2021年5月15日土曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(17) 〔513〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(17)

 
和銅七年(西暦714年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

春正月壬戌。二品長親王。舍人親王。新田部親王。三品志貴親王益封各二百戸。從三位長屋王一百戸。封租全給。其食封田租全給封主。自此始矣。甲子。授正四位下多治比眞人池守從三位。无位河内王從四位下。无位櫻井王。大伴王。佐爲王並從五位下。從四位下大神朝臣安麻呂從四位上。正五位上石川朝臣石足。石川朝臣難波麻呂。忌部宿祢子首。正五位下阿倍朝臣首名。從五位上阿倍朝臣爾閇並從四位下。從五位上船連甚勝正五位下。正六位上春日椋首老。正六位下引田朝臣眞人。小治田朝臣豊足。山上臣憶良。荊義善。吉宜。息長眞人臣足。高向朝臣大足。從六位上大伴宿祢山守。菅生朝臣國益。太宅朝臣大國。從六位下粟田朝臣人上。津嶋朝臣眞鎌。波多眞人餘射。正七位上津守連道並從五位下。庚午。散位從四位下猪名眞人石前卒。己夘。益二品氷高内親王食封一千戸。甲申。令相摸。常陸。上野。武藏。下野五國。始輸絁調。但欲輸布者許之。丙戌。兵部卿從四位上大神朝臣安麻呂卒。

正月三日に長親王舍人親王新田部親王志貴親王に封戸を各二百戸を、長屋王に一百戸を増やしている。各封戸からの税を封主に全給するのは、この時から始まった、と記している。

五日に以下の進(叙)位が記載されている。多治比眞人池守を從三位、河内王(長皇子の長男、弟の大市王等に併記)を從四位下、「櫻井王」・「大伴王」・佐爲王(兄の葛木王に併記、別名:狹井王)を從五位下、大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)を從四位上、石川朝臣石足石川朝臣難波麻呂(宮麻呂に併記)忌部宿祢子首阿倍朝臣首名阿倍朝臣爾閇(引田朝臣)を從四位下、船連甚勝(秦勝)を正五位下、春日椋首老(春日倉首老)・「引田朝臣眞人」・小治田朝臣豊足山上臣憶良(山於億良)・「荊義善」・「吉宜」・「息長眞人臣足」・高向朝臣大足(國押、麻呂に併記)・「大伴宿祢山守」・菅生朝臣國益(大麻呂、古麻呂に併記)太宅朝臣大國(父親金弓に併記)・粟田朝臣人上(必登に併記)・「津嶋朝臣眞鎌」・波多眞人餘射(余射)・「津守連道」を從五位下としている。

十一日に散位從四位下の猪名眞人石前が亡くなっている。二十日、氷高内親王(文武天皇の姉、後の元正天皇。名:日高、新家)の食封を一千戸増やしている。二十五日に相摸・常陸・上野・武藏・下野の五國に初めて絹織物を調として納めさせることにしたが、但し、麻布を希望すれば許されている。二十七日、兵部卿の大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)が亡くなっている。

<櫻井王・門部王>
● 櫻井王

前年の正月に無位から従五位下に叙位された高安王の兄弟と知られていて、前記では百濟王の子、竹田王が父親では?…と推察した(こちら参照)。

と言うことで、高安王の近辺で櫻井王、併せてもう一人の兄弟である門部王の出自の場所を求めることになる。現地名は田川市夏吉である。

それなりの頻度で登場する櫻=木+貝+貝+女=二つの谷間が合わさってできる谷間の様と読み解いて来た。古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)の宮、伊波禮之若櫻宮などに用いられた文字である。

山稜の端で些か見辛くはなっているが、高安王の西側の谷間が合わさるようになっている場所が見出せる。その窪んだところが櫻井王の出自の場所と推定される。更に西側の高台になった山稜がのように並んでいる場所の近隣()が門部王の出自と思われる。

百濟王自身の出自の場所が不詳される中で、百濟宮の近隣に竹田王、高安王・櫻井王・門部王の後裔達を配置することができることが解った。どうやらこの系譜に記載される人物の出自は確かなように推測される。

<耳梨道德>
● 大伴王

全くの手掛かりなしの状況である。續紀では同名の人物が数十年後に記載されるのだが、それも殆ど出自の場所の情報を含んでいない。

致し方なく飛鳥の近辺で「大伴」らしき地形を求めることにして、孝徳天皇紀に登場した「耳梨道德」の出自の場所を再掲した。

おそらく図に記載した高座石寺辺りが大伴=平らな頂の山稜を二つに分ける場所と見做されたのではなかろうか。書紀の推古天皇紀に「耳梨行宮」と記載されているが、その宮が大伴王の出自の場所と推定される。

