2021年5月19日水曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(18) 〔514〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(18)


和銅七年(西暦714年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三月丁酉。沙門義法還俗。姓大津連。名意毘登。授從五位下。爲用占術也。壬寅。隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勸導也。乙夘。授從五位下上毛野朝臣廣人。大伴宿祢牛養並從五位上。

三月十日に沙門の「義法」が還俗している。慶雲四年(707年)五月の記事に学問僧として新羅に渡った後帰国したと記載されていた。姓は「大津連」、名は「意毘登」、爵位は從五位下を与え、その占術を活用するため、と述べている

十五日、「隼人」は心が昏く荒々しく親しむ心もなく、憲法(律令)を習得することもしない。故に豊前國(現地名:京都郡みやこ町犀川上高屋)の民の二百戸移し、導かせることにした、と記している。二十八日、上毛野朝臣廣人(小足に併記)・大伴宿祢牛養(”壬申の大将軍”吹負の子)を從五位上を叙位している。

「隼人」は、おそらく阿多・大隅隼人を示すのであろう。「豊前國」に関しては書紀でさえ殆ど登場しない。がしかし、この記述では十分に律令を理解し、それに基づいた日常を営んでいるような位置付けである。この國は山背國の近隣、現在の犀川(今川)の対岸に面する國、ならば、その地の民が”感化”されていても不思議ではないように思われる。国譲り後の配置では、如何なものか?…違和感を覚えるのは本著だけであろうか?・・・。

<大津連意毘登(義法)・大津造元休-船人>
● 大津連意毘登(沙門義法)

「近江大津」の地に住まわせたのであろう。占術については、前記の津守連道も巧みであったようで、陰陽師が表舞台に登って来る時代だったと推測される。

意毘登意=音+心=内に閉じ込められた様毘=+比=窪んだ地でくっ付いている様登=癶+豆+廾=高台から山稜が二つに岐れている様と読み解いた。

その地形が近江大津宮の東側の谷間に見出せる。現地名は行橋市天生田である。別名としてと称していたと知られるが、正にその通りの地形を示す場所と思われる。

後の養老五年(721年)に「津守連道」(現地名:遠賀郡岡垣町吉木)等と共に褒賞を受けたと記載されている。両者は、東西を代表する陰陽師だったことが伺える。後進の指導も仰せつかったと知られている。

下記で大津造元休・船人等に連姓を授けたと記載される。元=〇+儿=丸く小高い地から足のような山稜が延びている山稜休=人+木=谷間に山稜が延びている様と読み解ける。図に示した地形を表していると思われる。また船人=谷間に船のような山稜がある様と読み解くと、その西側の谷間を示している。

夏四月辛未。中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨。小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也。戊寅。制。諸國庸綿。丁五兩。但安藝國絲。丁二兩。遠江國絲三兩。並以二丁成屯絇也。壬午。太政官奏。諸國租倉。大小並所積數。比校文案。無所錯失。因斯。國司相替之日。依帳承付。不更勘驗。而用多欠少。徒立虚帳。本無實數。良由國郡司等不検校之所致也。自今以後。諸國造倉。率爲三等。大受肆仟斛。中參仟斛。小貳仟斛。一定之後。勿虚文案。辛巳。給多褹嶋印一圖。

四月十五日に中納言の小野朝臣毛野が亡くなっている。小治田朝(推古天皇紀)の大德冠妹子の孫、毛人の子である(大徳冠は冠位十二階の第一等、毛野に併記)。二十二日、以下のように制定している。諸國の労役の代わりに納める庸の真綿は、課役正丁一人当たり五両とするが、安藝國の糸は二両、遠江國は三両とし、正丁二人分で屯(綿)、絇(絹)とする。

二十六日に太政官が以下のことを奏上している。概略は、諸國の租税倉庫に保管されている量は記録され、國司の交替時にその記帳されたものが引継がれている。元より実数はない状態である。國郡司が現物に当たって調べていないのが実状である。故に倉庫を大中小の三等に別け、それぞれ一定の保管量とする。二十五日、多褹嶋に印一図を給している。

五月丁亥朔。大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨。帝深悼之。詔贈從二位。安麻呂難波朝右大臣大紫長徳之第六子也。癸丑。土左國人物部毛虫咩一産三子。賜穀卌斛并乳母。

