2021年5月23日日曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(19) 〔515〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(19)


靈龜元年(西暦715年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

靈龜元年春正月甲申朔。天皇御大極殿受朝。皇太子始加礼服拜朝。陸奥出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覺。球美等來朝。各貢方物。其儀。朱雀門左右。陣列皷吹騎兵。元會之日。用鉦鼓自是始矣。是日。東方慶雲見。遠江國獻白狐。丹波國獻白鴿。癸巳。詔曰。今年元日。皇太子始拜朝。瑞雲顯見。宜大赦天下。但犯八虐。私鑄錢。盜人常赦所不原者。並不在赦限。内外文武官六位以下。進位一階。又授二品穗積親王一品。三品志紀親王二品。從四位下路眞人大人。巨勢朝臣邑治。大伴宿祢旅人。石上朝臣豊庭。多治比眞人三宅麻呂。百濟王南典。藤原朝臣武智麻呂並從四位上。正五位上大伴宿祢男人。太朝臣安麻呂。正五位下當麻眞人櫻井。從五位上多治比眞人縣守。藤原朝臣房前並從四位下。正五位下曾祢連足人。佐伯宿祢百足。百濟王良虞並正五位上。從五位上笠朝臣吉麻呂。中臣朝臣人足並正五位下。從五位下臺忌寸少麻呂。道君首名並從五位上。從六位上下毛野朝臣石代。當麻眞人大名。紀朝臣清人。從六位下土師宿祢豊麻呂並從五位下。又授二品氷高内親王一品。甲午。三品泉内親王。四品水主内親王。長谷部内親王。益封各一百戸。戊戌。蝦夷及南嶋七十七人。授位有差。己亥。宴百寮主典以上並新羅使金元靜等于中門。奏諸方樂。宴訖。賜祿有差。庚子。賜大射于南闈。新羅使亦在射列。賜綿各有差。

正月一日、天皇は大極殿で朝賀を受け、初めて皇太子(首皇子)が礼服を着て加わっている。陸奥・出羽の蝦夷並びに南嶋の奄美(阿麻彌)夜久(掖玖)度感信覺・球美等がそれぞれの地の産物を携えて来朝している。

儀式として朱雀門の左右に皷吹(軍楽隊)と騎兵を並ばせている。元日の儀式に鉦鼓を用いるのはこの時から始まったと記載している。この日、東方に慶雲が見られ、遠江國が「白狐」、丹波國が「白鴿」を献上している。十日に元日に皇太子が初めて拝賀した時瑞雲が明らかに見えた。故に大赦を行うべき、と詔されている。但し八虐・私鋳銭・盗人などは常のように除かれている。

また内外文武官六位以下の者を進位一階させている。また穗積親王に一品、志紀親王に二品、路眞人大人巨勢朝臣邑治大伴宿祢旅人石上朝臣豊庭多治比眞人三宅麻呂百濟王南典(①-)・藤原朝臣武智麻呂に從四位上、大伴宿祢男人太朝臣安麻呂當麻眞人櫻井多治比眞人縣守藤原朝臣房前に從四位下、曾祢連足人(韓犬に併記)・佐伯宿祢百足百濟王良虞(①-郎虞)を正五位上、笠朝臣吉麻呂中臣朝臣人足に正五位下、臺忌寸少麻呂(宿奈麻呂)・道君首名(道公首名)を從五位上、下毛野朝臣石代・「當麻眞人大名」・紀朝臣清人土師宿祢豊麻呂(大麻呂に併記)に從五位下を授けている。又、氷高内親王に一品を授けている。次期天皇への布石であろう。

十一日に泉内親王水主内親王(共に天智天皇の皇女)長谷部内親王(天武天皇の泊瀬部皇女)に封戸百戸を増やしている。十五日に蝦夷及び南嶋の七十七人をそれぞれ叙位している。十六日、百寮の主典以上並びに新羅使者と中門で宴会している。各地方の樂を奏でた後に禄をそれぞれ与えている。十七日に南闈(大極殿の南門)で大射を行っている。新羅の使者も参加して、それぞれ真綿を賜っている。

<遠江國:白狐>
遠江國:白狐

やはりその国の僻地を開拓したと解釈しよう。遠江國は、現在の北九州市八幡西区・中間市・遠賀郡水巻町に跨る地域と推定し、前記で八郡に割いてみた(こちら参照)。

さて白狐狐=犬+瓜=平らな頂をした瓜のような様と解釈する。前記の嘉瓜に含まれる「瓜」の地形と思われる。

この地も大きく地形が変化していて、些か探し辛いのであるが、八郡の内の「磐田郡」と推定した場所、古遠賀湾に面するところと思われる。図ではその一部となるが、現在は多くの川が寄り集まる地形となっている。

