2022年12月14日水曜日

廢帝:淳仁天皇(13) 〔617〕

廢帝:淳仁天皇(13)


天平字六年(西暦762年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月庚戌朔。以外從五位下山田連古麻呂爲主税助。從五位上大伴宿祢御依爲義部大輔。外從五位下漆部直伊波爲贓贖正。從五位上巨勢朝臣淨成爲智部大輔。從五位下紀朝臣廣名爲少輔。從五位下高橋朝臣子老爲大膳亮。從五位下高橋朝臣老麻呂爲内膳奉膳。從五位下高圓朝臣廣世爲山背守。外從五位下坂上忌寸老人爲介。右大弁從四位下石河朝臣豊成爲兼尾張守。從四位下粟田朝臣奈勢麻呂爲遠江守。從五位上田中朝臣多太麻呂爲陸奥守。鎭守副將軍從五位下大伴宿祢益立爲兼介。外從五位下下道朝臣黒麻呂爲隱岐守。信部卿從三位氷上眞人塩燒爲兼美作守。外從五位下中臣酒人宿祢虫麻呂爲豊前員外介。丁巳。河内國狹山池堤决。以單功八万三千人修造。戊午。遠江國飢。賑給之。癸亥。尾張國飢。賑給之。丙寅。遣唐使駕船一隻自安藝國到于難波江口。著灘不浮。其柁亦復不得發出。爲浪所搖。船尾破裂。於是。撙節使人限以兩船。授判官正六位上中臣朝臣鷹主從五位下爲使。賜節刀。正六位上高麗朝臣廣山爲副。辛未。始置大宰弩師。壬申。勅越前國江沼郡山背郷戸五十烟施入岡寺。

四月一日、山田連古麻呂を主税助、大伴宿祢御依(三中に併記)を義部(刑部)大輔、漆部直伊波を贓贖正(罪人の資財の没収、罰金の収納、遺失物などを保管して官物にすること司の長官)、巨勢朝臣淨成を智部(宮内)大輔、紀朝臣廣名(宇美に併記)を少輔、高橋朝臣子老(國足に併記)を大膳亮、高橋朝臣老麻呂を内膳奉膳、高圓朝臣廣世(石川廣世)を山背守、坂上忌寸老人(犬養に併記)を介、右大弁の石河朝臣豊成(石川朝臣)を兼務で尾張守、粟田朝臣奈勢麻呂を遠江守、田中朝臣多太麻呂を陸奥守、鎭守副將軍の大伴宿祢益立を兼務で介、下道朝臣黒麻呂を隱岐守、信部(中務)卿の氷上眞人塩燒を兼務で美作守、中臣酒人宿祢虫麻呂を豊前員外介に任じている。

八日に河内國狹山池(狹山下池)の堤が決壊している。延べ八万三千人を動員して修造している。九日に遠江國で飢饉があったので物を恵み与えている。十四日に尾張國で飢饉があったので物を恵み与えている。

十七日に遣唐使の乗船一隻が建造地の安藝國より難波の江口に到着した時、早瀬に乗り上げ、浮かばなくなっている。その柂もまた動かなくなり、波に揺られて船尾も破裂してしまった。このため使人の数を切り詰めて、船二艘に乗れるだけの人員に限定している。判官の中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)に従五位下を授け、遣唐大使に任じ、節刀を賜っている。高麗朝臣廣山(背奈廣山)を副使に任じている。

二十二日に初めて大宰府に弩師(大弓を弾くことに長けた人、教官)を置いている。二十三日に勅によって、「越前國江沼郡山背郷」の五十戸を封戸として岡寺(義淵僧正が創建。その兄弟等に賜った氏姓[岡連]。場所は草壁皇子(岡宮御宇天皇)の宮跡)に施入している。

<越前國江沼郡山背郷>
越前國江沼郡

ほんの少し前に加賀郡が記載されていた。その時に以前に登場した各郡の場所を引用したが、再掲すると、角鹿郡羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡(能登國として分割)及び先読みになるが足羽郡(現在の伊川・柄杓田の境)も併せて述べた。

この時点で既に今回登場の江沼郡の場所は明らかとなっていたのである。加賀郡と足羽郡とに挟まれた地域であり、図では省略しているが、越前國守が置かれていた場所が含まれている。

