日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(16)
和銅六年(西暦713年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
八月辛丑。從五位下道公首名至自新羅。乙夘。大風。抜木發屋。丁巳。以正五位下大伴宿祢道足。爲彈正尹。從四位下大石王爲攝津大夫。從五位下榎井朝臣廣國爲參河守。從五位下大神朝臣興志爲讃岐守。從五位下道君首名爲筑後守。
八月十日に道公首名(道君首名)が新羅から帰国している。二十四日、大風が吹いて木を抜き家屋が(發)跳ね飛ばされている。二十六日に大伴宿祢道足を彈正尹(二官八省の監察)、大石王を攝津大夫、榎井朝臣廣國を參河守、大神朝臣興志を讃岐守、道君首名を筑後守に任じている。
九月丁丑。造宮卿從四位下大伴宿祢手拍卒。己夘。攝津職言。河邊郡玖左佐村。山川遠隔。道路嶮難。由是。大寳元年始建館舍。雜務公文。一准郡例。請置郡司。許之。今能勢郡是也。」詔。和銅四年已前。公私出擧稻粟未償上者。皆免除之。辛巳。加大藏省史生六員。
九月十七日に造宮卿の大伴宿祢手拍が亡くなっている。十九日、攝津職が以下のように言上している・・・「河邊郡玖左佐村」は山川が遠く隔てていて道路も険しい地である。故に大寳元年に館舍を建て、種々の業務・公文について郡のやり方に準じて執り行って来た。郡司の設置をお願いしたい・・・。これを許している。今の「能勢郡」である。
同日、和銅四年以前の出擧の稲などで未償還のものを免除すると、詔されている。二十一日、大蔵省に史生六名を増員している。
攝津國:河邊郡玖左佐村・能勢郡
<攝津國:河邊郡玖左佐村・能勢郡> |
「河邊」は、河口付近の川の流れが大きく広がった端の場所を示すと解釈される。これだけでも、現在の祓川の河口付近が候補の一つなろうが、更に村の名前を読み解いてみよう。
幾度か登場の「玖」=「王+久」=「大きく[く]の字形に曲がった様」、「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような山稜が延びている様」であるが、「左」=「川の左(岸)にある様」と解釈する。
纏めると玖左佐=大きく[く]の字形に曲がった川の左岸にある左手のような山稜が延びているところと読み解ける。即ち「玖左」は古事記の久須婆之度があった場所、書紀では樟使主盤磐手の出自場所を表していることが解る。図に示した村の北側は現在の標高で10m以下となり当時は近淡海(近江)に注ぐ河口付近であったと思われる。
能勢郡の能勢=丸く小高い地が隅にあるところと読み解ける。頻出の文字列である。すると河邊郡の南方にくっきりとした地形が見出せる。両郡の配置を示すと図のように推定される。現在の行政区分である東泉・南泉に該当する場所であったと推定される。
通説では書紀の曖昧な記述に乗じて、両郡は国譲りされ、兵庫県川辺郡・大阪府豊能郡能勢町辺りとなっているようである。阪急電鉄のサイトに”久佐々神社”が紹介されており、何と、和銅六年創建とのこと。その地に玖左佐村があったようにも記載されている。「左佐」は「佐々」ではない故にどうやら間違いのようである。
また、「玖左」は現在の枚方市楠葉辺りとされるが、上記と同様に續紀の今回の記述で限りなく怪しげな雰囲気となったようである。古事記に寄り添った續紀の記述を、また、確認することができた、と思われる。”草場橋”は、間違いなく残存名称と思われる。
冬十月戊戌。制。諸寺多占田野。其數無限。宜自今以後。數過格者。皆還收之。庚子。板屋司班帙。一准寮焉。〈蓋改法用司爲板屋司也。〉丁巳。更加民部省史生六員。戊午。詔。防人赴戍時差專使。由是。驛使繁多。人馬並疲。宜遞送發焉。
十月八日に諸寺は田野を多く占有し、その数に限りがない。今後はその格に過ぎる数を返還させること、と定めている。十日に板屋司(法用司を改めた)の位階を通常の司よりも一段上とすると記している。二十七日に民部省の史生を六名増やしている。二十八日、防人の赴任時にそれ専用の使者を差し伸べているが、これにより驛の利用が多くなり、人馬共に疲弊している。今後は遞送(順送り:多分、国ごとに)するようにせよ、と詔されている。
