珍に正五位上、品官・着緋の達能信に従五位下、それ以外の人々にはそれぞれ位を授けている。また、渤海の國王や使節の従者以上の人々にも、それぞれ禄を賜っている。その後五位以上の官人と蕃客に饗宴を催し、朝庭において唐楽を演奏している。客側も主人側も五位以上の人々にそれぞれ禄を賜っている。

九日に道守王に從五位上、「桑原王・田上王」に從五位下、大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)に從四位下、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)に正五位上、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)多治比眞人土作(家主に併記)に正五位下、阿倍朝臣御縣布勢朝臣人主(首名に併記)に從五位上、「波多朝臣男足」・當麻眞人吉嶋(多玖比礼に併記)・中臣朝臣宅守・「大伴宿祢小薩・笠朝臣不破麻呂」・藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)・紀朝臣廣純藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)・「藤原惠美朝臣執棹」に從五位下、坂合部宿祢斐太麻呂(金綱に併記)・「大友村主廣公」・村國連子老(子虫に併記)・「淨岡連廣嶋・贄土師連沙弥麻呂」に外從五位下、不破内親王(安積親王に併記)に四品、圓方女王に正四位上、秦女王(春日女王に併記)に從四位上、掃部女王(石津王に併記)に從四位下、廣河女王(父親の上道王に併記)・「石上朝臣絲手・藤原朝臣乙刀自・藤原朝臣今兒・藤原朝臣人數」・大野朝臣中千(仲仟。廣立に併記)・縣犬養宿祢姉女(八重に併記)・稻蜂間連仲村女に從五位下を授けている。また大伴宿祢東人藤原朝臣藏下麻呂を少納言、伊吉連益麻呂を大外記、中臣朝臣濂麻呂(清麻呂。東人に併記)を左大弁、小野朝臣都久良(竹良。小贄に併記)を左中弁、大原眞人今城(今木)を左少弁、粟田朝臣人成(馬養に併記)を右中弁、紀朝臣牛養を右少弁、忌部宿祢鳥麻呂を信部少輔、縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂)を大監物、上道朝臣正道(斐太都)を播磨守のままで中宮大夫、小野朝臣小贄を内藏助、伊刀王(道守王に併記)を縫殿頭、陽胡毘登玲璆(陽侯史)を内匠助、文室眞人高嶋(高嶋王)を内礼正、石上朝臣宅嗣を侍從のままで文部大輔、藤原朝臣綱麻呂(繩麻呂)を侍從のままで礼部大輔、大藏忌寸麻呂を玄蕃頭、豊國眞人秋篠(秋篠王)を雅樂頭、巨曾倍朝臣難破麻呂(陽麻呂に併記)を仁部大輔、阿倍朝臣繼人を主税頭、藤原朝臣永手を武部卿、「大伴宿祢小薩」を少輔、田口朝臣大万戸(大戸)を兵馬正、村國連子老を主船正、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を大判事、李忌寸元環を出雲介のままで織部正、廣田連小床(辛小床)を木工助、奈紀王(奈貴王、奈癸王。石津王に併記)を大炊頭、荻田王を正親正、當麻眞人吉嶋を主油正、豊野眞人尾張(尾張王)を糺政弼、布勢朝臣人主(首名に併記)を右京亮、市原王(阿紀王に併記)を攝津大夫、佐伯宿祢今毛人を造東大寺長官、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を上野守のままで造宮大輔、石川朝臣豊人を少輔、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を鑄錢長官、坂上忌寸犬養を大和守、阿倍朝臣息道を介、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を河内守、石川朝臣名足を伊勢守、佐味朝臣宮守を安房守、在唐大使で仁部卿の藤原朝臣濂河(清河)を兼務で常陸守、佐伯宿祢美乃麻呂(美濃麻呂)を介、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を美濃守、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を上野守(下野守?)、百濟王三忠(①-)を出羽守、高橋朝臣子老(國足に併記)を若狹守、石川朝臣弟人を越後守、高麗朝臣福信を但馬守、巨勢朝臣廣足(淨成に併記)を介、大原眞人繼麻呂(今木に併記)を伯耆守、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)を出雲介、上毛野公眞人を美作介、甘南備眞人伊香(伊香王)を備前守、道守王を備中守、小野朝臣石根を長門守、百濟王敬福(①-)を讃岐守、「池原公禾守」を介、和氣王を伊与守、中臣丸連張弓を介、紀朝臣廣純を大宰員外少貳、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を肥前守、「笠朝臣不破麻呂」を日向守に任じている。