<引田朝臣眞人>
● 引田朝臣眞人

少し前に阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)が一族の引田・久努・長田の朝臣は同族であり、全て「阿倍朝臣」を名乗りたいと言上し、許可されたのだが、未だに引田朝臣姓を名乗っているようである。

宿奈麻呂一派には組しない、と言うことだったのであろうか、それに叙位するのも政略的な感じがしないでもない。狭いところで犇めき合うと、色々と確執が発生したのであろう。

ともあれ、眞人=谷間が一杯に詰まった様と解釈すれば、東人の西側にある場所と推定される。九年後の正月に従五位上へ一階進位しておられるが、「引田朝臣」を堅持されているようである。

● 荊義善・吉宜

前者については全く情報がなく、お手上げの状態である。名前から出自の場所を求めることは叶わず、不詳としておこう。後者の吉宜については、文武天皇即位四年(700年)八月の記事に僧惠俊を還俗させて授けた名前で登場していた。元正天皇紀養老三年(719年)正月に吉智首が登場し、それに依って出自場所を求めることができた(こちら参照)。

<息長眞人臣足・麻呂・名代>
● 息長眞人臣足

絶えることなく息長からの登用であるが、和銅五年(712年)十月に息長眞人老の死亡記事が掲載されていた。おそらくは息子のような感じなのだが、出自の場所を求めてみよう。

古事記で記述される臣=小ぶりな谷間を表していると読み解いて来た。「姓」とされる以前は、出自の地形を表していたと解釈した。

その地形象形表記としての「臣」と思われる。すると臣足=山稜が長く延びた脇にある小ぶりな谷間と読み解ける。図に示した山間の谷間を示していると推定される。当時は現在の標高から図で青っぽく見える場所は海面下と推測され、実に小ぶりな谷間であったと思われる。

この求められた配置からして、「老」の子であったようであるが、息長一族の出自は全く闇の中に葬られてしまったのであろう。皇統に絡む人材を輩出した地であるが、いやそれ故に暈されてしまったように推測される。尚、ご当人は出世されるのだが、罪を犯して表舞台からは遠ざかってしまったようである。

後(元正天皇紀、養老七[723]年正月)に息長眞人麻呂が登場する。息長の地から絶やすことはなかったようである。「麻呂」は「萬呂」の地形を、多分、表すとして、出自の場所を求めると、図に示した辺りと思われる。それにしても系譜は全く伝わっていない。現地名は行橋市高瀬である。

更に後(聖武天皇紀、天平三[731]年正月)に息長眞人名代が外従五位下に叙爵されて登場する。「息長眞人」一族なのだが、恒例の叱咤激励を込めての”外”からの昇進であろう。頻出の名=夕+囗=山稜の端の三角(州)の様代=人+弋=谷間に矢のような山稜が延びている様と解釈した。「臣足」の左足を「弋」に見立てた地形象形表記と思われる。

<大伴宿禰山守・首・首麻呂>
● 大伴宿祢山守

「大伴長德大臣」の子と知られている。御行安麻呂等の弟となる。明確ではないが大伴杜屋連も「長德」の子(長男)とされているが、別名に「守屋」があったようである。

同じ「守」を含む名前なのであるが、勿論同一人物ではなく、「守」の地形が二つあったことを示していると思われる。

図に示したような「守屋」は山稜が延びた端にある「守」であり、山守=山の麓にある肘を曲げたような山稜に囲まれた様と読み解ける。現在の白川の上流域で大きく、頻度高く蛇行する地で谷間が区切られたような様を表していると思われる。大伴の地形では実に珍しくくっきりとした場所なのである。

二年後に遣唐大使(阿倍仲麻呂吉備真備等と共に)となり、順調に昇進しながら帰国後は地方官及び按察使(駿河・伊豆・甲斐國の地方行政の監察)を任じられた、と伝えられている。

後(元正天皇紀)に大伴宿禰首が登場する。一応初登場で従五位下だから、それなりの出自と思われるが、この人物の系譜は不詳のようである。と言うことで近辺を、と近接の場所が首の地形であったことが解る。更に後(聖武天皇紀)に大伴宿禰首麻呂が”外従五位下”に叙爵されて登場する。先ずは”外”から始まる昇位となったようなのだが、少し混乱が生じたのではなかろうか。同じなのだが、首の地形に麻呂の地があるとして、上図に併記した。

<津嶋朝臣眞鎌>
● 津嶋朝臣眞鎌

「津嶋朝臣」では直近では津嶋朝臣堅石(對馬連堅石)が登場していた。出自は現在の対馬市厳原町宮谷の出口辺りと推定した。

「眞鎌」は既出の文字列であり、そのまま読み解くと眞鎌=鎌の形の山稜が窪んだ地に一杯詰まった様である。その地形を探すと、西里の谷間の地形を見出すことができる。中臣鎌子連と同様に山稜を「鎌」と見做した命名であろう。