五月一日に大納言の正三位大伴宿祢安麻呂が亡くなっている。天皇は深くこれを悼んで従二位を贈っている。難波朝(孝徳天皇紀)の大紫(冠位十九階の第五等)長德の第六子である。二十七日、土左國の人の「物部毛虫咩」が三つ子を産んでいる。穀物、乳母を与えている。

<物部毛虫咩>
● 物部毛虫咩

讃岐國の「物部」ではなく、土左國である。「物」は「谷間に山稜が並んでいる様」であり、その地形を求めることになる。丘陵地帯で果たして見出せるのか?…と案じることはなく、現在の広大な団地開発された地の脇にあることが解った。

幾度も述べたように部=近隣であり、毛=鱗の地形が東側に隣接していることも解った。現在の江川と坂井川の合流地点である。既に述べたように、現在の標高からこの地の谷間は大半が海面下にあって、人々が住める場所は、現在の丘陵上であったと推測される。

虫=蟲=山稜が細かく枝分かれした様、古事記の當摩之咩斐に用いられた咩=口+羊=谷間の奥に小高い地がある様と読み解いて来た。それらを満たす地形が図に示した場所に見出せる。上記したように現在のように広がった水田地帯ではなく、蟲の山稜の隙間が出自の場所と推定される。

六月己巳。若帶日子姓。爲觸國諱。改因居地賜之。」國造人姓。除人字。」寺人姓本是物部族也。而庚午年籍因居地名。始号寺人。疑渉賎隷。故除寺人改從本姓矣。甲戌。太政官處分。職分資人若本主亡。并以理去官者。不限年遠近。並留省焉。如本主去官亦有復任。以舊人充焉。戊寅。詔曰。頃者陰陽殊謬。氣序乖違。南畝方興。膏澤未降。百姓田囿。往々損傷。宜以幣帛。奉諸社。祈雨于名山大川。庶致嘉注。勿虧農桑。庚辰。皇太子加元服。癸未。大赦天下。自和銅七年六月廿八日午時已前大辟罪以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。沒爲奴婢。及犯八虐。常赦所不免者。咸赦除之。其私鑄錢及竊盗。強盜並不在赦限。但鑄盜之徒合死坐。降罪一等。諸老人歳百以上賜穀伍斛。九十已上參斛。八十已上壹斛。孝子。順孫。義夫。節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡惸獨。篤疾重病之徒不能自存者。宜令所司量加賑恤。甲申。從七位下大津造元休。從八位下船人等並賜連姓。

六月十四日に”若帶日子”姓は國諱に触れるため居地に因んだものに改めさせている。”國造人”姓は”人”を除き、”寺人”姓は本来物部の族である。庚午年籍に拠って”寺人”と号したが賎民や奴隷の身分と紛らわしく、”寺人”姓を除いている。

六月十九日、以下の様に太政官が処分している。職分資人は仕えている主人が亡くなったり、理由あって官を去っても、勤務年数に拘わらず式部省に留めること。主人が復帰すれば元の資人を当てるようにせよ、と述べている。

二十三日に以下のように詔されている。概略は、近頃陰陽が乱れて、気候が不順である。田畑は鋤耕されているが、恵みの雨が降らず損傷している。依って幣帛を諸社に奉納し、名山大川で祈雨を行うようにせよ、と命じられている。

二十五日に皇太子(首皇子、後の聖武天皇)が元服(十四歳)されている。二十八日、大赦している。和銅七年六月廿八日午時已前の大辟罪(死罪)以下のすべての罪を赦している。但し”私鑄錢及竊盗”は含めないが、死罪となっている者は罪一等を減じる。また百歳、九十歳、八十歳の老人にそれぞれ穀物を与え、孝子・順孫・義夫・節婦には終身租税負担を免除し、”鰥寡惸獨”に対してその程度により物を与えている。

二十九日に「大津造元休・船人」等に連姓を授けている(出自の場所は上図参照、大津連意毘登に併記)。

八月乙丑。制。散事五位如應賜祿。自今以後。准職事正六位焉。
九月甲辰。制。自今以後。不得擇錢。若有實知官錢。輙嫌擇者。勅使杖一百。其濫錢者。主客相對破之。即送市司。壬子。授正七位上柏原村主磨心從五位下。

