2021年5月27日木曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(20) 〔516〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(20)


靈龜元年(西暦715年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月辛巳朔。勅諸國朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。經三月以上者。即云斷輸調庸。隨當國法。又撫導百姓。勸課農桑。心存字育。能救飢寒。實是國郡之善政也。若有身在公庭。心顧私門。妨奪農業侵蛑万民。實是國家之大蠧也。宜其勸催産業。資産豊足者爲上等。雖加催勸。衣食短乏者爲中等。田疇荒廢。百姓飢寒。因致死亡者爲下等。十人以上。則解見任。又四民之徒。各有其業。今失職流散。此亦國郡司教導無方。甚無謂也。有如此類。必加顯戮。自今以後。當遣巡察使。分行天下。觀省風俗。宜勤敦徳政。庶彼周行。始今。諸國百姓。往來過所。用當國印焉。」丹波丹後二國飢。遣使賑貸。己丑。始充京職印。壬辰。伯耆國言。甘露降。甲午。詔曰。凡諸國運輸調庸。各有期限。今國司等。怠緩違期。遂妨耕農。運送之民。仍致勞擾。非是國郡之善政。撫養之要道也。自今以後。如有此類。以重論之。又海路漕庸。輙委惷民。或已漂失。或多濕損。是由國司不順先制之所致也。自今以後。不悛改者。節級科罪。所損之物。即徴國司。又五兵之用。自古尚矣。服強懷柔。咸因武徳。今六道諸國。營造器仗。不甚牢固。臨事何用。自今以後。毎年貢樣。巡察使出日。細爲校勘焉。乙巳。從六位下畫師忍勝姓改爲倭畫師。」攝津。紀伊。武藏。越前。志摩五國飢。賑貸之。」遠江國地震。山崩壅麁玉河。水爲之不流。經數十日。潰沒敷智。長下。石田三郡民家百七十餘區。并損苗。己亥。太政官奏。更定義倉出粟法。分爲九等。語在別格。壬寅。以從三位巨勢朝臣麻呂爲中納言。從四位上多治比眞人三宅麻呂爲左大弁。從四位上巨勢朝臣邑治爲右大弁。從四位上大伴宿祢旅人爲中務卿。從四位下阿倍朝臣首名爲兵部卿。從四位上阿部朝臣廣庭爲宮内卿。從四位下多治比眞人縣守爲造宮卿。從五位上大伴宿祢宿奈麻呂爲左衛士督。正五位上大神朝臣狛麻呂爲武藏守。從五位上阿倍朝臣安麻呂爲但馬守。從五位下石川朝臣君子爲播磨守。從三位多治比眞人池守爲大宰帥。丙午。參河國地震。壞正倉卌七。又百姓廬舍往々陷沒。庚戌。移相摸。上総。常陸。上野。武藏。下野六國富民千戸。配陸奥焉。

五月一日に諸國の朝集使に以下のように勅されている。概略は、天下の百姓(民)は本貫の地を離れて他郷に流れているが、課役を回避している。浮浪の者で三ヶ月以上逗留するならばその国の法に従って調・庸を納めさせよ。國司で善政を行う者もいるが、一方で私腹を肥やす者もおり、これは国家にとってに大きな害虫のようなものである。そこで上等・中等・下等に分けることにする。中でも下等で飢饉・寒さによる死者の数が多い場合(十人以上)は解任せよ。四民(士農工商か?)はそれぞれ生業と持っているが、職を失って流散するのは國司の教導が無方のことによる。依って刑罰の対象とせよ、と述べている。また、巡察使を派遣して民の生活ぶりを調べさせることにする。更に民が往来する過所(通行証明書)ではその國の印を用いよ、とも述べている。

丹波・丹後の二國で飢饉が発生し、稲を無利息で貸付ている。九日、初めて京職の印を配布している。十二日に伯耆國が甘露が降ったと告げている。

十四日に天皇は以下のように詔している。概略は、諸國の調・庸には期限があるのに國司の怠慢で納期を違え、農耕を妨害し、また運送を民に任せて煩わせている。これは善政に全く叶わないことである。今後は重罪とせよ。更に海路による庸の運送をおろかな民に任せ、それ故に漂失したり濡れて品質を損なったりしている。今後はその程度によって罪を科し、損害は國司から徴収せよ、と述べている。また五兵(弓矢・矛・戈・殳・戟)は常日頃から使用に耐えるようにせねばならない。しかるに六道(西海道を除く)の物は甚だ心許ない。この後は毎年見本を提出し、また巡察使は仔細を調べることにせよ、と述べられている。

