2022年12月7日水曜日

廢帝:淳仁天皇(12) 〔616〕

廢帝:淳仁天皇(12)


天平字六年(西暦762年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月庚辰朔。廢朝。以宮室未成也。辛巳。日有蝕之。癸未。帝臨軒。授三品船親王二品。正四位上紀朝臣飯麻呂從三位。无位榎本王從四位下。荻田王從五位下。正五位上粟田朝臣奈勢麻呂。中臣朝臣清麻呂。石川朝臣豊成並從四位下。從五位上阿倍朝臣子嶋正五位下。從五位下石川朝臣人成。巨勢朝臣淨成並從五位上。正六位上息長丹生眞人國嶋。路眞人鷹養。中臣朝臣伊加麻呂。阿倍朝臣小路。阿倍朝臣息道。石上朝臣奥繼。大伴宿祢田麻呂並從五位下。正六位上守部垣麻呂。船連小楫並外從五位下。」以中納言正三位文室眞人淨三爲御史大夫。信部卿從三位氷上眞人塩燒。鎭國衛驍騎將軍兼美濃飛騨信濃按察使從四位上藤原惠美朝臣眞光並爲參議。」授從四位上氷上眞人陽侯正四位下。正六位上紀朝臣眞艫。從六位上安曇宿祢夷女。從七位下車持朝臣塩清。无位當麻眞人多玖比礼並從五位下。乙酉。遣參議從四位上藤原惠美朝臣眞光。饗唐人沈惟岳等於大宰府。賜大使以下祿有差。戊子。以信部少輔從五位下紀朝臣牛養爲兼少納言。從五位上阿倍朝臣毛人爲左中弁。從四位下石川朝臣豊成爲右大弁。從五位上大伴宿祢家持爲信部大輔。外從五位下忌部連黒麻呂爲内史局助。從四位下宗形王爲右大舍人頭。從五位下淡海眞人三船爲文部少輔。從五位下中臣朝臣伊加麻呂爲礼部少輔。從四位下林王爲木工頭。從五位上上毛野公廣濱爲左京亮。外從五位下茨田宿祢枚野爲東市正。從五位下阿倍朝臣許智爲攝津亮。從五位上巨曾倍朝臣難破麻呂爲造宮大輔。外從五位下椋垣忌寸吉麻呂爲右平準令。從五位下笠朝臣眞足爲右勇士翼。從五位上高元度爲參河守。從五位下阿倍朝臣小路爲近江介。從五位下阿倍朝臣息道爲若狹守。外從五位下日置造蓑麻呂爲丹波介。從五位上河内王爲丹後守。從五位上長野連公足爲因幡守。從五位下石上朝臣奥繼爲播磨介。從五位下大野朝臣廣立爲肥前守。從五位下百濟王理伯爲肥後守。從五位下田口朝臣大戸爲日向守。丁未。造東海。南海。西海等道節度使料綿襖冑各二万二百五十具於大宰府。其製一如唐國新樣。仍象五行之色。皆畫甲板之形。碧地者以朱。赤地者以黄。黄地者以朱。白地者以黒。黒地者以白。毎四千五十具成一行之色。

正月一日、朝賀を取り止めている。保良宮の宮室が未完成のためである。二日に日蝕があったと記している。

四日に宮殿の端近くに出御されて、船親王に二品、紀朝臣飯麻呂に從三位、「榎本王」に從四位下、「荻田王」に從五位下、粟田朝臣奈勢麻呂中臣朝臣清麻呂(東人に併記)石川朝臣豊成に從四位下、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)に正五位下、石川朝臣人成巨勢朝臣淨成に從五位上、「息長丹生眞人國嶋」・「路眞人鷹養」・「中臣朝臣伊加麻呂」・「阿倍朝臣小路」・「阿倍朝臣息道」・石上朝臣奥繼(宅嗣に併記)大伴宿祢田麻呂(諸刀自に併記)に從五位下、守部垣麻呂(守部連牛養に併記)・「船連小楫」に外從五位下を授けている。

この日、中納言の文室眞人淨三(智努王)を御史大夫、信部(中務)卿の氷上眞人塩燒と鎭國衛驍騎將軍兼美濃飛騨信濃按察使の藤原恵美朝臣眞光(眞先。眞從に併記)を參議に任じている。また、氷上眞人陽侯(陽胡女王。氷上眞人塩燒に併記)に正四位下、「紀朝臣眞艫」・安曇宿祢夷女(刀に併記)・「車持朝臣塩清・當麻眞人多玖比礼」に從五位下を授けている。