十一月辛酉朔。伊賀。伊勢。尾張。參河。出羽等國言。大風傷秋稼。調庸並免。但已輸者。以税給之。乙丑。貶石川紀二嬪号。不得稱嬪。丙子。詔。正七位上桉作磨心。能工異才。獨越衆侶。織成錦綾。實稱妙麗。宜磨心子孫免雜戸。賜姓栢原村主。大倭國獻嘉蓮。近江國獻木連理十二株。但馬國獻白雉。」太政官處分。凡諸司功過者。皆申送弁官。乃官下式部。乙酉。權充兵馬司史生四人。
十一月一日、伊賀・伊勢・尾張・參河・出羽國等で大風のために秋の収穫に損害が出て、調・庸を免じている。また既に納めた分は税を給している。五日に石川(石川朝臣刀子娘)・紀(紀朝臣竃門娘)の二人の”嬪”号(共に文武天皇の嬪)を貶(退ける)して”嬪”と称することができないようにしている。「石川朝臣刀子娘」は、朝日日本歴史人物事典によると…、
白鳳時代,文武天皇の嬪。文武1(697)年,紀竈門娘と共に嬪となる。このとき,のちに聖武天皇の母となる藤原宮子も,1ランク上の夫人に任じられている。文武の死から6年後の和銅6(713)年になって,石川・紀2嬪の号を貶しめ,嬪と称することを禁じる命令が出された。その理由は不明であるが,首皇子(聖武天皇)の存在にかかわらず同8年には元正天皇が即位し,また長屋王と吉備内親王の子が母系により皇孫とされるなど皇位を巡る何らかの争いがあった可能性が強い。ふたりはそれに巻き込まれたのではないか。なお,石川(高円)広成・広世の母を刀子娘とし,彼女の処分に伴って同皇子らも皇籍を削奪されたとする説がある。
…と記載されている。闇の部分であろう。「吉備内親王」はこちら参照。尚、前記で石川広成・広世の母親であった可能性は高いと推論した(出自を刀子娘に併記)。
十六日に以下のことを詔されている。「桉作磨心」は優れた才能の持ち主で衆から一人抜き出ている。彼が織った錦綾は実に妙麗である。よって子孫を雑戸の身分を免除して「栢原村主」姓を与えることにする。また大倭國が「嘉蓮」を、近江國が「木連理十二株」を献上している。
この日、太政官処分として、全ての諸司の功績と過失は弁官に申し送り、その後太政官が式部省に下すようにせよ、としている。二十五日に臨時の措置として、兵馬司に史生四名を配している。
<桉作磨心・栢原村主> |
● 桉作磨心(栢原村主)
どうやらこの人物も前記で登場した刀母離余叡色奈と同じく河内國志紀郡の人であったことが分った。絹織物職人としての優れた技能を賞賛した一連の記述と思われる。
目新しい文字が登場する。先ずは「桉」=「木+安」と分解されるであろう。「安」=「山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっている様」と読み解いて来た。「木」は余分、である…ではなかろう。
「桉」=「山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間に山稜がある様」と解釈する。「作」=「人+乍」=「谷間にギザギザとした地がある様」、前出の新設の美作國
などに用いられた文字である。「磨心」=「平らな山麓の台地が真ん中にある様」と解釈される。
纏めると桉作磨心=ギザギザとした山稜に挟まれた谷間に山稜が延びて端の平らな台地が真ん中にあるところと読み解ける。図に示した白鳥御陵の山稜が延びた先の場所を表していると思われる。「刀母離余叡色奈」と同様に地形をそのまま表記した命名である。正に”古事記風”と言える。
「栢」=「木+百」と分解される。「百」=「一+白」=「丸く小高い地が連なった様」と読み解いて来た。これも「木」が余分な感じである。「栢」=「木+一+白」と全てを分解して、纏めると栢=平らな(一)山稜(木)がくっ付くように並んでいる(白)様と読み解ける。「栢」は「柏」とも記されるとのことで、「並ぶ様」が主たる地形と思われる。
この谷間の出口辺りは、当時は海面下にあったと推察した(近淡海の推定図参照)。「栢原」は、上記の「磨心」の台地を示していると思われる。もうこの時代となれば海岸線はかなり後退していたのであろうが、耕地とするには不適であったと思われる。そんな地に住み着いた渡来の人々だったのであろう。