二十五日(記載順序?)に「畫師忍勝」の姓を改めて「倭畫師」としている。また、攝津・紀伊・武藏・越前・志摩の五國で飢饉が発生し、稲を無利息で貸し付けている。また、遠江國で地震があり、山が崩れ、「麁玉河」が堰き止められ、その後決壊して、「敷智・長下・石田」の三郡の民家百七十餘が水没し、苗にも損害があった、と記載している。十九日に太政官が義倉(備蓄倉庫)に粟を出す法(資産に応じて出資)を九等に分けるが、仔細は別途定める。

二十二日に以下の任命を行っている。巨勢朝臣麻呂を中納言、多治比眞人三宅麻呂を左大弁、巨勢朝臣邑治を右大弁、大伴宿祢旅人を中務卿、阿倍朝臣首名を兵部卿、阿部朝臣廣庭を宮内卿、多治比眞人縣守を造宮卿、大伴宿祢宿奈麻呂を左衛士督、大神朝臣狛麻呂を武藏守、阿倍朝臣安麻呂を但馬守、石川朝臣君子を播磨守、多治比眞人池守を大宰帥に任じている。

二十六日に參河國で地震があり四十七の正倉が倒壊し、民の廬舍(小さな家)もあちこちで陥没している。三十日、相摸・上総・常陸・上野・武藏・下野の六國の富裕な民千戸を陸奥國に移して配置させている。

<遠江國:麁玉河>
遠江國:麁玉河

川の氾濫で敷智郡・長下郡・石田郡の甚大な災害が発生したと伝えている。遠江國の各郡については、配置を既に求めたこちらを参照。

石田郡は磐田郡の別表記であろう。確かに「磐」は一様に広がる様を表すが、少々曖昧さが残る「石」の表記が適切なように思われる。

長田郡が正式に分割されてその一部である長下郡として登場している。即ち片割れである長上郡では被害が発生しなかったのであろう。川の流路を暗示していると受け取れる。

敷智郡はあらためて文字が示す地形を求めると、既出の敷=布を広げたような様智=矢+口+日=山稜が鏃と炎のような形をしている様であり、「鏃」に幾つか「炎」のように延び出た山稜がある場所を表している。この地も現在は広大な宅地となっていて山稜の姿は大きく変貌しているが、当時を偲ぶことに支障はないようである。

麁玉河の「麁」は既に読み解いた文字である。麁蝦夷で用いられていた。麁=鹿+鹿+鹿=山麓が三つに岐れている様の地形を表している。玉=玉のような様とすると、図に示した場所がその地形を示していることが解る。そしてこの丸い山稜…ここも同じく広大な宅地となっているが…から二手に岐れて流れる川を麁玉河と称したと解釈される。

この二つの川は長下郡・石田郡石田郡・敷智郡の郡境を流れ、この三郡に被害が及んだのであろう。被害が記載されない長上郡の脇を流れることのない川なのである。災害と言う悲しい出来事ではあるが、その地の詳細が把握される貴重な記述であろう。

<畫師忍勝・狛造千金>
● 畫師忍勝

書紀の天武天皇紀に倭畫師音檮が小山下位を授けられ、また封戸二十を賜ったと記載されていた。畫師の狛堅部子麻呂の近隣と推定して図に示した場所が出自とした。

畫師の忍勝は、「音檮」の系譜とは異なっていたが、畫師としての資質に優れて倭畫師の姓を引き継がせた、と言うことなのかもしれない。

委細は不明だが、そうとすれば「子麻呂」、「音檮」からそう遠くない場所に住まっていたと思われる。忍勝=一見そうは見えない盛り上がったところ、或は、谷間の中心でギザギザと山稜が突き出ている地で盛り上がったところと解釈され、図に示した辺りと推定される。續紀での登場は今回が最初で最後のようである。

直ぐ後に狛造千金が登場する「大狛連」の姓を賜ったと記される。千=人+一=谷間を束ねる様金=金の文字形と読み解くと、南側の台地の麓辺りが出自の場所と推定される。大=平らな頂の山稜と読むと賜った姓もしっかりと地形象形した表記であろう。