また、施基皇子及びその子等の出自場所などをもこの郡に属することになる。そんな頻出の場所の郡名があからさまにされたようである。江沼郡の「江沼」は、その地の地形の特徴をどのように捉えているのであろうか?・・・。

既出の文字列である江沼=水辺で窪んだ地が腕を曲げたような形をしているところと読み解ける。現在の標高(およそ10m)から当時の水辺を推測して、初めて、この特異な地形を見出すことができる。「沼」も「池」も、それらが意味するところは現在のような用いられ方をしているのではない。

「加賀」もそうであったが、この「江沼」も通説で語られる由来は、いつもの如く納得できるものではない。全て忠実な地形象形表記なのである。この地にあった山背郷は、図に示した辺りと推定される。山間の地では、些か一に特定は難しいようなのだが、この周辺で最も高い山を背にしているところと推定した。

五月壬午。京師及畿内。伊勢。近江。美濃。若狹。越前等國飢。遣使賑給之。丁亥。美濃。飛騨。信濃等國地震。賜被損者穀家二斛。」石見國飢。賑給之。己丑。備前國飢。賑給之。丁酉。大宰府言。唐客副使紀喬容已下卅八人状云。大使沈惟岳。贓汚已露。不足率下。副使紀喬容。司兵晏子欽堪充押領。伏垂進止。府官商量。所申有實。報曰。大使副使並是勅使。謝時和与蘇州刺史。相量所定。不可改張。其還郷之祿亦依舊給。辛丑。高野天皇与帝有隙。於是。車駕還平城宮。帝御于中宮院。高野天皇御于法華寺。丙午。賜大師正一位藤原惠美朝臣押勝帶刀資人六十人。通前一百人。其夏冬衣服者官給之。

五月四日、京及び畿内・伊勢・近江・美濃・若狹・越前などの國で飢饉があったので使者を派遣して物を恵み与えている。九日に美濃・飛騨・信濃などの國で地震が発生している。損害を被った者には、家ごとに穀二石を賜っている。この日、石見國で飢饉があり、物を恵み与えている。十一日に備前國で飢饉があり、物を恵み与えている。

十九日に大宰府が以下のように言上して来ている・・・唐からの賓客の副使である紀喬容以下三十八人が書状を提出して[大使の沈惟岳は賄賂を取る不正行為がさきに発覚して、下の者を率いる資格はない。一方、副使の紀喬容と司兵の晏子欽は、統率の任に当たる相応しい人物である。どの人物を大使とするべきか、伏して裁断を示されたい]と告げている。そこで大宰府の官人が協議したところ、申告の内容は事実であった・・・。

これに対して、以下のように返答している・・・大使と副使は並びに勅使であり、中謁者の謝時和と蘇州刺史の李岵とが相談して定めたものである。従ってこれを改変するべきではない。彼等が故郷に還る際の禄もまた、以前からの慣例によって支給せよ・・・。

二十三日、高野天皇と帝(淳仁)との仲が悪くなっている。このため、高野天皇は保良宮から平城宮に還り、帝は中宮院に、高野天皇は法華寺(隅院近隣)に入御している。二十八日に大師の藤原惠美朝臣押勝(仲麻呂)に帯刀資人六十人を賜っている。以前と通算して百人であり、彼等の夏冬の衣服は公費から支給する、としている。

