2021年5月31日月曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(1) 〔517〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(1)


日本根子高端淨足姫天皇。諱氷高。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之皇女也。天皇神識沈深。言必典礼。

「日本根子高端淨足姫天皇」は、諱は氷高であり、天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)の孫、日並知皇子尊(草壁皇子)の皇女である(別名:日高皇女・新家皇女、母親は元明天皇:天智天皇の阿閇皇女)。天皇の見識は沈着で奥深く、言動は常に儀式作法に叶っていた、と述べている。

<日本根子高端淨足姫天皇・盖山・楯波池>
日本根子高端淨足姫天皇

持統天皇の強い思いで孫に日嗣したのだが、時が経ってその子に繋げるには、またもや幼なく、先例に従って女性陣が指揮を執るようにせざるを得なかった。がしかし、それは賢明であって、男子がしゃしゃり出ると『乱』となったであろう。

元正天皇(漢風諮号)の和風諮号が記載されている。勿論平城宮を拠点とする体制であり、日本根子=炎のような山稜が途切れた先の根のような地から生え出たところの地が中心となっている。とは言っても元明天皇と同じ場所にするわけには行かず、少しばかり外れた地を示す名称と思われる。

高端=皺が寄ったような地の端にある様、前記で登場した「高田首久比麻呂」の麓と推定される。図に示したように「龜」を、正に目の当たりにする場所である。淨足=水辺で両腕で取り囲むように山稜が延びた様と読み解ける。頻度高く登場する文字を並べた諡号であることが解る。天皇は生涯独り身だったとのことである。

後に盖山が登場する。その南麓で遣唐使が神祇を祭祀したと記載している。この山には祠が設けられていたのであろう。「盖」=「蓋」であり、谷間に蓋するような位置にある山と思われる。平城宮の東北(艮)方向にある小高い山がその地形を示していることが解る。陰陽道ではこの方向は”鬼門”とされる。航海の無事を祈願したのではなかろうか。

また、聖武天皇紀に楯波池が登場する。その池から飄風(つむじ風)が立ち上って宮の木々を薙ぎ倒した、と記載されている。既出の楯=木+斤+目=山稜に斧で切られたような隙間ができている様と解釈した。上記の「日本」の本=木+一=山稜が途切れた様が示す地形である。その山稜の端(波)にあった池と読み解ける。天皇の諡号は、その池を取り巻いた地形を表しているのである。

靈龜元年(西暦715年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

靈龜元年九月庚辰。受禪。即位于大極殿。詔曰。朕欽承禪命。不敢推讓。履祚登極。欲保社稷。粤得左京職所貢瑞龜。臨位之初。天表嘉瑞。天地貺施不可不酬。其改和銅八年。爲靈龜元年。大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸從赦除。但謀殺々訖。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不原者。並不在赦限。親王已下及百官人。并京畿諸寺僧尼。天下諸社祝部等。賜物各有差。高年鰥寡孤獨疾疹之徒。不能自存者。量加賑恤。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。免天下今年之租。又五位已上子孫。年廿已上者。宜授蔭位。獲瑞人大初位下高田首久比麻呂。賜從六位上并絁廿疋。綿卌屯。布八十端。稻二千束。

九月二日に天皇は禅譲を受け、大極殿で即位され、以下のことを詔されている。禅譲の命を慎んで受け国家の安泰を保とうと思う。粤(ここに)左京職が瑞龜を献上し、天が嘉瑞を表したと受け取り、和銅八年を靈龜元年とする。死罪以下の者を赦すが、殺人・私鑄錢・強盗・窃盗などはこの範囲ではない。親王以下百官人並びに京畿内の諸寺の僧尼、天下の諸社の祝部等のそれぞれ物を賜える。また高齢者や”鰥寡孤獨”及び疾病により生活のできない者にその程度により物を与える。”孝子順孫・義夫節婦”は終身租税を免除する。天下の今年の租税を免除し、五位以上の者の子孫で二十歳以上に蔭位(父祖の爵位に依る位)を授ける。瑞龜を献上した高田首久比麻呂には従六位上、絁・真綿・麻布・稲を与えている。

冬十月乙夘。詔曰。國家隆泰。要在冨民。冨民之本。務從貨食。故男勤耕耘。女脩絍織。家有衣食之饒。人生廉耻之心。刑錯之化爰興。太平之風可致。凡厥吏民豈不勗歟。今諸國百姓未盡産術。唯趣水澤之種。不知陸田之利。或遭澇旱。更無餘穀。秋稼若罷。多致饑饉。此乃非唯百姓懈懶。固由國司不存教導。宜令佰姓兼種麥禾。男夫一人二段。凡粟之爲物。支久不敗。於諸穀中。最是精好。宜以此状遍告天下。盡力耕種。莫失時候。自餘雜穀。任力課之。若有百姓輸粟轉稻者聽之。丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。