六日に参議の藤原恵美朝臣眞先(眞光)を派遣して、唐人の沈惟岳(戸淨道に併記)等を大宰府で饗応させている。大使以下にはそれぞれ禄を賜っている。

九日に信部(中務)少輔の紀朝臣牛養を兼少納言、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を左中弁、石川朝臣豊成を右大弁、大伴宿祢家持を信部(中務)大輔、忌部連黒麻呂(忌部首)を内史局(図書寮)助、宗形王を右大舍人頭、淡海眞人三船(御船王)を文部(式部)少輔、「中臣朝臣伊加麻呂」を礼部(治部)少輔、林王を木工頭、上毛野公廣濱(田邊史廣濱)を左京亮、茨田宿祢枚野を東市正、阿倍朝臣許智(許知。駿河に併記)を攝津亮、巨曾倍朝臣難破麻呂(陽麻呂に併記)を造宮大輔、椋垣忌寸吉麻呂を右平準令、笠朝臣眞足を右勇士翼、高元度を參河守、「阿倍朝臣小路」を近江介、「阿倍朝臣息道」を若狹守、日置造蓑麻呂(父親眞卯に併記)を丹波介、「河内王」(河内女王近隣)を丹後守、長野連公足(君足)を因幡守、石上朝臣奥繼を播磨介、大野朝臣廣立(廣言)を肥前守、百濟王理伯(①-)を肥後守、田口朝臣大戸を日向守に任じている。

二十八日に東海・南海・西海などの三道の節度使が用いる真綿を入れた上着と冑をそれぞれ二万二百五十具ずつ、大宰府で造らせている。その製法は全て唐國の新様式に従い、五行の色(碧・赤・黄・白・黒)に則り、皆その上に甲板の形を画き、碧地には朱色の線、赤地には黄色で描き、白地には黒色、黒地には白色の線で描き、四千五十具ごとに一行の色としている。

<榎本王>
● 榎本王

相変わらず出自不詳の王の一人である。初見で従四位下と記載されていることから、ほぼ間違いなく舎人親王の孫であろう。

前記で三嶋王・守部王の子等が一挙に叙爵されたと述べられていて、調べると系譜が残っていたことが分かった。求めた出自場所は、その系譜通りに配置されていたことも明らかになった。

榎本王榎=木+夏=山稜が覆い被さるように延びた様と解釈した。物部一族(物部朴井連)の榎井朝臣に用いられた文字である。本=木+一=山稜が途切れた様と解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。

配置からすると、「守部王」あるいは「池田王」の子かと推測されるが、上記の如く記録が残っていなかったのであろう。とすれば、弟の大炊王(淳仁天皇)が即位し、親王となったが、その少し後に臣籍降下、更に政変に関わって流罪を科せられた「池田王」の子の一人だったのかもしれない。

<荻田王>
散位の「榎本王」は、この後半年余り後に亡くなったと記載されている。皇太子選別の際の孝謙天皇の人物評価の通り、自由奔放な「池田王」に凋落の気配が忍び寄っていたようである。

● 荻田王

上記と同じく出自不詳の王である。初見の叙爵が従五位下であるから、舎人親王とは、遠縁の関係と推測される。手掛かりは、名前のみであり、先ずは文字解きから進めてみる。

荻田王の「荻」は、散見される程度で人名に用いられた形跡はないようである。「荻」=「艸+犭(犬)+火」と分解すると、地形象形の要素から成る文字であることが解る。それに従えば荻=平らな頂の山稜が[火]の形をしている様と読み解ける。関連するところでは、越後蝦狄が思い起こされる。

明瞭な「火」の形を示す場所と言えば、古事記の味白檮之言八十禍津日前と表記された場所であろう。前記で登場した春日女王もこの地を出自とするとしたが、荻田王は、その少し前、金辺川寄りの場所であったと思われる。

<息長丹生眞人國嶋-大國>
● 息長丹生眞人國嶋

「息長丹生眞人」の表記は初見である。既に「息長眞人」として幾人かの人物が登場していた。例えば持統天皇紀ではがあり、その「老」が亡くなってから後に臣足・麻呂・名代等の名前が記載されている。

同じ「息長」の地を居処とする一族なのだが、系列が異なっていたのであろう。付加された丹生=谷間の隙間から山稜が生え出て延びているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。