六月庚戌。喚集五位已上於朝堂。詔曰。太上天皇御命以〈弖〉卿等諸語〈部止〉宣〈久〉。朕御祖大皇后〈乃〉御命以〈弖〉朕〈尓〉告〈之久〉岡宮御宇天皇〈乃〉日繼〈波〉加久〈弖〉絶〈奈牟止〉爲。女子〈能〉繼〈尓波〉在〈止母〉欲令嗣〈止〉宣〈弖〉此政行給〈岐〉。加久爲〈弖〉今帝〈止〉立〈弖〉須麻〈比〉久〈流〉間〈尓〉宇夜宇也〈自久〉相從事〈波〉无〈之弖〉斗卑等〈乃〉仇〈能〉在言〈期等久〉不言〈岐〉辞〈母〉言〈奴〉。不爲〈岐〉行〈母〉爲〈奴〉。凡加久伊波〈流倍枳〉朕〈尓波〉不在。別宮〈尓〉御坐坐〈牟〉時自加得言〈也〉。此〈波〉朕劣〈尓〉依〈弖之〉加久言〈良之止〉念召〈波〉愧〈自弥〉伊等保〈自弥奈母〉念〈須〉。又一〈尓波〉朕應發菩提心縁〈尓〉在〈良之止母奈母〉念〈須〉。是以出家〈弖〉佛弟子〈止〉成〈奴〉。但政事〈波〉常祀〈利〉小事〈波〉今帝行給〈部〉。國家大事賞罸二柄〈波〉朕行〈牟〉。加久〈能〉状聞食悟〈止〉宣御命衆聞食宣。」尾張國飢。賑給之。戊辰。河内國長瀬堤决。發單功二万二千二百餘人修造焉。」散位從四位下榎本王卒。庚午。尚藏兼尚侍正三位藤原朝臣宇比良古薨。贈太政大臣房前之女也。賻絁百疋。布百端。鐵百廷。

六月三日に五位以上の官人を朝堂に呼び集めて、次のように詔されている(以下宣命体)・・・太上天皇(孝謙)の御言葉をもって、卿達皆に語り聞かせるようにと仰せなさるには、朕の母上の大皇后(光明)の御言葉をもって朕にお告げになるには、[岡宮で天下を統治された天皇(草壁皇子)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。それを防ぐために女子の跡継ぎではあるが、聖武のあとを汝(孝謙)に嗣がせよう]と仰せになり、それを受けて政治を行ったのである。---≪続≫---

こうして朕は淳仁を今の帝として立てて、年月を過ごしてきたところ、淳仁は朕に恭しく従うことはなく、それどころか身分の賤しい仇の者が話すように、言うべきはないことも言い、なすべきではないこともしてきた。およそこのように無礼なことを言われるような朕ではない。朕が別宮に住んでいるならば、そのようなことを言うことができようか。これは朕が愚かであるために、このように言うのであるらしいと思うと愧しく、みっともなく思う。---≪続≫---

また一つには、この度のことは朕に菩提の心を発させる仏縁であるらしいとも念われる。そこで朕は出家して仏の弟子となった。但し、政事のうち、恒例の祭祀など小さな事は今の帝(淳仁)が行われるように。国家の大事と賞罰との二つの大本は朕(孝謙)が行うこととする。このような事情を承り理解せよ、と仰せになる御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。この日、尾張國で飢饉があり、物を恵み与えている。

二十一日に「河内國長瀬堤」<卓杲智[御池造]近隣か?>が決壊している。延べ二万二百余人を動員して修造させている。この日、散位の榎本王がなくなっている。二十三日に尚藏(後宮の蔵司の長官)で尚侍(後宮の内侍司の長官)を兼任する藤原朝臣宇比良古(袁比良女。恵美押勝の妻。千尋に併記)が亡くなっている。贈太政大臣の「房前」の娘であった。絁百疋・鐵百挺を贈り弔っている。

秋七月丙申。散位從三位紀朝臣飯麻呂薨。淡海朝大納言贈正三位大人之孫。平城朝式部大輔正五位下古麻呂之長子也。仕至正四位下左大弁。拜參議。授從三位。病久不損。上表乞骸骨。詔許之。是月。送唐人使從五位下中臣朝臣鷹主等。風波無便不得渡海。

七月十九日に散位の「紀朝臣飯麻呂」が亡くなっている。淡海朝(天智)の大納言の「大人」の孫であり、平城朝(元明)の式部大輔の「古麻呂」の長子であった(こちら参照)。仕えて左大弁に至り、参議に任命され従三位を授けられた。病が久しく癒えず、上表文を上って辞職を願い出て、許されていた。

この月、唐人を送る使である中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)等は、風波に恵まれず、海を渡ることができなかった。

八月乙夘。勅。唐人沈惟岳等着府。依先例安置供給。其送使者。海陸二路量便咸令入京。其水手者。自彼放還本郷。丁巳。令左右京尹從四位下藤原惠美朝臣訓儒麻呂。文部大輔從四位下中臣朝臣清麻呂。右勇士率從四位下上道朝臣正道。授刀大尉從五位下佐味朝臣伊与麻呂等。侍于中宮院。宣傳勅旨。乙丑。陸奥國疫。賑給之。丙寅。御史大夫文室眞人淨三。以年老力衰。優詔特聽宮中持扇策杖。