六月甲寅。一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也。庚申。開大倭國都祁山之道。壬戌。太政官奏。懸像失度。亢旱弥旬。恐東皐不耕。南畝損稼。昔者周王遇旱。有雲漢之詩。漢帝祈雨。興改元之詔。人君之願。載感上天。請奉幣帛。祈於諸社。使民有年。誰知尭力。癸亥。設齋於弘福法隆二寺。詔。遣使奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。於是未經數日。注雨滂沱。時人以爲。聖徳感通所致焉。因賜百官人祿各有差。丁夘。諸國人廿戸。移附京職。由殖貨也。

六月四日に長親王が亡くなっている。天武天皇の第四皇子であった。十日に「大倭國都祁山之道」が開通している。十二日に太政官が以下のようなことを奏上している。簡単に言えば、中国の故事を引き合いにして旱魃の害を抑えるために諸社に雨乞いをしましょう、であろう。

十三日に弘福・法隆の二寺で設齋を行っている。「弘福寺」は川原寺(の中金堂)、「法隆寺」は斑鳩寺の別名と知られている。前日の太政官の申し出通りに諸社に幣帛を奉納し、名山大川で雨乞いをしたところ数日の内に恵みの雨が降り、百官に禄を与えた、と述べている。十七日に諸國の人二十戸を移して京職に附けている。銭を増やすのに秀でているからとのこと。

<都祁>
大倭國都祁山之道

都祁は古事記に一度、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった地として挙げられていた。書紀では記載されることはないようである。

場所を再掲した。南は飛鳥に繋がり、北は伊賀・鈴鹿・三重を経て伊勢に通じる場所である。『壬申の乱』で天武天皇一行が逃げた谷間は山を挟んで東側にある。

一行が渡渉して天照大神を望拝時の迹太川(紫川)の上流域となる。都祁山之道は、紫川沿いか、新道寺に抜ける道(櫨ヶ峠)か、多分後者のような・・・詳細は不明である。

秋七月庚辰朔。日有蝕之。己丑。地震。行幸甕原離宮。」賜從五位下紀朝臣淨人數人穀百斛。優學士也。壬辰。授刀舍人狛造千金。改賜大狛連。丙午。知太政官事一品穗積親王薨。遣從四位上石上朝臣豊庭。從五位上小野朝臣馬養。監護喪事。天武天皇之第五皇子也。」尾張國人外從八位上席田君邇近及新羅人七十四家。貫于美濃國。始建席田郡焉。

七月一日に日蝕があったと記している。十日、地震があったが、甕原離宮に行幸されている。この日に紀朝臣淨人(淸人)等数人に学問が優れていることより穀百斛を与えている。十三日に授刀舍人(帯刀した禁中の警護役)の「狛造千金」(上図参照)に「大狛連」の氏姓を与えている。

二十七日に知太政官事の穗積親王が亡くなっている。つい先日に一品に昇位したばかりであった。石上朝臣豊庭小野朝臣馬養に葬儀を執り行わせている。天武天皇の第五皇子であった。この日、尾張國の人の「席田君邇近」及び新羅人七十四家を美濃國に戸籍(貫)を移し、初めて「席田郡」を建てている。

<美濃國席田郡・席田君邇近>
美濃國席田郡

「席田」は何と解釈できるであろうか?…世の中では「席」→「蓆(ムシロ)」として読まれているようである。略体文字を使用することは今までに幾度か遭遇したが、「蓆」の地形象形が今一明瞭ではない。

「席」=「广+廿+巾」と分解される。「廿」=「動物」を象徴的に表す文字であり、「席」=「屋根の下で毛皮を広げた様」と解釈される。それが通常の意味である「席」を表す文字へと展開している。こんな身近な文字なのだが漢字学では定説がないようである。

兎も角も毛皮を広げたように見える地形を求めると、図に示した、現在はゴルフ場となっているが、かつてにも述べたようにゴルフ場開発はかなり元の地形を活かした設計なのであろうか、見事な”毛皮”が見出せる。

文武天皇紀に記載された南嶋の度感の「度」と同じ解釈になる。「度」=「广+廿+又(手)」と分解したが、「巾」と「又(手)」の違いである。「巾」を用いたのは山稜と言えるほど明瞭な地形ではなく、全体として広がった様子を表していると思われる。