この地は、古事記で「倭建命」の息長系子孫が詳細に記述され、「息長眞若中比賣」の居処を求めることができた。祖父が「息長田別王」、父親が「杙俣長日子王」であり、その比賣を「品陀和氣命」(応神天皇)が娶って、後に皇統に絡む血筋となったようである(こちら参照)。これが「息長眞人」とせずに「息長丹生眞人」と記載する由来と推測される。

前書きが長くなったが、國嶋=囲まれた地の傍らで山稜が鳥の形をしているところと解釈すると、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。当時の海面を考慮しても谷間の奥近くであったと思われる。また後に息長丹生眞人大國が幾度か登場する。大國=平らな頂の山稜が(海に)囲まれているところと解釈される。出自場所は図に示した通りと思われる。

<路眞人鷹養-石成-玉守>
● 路眞人鷹養

「路眞人」一族では、直近では宮守・野上であり、「野上」は「迹見(登美)」の子らしいのであるが、「宮守」は定かではない。断片的な系図が残存しているのみなのであろう。

いずれにせよ”登美”の谷間に蔓延った一族と思われる。鷹養の文字列は阿倍朝臣鷹養で登場していて、鷹養=山麓で二羽の鳥(隹・鳥)がくっ付いている谷間がなだらかに延びているところと解釈した。

現在の起伏表示の航空写真を示したが、「宮守」の更に下流域を表していると思われる。別名の鷹甘の「甘」が「養」の「谷間から舌を出したような様」を表していることが解る。いつものように異なる視点で地形を表現しているのである。

後(光仁天皇紀)に路眞人石成路眞人玉守が従五位下を叙爵されて登場する。石成=山麓で小高くなった地に麓で平らに整えられたところ玉守=勾玉のような地の麓で山稜が両肘を張り出して囲んだようなところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。

既に谷間の出口に近付き、残るは対岸の崖状の地となるが、果たして更なる登場人物の名前が合致するのであろうか、楽しみでもあるが・・・。

<中臣朝臣伊加麻呂-鷹主-竹成>
● 中臣朝臣伊加麻呂

調べると名代の子であることが分かった。兄弟の人足系列と合わせて、狭い谷間に多くの人物が登場し、一つの図に纏めるには煩雑になるので、改めて右図を掲載した。

地形上「名代」の子として残された谷間は、図に示した東隣しかないのであるが、果たして名前がそれを表しているのか?…そんな杞憂は不要のようである。

伊加麻呂に含まれる頻出の文字列である伊加=谷間に区切られた山稜が押し開くよなところと読み解ける。何度か同一名の人物が登場していた。別名として知られている伊賀麻呂は、更に明解であろう。

直ぐ後に中臣朝臣鷹主が従五位下を叙爵され、遣唐大使に任じられている。「伊加麻呂」の弟であったことが知られている。ここに来て多用されている鷹=广+人+隹+鳥=山麓に鳥の形の山稜が並んでいる様と解釈したが、その地形を確認することができる。図に示した場所が出自と推定される。

更に後に六男の中臣朝臣竹成が伊勢太神宮への使者に任じられているが、その後に登場されることはなく、叙位の記述も見当たらないようである。竹成=竹のように真っ直ぐに延びた山稜が平らになったところと解釈される。出自の場所は「鷹主」の南側の谷間辺りと思われる。

上記と同じく、そろそろ残された谷間が尽きる状態に差掛っているいるが、果たして如何なることになるのやら。杞憂は尽きない、ようである。

<阿倍朝臣小路-息道-淨目>
● 阿倍朝臣小路・阿倍朝臣息道

まだまだ続いて登場する「阿倍朝臣」一族であるが、系譜が不詳では出自の場所を求めるには一苦労させられるようである。

先ず名前が表す地形は、小路=三角に尖った山稜の傍らにある通路のようなところと読み解ける。「路」は上記の「路眞人」の地形のように谷間を表していると解釈される。

次の阿倍朝臣息道息道=首の付け根の形の地から隙間を突き通すような谷間が延びているところと読み解ける。別名に奥道が知られていて、奥道=奥に首の付け根の形の地があるところと解釈される。

後に阿倍朝臣淨目が従五位下を叙爵されて登場する。その後も各地の地方官を任じられたと記載されている。淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈した。「目」は「廣目」に通じ、息子だったのかもしれない。図に出自の場所を示した。

これらの地形を探索すると、図に示した場所が見出せる。以前にも述べたが、この地は広大な霊園になっているが、元々の地形が随所に残存していることが分かる。宅地開発されては全く当時を偲ぶことは叶わないが、ゴルフ場のように過去の地形を残しながら開発されたのであろう。