八月九日に次のように勅されている・・・唐人の沈惟岳等は、大宰府が先例に従って安置し、必要な物を供給せよ。送る使は渡海を止め、海陸二路の都合の良い方を利用し、悉く京へ参入させよ。水手達については、現地から故郷へ自由に帰らせるように・・・。<通説における大宰府~京の位置関係では、水手の解放はあり得ないのでは?…陸路は全く不詳であろう>

十一日に左右京尹の藤原恵美朝臣訓儒麻呂(久須麻呂。眞從に併記)、文部(式部)大輔の中臣朝臣清麻呂(東人に併記)、右勇士(右衛士)率の上道朝臣正道(斐太都)、授刀大尉の佐味朝臣伊与麻呂等を中宮院に侍らせて、勅旨を宣布・伝達させている。十九日に陸奥國で疫病が流行したので物を恵み与えている。二十日、御史大夫の文室眞人淨三(智努王)を老齢で体力が衰えているため、懇ろな詔を下して、特別に宮中で扇を持ち、杖を突くことを許している。

九月乙巳。御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勳十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。詔遣攝津大夫從四位下佐伯宿祢今毛人。信部大輔從五位上大伴宿祢家持。弔賻之。年足者。後岡本朝大臣大紫蘇我臣牟羅志曾孫。平城朝左大弁從三位石足之長子也。率性廉勤。習於治體。起家補少判事。頻歴外任。天平七年。授從五位下。任出雲守。視事數年。百姓安之。聖武皇帝善之。賜絁卅疋。布六十端。當國稻三万束。十九年。至從四位下春宮大夫兼左中弁。拜參議。勝寳五年授從三位。累遷至中納言兼文部卿神祇伯。公務之閑。唯書是悦。寳字二年授正三位。轉御史大夫。時勅公卿各言意見。仍上便宜。作別式廿卷。各以其政繋於本司。雖未施行。頗有據用焉。

九月三十日に御史大夫の文武卿で神祇伯を兼務する勲十二等の石川朝臣年足が亡くなっている。時に年は七十五歳であった。詔されて、攝津大夫の佐伯宿祢今毛人と信部(中務)大輔の大伴宿祢家持を遣わし、物を贈って弔っている。「年足」は後岡本朝(斉明)の大臣・大紫(正三位相当)の蘇我臣牟羅志(連子)の曽孫であり、平城朝(聖武)の左大弁の「石足」の長子であった。生まれつき無欲・勤勉で、世の中の治め方に習熟しており、初めての任官で少判事を任ぜられた。しきりに地方官を歴任し、天平七(735)年には従五位下を授けられ、出雲守に任ぜられた。

政務を執り行うこと数年で、人民が満足したので、聖武皇帝はこれを善しとして、絁三十疋・麻布六十端・出雲の稲三万束を賜った。天平十九(747)年には従四位下で春宮大夫兼左中弁に至り、参議に任命され、天平勝寶五(753)年には従三位を授けられ、次々に官職を重ねて中納言兼文武卿・神祇伯に至った。公務の合間には、読書を唯一の楽しみとした。天平字二(758)年には正三位を授けられ、御史大夫に転じた。そのころ淳仁天皇は公卿に勅して、国政に対する各人の意見を言わせた。そこで「年足」は政務の便宜になることを上奏し、『別式』二十巻を制作して、それぞれの政務を役所ごとに分類した。未だこれは施行されていないが、準拠として大いに利用されている。

冬十月丙午朔。正六位上伊吉連益麻呂等。至自渤海。其國使紫綬大夫行政堂左允開國男王新福已下廿三人相隨來朝。於越前國加賀郡安置供給。我大使從五位下高麗朝臣大山。去日船上臥病。到佐利翼津卒。甲寅。讃岐守從四位下大伴宿祢犬養卒。己未。夫人正三位縣犬養宿祢廣刀自薨。賻絁百疋。絲三百絢。布三百端。米九十石。夫人者讃岐守從五位下唐之女也。聖武皇帝儲貳之日。納爲夫人。生安積親王。年未弱冠。天平十六年薨。又生井上内親王。不破内親王。