八月十日に散事(無任)の五位の者への禄は職事の正六位に準じること、と定めている。
九月二十日、銭の良し悪しで選んではならない。官銭と知りながら悪い銭を嫌い、良い銭を選ぶ者は鞭打ち百回に処す。粗悪な銭は使えないようにして、それを市司に直ぐに送るようにすること、と定めている。二十八日に「柏原村主磨心」に從五位下を授けている。前記で紡織の技術を高く褒められて栢原村主姓を賜った河内國志紀郡の桉作磨心であろう。

冬十月乙夘朔。美濃。武藏。下野。伯耆。播磨。伊豫六國大風發屋。仍免當年租調。丙辰。勅割尾張。上野。信濃。越後等國民二百戸。配出羽柵戸。丁夘。以從四位下石川朝臣難波麻呂爲常陸守。從五位上巨勢朝臣兒祖父爲伊豫守。從五位下津嶋朝臣眞鎌爲伊勢守。從五位上平群朝臣安麻呂爲尾張守。從五位下佐伯宿祢沙弥麻呂爲信濃守。從五位下大宅朝臣大國爲上野守。從五位下津守連通爲美作守。辛未。造宮省加史生六員。通前十四人。

十月一日、美濃・武藏・下野・伯耆・播磨・伊豫の六國(場所はこちら参照)で大風があり家屋が吹き飛ばされ、当年の租調を免じている。二日に尾張・上野・信濃・越後等(場所は同上)の國の民を二百戸を割いて、出羽柵(越後國出羽郡に設置)の戸に配している。

十三日に石川朝臣難波麻呂(宮麻呂に併記)を常陸守、巨勢朝臣兒祖父(子祖父)を伊豫守、津嶋朝臣眞鎌を伊勢守、平群朝臣安麻呂(平羣朝臣)を尾張守、佐伯宿祢沙弥麻呂を信濃守、大宅朝臣大國(父親の金弓に併記)を上野守、津守連通(道)を美作守に任じている。十七日に造宮省の史生を六名追加して十四名にしている。

十一月戊子。大倭國添下郡人大倭忌寸果安。添上郡人奈良許知麻呂。有智郡女日比信紗。並終身勿事。旌孝義也。果安孝養父母。友于兄弟。若有人病飢。自齎私粮。巡加看養。登美箭田二郷百姓。咸感恩義。敬愛如親。麻呂立性孝順。与人無怨。嘗被後母讒。不得入父家。絶無怨色。孝養弥篤。信紗氏直果安妻也。事舅姑以孝聞。夫亡之後。積年守志。自提孩穉并妾子惣八人。撫養無別。事舅姑。自竭婦礼。爲郷里之所歎也。乙未。新羅國遣重阿飡金元靜等廿餘人朝貢。差發畿内七道騎兵合九百九十。爲擬入朝儀衛也。己亥。遣使迎新羅使於筑紫。庚戌。從四位下大伴宿祢旅人爲左將軍。從五位上多治比眞人廣成。從五位下久米朝臣麻呂爲副將軍。從四位下石上朝臣豊庭爲右將軍。從五位上上毛野朝臣廣人。從五位下粟田朝臣人副將軍。

十一月四日、大倭國添下郡の「大倭忌寸果安」、添上郡の「奈良許知麻呂」及び「有智郡」の女の「日比信紗」に対して孝行と節操を褒めて終身の租税を免除している。「果安」は父母を孝養し兄弟と親しみ病気や飢えがあれば自前の食料を揃え訪ねて看病している。「登美・箭田」の二郷の民はその恩義を感じて親のように敬愛している。

「麻呂」は生まれつき性格が孝行従順であり人を怨む気持ちがない。継母の仕打ちにも怨むことはなく孝養している。「信紗」は「氏直果安」の妻であり、舅・姑に仕えて夫亡き後も多年にわたり幼児と妾の子、八人を分け隔てなく養育した。村里の人々の讚歎するところであった、と述べている。

十一日、新羅國が金元靜等二十余人を遣わして朝貢している。畿内七道から騎兵九百九十騎を徴発し、入朝時の儀衛としている。十五日に新羅使を迎えるために筑紫に使者を遣わしている。二十六日、大伴宿祢旅人を左將軍、多治比眞人廣成久米朝臣麻呂を副將軍、石上朝臣豊庭を右將軍、上毛野朝臣廣人(小足に併記)・粟田朝臣人(必登)を副將軍に任じている。