十五日に次のように詔されている・・・聞くところによると、去る天平字五(761)年は五穀が稔らず、飢え死にする者が多かったという。これを救うため五年以上前に公私の出挙の負債について、公のも物を偏在できない貧窮者には元利とも全免し、私出挙については利息を免除して、元本のみを回収するようにせよ。また、平城宮改作と保良宮の造営工事に使役される左右京・畿内の五ヶ國及び近江國の兵士等は、天平字六(762)年の田租をそれぞれ免除せよ・・・。

十七日に閤門に出御されて、五位以上の官人と蕃客、及び文武百官の主典以上の人々を饗応している。唐・吐羅(済州島など諸説あり)・林邑(ベトナム南部)・東國・隼人などの楽を演じ、内救坊(踏歌の教習所)の踏歌を奏でさせ、官人と客人の主典以上の者がつづいて踏歌を行っている。それに供奉した百官人と蕃客に、それぞれ真綿を賜っている。

この日、高麗大使の王新福が以下のように言上している・・・李家(唐王朝)の太上皇(玄宗)と少帝(肅宗)が二人とも崩御した。その後廣平王(代宗)が政治を執っているが、穀物が稔らず、人民は共食いの有様である。史家の朝儀(史思明の子)は聖武(大燕?)皇帝と称し、憐れみ深く思いやりがあり、多くの人物が心を寄せている。朝儀の軍隊の勢いは大変強く、敢えて敵対する者がない。鄧州(河南省南陽)や襄陽(湖北省襄陽)は既に史家に属し、唐の王室の李家はただ蘇州(長江河口南側)のみを保っている。このため朝貢の路が今では極めて通じにくくなっている・・・。

これを受けて大宰府に次のように勅されている・・・唐國では乱が起こり、李家と史家の両家が雄を競って争い、平穏になるのは期待できず、使節を通じることが難しい。このため沈惟岳(戸淨道に併記)等は暫く大宰府に安置し、特に手厚く物を支給せよ。唐客等の季節ごとの服装はいずれも大宰府庫の物を支給せよ。もし故國を懐かしむ情が深く、それでも帰郷を願い出る者がいれば、乗用の船と水手とを支給し、事を見計らって出発させよ・・・。

二十一日に内射を行っている。蕃客のなかで射に堪能な者には射手に参加させている。

<桑原王>
● 桑原王

桑内王桑田王は既に登場していたが、「桑原王」は記紀・續紀を通じて初見である。「桑原」の文字列そのものは、幾度か記載されていた。例えば古い所では、天武天皇紀の桑原連人足などが挙げられる。

勿論、桑=叒+木=山稜の端が細かく岐れて延びている様の地形を表していると思われる。調べると施基皇子(志貴皇子)の孫、何故か父親は”闕名”のようである。

いずれにせよ越前國江沼郡、現地名の北九州市門司区伊川の谷間を探索すると、それらしき地形を見出すことができる。「春日王」の南側に当たる場所である。伯父(叔父?)の白壁王の即位(光仁天皇)に伴って、他の従弟等と共に従四位下されることになる。