十月七日に以下のことを詔されている。概略は、国家の繁栄は民が富むことであり、それには貨食(貨殖:財産を増やす)に専念させることある。男は農耕、女は機織りで衣食が豊かになり、刑罰を要しない政治となる。太平の風習を招くように官人と民は努力せよ、と述べている。ただし今の諸國の民は生業の技術を極めておらず、ひたすら湿地で稲を作り、陸田(畑)の有益なことに気付いていない。大水や旱に遭うと穀物の蓄えもなく直ぐに飢饉となる。これは民の怠惰なことだけではなく、國司が教導していないからである。今後は麦と稲とを共に植え、男子一人につき二段の割合とせよ、と命じている。また粟は長期保存が可能であり、播種の時候を失することにないように指導することである。その他雑穀はそれぞれに応じて割り当て、租税として稲の代わりに粟を納めることを聴き入れるようにせよ、と述べている。

二十九日に陸奥蝦夷で第三等(蝦夷の位)の「邑良志別君宇蘇弥奈」等が次のように言上している。概略は、親族が少なく、常に蛮族に掠め取られることに恐怖している。それ故に「香河村」に郡家を置き編戸(戸籍のある公民)とされたい。また蝦夷の「須賀君古麻比留」等が先祖以来この地で採取した昆布を毎年献上して来たが、國府城から遠く隔たり往復に何十日も要している。それ故に「閇村」に郡家を設置されたい、と言上している。これを許している。

十二月己酉朔。日有蝕之。己未。常陸國久慈郡人占部御蔭女一産三男。給粮并乳母一人。

十二月一日に日蝕があったと記している。十一日、「常陸國久慈郡」の人の「占部御蔭女」が三つ子の男子を産んでいる。食料と乳母一人を与えている。

<邑良志別君宇蘇弥奈-須賀君古麻比留>
● 邑良志別君宇蘇弥奈・須賀君古麻比留

一部を除いて概ね蝦夷らしい(?)名前なのだが、例によって一文字一文字が示す地形を求めてみよう。陸奥蝦夷記載されるのだから、陸奥國及びその周辺辺りが出自の場所であろう。

「邑」=「集まった様」、「良」=「なだらかな様」、「志」=「蛇行する川」、「別」=「近隣の地」と読めるから邑良志別=集まったなだらかに蛇行する川辺と読み解ける。

「宇」=「宀+于」=谷間に山稜延びている様」、「蘇」=「艸+魚+禾」=「様々な山稜が寄り集まっている様」、「弥」=「広がっている様」、「奈」=「木+示」=「山稜の端にある高台」と読み解いて来た。纏めると宇蘇弥奈=谷間に延びる様々な山稜が寄り集まって広がり高台になっているところと読み解ける。

図は現在の標高10m以下のところを強調した表示としたが、谷川と井手谷川が近付き、その後合流する付近の地形が上記の名前が表す場所と思われる。郡家を望んだ香河村は、現在の井手谷川の畔にあったことを示していると思われる。

「香」=「禾(黍)+甘=窪んだところから山稜がしなやかに曲がって延びる様」と解釈したが、谷間の窪んだところから流れ出す川と見做しているのであろう。井手=四角く囲まれた地から延びる山稜となるが、正に「香」に通じる表記と思われる。その傍らの村を香河村と呼称したと推測される。

須賀=州が押し開いたような谷間は倭名らしき表記であるが、それを求めると丹取郡の山稜の地形を表していると思われる。古麻比留=丸く小高いところが平たくなって並び谷間を押し広げたようなところと読み解ける。興味深いことには、湾状の地形であり、かつ昆布の生育環境である水深5m以上の海が間近に存在する場所である。閇村の場所を求めるには至難であるが、おそらく図に示した谷間が塞がれたような場所を示しているのではなかろうか。

彼らの名前は上記でも述べたように”蝦夷風”であろう。書紀の持統天皇紀に登場した越度嶋蝦夷の「伊奈理武志」、肅愼の「志良守叡草」に通じる表記と思われる(こちら参照)。おそらく倭人の地形象形表現に不慣れであって、見よう見真似で付けたのであろう。續紀があからさまに記載するのもそれを暗示するためのように感じられる。