<丹波國:白鴿>
丹波國:白鴿

前記で丹波國は白雉を献上していた。山稜の末端が集まる地形で雉の形を見事にしていたところと推定した。但馬國との国境であった。

今回は白鴿と記載されている。「鴿」は「鳩」と同じ意味を示すとされるが、実は「鳩」は野生のハトを、「鴿」は家ハト(ドバトと呼称)を表すと解説されている(現代中国では鴿子)。

「鳩」=「九+鳥」で、「九」=「鳴き声」を示すと言うのが定説のようである。一方「鴿」の文字についての解説は見当たらず、少し解釈を試みてみよう。

「鴿」=「合+鳥」と分解される。更に「合」=「亼+口」から成る文字で、「蓋をする様」を表していると解説されている。確かに蓋ができるようなところで飼った「鳩」を「鴿」と称したのであろう。屋根の下のハトである。地形象形的には鴿=屋根のような山稜の麓に佇む鳥となろう。図に示した覗山の山稜が覆い被さるようになっている場所と推定される。

<當麻眞人大名>
● 當麻眞人大名

「當摩(麻)眞人」も多くの人物が登場して来たが、彦山川の川辺まで行き着いた感がある(こちら参照)。その上に、なのであるが、どうやら少し揺り戻されているようである。

「豐濱」の系譜は一部知られているのだが、「楯」は全く情報がない。今回も情報なく、さりとてやはり大浦池周辺には間違いないであろう。既出の文字列である大名=平らな頂の麓にある山稜の端が三日月の形をしている様と読み解ける。

すると図に示した場所にそれらしき山稜が突き出た地形を見出すことができる。「當麻眞人」はまだまだ途切れることはないようで、果たして出自の場所は如何なる方面に向かうのか?…ご登場なされた時に読み解くことにしよう。

百濟王南典(①-)は和銅元年(708年)三月から備前守に任じられている。和銅六年(713年)四月の記事で備前國を六郡に割って、新たに美作國を設置したと記されているが、統治能力を高く評価されたのであろう。従四位上として錚々たる面々に並んでいる。良虞(郎虞)は大寶三年(703年)八月から和銅元年(708年)三月まで伊豫守(後任は久米朝臣尾張麻呂)に任じられていた。

二月丙辰。制。尚侍從四位者。賜祿准典藏焉。丙寅。從五位下大神朝臣忍人爲氏上。」從四位下當麻眞人櫻井卒。丁丑。勅以三品吉備内親王男女。皆入皇孫之例焉。

二月四日に尚侍(後宮の内侍司の長官)で従四位の者は典藏(後宮の蔵司の次官)に準じた禄を与える、と制定している。十四日、大神朝臣忍人を氏上とする。この日に當麻眞人櫻井(和銅元年:708年三月武藏守)が亡くなっている。二十五日、吉備内親王(草壁皇子の氷高皇女、後の元正天皇、に併記)の男女の子(父親は長屋王)を全て皇孫と同様の扱いにしている。

確かに奔流の血筋ではあるが、それが過ぎると危ういことになる。事変が起こるのはもう少し後である。草壁皇子は天皇に準じる扱いであろう。書紀・續紀の記述の流れからすると頷けるようにも感じられる。

三月壬午朔。車駕幸甕原離宮。丙申。散位從四位上竹田王卒。甲辰。金元靜等還蕃。勅大宰府。賜綿五千四百五十斤。船一艘。丙午。相摸國足上郡人。丈部造智積。君子尺麻呂。並表閭里。終身勿事。旌孝行也。

三月一日に甕原離宮に行幸されている。十五日、散位(無任)の竹田王が亡くなっている。二十三日に新羅の使者の金元靜等が帰国している。眞綿を五千四百五十斤及び船一艘を与えている。二十五日、「相摸國足上郡」の人、「丈部造智積・君子尺麻呂」をそれぞれの郷里で表彰し、彼らの孝行を褒めている。

<相摸國足上郡:丈部造智積・君子尺麻呂>
相摸國足上郡

「足上郡」を調べると足柄上郡を”好字二字”の表記としたと解説されている。同じようにすると足柄下郡は「足下郡」と言われたとも記されている(Wikipedia)。

ところが記紀・續紀を通じて”足下郡”なる表現は登場しない。勿論”足柄下郡”も、である。そもそも「足柄」そのものの場所があやふやなのである。

「足上」の足=山稜が長く延びた様、即ち「足=帶(タラシ)」であろう。上=高くなる様と解釈する。古事記の豐國宇沙の足一騰宮に類似する記述であろう。長く延びた山稜の端が高くなっているところを表している。

図に示したように山稜の端で高く盛り上がって、当時はその先は海であったと推定される。即ち「下郡」は存在し得ない地形を表している。勝手に”好字二字”を持ち出しただけであろう。書物を真面目に読んでいるとは到底思えない杜撰さである。