<田上王>
● 田上王

上記の「桑原王」と同様に無位からの初見で従五位下を叙爵されていることから、三世王であったことには違いがないであろう。

「田上」の文字列は、実に平凡な名称なのだが未出である。更にそれが表す地形も至る所に存在するものであろう。一に特定する上で、最も手の掛かる名前の持ち主なのである。

そんな背景で、穂積皇子系列として探索することにし、中でも坂合部王の子孫に関する情報は皆無であることから、その周辺の地に注目してみよう。

田上王の田上=田の上にあるところと読むと、図に示した場所の麓で平らに広がった様子が伺える。山稜の端が大きく延びた地形であり、その高台が出自と推定される。

<波多朝臣男足>
兎も角も特定するには情報が不足していることから、一つの候補地としておこう。この後幾度か登場されて正五位下にまで昇進されたようである。

● 波多朝臣男足

「波多朝臣」一族としては、久々の登場であろう。「波多眞人」一族とは近隣に住まうが、明確に線引きされていた(こちら参照)。

現地名では北九州市門司区大里東であり、前出の佐利翼津の背後の高台地に蔓延った一族と推定した。勿論、續紀が詳細に語ることはあり得ない。

既出の文字列である男足=男の形の山稜が足のように延びているところと読む解くと、その高台と谷間を挟んだ場所、現在の矢筈山の南西麓に当たるところと推定される。今回の叙爵以後には登場されないようである。

<大伴宿禰小薩-淨麻呂>
● 大伴宿祢小薩

「大伴宿祢」一族は途切れることがないようで、直近でも二名が登場していた(諸刀自・田麻呂)。勿論、当初の狭い谷間からはみ出た様相である。

同じようにはみ出るのだが、美濃麻呂等が広がった地域、現在は山口ダムとなって、大半が湖底に沈んだ場所があった。今回の人物名の小薩=端が三角に尖った山稜が並んで延び出ているところと読み解ける。

その地形を国土地理院航空写真1961~9年で確認することができる。「美濃麻呂」の東側、「百世」(美濃麻呂・百世の詳細はこちら参照)の北側に当たる場所である。今までの「大伴宿祢」一族の中で最も東側の地を出自とする人物だったと思われる。

別名で古薩とも記載されている。上図からも分かるように、山稜の端を「小」または「古」と見做したのであろう。暫く後に発生する謀反に加担したが、追討されて斬殺されたようである。

少し後に大伴宿祢淨麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。その後の活躍は續紀では記載されないようである。淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈すると図に示した場所が出自と思われる。

<笠朝臣不破麻呂-乙麻呂-比賣比止>
● 笠朝臣不破麻呂

「笠朝臣」一族からは、直近では眞足が従五位下を叙爵されて登場していた。断続的であるが、途絶えることなく続いている。但し、系譜の明確な人物は決して多くないようである。

調べると「不破麻呂」の父親は吉麻呂であったことが分かった。すると「諸石」の孫に当たる人物となる。

既出の文字列である不破=[不]の形に山稜が広がった麓に大きな段差があるところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。現在は溜池になっている地だが、当時にはなかったのではなかろうか。

弟に笠朝臣乙麻呂がいたことが知られている。「不破麻呂」の西側、山稜の端が「乙」字形に畝っている様に基づく名前と思われる。少し後に従五位下を叙爵されて登場する。父親の「吉麻呂」の居処は、些か曖昧であったが、息子等の登場で、その場所も明瞭になったようである。

後(称徳天皇紀)に妹の笠朝臣比賣比止が従五位下を叙爵されて登場する。名前が比賣比止と記載され、勿論、これは地形象形表記であろう。比賣比止=延び出た谷間が並んでいる先に両足を揃えて止まっているようなところと読み解ける。既に山稜の末端で標高差が少ない上に、些か地形変形が加わって判別し辛いが、図に示した辺りを表していると思われる。「止」を用いた名称は初見である。

<藤原惠美朝臣執棹>
● 藤原惠美朝臣執棹

藤原惠美朝臣押勝の九男と知られている。前出の兄等に併記できるが、少々図が複雑、それでなくとも現在の地形図では全く当時の面影はなくて判別が難しい状況である。

先ずは執棹の名前が表す地形を求めてみよう。「執」=「幸+丮」=「両手を差し出して手錠を掛けられている様」と解説されている。地形象形的には、「執」=「両腕のような山稜が延びて合わさった様」と解釈される。