従来での解釈は、蝦夷とくれば現在の東北地方、即ち”現・日本人”とされるが、全くの誤りと思われる。断言するのには些か情報不足であるが、記紀・續紀に名前を有する”現・日本人”は登場していない、と推測されるが、今後の重要な課題でもある。

<常陸國久慈郡・占部御蔭女>
常陸國久慈郡

常陸國は幾度か登場し、現在の北九州市吉志辺りと推定した。古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった常道仲國造の地である。

既出では郡の名称は記載されず、ここに来て郡が建てられていたことが判る。また書紀の持統天皇即位元年(687年)三月に高麗からの帰化人56人をこの地に住まわせたと記されている。未開の地が未だ多く残る國であったのであろう。

久=くの字形に曲がる様慈=艸+絲+心=谷間の中心に山稜が並んでいる様と解釈すると、図に示した場所と推定される。その範囲については情報少ないが、その上にかなり地形が変化していることもあり、明瞭ではないようである。

● 占部御蔭女

三つ子を産んだ女性の名前、占=山稜が岐れた様部=近隣御=束ねる様蔭=艸+阝+亼+云=山稜が覆い被さるように広がり延びている様と読むと図に示した場所辺りと思われる。

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二年春正月戊寅朔。廢朝。雨也。宴五位已上於朝堂。辛巳。地震。壬午。授從三位長屋王正三位。正五位上長田王。佐伯宿祢百足並從四位下。正六位上猪名眞人法麻呂。多治比眞人廣足。大伴宿祢祖父麻呂。小野朝臣牛養。土師宿祢大麻呂。美努連岡麻呂並從五位下。

霊龜二年(西暦716年)正月一日、雨が降り、朝賀を廃し、五位以上の者と朝堂で宴会を行っている。四日に地震があったと記している。五日、以下の叙位を行っている。長屋王を正三位、長田王(六人部王に併記)・佐伯宿祢百足を從四位下、猪名眞人法麻呂(石前に併記)・多治比眞人廣足(廣成に併記)・大伴宿祢祖父麻呂(牛養に併記)・小野朝臣牛養(毛野に併記)・土師宿祢大麻呂美努連岡麻呂(淨麻呂に併記)を從五位下を授けている。

二月己酉。令攝津國罷大隅媛嶋二牧。聽佰姓佃食之。丁巳。出雲國々造外正七位上出雲臣果安。齋竟奏神賀事。神祇大副中臣朝臣人足。以其詞奏聞。是日。百官齋焉。自果安至祝部。一百一十餘人。進位賜祿各有差。
三月癸夘。割河内國和泉日根兩郡。令供珍努宮。

二月二日に攝津國に命じて「大隅・媛嶋」の二つの牧場を廃止し、水田にすることを許可している。二月十日に出雲國々造である外正七位上の「出雲臣果安」が齋(心身を清めて飲食を慎んで神に仕える)を行って神賀事(天皇の治世を祝う詞)を奏上している。神祇大副の中臣朝臣人足がその詞を奏上したと記載している。この日、百官が「齋」をして、「果安」から祝部までの百十余人をそれぞれに進位し、禄を与えている。

出雲國造の「神賀事」は、特別なものであったようで、「服属儀礼」もしくは「復奏儀礼」とみる解釈があるとのこと。本記事が最初であるが、この後十数回の記載がある。「出雲臣果安」の出自の場所を下記で求めてみよう。

三月二十七日に河内國の「和泉・日根」兩郡(二つで一組となるものの双方)を割いて「珍努宮」に供している。

<大隅直>
大隅媛嶋二牧

「大隅」は、書紀の天武天皇紀に大隅直が連姓を賜ったと記載されていた地であろう。当地は応神天皇紀に「大隅宮」が置かれていた場所でもある。

左図を再掲したが、大隅牧は図中の”河南”と記載した辺りではなかろうか。現在では耕地となっているが、住宅地となっている様子が伺える。

確かに犀川(現今川)の崖岸の上にあり、ここに放牧しても柵を殆ど必要としない環境と思われる。かつては耕作地にするのが難しく、放牧した牛馬を閉じ込めておくには最適なだったのであろう。

<媛嶋牧(松原)>
媛嶋は、間違いなく古事記の難波之比賣碁曾社のあった日女嶋と思われる。
品陀和氣命(応神天皇)紀及び大雀命(仁徳天皇)紀に登場した島であり、現在の沓尾山であり、当時は周囲を川・海で囲まれた地形であったと推測した。

書紀では安閑天皇紀に「媛嶋松原」に牛を放牧した記載されている。「松原」は図に示したように松葉が延びたような山稜が並んでいる麓の場所と推定した。

この地の谷間の先は水面下であったと思われ、放牧に適した場所であったと思われる。現在とは大きく異なった地形と推測される。この谷間の上に松山神社が鎮座している。「松」は繋がっているのかもしれない。