<船連小楫>
● 船連小楫

「船連」一族も多くの人材を供給して来たのであるが、直近では吉麻呂・夫子の名前が挙げられている。その時にも、既に多くの谷間が埋められて、果たして残りはあるのか?…と杞憂していたことを思い出す。

ところが、何と、「船連」の由来である「船」の地を居処を持つ人物は未だ登場していなかったのである。辛うじてがそれに近い場所を出自としていたと推定した。

小楫=三角に尖った山稜に船の梶のような山稜が延び出ているところと読み解ける。実に辻褄のあった地形象形表現と思われる。正に”由緒”正しき名前なのであるが、續紀にこの後登場されることはないようである。

<紀朝臣眞艫>
● 紀朝臣眞艫

「紀朝臣」一族からの登用は途絶えることがなく、連綿と続いていて、その領域の隅々まで広がっている様子が伺える。そして、現地名の豊前市の山稜と推定した領域の確からしさが明らかになりつつあるように思われる。

眞艫の系譜は不詳であり、名前を頼りにその地を探索すると、図に示した場所が見出せる。眞艫=船尾のような地が寄せ集められているところは特徴的であろう。

また、この地は書紀の孝徳天皇紀で登場した紀麻利耆拕臣・朝倉君・井上君の近隣であり、聖武天皇紀に外従五位下を叙爵された朝倉君時の西側に当たる場所である。正に埋め尽くされつつある様相であろう。續紀での登場は、これが最初で最後である。

<車持朝臣鹽淸>
● 車持朝臣塩清

「車持朝臣」は、天武天皇紀の『八色之姓』で「車持君」と記載され朝臣姓賜ったと記載されている。古事記に「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」の上毛野君の子孫と知られている。

現地名の築上郡上毛町にある上毛中学校辺りを居処とする一族であったと推定した。書紀が天皇の乗輿に関わったから賜った氏姓と記述するのは、この地形が極めて特徴的でいとも簡単にその場所を突き止められるからであろう。書紀の”口車”に乗っかっては、古代は見えない。

續紀になって具体的な人物が登場するのは、元明天皇紀の車持朝臣益であり、その後に幾人かが登場している。全て”車と持ち手”の近辺に配置することができる。

あらためて塩清の場所を図に示すことにする。旧字体で表記すると、鹽淸=鑑のように平らで水辺で四角く取り囲まれたところと解釈される。当時の地形とは大きく異なっている場所であるが、図に示した場所が出自と思われる。この人物も續紀での登場は、これが最初で最後である。

<當麻眞人多玖比禮-吉嶋>
● 當麻眞人多玖比礼

上記の「紀朝臣」一族と同様に途切れることなく人材輩出の「當麻眞人」一族である。淳仁天皇の母親、山背(老の娘)が正三位に叙爵されたりしていた。

多くの谷間が埋め尽くされようとしているが、多玖比礼の名前が示す地形を求めてみよう。比礼(禮)は既に登場していて、比禮=高台が揃って並んでいるところと解釈した。

多玖多=山稜の端が三角になっている様であるが、久々に登場の「玖」をあらためて読み解くと、玖=王+久=[く]の字形に曲がっている山稜(久)が連なっている(王)様となろう。古事記で多用される表記である。

「多玖」と「比禮」の地形を合せ持つ場所が図に示したところと推定される。當麻の東端に位置する地であろう。たった一度の叙位を賜る人物達は、それぞれの地域の全体像を示す役割を担っていたかのようである。重要な記述となるが、名前が読み解けなければ、単に人物名の羅列、面白くない!…”欠史八代”と同じく、勿体ない話であろう。

直ぐ後に當麻眞人吉嶋が従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である吉嶋=蓋をするように延びる山稜が鳥の形をしているところと読み解ける。「多玖比礼」の北側、鏡麻呂との間の場所が出自と推定される。既に登場していても良さそうな名前であるが、初見である。「鳥」が「蓋」する地形は、希少なのであろう。

二月辛亥。授從一位藤原惠美朝臣押勝正一位。乙夘。造綿甲冑一千領以貯鎭國衛府。辛酉。簡點伊勢。近江。美濃。越前等四國郡司子弟及百姓。年卌已下廿已上練習弓馬者。以爲健兒。其有死闕及老病者。即以與替。仍准天平六年四月廿一日勅。除其身田租及雜徭之半。其歴名等第。毎年附朝集使送武部省。甲戌。賜大師藤原惠美朝臣押勝近江國淺井高嶋二郡鐵穴各一處。