● 丈部造智積・君子尺麻呂 二人の孝行者が記載されている。丈=十+又=長く腕を延ばした様であり、部=近隣の地を表す。頻出の智=矢+口+日=鏃のような形と炎のような形がある様と読み解いて来た。積=山稜が積み重なっている様である。これらの地形要素を持つ場所が「丈」の東隣にあることが解る。

君子=高台から山稜が生え出た様尺=尺の文字形のような谷間を表す。既に幾度か登場した文字である。すると東側の谷間の地形を示していることが解る。古事記の倭建命の時代には纏ろわぬ輩が生息していた場所であったが、時代が変わって来たのであろう。焼津(炎の形した高台にある津)と推定した辺りである。

夏四月庚申。櫛見山陵。〈生目入日子伊佐知天皇之陵也。〉充守陵三戸。伏見山陵。〈穴穗天皇之陵也。〉四戸。庚午。諸直丁經廿年已上者。預考選例。憐其勞也。癸酉。上村主通改賜阿刀連姓。丙子。詔叙成選人等位。授從三位粟田朝臣眞人正三位。正五位下長田王。大神朝臣狛麻呂。田口朝臣益人並正五位上。從五位上小治田朝臣安麻呂。縣犬養宿祢筑紫。平群朝臣安麻呂並正五位下。從五位下三國眞人人足。佐味朝臣加作麻呂。阿倍朝臣秋麻呂。坂本朝臣阿曾麻呂。日下部宿祢阿倍老。阿倍朝臣安麻呂並從五位上。

四月九日に「櫛見山陵」(生目入日子伊佐知天皇之陵)に守陵を三戸、「伏見山陵」(穴穗天皇之陵)に四戸を置いている。古事記では前者は伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の菅原之御立野中陵であり、後者は穴穗命(安康天皇)の菅原之伏見岡陵に該当する。

「櫛見山陵」は「御立野中陵」とは異なる表記であるが、「櫛」は「菅」が並ぶ様を言い換えたものと思われる。上記と同じく「見」=「谷間から山稜が延び出た様」であり、同じ場所を示している。異なる表記によって御陵の場所の確からしさが増したようである。両陵墓は僅か300m程度離れた場所にあり、同時期に守陵を置いたのであろう。

<生目-活目-伊久米入日子>
垂仁天皇の和風諡号の生目=生え出た山稜の傍らの谷間と解釈される。書紀が活目=水辺にある舌のような山稜の傍らの谷間であり、別表記と見做せる。

ところが古事記の伊久米=谷間で区切られた山稜がくの字形に曲がっているところに幾つも山稜が延び出ている様は別視点の表記であり、かつ難解な文字列である。

とは言え、これらの地形要素を全て満足することが必要であるが、三書の表記を読み解くことによって比定場所の確度が高まると思われる。

共通する「入日子」は図に示したように炎の地形が生え出て谷間に入り込む様を表している。多用されている文字列である。三書が共通の認識であることが確認される。「入」は「內」=「入+冂」に含まれる意味を表している。

十九日に官司に勤める諸直丁で二十年以上の者については考選の対象とする、としている。二十二日、慶雲元年(704年)二月の「上村主百濟」と同じく上村主通(大石に併記)が「阿刀連姓」を賜っている。

二十五日に成選(定期の叙位)を行っている。粟田朝臣眞人に正三位、長田王(六人部王に併記)・大神朝臣狛麻呂田口朝臣益人に正五位上、小治田朝臣安麻呂縣犬養宿祢筑紫平群朝臣安麻呂(平羣朝臣)に正五位下、三國眞人人足佐味朝臣加作麻呂(賀佐麻呂)・阿倍朝臣秋麻呂(狛朝臣)・坂本朝臣阿曾麻呂(鹿田に併記)日下部宿祢阿倍老(老)・阿倍朝臣安麻呂に從五位上を授けている。

「佐味朝臣賀佐麻呂」を「加作麻呂」と記載していると思われる。賀佐=押し広げた谷間の麓であるが、加作=押し広げた谷間がギザギザとしている様となろう。おそらく谷間の棚田が全体に広がったのであろう。しっかりと日常業務に励んでられていた故の叙位と推測される。

「日下部宿祢阿倍老」は「老」に「阿倍」が付加されている。確かに「老」の台地は阿倍=咅(子房と二つの花弁から成る形:不)のように延びた台地になっていることが分かる。續紀の時代になれば”地形象形表記”も完成に近い状態だったのであろう。ここまでくれば地名・番地も不要な・・・それはないであろうが・・・。

元号「靈龜」の謂れが待ち遠しいが、ご登場の時に・・・。