「棹」=「木+卓」=「山稜が高く聳えている様」と読むと、纏めて執棹=高く聳える地を両手を延ばして抱えるように山稜が延びているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

何とか出自の場所を突き止められたのだが、余命は幾ばくもなかったようである。後に終焉の地である斬殺された場所が記載されるようである。

<大友村主廣公-廣道>
<清野造牛養(清野連)>
● 大友村主廣公

「大友」の氏名は、孝謙天皇紀に先祖が後漢人であって、高麗を経由して帰化した一族が分化して名乗った中に「大友史」等があったと記載されていた。「史」の使用を禁じられたために申し出があり、「直」姓を賜っている(こちら参照)。

彼等は大和國葛上郡・近江國神前郡などが居処であり、今回登場の大友村主もその地が出自かと思われたが、更に調べると、どうやら右京人だったように思われる。

ずっと後になるが、延暦六(787)年七月十七日に・・・右京人正六位上大友村主廣道。近江國野洲郡人正六位上大友民曰佐龍人。淺井郡人從六位上錦曰佐周興。蒲生郡人從八位上錦曰佐名吉。坂田郡人大初位下穴太村主眞廣等。並改本姓賜志賀忌寸・・・と記載されている。

各地に散らばっている一族を纏めて同一名(志賀忌寸)と改姓している。些か趣の異なる表記であるが、詳細は後日として、「右京人大友村主廣道」が冒頭に見える。この「廣道」も併せて出自の場所を求めてみよう。

大友=平らな頂の山稜が二つ並んで延びているところであり、廣公=谷間にある小高い地が広がっているところ廣道=首の付け根のような地が広がっているところと解釈すると、それぞれ申し分のない地形が見出せる。「大友」の山稜の端には、既にそれぞれ登場人物の居処と推定したが、その谷間の奥となる。

後(称徳天皇紀)に右京人清野造牛養が「清野連」姓を賜ったと記載される。清野=水辺で四角く囲まれた地が広がっているところ、頻出の牛養=牛の頭部のような谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「造」から「連」に昇格させた、のであろう。

<淨岡連廣嶋>
● 淨岡連廣嶋

「淨岡連」は初見、逸れもその筈で、調べると天智天皇紀に百濟滅亡時に亡命した鬼室福信一族に賜った氏姓であることが分かった。

その一人である「集信」の孫と伝わっている。尚、その出自場所を図に示していないが、「福信」の北隣辺りと思われる。

彼等を近江國蒲生郡に入植させたと記載されていたが、その後の消息は全く知り得ず、ここで初めてその地を出自とする人物が登場したことになる。残念ながら「蒲生」の山稜が広がり延びた地形は、団地とするのに極めて都合が良かったのであろう、現在は広大な二つの団地が並ぶ台地となっているようである。

挫けずに国土地理院航空写真1961~9年を引っ張り出して参照すると、当時の地形を伺うことが叶ったように思われる。淨岡連淨岡=水辺で両腕の形の山稜が取り囲んでいるような岡になっているところと解釈すると、現在の百合ヶ丘団地の場所を表していることが解る。廣嶋=山稜が広がった鳥の形をしているところであり、岡の中心辺りを示している。この後、幾度か登場されて、外位から内位へと昇進されたとのことである。

<贄土師連沙弥麻呂>
● 贄土師連沙弥麻呂

「贄土師連」に関する情報は極めて限られたもののようである。贄土師部として贄(神又は天皇に供する食べ物)の土器を制作する品部のように解説されているが、いずれにせよ土師連(宿祢)から分派した一族であろう。

それを根拠にして、「土師」一族の地の周辺が彼等の居処と推定して、現地名の北九州市門司区奥田辺りを探索する。

「贄」は既出の文字であり、贄=執+貝=執(幸+丮)+貝=両手を差し出したような山稜が谷間を抱え込んでいる様と解釈する。「執」は上記の藤原惠美朝臣執棹に用いられていた。