――――✯――――✯――――✯――――

余談だが、漢字に関する理解は、間違いなく退化した日本人と言える。「口(サイ)」などを持ち出す白川漢字学(学とも言えないが)が持て囃されるのも頷ける、かもである。ところでこの地の現地名は西貫であって、安八磨郡は上貫・中貫に該当し、下貫・東貫辺りは当時は海面下と推測される。西貫に田原(多分「田」は「席田」であろう)を加えた地が席田郡となり、現在の行政区分とかなり良い一致を示している。

その他の地と同様に貫の地名由来は不詳と言えるようなのだが、上記「貫于美濃國」あたりから引っ張り出されたのかもしれない。”本貫の地”などと用いられる「貫」=「毌+貝」と分解される。「毌」=「突き抜ける様」を象った文字と知られる。地形象形的には貫=谷間が突き抜けている様と解釈される。ならば多臣品治・太安萬侶の本貫の地である谷間、岐蘇山道の突き抜けるような谷間から名付けられたのであろう。

――――✯――――✯――――✯――――

● 席田君邇近 余談はこれくらいにして、「近」は近淡海の「近」であろう。「席」の南側にある大池の形を示していると思われる。邇近=[近]の地形に近接しているところと読めば図に示した場所が出自と推定される。

図に示したようにこの地は美濃國安八磨郡の西隣に当たる。美濃國に新しく郡として建てたのは正に合理的な配置と言える。それにしても古代の美濃國は広大な面積を有する國であったと思われる。天武天皇一党が美濃に愛着を示したからなのであろう。勿論それ以外の要因もあったと憶測されるが・・・。

八月己未。制。大宰府官人家口。皆免課役。」從四位上路眞人大人爲大宰大貳。甲戌。京人流宕畿外。則貫當國而從事。丁丑。左京人大初位下高田首久比麻呂獻靈龜。長七寸。闊六寸。左眼白。右眼赤。頚著三公。背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白兩點。相次八字。

八月十日に大宰府の官人の家口(戸口)は課役を全て免除すると定めている。またこの日、路眞人大人を大宰大貳に任じている。二十五日に京人が畿外に流出したらその國に戸籍を移し、事(調・庸など)に従わせた、と述べている。

二十八日に左京人の「高田首久比麻呂」が「靈龜」を献上している。それは「長七寸。闊六寸。左眼白。右眼赤。頚著三公。背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白兩點。相次八字」の姿をしていた、と記載している。元号の由来が唐突に記されている。勿論、瑞祥の龜ではなく、であろう。今頃になって?…なかなか良い貢物がなかったのかもしれない。

<靈龜・高田首久比麻呂>
靈龜

何といっても目出度いものが散りばめられた「龜」と読めるように記載されている。「三公」は中国周の最高官僚、「七星」は北斗七星、脚には、易の八卦、眼は左右で白赤と異なり、腹には赤白の文様があったと解釈される。

化け物に限りなく近い姿なのだが、瑞祥だったのであろう・・・と言うことで、献上者の左京人の近隣で「龜」の地形を探索することになった。

がしかし、実は平城宮の近辺、金辺川沿いに「龜」が棲息していたのは、随分と前に気付いていたのである。それは斉明天皇紀に肅愼人を饗応するために石上池の近くに須彌山を造ったという記事が載せられていた。「龜」の首辺りに廟塔を建てたと推定した場所である。

胴体部分の山稜が複雑に入り組んでいるところを順不同に読み解いてみよう。「背負七星」は明解である、図に示した通りに綺麗に北斗七星が見出せる。「左眼白。右眼赤」は確かに顔面の右側を示している。谷間の形状からして赤=大+火=平らな山稜から延びる谷間の山稜が交差する様のような地形かと思われるが、地図上では確認されない。「左眼」の白=何もない様と解釈すると、全く見えない様子を述べていると読み取れる。

「前脚並有離卦。後脚並有一爻」と記載される。「卦」=「L形になった様」と解説される。離卦=くっ付いているL形の山稜と読み解ける。図に示した前脚と思われる山稜の端にその地形がくっ付いていることが解る。後脚には爻=山稜が交差する様の場所が一ヶ所見出せる。そして前後脚の左右は重なって「並」と記されている。

「頚著三公」の公=谷間にある小高い様と読み解いた。頻出の文字である。首の辺りで求めると図に示した場所が該当するようである。「相次八字」の「相」=「木+目」=「山稜が途切れている様」、「字」=「宀+子」=「谷間で生え出た山稜」と解釈すると、相次八字=山稜が途切れた谷間に連なって生え出た山稜と読み解ける。図に示したように「龜」の舌のような位置付けになる。