十月一日に遣渤海副使の「伊吉連益麻呂」等が渤海より帰っている。その國の使である紫綬大夫・行政堂左允・開國男の王新福以下二十三人も随行して来朝している。越前國加賀郡において安置し、必要な物を供給している。我が國の大使である高麗朝臣大山(背奈大山)は、先ごろ船上において病に伏し、「佐利翼津」に到って亡くなっている。九日、讃岐守の大伴宿祢犬養(三中に併記)が亡くなっている。

十四日に聖武天皇夫人の「縣犬養宿祢廣刀自」が亡くなっている。絁百疋・絹糸三百絢・麻布三百端・米九十石を贈り弔っている。夫人は讃岐守の「唐」の娘であった(こちら参照)。聖武皇帝がまだ皇太子の時に入内して夫人となり、安積親王を生んだ。「親王」は弱冠(二十歳)に満たずして、天平十六(744)年に亡くなっている。また、夫人は井上内親王不破内親王(安積親王に併記)を生んだ。

<伊吉連益麻呂-眞次>
● 伊吉連益麻呂

「伊吉連」一族の登場人物は、伊吉連博徳伊吉連古麻呂であった。おそらく同族であろうが、淳仁天皇紀になって壹岐史山守が「伊吉造」の氏姓を賜っていた。

現地名では壱岐市芦辺町箱崎中山触及び大左右触が彼等の出自の場所と推定した。現在の行政区分が対応していることが伺える。

益麻呂の系譜は不詳であり、中山触の地で名前が示す地形を探すと、図に示した場所が見出せる。既出の益(益)=八+一+八+皿=谷間に挟まれた台地が平らに広がっているところと解釈した。麻呂=萬呂として出自の場所が特定される。現在は池になっているが、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、それ以降に造成された池のようである。

副使に任じられた記載はなく、大使の「大山」の不慮の出来事に対応した人事と思われるが、渤海の随行者を無事に連れ帰った功績が認められることになるようである。

後(称徳天皇紀)に伊吉連眞次が銭を献上して外従五位下を叙爵されたと記載される。眞次=欠伸をするように開いた谷間が寄り集まって窪んだところと解釈される。図に示した益麻呂の西側の谷間が出自と推定される。壱岐でも開拓が着実に進捗していたのであろう。それにしても”高天原”はどうなったのであろうか?・・・。

<佐利翼津>
佐利翼津

渤海からの帰途で着岸した場所の名称である。前記で述べたように、渤海の使者等が上陸した後に散々な目に遭って出羽國で保護されたことから、その上陸地点は、古事記の出雲國と推定した(こちら参照)。

續紀と雖もこれはあからさまに記述することはできず、”蝦夷との境界の地”と曖昧な表現に止めていた。

渤海人等を安置した場所が、出羽國ではなく加賀郡と記載される。現地名で述べれば、上陸地点から向かう峠が鹿喰峠(出羽國)、淡島神社近隣の峠(加賀郡)となり、前者は直入ルートとなる。そのため雄勝城を造り、防衛体制を整えていた。迂回ルートである加賀郡へ安置したのは、実に合理的な処置であったことが解る。

そして明かされた上陸地点の名称は、古事記で記載された”淡海”に面する伊那佐之小濱と推測した。佐利翼津佐利翼=谷間にある左手のような地(佐)が切り分けられて(利)鳥の翼のように広がっているところと読み解いた。上図に地形象形表記として紐解いた結果を示した。

「佐利翼津」に関する情報は殆ど見当たらないが、前出の出羽國に設置された避翼驛家との推測がある。「翼」に着目されたのであろうが、無謀である。通説の國郡配置に基づくと、越前國加賀郡より更に500km以上も東方にある出羽國で着岸し、戻って加賀郡に安置したのでは、全く意味不明の解釈となろう。

十一月乙亥朔。以正六位上借緋多治比眞人小耳。爲送高麗人使。丁丑。遣御史大夫正三位文室眞人淨三。左勇士佐從五位下藤原朝臣黒麻呂。神祇大副從五位下中臣朝臣毛人。少副從五位下忌部宿祢呰麻呂等四人。奉幣於伊勢太神宮。庚寅。遣參議從三位武部卿藤原朝臣巨勢麻呂。散位外從五位下土師宿祢犬養。奉幣于香椎廟。以爲征新羅調習軍旅也。庚子。奉幣及弓矢於天下神祇。壬寅。遣使奉幣於天下群神。