すると「土師宿祢」一族の大川を挟んだ対岸の山稜の地形にそれを見出すことができる。沙美麻呂に含まれる既出の沙弥(彌)=水辺で先が三角に尖って削り取られたようになっている傍らに弓なりに広がっているところと読み解ける。これらの地形要素を有する場所が出自と思われる。「贄土師連」としても、これっきりの登場であり、これ以上の情報を得ることは難しいようである。

<石上朝臣絲手>
● 石上朝臣絲手

「石上朝臣」一族は、それを賜った物部連麻呂の系列が続々と登場して来たが、この人物の系譜は伝わっていないようである。いずれにせよ「石上」=「磯の上」であって、極めて限られた地域である。

名前に含まれる「絲」=「糸+糸」であり、そのまま地形象形表記として解釈すると二つの山稜が並んでいる様を表わしていると思われる。

即ち絲手=二つの山稜が手のように延びているところと解釈される。更に「糸」には「小さい、微か、見えない」の意味を含む文字でもあり、山稜が判別されない状態を表していると思われる。図に示した場所の地形を「絲」で表記したのは、実に適切なものであろう。

上記本文の記載順列からすると女官だったと思われるが、その出自場所は豊庭の系列だったことを示しているようである。しかしながら、その系列については、全く伝えられておらず、「麻呂」とは対照的である。

<藤原朝臣乙刀自-今兒-人數-諸姉-宅美>
● 藤原朝臣乙刀自・藤原朝臣今兒・藤原朝臣人數

藤原惠美朝臣(南家)の女性たちに続いて、多くの女官して仕えた人物が記載されている。それにしても藤原一族からの登用は凄まじいばかりであろう。順次名前が示す地形の場所を求めてみよう。

乙刀自=乙の字形に延びる山稜の端に刀の地形があるところと解釈される。図に示した場所、鎌の先を「乙」で表記したと思われる。

次の今兒=覆い被さるように広がり延びた山稜の端に窪んだ地があるところと読み解ける。図では確認し辛いが、拡大すると凹になった形が見出せる。「袁比良女」と「永手」との間の場所と推定される。北家(房前)の系列と推測されるが、系譜は定かではないようである。

最後の人數(数)は、珍しい文字使いだが、「數」=「婁+攴」=「次々に連なり並んでいる様」と解釈される。すると人數=谷間が次々に連なり並んでいるところと読み解ける。一に特定するのが難しい表記なのだが、この女性は「良嗣」の娘と伝えられていることから、図に示した場所が出自と推定される。

後の称徳天皇紀に藤原朝臣諸姉、光仁天皇紀に藤原朝臣宅美が各々従五位下を叙爵されて登場する。「人數」と同じく「良嗣」の子と知られ、前者は後に「雄田麻呂」の室となり、後者は長男であったと知られている。

諸姉=交差するような耕地が谷間で寄り集まっているところ宅美=延び広がった山稜がある谷間が広がっているところと解釈されるが、やはり地図上の地形判別が難しく、父親の近接の地に住まっていたと推測するが、特定は困難のように思われる。

<池原公禾守>
● 池原公禾守

「池原公」は初見であり、調べると田邊史一族…後に上毛野公の氏姓を賜った…であったことが分かった。多分、「上毛野」が示す地形に合わない場所故に「池原」に改名されたのであろう。

禾守=稲穂のように山稜が延びた先に両肘を張ったような地があるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

池原公池=氵+也=水辺が曲がりくねっている様であるが、現在は池になっていて、当時の状況を把握することは叶わないようである。おそらく谷間を川が流れた野原に注いでいたのではなかろうか。

この後、幾度か問登場されて、内位に昇進されている。上記で関する情報を調べたと述べたが、通説は実に錯綜とした状況である。「田邊史」等と同祖であるが、そもそも「田邊史」が河内(和泉)國を居処していたこと、及び「上毛野朝臣」との関係が解明されていないことも併せて、混乱を極めているように思われる。