「腹下赤白兩點」の「赤白」は、赤白=平らな頂の谷間で交差するような山稜がくっ付いて並ぶ様と読み解く。図の谷間の出口辺りの地形を表している。「兩」=「左右同じような様」と解釈される。「点」の旧字体である「點」=「黑+占」と分解される。「黑」=「山稜が炎のように延びた前に平らな地がある様」と読み解い来た。「占」=「卜+囗」=「岐れて延びた大地」として、兩點=左右同じように岐れた山稜が炎のように延びて前に平らな地がある様と読み解ける。確かに「腹」の位置にある地形を表していると思われるが、炎の地形は、残念ながら確認することは叶わないようである。

「龜」の大きさを「長七寸。闊六寸」と記している。そのまま読めば、せいぜい20cm四方の大きさとなろう。さて、「寸」=「又(手)+一」=「指を広げた長さ」であるが、それを地形象形すると寸=山稜の端の長さを表していると解釈される。既出では寸=肘=腕の肘を曲げたように山稜が延びる様の解釈が流行りのようであるが・・・。

では何処の山稜の端か?…平城宮のある山稜の端と推測される。現在の地図上でその幅、約100mであり、長≒700m闊≒600mと実測される。高田首久比麻呂の遊び心はなかなかのもので、また、それなりの博識を有していたのであろう。天皇含め重臣たちが甚く感動した、租税を免除するほどでもなかったのかもしれない。

● 高田首久比麻呂 左京の地で探すと図に示した場所が見出せる。首=首の付け根の様久比=くの字に曲がる山稜が並んでいる様が決め手であるが、高=山稜が皺が寄ったような様は地図からでは断定するには至らないようである。と言うことで、最も確からしい場所として提案することにした。

九月己夘朔。詔。皇親二世准五位。三世以下准六位。」禁文武百寮六位以下用虎豹羆皮及金銀飾鞍具并横刀帶端。但朝會日用者許之。婦女依父夫蔭服用。亦聽之。凡横刀鋏者。以絲纒造。勿用素木令脆焉。庚辰。天皇禪位于氷高内親王。詔曰。乾道統天。文明於是馭暦。大寳曰位。震極所以居尊。昔者。揖讓之君。旁求歴試。干戈之主。繼體承基。貽厥後昆。克隆晢祚。朕君臨天下。撫育黎元。蒙上天之保休。頼祖宗之遺慶。海内晏靜。區夏安寧。然而兢兢之志。夙夜不怠。翼翼之情。日愼一日。憂勞庶政。九載于茲。今精華漸衰。耄期斯倦。深求閑逸。高踏風雲。釋累遺塵。將同脱屣。因以此神器。欲讓皇太子。而年齒幼稚。未離深宮。庶務多端。一日万機。一品氷高内親王。早叶祥符。夙彰徳音。天縱寛仁。沈靜婉㜻。華夏載佇。謳訟知歸。今傳皇帝位於内親王。公卿百寮。宜悉祇奉以稱朕意焉。

九月一日に皇親の内で二世は五位に、三世以下は六位に准じるようにせよ、と詔されている。また、六位以下の文武官人が虎・豹・羆の皮や金・銀の鞍具及び帯刀の装飾を行うことを禁じている。但し朝会の日に使用することは許されている。婦女については父及び夫の蔭(五位以上示す)で着用を許されている。また帯刀の柄は絹糸を巻き、素木のままにしてはならない、と述べている。

二日に氷高内親王に天皇禪位された。以下のように詔されている。概略は、天下を統治するには德と教養が大切である。中国では、平和裏に位を譲る時には適任者を選び、武力で天下を取ったとしても先朝の築いたものを受け継ぎ子孫を繁栄させている。今まで上天の助けを蒙って祖先の遺したものによって天下は安らかであった。しかしながら政事を執り行って早九年が過ぎ、年老いてしまった。ならば皇太子に譲るべきであろうが、未だ幼い。そこで評判も良く、憐れみの性質を持ち、沈着冷静で若い一品の氷高内親王に皇帝の位を伝えたく思う。公卿(三位以上)以下の諸々の官人は朕の意志に従うようにせよ、と詔されている。「婉㜻」=「若々しく美しい」かも?・・・。

――――✯――――✯――――✯――――
『續日本紀』巻六巻尾