出雲國々造:出雲臣果安

出雲國の國造として”神賀詞”を述べた記載される。まるで新羅の使者のような取り扱いであり、”外”正七位上として出自が外れていることを表している。古事記の解読で詳述したように、速須佐之男命の系列が二つに分れると記載されている。

<出雲臣果安・廣嶋・弟山>
原文を引用すると…「故、其櫛名田比賣以、久美度邇起而、所生神名、謂八嶋士奴美神。又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神、次宇迦之御魂神。二柱」…である。

娶った櫛名田比賣神大市比賣の系列が派生し、この派閥間の凄惨な争いが発生したことをそれぞれの後裔達の名前を羅列することによって表現していた。

登場する神々の名前からその出自を場所を突き止めなければ全く意味不明の記述となってしまう。前者が出雲の東北部、後者が西南部を占め、前者の末裔である「大國主命(神)」(刺國が出自)は西南部を奪取するために送り込まれた刺客だったのである。

出雲の国譲りと記載される物語は、天皇家が「櫛名田比賣」の系列を引継ぎ、その地(東北部)を譲り受けたことを示している。「大國主命」に多数の名前が付与されるのは、出雲の全域を奪せよ、との指令であり、結局それは果たせず、淡海の片隅に隠遁するしかなかったのである。更に崇神天皇紀に”疫病神”として登場する大物主大神は「神大市比賣」の子、大年神の末裔と推定した。

書紀に幾度か登場する「出雲臣」(出雲の地形に類似する地の臣)の捻じれた表記に惑わされることなく、出雲國々造の出雲臣果安が「神大市比賣」の系列を受け継ぐ人物であると推測される。續紀になって漸く出自の場所が推定される人名である。頻出と言える果安=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間に丸く小高い地がある様と読み解いた。その地形が図に示した場所に見出せる。

「大年神」の子、「大國御魂神」の東側であり、現在の戸ノ上山の西麓に当たる。この谷間から立ち上る雲が”八雲”であり、同じく「大年神」の子、「奥津比賣命」、別名竈神の”竈(現桃山)から立ち上る煙”を”八雲”と重ねた表記である。上記の詳細はこちらを参照。

そんな背景が浮かぶと上記の神賀事」の特別さがより鮮明になって来るであろう。そして意富富杼王でさえ不可侵の領域であった出雲西南部をも天皇家の統治領域に組み込まれたことを告げ、古事記で記載される長い出雲の物語は、ここに完結したのである。

後に息子連中が登場する出雲臣廣嶋・出雲臣弟山である。廣嶋=鳥のような山稜が広がったところ弟山=山の前にギザギザとして山稜があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。尚、「廣嶋」は出雲風土記の編者であったようである。また、「弟山」は「廣嶋」の子とする説もあるが、兄弟として問題ない配置であろう。

<河内國:和泉郡/日根郡・珍努宮>
河内國:和泉郡/日根郡・珍努宮

大国河内國に更なる郡名が記載されている。と言うか、最も広い主たる郡が漸くにして登場したようである。既出の文字列であり、すんなりと読み解けるであろう。

「和」=「山稜がしなやかに曲がる様」、「泉」=「囟+水」=「窪んだ地に水がある様」から和泉=しなやかに曲がる山稜の麓にある窪んだ地に水が湛えられている様と読み解ける。

図に示した場所の地形を表していると思われる。和泉郡は現在の京都郡みやこ町役場がある地域である。

日根郡日根=炎のような山稜が根のように延びた様と読むと、北側に並ぶ場所と推定される。「和泉郡」は打って変わって多くの山稜が延びている地形である。

「珍」=「玉+人+彡」=「玉のような地の傍らにある谷間から山稜が連なって延びている様」、「努」=「女+又+力」=「手のような山稜が嫋やかに曲がりながら押し延ばされている様」と解釈される。

<珍努宮>
珍努=玉のような地の傍らにある谷間から手のような山稜が嫋やかに曲がって並んで延びているところと読み解ける。珍努宮は図に示した場所と推定される。

現在の権現山と呼ばれている山容を「玉」と見做した地形象形表記であることが解る。別名に茅渟宮、智奴宮などがあるそうだが、共にこの地形を表していると思われる。

河内國の東半分の郡別ができたのではなかろうか。郡名と地形が見事に合致した様相を示している。かつては墓所の地だったのが、大きく開拓されて変貌したと思われる。河川の下流域、それは古事記の表舞台ではなかったのである。