<大倭國:嘉蓮> |
大倭國:嘉蓮
「めでたい蓮」の献上物語とするのも良し、なのだが、一体どんな蓮の華なのであろうか?…勿論、大倭國の何処かの地を開拓したのであろう。
だだっ広い大倭國での探索は、不可能とも思われるが、「嘉蓮」の地形のイメージを求めてみよう。
「嘉」は直近では伯耆國の嘉瓜で登場していた。嘉=壴+加=鼓のような湾曲した地を押し開く様と読み解いた。蓮=艸+連=平たい蓮の葉が水面に連なっている様と解釈する。鼓のような山稜から平らな台地が連なり延びている地形を表していると思われる。
すると図に示した現地名の田川郡大任町大行事の場所が浮かんで来る。現在はゴルフ場となっているが、山裾の台地の形状は「蓮」と見做せるのではなかろうか。古事記の建内宿禰の子、怒能伊呂比賣の出自の場所、現地名は田川市伊加利の南に当たり、共に彦山川の西岸の地である。ユニークが地形が並ぶ地域である。
<近江國:木連理十二株> |
近江國木連理十二株
木連理=連なる山稜が区分けされた様と読み、区分けするような谷間の地の開拓を示していると推測した。今回は「十二株」と具体的な数量が記載されている・・・と読んでしまいそうだが、少々異なるようである。
「株」=「木+朱」=「山稜が途中で断ち切られたような様」と解釈すると、図に示した通りに開拓されて平らになった山稜の端が十二並んでいるところを表していると読み解ける。「朱」は侏儒備前國で用いられ、それは魏志倭人伝の侏儒國に繋がる表記と読み解いた。
おそらく近江國の最北部に当たる地域を示しているように思われる。現地名は京都郡苅田町集である。記紀には登場しない地であり、「近江」の領域からは些かはみ出た未開の大地だったと思われる。古事記の時代では墓所であった近淡海國が急速に開かれつつある状況を伝えているのであろう。
十二月辛夘。新建陸奥國丹取郡。乙未。右大弁從三位石川朝臣宮麻呂薨。近江朝大臣大紫連子之第五男也。庚子。始加中務省史生十員。乙巳。近江國言。慶雲見。丹波國獻白雉。仍曲赦二國。己酉。始加宮内省史生十員。
十二月二日に新たに「陸奥國丹取郡」を建てている。六日、右大弁の石川朝臣宮麻呂が亡くなっている。近江朝大臣の連子(蘇賀連子)の五男であった。十一日に初めて中務省に史生を十名追加している。十六日、近江國が慶雲が現れたと告げ、丹波國が「白雉」を献上し、両国で曲赦(地域的な赦免)を行っている。二十日に初めて宮内省に史生十名を追加している。
陸奥國丹取郡
陸奥國の再編が進んでいることを記載しているのであろう。前記ではその二郡を新設の出羽國に付属させたり、陸奥蝦夷の時からすると隔世の様子である。
取り敢えず新しい郡の名称を読み解いてみよう。既出の文字列であり、「取」=「耳+又(手)」と分解すると、丹取=谷間に突き出た山稜と山稜の端が耳の形をしているところと読み解ける。
見たままの表現のようである。出羽國の東側、陸奥國の最北部に当たる場所と推定される。しかしながら現在の住居地帯は、当時はほぼ海面下の標高と推測され、極めて狭い谷間の地であったように思われる。
表舞台に登場するのは後に一度のみであり、不詳の部分が多い郡となったのであろう。後の登場時にもう少し考察を加えることにする。
後(聖武天皇紀)に陸奥國の丹取軍團を玉作軍團に改称すると記載される。「丹取」を「玉作」に置き換えている。玉=勾玉、作=人+乍=谷間がギザギザとしている様と解釈すると、南部の「丹取」の地形よりも、郡の中心地に置かれたであろう軍團を北部の地形に基づく名称とした、と思われる。
丹波國:白雉
久々に「白雉」の登場である。瑞鳥と掛けることができるので、ここぞという時でのご登場、かもしれない。何とものっぺりとした丹波國で「雉」=「矢+隹」を探すと、意外に容易に見出せるようである。
竹野郡の但馬國との境、現在の音無川の畔に二羽が並んでいる様子である。とりわけ東側の地形は「雉」の姿を示していることが分る。
勿論新設の丹後國に接する場所でもあり、丹波國の西南の角地に当たる。既に開拓が進んでいた地域でもあり、この「白雉」は耕地面積の拡張だったのかもしれない。