<大倭忌寸果安・登美-箭田郷・奈良許知麻呂>
● 大倭忌寸果安・奈良許知麻呂

「大倭國添下郡」は現在の田川郡添田町と推定した。とは言うもののこの地は、正に大倭の地形で覆われて、頼りは果安であろう。

この文字列は幾度か登場していて果安=丸く小高い地が山稜に囲まれて嫋やかに曲がる谷間にある様と読み解いた。その地形が図に示した場所、添田小学校の南に当たるところに見出せる。

彼の名声は近隣の登美郷箭田郷に鳴り響いていたと記載されている。「登美」は「記紀・續紀」で用いられている文字列であって、登美=高台で岐れた山稜の谷間が延び広がった様と読み解いた。「果安」の出自の場所を含む谷間と思われる。

「箭田郷」の「箭」=「竹+前」と分解される。「前」=「揃」を示すと解釈される。即ち箭=並んだ山稜の端が揃っている様と読み解ける。「箭田郷」は、その先にある平らな大地()を表していると思われる。

添上郡の人、奈良許知麻呂の出自の場所は彦山川の上流域であろう。その川の西岸に奈良=なだらかな台地が広がっている。前出の山於億良の出自の場所である。頻出の許=耕地が杵のように突き当たっている様知=矢+口=鏃の地形とすると、それらしき地形が見出せる。添上郡の入口の場所である。

<日比信紗・氏直果安>
● 日比信紗

「大倭國有智郡」と記載されている。前記で述べたように宇智郡の別名と思われる。再度振り返れば、「宇」が示すような囲まれた谷間ではなく、緩やかに曲がる尾根から山稜が延びている地形()と思われる。

日比=太陽のような地にくっ付いて並んでいる様であり、「智」の表記を視点を変えて表したと思われる。既出の「信」=「人+言」=「谷間が耕地にされている様」と読み解いた。

「紗」=「糸+少」と分解される。すると「紗」=「山稜が削られたように低く延びている様」と読み解ける。纏めると信紗=谷間が耕地にされた傍らにある山稜の端が低く延びているところ、となる。

図に示した場所がこの女性の出自の場所と推定される。そして夫の氏直果安は、その耕地がある谷間の奥にあるに依る名前であり、嫋やかに曲がる谷間()を開拓した人物なのであろう。

十二月戊午。少初位下太朝臣遠建治等率南嶋奄美信覺及球美等嶋人五十二人。至自南嶋。己夘。新羅使入京。遣從六位下布勢朝臣人。正七位上大野朝臣東人。率騎兵一百七十迎於三崎。

十二月五日に「太朝臣遠建治」等が南嶋の「奄美・信覺・球美」等の嶋人五十二人を率いて帰朝している。二十六日、新羅使が入京し、布勢朝臣人(首名に併記、人主)・「大野朝臣東人」が騎兵一百七十騎を率いて、「三崎」で迎えている。

<太朝臣遠建治・國吉・德足>
● 太朝臣遠建治

『壬申の乱』で大活躍した多臣品治の息子のようである。古事記編者の太安萬侶の兄弟と言うことになる。ならば現地名の北九州市小倉南区貫、そこに流れる貫川の上流域の谷間が出自の場所であろう。

遠=辶+袁=なだらかに長く延びた様建=廴+聿=筆が延びた様治=氵+ム(耜)+囗=水辺で耜の形のような様と読み解いて来た。

これらの地形を満足する場所が父親の北側に隣接する地に見出せる。父親は(段差)の先がであり、子は遠建の先がとなった地形であることを表している。

図から分るように川が激しく蛇行することによって生じたジグザグの水辺の地形を表現していると思われる。その更に北側に隣接するのが太朝臣安麻呂(安萬侶)である。少し前に正五位下に進位していた。

後(聖武天皇紀)に太朝臣國吉が外従五位下に叙爵されて登場する。系譜は不詳のようである。國吉=囲まれた大地が蓋をされたようになっているところと読むと、図に示した場所が見出せる。更に後に太朝臣德足が、同じように外従五位下に叙爵されて登場する。既出の文字列である德足=四角く囲まれた地が山稜が延びた端にあるところと読み解ける。図に示した場所が出自と思われる。