二月二日に藤原恵美朝臣押勝(仲麻呂)に正一位を授けている。六日、真綿入りの甲・冑一千領を造り、これを鎮護衛(中衛府)の府(庫)に貯えている。

十二日に伊勢・近江・美濃・越前など四國の郡司の子弟及び人民の中から、年が四十以下二十以上で、弓馬の訓練のできている者を選抜して、これを健児としている。死亡による欠員が老人・病者があれば、直ちに交替要員を出させる。そして天平六(734)年四月二十一日の勅に準拠して、その健児が納める田租と雑徭の半分を免除し、彼等の名簿と序列とは毎年、朝集使に託して武部(兵部)省に送らせるようにしている。

二十五日に大師の藤原恵美朝臣押勝(仲麻呂)に「近江國淺井・高嶋二郡」の鐵穴を各一ヶ所賜っている。

近江國:淺井郡・高嶋郡

<近江國淺井郡・高嶋郡>
近江國の郡については、書紀の天智天皇紀に、百濟からの亡命者を入植させた蒲生郡・神前郡(後に神埼郡と表記)が登場した。

その後元正天皇の行幸の際に志我郡・依智郡が記載されていた。更に聖武天皇の行幸で坂田郡野洲頓宮(郡)志賀郡の存在が明らかにされている。

また廬舎那仏の造立が着手された地として甲賀郡が登場する。短命の「紫香樂宮」(甲賀郡紫香樂村)があった地である。

淺井郡の既出の文字である淺=氵+戈+戈=水辺で幾つかの戈のような山稜が延びている様と解釈したが、その地形は元正天皇紀の「志我郡」の地形の別名表記と解釈される。「志我郡」と「志賀郡」の混在を回避したのであろう。こちらは、決して別名表記ではない。

高嶋郡高嶋=皺が寄ったような山稜が鳥の形をしているところと解釈した。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に記載された吉備之高嶋宮に用いられた文字列である。この山稜の嶺には高安城があったと推定した。その南西麓に当たる場所である。蘇我高麗の出自場所と推定したところでもある。

鐵穴の地形象形表記は山稜に挟まれた長く深い谷間の麓にある高台の先端が尖った戈のようになっているところと解釈した。その典型的な地形から「依智郡」(下記では愛知郡)にあったと推定したが、淺井・高嶋郡にも、それらしき小ぶりな「鐵穴」が多数確認される。その一ヶ所、特定困難な表現であるが、敢えて明記しなかったのであろう。

「淺井郡・高嶋郡」を含めた三郡は、高安城のあった山稜の東西の麓を占める郡であることが解る。この山塊が鉄鉱石の産地だったのであろう。今は、苅田アルプスと呼称されているそうである。

<近江國各郡>

近江國全体の郡割を上図に纏めた。未だ登場していない郡も含めて近江國全ての領域を表している。蘇賀石河宿祢が切り拓いた蘇賀、その地で隆盛をなした蘇我一族、連綿と人材を輩出する大伴・佐伯一族、及び犬上一族など日本の古代を彩った人物の出自の地である。

尚、未登場の幾つかの郡については、西から栗太郡栗太=栗の木のように延びた山稜が広がっているところ伊香郡伊香=谷間に区切られた山稜(伊)の窪んだ地から山稜が延び出ている(香)ところ愛知郡愛知=山稜が延びて尽きる(愛)地に鏃の形の山稜(知)があるところ(元正天皇紀の依智の別名表記)と解釈される。

ともあれ、かつて鐵穴を施基皇子が賜ったと記載されていたが、また、勝手に鐵を掘る輩もいたとか、恵美押勝の昇進は止まることがなかったようである。

三月庚辰朔。遣唐副使從五位上石上朝臣宅嗣罷。以左虎賁衛督從五位上藤原朝臣田麻呂爲副使。壬午。於宮西南。新造池亭。設曲水之宴。賜五位已上祿有差。甲辰。保良宮諸殿及屋垣。分配諸國。一時就功。戊申。參河。尾張。遠江。下総。美濃。能登。備中。備後。讃岐等九國旱。 

三月一日に遣唐副使の石上朝臣宅嗣の代わりに左虎賁衛(佐兵衛)督の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を任じている。三日に保良宮の西南に新たに池と亭を造り、「曲水の宴」(こちら参照)を催している。五位以上の官人にそれぞれ禄を賜っている。二十五日に保良宮の諸殿と屋垣を諸國に分担させて、一時に完成させている。二十九日に参河・尾張・遠江・下総・美濃・能登・備中・備後・讃岐などの九ヶ國に日照りの災害が発生している。