後の十月の記事で「伊勢守」に任じられている。前任者は上記で同じように叙位された「太宅朝臣大國」の父親「大宅朝臣金弓」だったと思われる(出自の場所はこちら)。和銅二年(709年)に行政業務が優秀で褒美を与えられていた。時が経って息子は叙位されて思い残すことなく勇退されたのかもしれない。

<津守連道(通)・阿曇宿禰坂持>
● 津守連道

前出の津守連大海の子と知られる。阿曇連の西側の山麓の地、現地名は遠賀郡岡垣町吉木辺りと推定した。頻出の道=辶+首=首の付け根のような様と読み解いて来た。

この地を探索すると西側の山麓にそれらしき場所が見出せる。更に別表記で通と称していたようである。「通」は馴染みの薄い文字であり、あらためて読み解いてみよう。

「通」=「辶+甬」と分解される。更に「甬」=「マ(〇)+用」と分解されると解説されている。「用」=「丸い筒状」を象った文字で、例えば「吉備」の「備」(箙の形)に含まれる文字要素でもある。通常は何か(〇)に筒状のものが突き通っている様を表していると解釈されている。

地形的には図に示したように通=丸い山頂に谷間が突き通っている様を表すと読み解ける。「道」の奥の谷間を強調した表記と思われる。「道」では些か地形的な見極めが難しい状態だったのが「通」で明確に示されたようである。この人物は後に上記と同じ十月の記事で、少し前に新設された「美作守」に任じられたと記載されている。陰陽師でもあったらしく、Wikipediaにエピソードが記されている。

後(元正天皇紀)に阿曇宿祢坂持が登場する。新人として従五位下を授けられている。頻出の坂=土+厂+又=崖下に山稜が延びている様、前出の持=手+寺=山稜が腕で抱えるように延びている様と解釈した。図に示した場所がその地形を示していることが解る。

二月己丑朔。日有蝕之。庚寅。制。以商布二丈六尺爲段。不得用常。如有蓄常布。自擬産業者。今年十二月以前。悉賣用畢。或貯積稍多。出賣不盡者。便納官司与和價。或限外賣買。沒爲官物。有人糺告。皆賞告者。其帶關國司。商旅過日。審加勘搜。附使言上。」上総國言。去京遥遠。貢調極重。請代細布。頗省負擔。其長六丈。闊二尺二寸。毎丁輸二丈。以三人成端。許之。辛夘。詔曰。人足衣食。共知礼節。身苦貧窮。競爲姦詐。宜今輸絁絲錦布調國等。調庸以外。毎人儲絲一斤。綿二斤。布六段。〈謂年十五以上。六十五以下者。〉以資産業。无使苦乏。國郡能加監察。務依數儲備者。加考一等。或里長者免當年調。若以虚妄。顯稱。國郡司即解見任。里長徴調止掌。丁酉。以從五位下大倭忌寸五百足爲氏上。令主神祭。戊戌。詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。辛丑。始令出羽國養蚕。壬寅。遣使于七道諸國。録囚徒焉。

二月一日に日蝕があったと記している。二日に以下のことを制定している。概略は、商布(交易用の麻布)について二丈六尺で一段とし、常(キダ、一丈三尺)を用いてはならない。現在手持ちの常の布は今年中に売却して使い尽くすようにすること、処分できない分は官司に買い取って貰うようにしろと定めている。余分は没収とするとしている。関を管轄する國司は商人を事細かに調べ、朝集使に附して報告するようにと定めている。

「二丈六尺(約7.8m)」は成人用和服の一着分、それを段(反)として数えるようにしたのであろう。現在では一反は約11m、身長が伸びたからとのこと。尚、幅は二尺四寸(約0.72m)のようである。

この日、上総國が、京から遠く離れていて、重い調を運ぶ代わりに細布(質の良い麻布)、長さ六丈、闊(幅)二尺二寸、それを三人が二丈づつ分担して納めたい、と言上している。これを許可している。

三日に以下のことを詔されている。概略は、人は衣食が足りると礼節を知るが、貧窮すると悪事を働くものである。そこで調庸で納める以外に各人(十五から六十五才の者)に絹糸、真綿、麻布の所定量を蓄えさせるようにせよ、と述べている。國郡司で管理が良く行えた者の考課に一等を加え、里長はその年の調を免除するが、行えなかった場合には即刻解任せよ、と付け加えている。