十一月一日に借緋(五位の衣服を着用)の正六位上の「多治比眞人小耳」を高麗(渤海)人を送る使に任じている。三日に御史大夫(大納言)の文室眞人淨三(智努王)、左勇士(左衛士)佐の藤原朝臣黒麻呂、神祇大副の中臣朝臣毛人(麻呂に併記)、少副の忌部宿祢呰麻呂等四人を遣わして、幣帛を伊勢太神宮に奉らせている。

十六日に参議で武部(兵部)卿の藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)と散位の土師宿祢犬養(祖麻呂に併記)を遣わして、幣帛を香椎廟(香椎宮)に奉らせている。新羅を征討する目的で、軍隊を調習するためである。二十六日に幣帛と弓矢を全國の神祇に奉っている。二十八日に使者を遣わして、幣帛を全國の郡神に奉らせている。

<多治比眞人小耳-古奈弥>
● 多治比眞人小耳

「多治比眞人」一族も連綿と人材輩出であるが、直近では土作犬養が登場していた。一方で廣足が亡くなったりして、世代交代が進んでいたことが伺える。

例によって系譜が知られているのは限られていて、「小耳」に関する情報も見当たらないようである。と言う訳で、名前が示す地形から出自の場所を求めてみよう。

既出の文字列である小耳=三角に尖った耳のようなところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。廣成・廣足の間である。

送使の大役を果たすには若かったのか、その年齢の割には有能であったのかもしれない。この後、幾度か登場され、任務終了後に昇進されているようである。

後(称徳天皇紀)に多治比眞人古奈弥が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳で、名前が表す地形から出自場所を求めると、図に示した辺りと推定される。既出の文字列である古奈弥(彌)=丸く小高い地の麓の高台が弓なりに広がっているところと読み解ける。「廣足」の後裔だったのかもしれない。

十二月乙巳朔。授從四位上藤原惠美朝臣眞光正四位上。以御史大夫正三位文室眞人淨三爲兼神祇伯。從三位氷上眞人塩燒。從三位諱。從三位藤原朝臣眞楯爲中納言。眞楯爲兼信部卿。正四位上藤原惠美朝臣眞爲大宰帥。又以從三位藤原朝臣弟貞。從四位下藤原惠美朝臣訓儒麻呂。藤原惠美朝臣朝獵。中臣朝臣清麻呂。石川朝臣豊成爲參議。乙夘。遣高麗大使從五位下高麗朝臣大山贈正五位下。授副使正六位上伊吉連益麻呂外從五位下。判官已下水手已上各有差。

十二月一日に藤原恵美朝臣眞先(眞光)に正四位上を授けている。御史大夫の文室眞人淨三(智努王)に神祇伯を兼任させ、氷上眞人塩燒、諱(白壁王)、及び藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)を中納言に任じ、「眞楯」には信部(中務)卿を兼任させ、「眞先」を大宰帥に任じている。また藤原朝臣弟貞(山背王)、藤原恵美朝臣訓儒麻呂(久須麻呂)、藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)中臣朝臣清麻呂(東人に併記)、及び石川朝臣豊成を参議に任じている。

十一日に遣高麗大使の高麗朝臣大山(背奈大山。帰途に病死)に正五位下を贈り、副使の伊吉連益麻呂に外従五位下を授け、判官から水手に至るまでそれぞれ位を進めている。

閏十二月丙子。以中納言從三位氷上眞人塩燒。復爲兼美作守。丁亥。配乞索兒一百人於陸奥國。便即占着。癸巳。高麗使王新福等入京。己亥。以從五位上田中朝臣多太麻呂。爲陸奥守兼鎭守副將軍。

閏十二月二日に中納言の氷上眞人塩燒に再び美作守を兼任させている。十三日に乞索児(乞食)一百人を陸奥國に配属し、すぐに土地を与えて住み着かせている。十九日に高麗(渤海)の使の王新福等が京に入っている。二十五日に田中朝臣多太麻呂に陸奥守と陸奥鎮守副将軍を兼任させている。