彼等は近接する場所を出自とするのであるが、系譜が定かなのは少ないようである。現在の地図からでも激しく蛇行する川が流れる谷間からだが、途切れることなく人材輩出していたのであろう。

<信覺・球美>
南嶋:奄美・信覺・球美

奄美」は、文武天皇即位三(699)年七月に「多褹(多禰)夜久(掖玖)菴美(阿麻彌)度感」が朝貢したと記された記事に登場していた。書紀では「阿麻彌」と表記された地である。尚、ここでは「菴」から「奄」として簡略に記載されている。

今回初登場の「信覺」、「球美」もそれぞれの文字が示す地形から求めてみよう。頻出の「信」=「人+言」=「谷間が耕地になっている様」である。

初登場の「覺」=「爻+見(目+儿)」と分解される。「爻」=「幾つも交差する様」と解釈すると「覺」=「谷間が長く延びて幾つも交差している様」と解釈される。信覺=幾つも交差している谷間に耕地があるところと読み解ける。その地形を示す場所が奄美の東北の谷間に見出せる。現地名は糟屋郡須恵町である。

次いで球美嶋の「球」=「玉+求」と分解されるが、所謂「球状の地形」を示していると解釈される。頻出の美=羊+大=谷間が延び広がる様である。「丸く」ではなく「球」のように見える地形を図に示した奄美・夜久・信覺に囲まれた場所で確認することができる。現地名は同郡宇美町である。

通説では「信覺」は石垣島、「球美」は久米島とされている。信覺(シガク)、球美(クミ)と読んでの類似性が主な根拠のようであるが、度感(トカ:徳之島)と同様に読んではダメなのである。沖縄本島を跨いで石垣島まで・・・神話の世界であろう・・・記紀・續紀が神話ではなく、読み手が勝手に作り上げた神話なのだが・・・。

<大野朝臣東人-横刀>
● 大野朝臣東人

後に大野君果安の子と記されている。『壬申の乱』では近江朝側で将軍吹負を打ち負かしたが、結局攻め切れず引き下がったと述べられていた。

そんな訳で「果安」の近隣で東人の出自の場所を求めてみよう。現地名は築上郡吉富町である。

東人=谷間を突き通る様と読み解いた。多くの同名人物が登場している。その地形を示す場所となれば「果安」の南側辺りではなかろうか。

山間の地形ではなく平地に近い場所であって、少々判別し辛いところではあるが、図に示した場所と推定した。この後も蝦夷征伐などで活躍されて従三位参議まで昇進されている。何だかこのページで三名の「果安」が登場した。「ハタヤス」は人気があったのかもしれない。

後(聖武天皇紀)に息子の大野朝臣横刀が従五位下を叙爵されて登場する。参議の系譜とすれば順当な叙位であろう。「横刀」は、長大な刀、太刀と解釈されているが、それでは地形を表すには、不十分であろう。横刀=刀の形をした地が山稜を横斬るところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

<三崎・危村橋>
三崎

新羅の使者が入京する際に騎兵を並べて迎えた場所と記載されている。崎=山+奇=山稜が途切れる様と解釈される。通常使われる意味と大きく異なるわけではない。

それが三つ寄り集まった場所を求めると図に示した平城宮がある谷間の入口を示していることが解る。

平城宮は周囲を山稜の囲まれた地にあり、この三崎を閉じれば完璧な防備となる。それを十分に考慮した配置だったと推測される。

奈良大和では三崎の地形を求めることは叶わず、三橋と変わっているようである。せいぜい三椅として「山」を外すのであるが(「木」としても山稜である)、やはり解釈に窮するところであろう。續紀編者も、かなり率直に、忖度のない表現をしている、と思われる。

後(元正天皇紀)に危村橋を造ったと記載される。危ない橋を造って如何せん?…ではなく、しっかりと地形象形した表記であろう。とは言え、全くの情報なし、であり、こんな時は間違いなく宮の近隣、且つ重要な場所を示すと思われる。即ち、上記の「三崎」の近隣ではなかろうか。

「危」=「人+厂+卩」と分解される。「危」は「跪く」の原字である。纏めると危=谷間の下で山稜が途切れて崖のようになっている様と読み解ける。頻出の村=木+寸=山稜が腕のように延びている様と解釈される。山稜の端が「淵」のようになっている場所と推定される。これらの地形要素を持つ場所を図に示した。