九日に大倭忌寸五百足を氏上とし、神の祭祀を執り行わせるようにしている。十日、「紀朝臣清人」と「三宅臣藤麻呂」に國史の撰修させている(未完であった書紀に関する記述であろう)。十三日に出羽國で養蚕を始めさせている。十四日に七道諸國に使者を派遣して囚人を記録させている。

<紀朝臣淸(淨)人・和比等・必登>
● 紀朝臣清人

「淸人」の父親が「紀朝臣」一族の國益と知られている。既に「諸人」が登場していて、蝦夷討伐などで活躍、更には娘が後の天皇を産むことから外祖父として最高位を授けられることになる。

その兄弟となる「淸人」は文人としての才能を発揮したようで、文章博士などを歴任し、万葉歌も残している。父親が「國益」であるのは確からしく、一方の諸人は推定である。がしかし、既に述べたようにその出自の場所からして、「國益」の子であったと思われる。

淸=水+生+丼(井)=水辺に元からある四角く囲まれた様と解釈して来たが、諸人の西側の山稜に囲まれた場所が出自と推定される。

別名に淨人があったようで、淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈した。飛鳥淨御原宮に用いられていた文字である。古事記では飛鳥淸原宮であり、「淸」と「淨」の二つの文字で表される地形である。これを多分に意識した名称なのかもしれない。

後(聖武天皇紀)に紀朝臣和比等紀朝臣必登が登場する。和比等=しなやかに曲がる山稜が揃って並んでいるところと読め、「淸人」に北側辺りと推定される。必登は、「古麻呂」の子と知られる。図に示した場所と思われるが、詳細はご登場の時に述べることにする。

<三宅臣藤麻呂>
● 三宅臣藤麻呂

「三宅」ならば「三宅連」の地・・・ではない。『八色之姓』で彼らは宿禰姓を賜ったと記載されていた。前記でも述べたが「臣」は”小ぶりな谷間”が出自の地形であって、「連」とは全く異なる筈である。

それを念頭に「三宅臣」の文字列を記紀を通じて調べてみても全く登場されていないことが解った。では「三宅」の地形を示す表記は皆無かと言えば、古事記の茨田三宅が浮かんで来たのである。

大雀命(仁徳天皇)が難波津を開拓し、その事績の一つに「茨田堤・茨田三宅」を造ったと記載されている。山稜の端が三つに岐れた谷間の地形である。勿論、三宅(屯倉)を重ねた表記と思われる。「茨田堤」は棚田を敷き詰めて堤防にした画期的な造作だったと推測した。

藤麻呂はおそらく西側のさんりょうに沿って曲がりながら積み重ねられた田の上が出自の場所だったのではなかろうか。残念ながら藤原宮藤白坂の場合のような池が連なった「藤」の地形を確認することは難しいようである。ともあれ、國史を扱うにはそれ相応の能力が求められたであろう。舎人稗田阿禮の出自の場所にさほど遠くない、近淡海の中央付近に面する地に生息する人物だった故に、かもしれない。

閏二月戊午朔。賜美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戸。田六町。少掾正七位下門部連御立。大目從八位上山口忌寸兄人。各進位階。匠從六位上伊福部君荒當賜田二町。以通吉蘇路也。己夘。行幸甕原離宮。

閏二月一日に美濃守の笠朝臣麻呂に封戸七十戸・田六町を与え、少掾の「門部連御立」、大目の山口忌寸兄人(父親の大麻呂に併記;漢山口直大口の孫)を進位させている。匠の「伊福部君荒當」に田二町を与えている。前記の吉蘇路開通の功績に依る。二十二日、甕原離宮に行幸されている。前年六月にも出向かれ、山背の「賀茂」の近くにあった離宮である。

<門部連御立>
● 門部連御立

無姓の「門部」から「門部直」となり、その後「連姓」を賜っている。図に登場した「門部金」、「門部直大嶋」を再掲した。

門部=門の地形の近隣にあるところと解釈し、田川郡香春町鏡山の呉川上流域と推定した。古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)の宮の一つ、穴門之豐浦宮があった場所である。

「立」=「竝」=「山稜が並んで延びている様」とすると、御立=並んで延びている山稜を束ねた様と読み解ける。図に示した「門」の脇の場所がこの人物の出自と推定される。出自の環境からすると山越えのルートの策定に長けていたのかもしれない。

<伊福部君荒當>
● 伊福部君荒當

「伊福部」は前出の伊福部女王の近隣、即ち現在の田川郡香春町の香春小学校近辺と推定される。

荒=艸+亡+川=川辺で山稜が途切れる様當=同じような形の地がくっ付いた様と読み解いて来た。「當」は直近で読み解いた例を挙げると小治田朝臣當麻に含まれている。

すると図に示した「伊福部女王」の南側の場所がこの人物の出自の場所と思われるが、残念ながら續紀中に一度だけの登場で、他に情報もないようである。