2022年2月18日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(36) 〔573〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(36)


天平十五年(西暦743年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

六月癸巳。山背國司言。今月廿四日自酉至戌。宇治河水涸竭。行人掲渉。丁酉。以從五位下中臣朝臣清麻呂爲神祇大副。從五位下當麻眞人鏡麻呂爲少納言。從五位下多治比眞人木人爲中務少輔。從五位下藤原朝臣許勢麻呂爲中宮亮。從五位下高丘王爲右大舍人頭。從五位下林王爲圖書頭。外從五位下小野朝臣綱手爲内藏頭。從五位下大原眞人麻呂爲式部少輔。外從五位下大伴宿祢三中爲兵部少輔。從四位下大市王爲刑部卿。正五位上平羣朝臣廣成爲大輔。外從五位上倭武助爲典藥頭。外從五位下紀朝臣男楫爲彈正弼。從四位上藤原朝臣仲麻呂爲左京大夫。外從五位下鴨朝臣角足爲右京亮。從五位下多治比眞人土作爲攝津亮。從四位下下道朝臣眞備爲春宮大夫。皇太子學士如故。正五位下背奈王福信爲亮。正五位下藤原朝臣清河爲大養徳守。從五位下佐伯宿祢毛人爲尾張守。外從五位下秦井手乙麻呂爲相摸守。從五位下百濟王敬福爲陸奥守。外從五位下葛井連廣成爲備後守。從五位下小治田朝臣廣千爲讃岐守。外從五位上引田朝臣虫麻呂爲土左守。

六月二十六日に山背國司が、[今月二十四日の酉刻(午後六時)から戌刻(午後八時)の間、宇治河の水が枯れて通行する人が徒歩で渡った。]と言上している。現在の航空写真参照すると山稜の端が大河犀川(今川)に接する地形である。渇水によって枯れたのであろうが、通行する人々にとっては特筆すべき出来事だったと推測される。

三十日に以下の人事を行っている。中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を神祇大副、當麻眞人鏡麻呂を少納言、多治比眞人木人を中務少輔、藤原朝臣許勢麻呂(巨勢麻呂。仲麻呂に併記)を中宮亮、高丘王(久勢王に併記)を右大舍人頭、林王を圖書頭、小野朝臣綱手を内藏頭、大原眞人麻呂を式部少輔、大伴宿祢三中を兵部少輔、大市王を刑部卿、平羣朝臣廣成を大輔、倭武助を典藥頭、紀朝臣男楫(小楫)を彈正弼、藤原朝臣仲麻呂を左京大夫、鴨朝臣角足(治田に併記)を右京亮、多治比眞人土作(家主に併記)を攝津亮、下道朝臣眞備を春宮大夫・皇太子學士(以前と同じ)、背奈王福信(背奈公福信)を亮、藤原朝臣清河を大養徳守、佐伯宿祢毛人を尾張守、秦井手乙麻呂を相摸守、百濟王敬福()を陸奥守、葛井連廣成(白猪史廣成)を備後守、小治田朝臣廣千()を讃岐守、引田朝臣虫麻呂を土左守に任じている。

秋七月戊戌朔。日有蝕之。庚子。天皇御石原宮。賜饗於隼人等。」授正五位上佐伯宿祢清麻呂從四位下。外從五位下葛井連廣成從五位下。外從五位下曾乃君多利志佐外正五位上。外正六位上前君乎佐外從五位下。外從五位上佐須岐君夜麻等久久賣外正五位下。壬寅。出雲國司言。楯縫出雲二郡雷雨異常。山岳頽崩。壞廬舍埋田畝。庚寅。地震。癸亥。行幸紫香樂宮。以左大臣橘宿祢諸兄。知太政官事鈴鹿王。中納言巨勢朝臣奈弖麻呂爲留守。

七月一日に日蝕があったと記している。三日に天皇は石原宮に出御して隼人等を饗応している。佐伯宿祢清麻呂(淨麻呂。人足に併記)に従四位下、葛井連廣成に従五位下、曾乃君多利志佐(贈唹君多理志佐)に外正五位上、「前君乎佐」に外従五位下、佐須岐君夜麻等久久賣に外正五位下をそれぞれ授けている。

五日に出雲國司が、[「楯縫・出雲」の二郡に雷雨が常とは異なって降り、山岳が崩れ落ち、人家を壊して田圃を埋めてしまった。]と言上している。十七日(?)に地震があったと記している。二十六日に紫香樂宮に行幸している。左大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)と知太政官事の鈴鹿王と中納言の巨勢朝臣奈弖麻呂を留守官に任じている。

<前君乎佐>
● 前君乎佐

「前君」は記紀・續紀を通じて初出であり、またその他の情報も皆無の状況のようである。この表記で読み手に通じるわけだから、当時では”常識”だったのであろう。

では「〇〇前」は一体何処を示すのであろうか?…思い巡らした結果は、古事記の氣多之前に行き着いた。そして、この人物を挟んで曽乃君多利志佐及び佐須岐君夜麻等久久賣が叙爵された記述となっている。

日向國を出自を持つ人物二人である。これがヒントだよ!…なんだろうか。現地名は遠賀郡岡垣町である。既出の文字列である、乎佐=息を吐きだすように開いた谷間から左手の形の山稜が延び出ているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を求めることができる。

当然のことながら、續紀編者は「前君」の場所をあからさまには記述しなかったであろう。「氣多之前」を回れば隱伎・因幡に届くのである。これらの國が”氣多”の山稜を挟んで「日向國」と背中合わせなんて、口が裂けても言えない配置だったからである。

<出雲國:楯縫郡・出雲郡>
出雲國:楯縫郡・出雲郡

出雲國にあった郡の詳細は、極めて少なく、書紀の斉明天皇紀に嚴神之宮があった於友郡が記載されている。現地名は、戸ノ上山の西北麓である北九州市門司区柳町辺りと推定した。

その後には新たな郡名が記述されることはなく、續紀の聖武天皇紀になって、その地に関わる人物を登場させている。大原采女勝部鳥女であり、「大原郡」があったと知られている。意宇郡の南に接する地と思われる。

そんな背景で、今回楯縫郡出雲郡の二郡が登場している。「出雲郡」は、出雲の中心地、出雲國造である出雲臣一族が住まう谷間の前に広がった場所と推定される。古事記が記す大年神の出自の場所である。

「楯縫郡」の「楯」=「木+⺁+十+目」=「山稜が谷間を塞ぐように延びている様」、「縫」=「糸+辶+夆」=「山稜が寄せ合わされている様」と解釈した。纏めると楯縫=谷間を塞ぐような山稜が縫ったように寄せ合わされているところと読み解ける。図に示した場所、出雲郡の西隣の地を表していることが解る。勿論それぞれの郡の南部は、崖崩れを起こした山岳地帯であることも確認される。

少し後に出雲臣屋麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。この人物は、天平十九(747)年六月に「臣」姓を賜ったと記載されている(同時に前出の茨田弓束・枚麻呂が宿祢姓)。即ち、前出の出雲臣系列とは異なっていたのであろう。屋=山稜の端が延び至った様と解釈すると、図に示した「楯縫郡」の場所が出自と推定される。出来が良かった人物のようで、目出度く臣姓を賜ることができたとのことである。

八月丁夘朔。幸鴨川。改名爲宮川也。乙亥。上総國司言。去七月大風雨數箇日。雜木長三四丈已下二三尺已上一万五千許株漂着部内海濱也。

八月一日に「鴨川」に行幸されて、川の名前を「宮川」に改めている(こちら参照)。九日に上総國司が[去る七月に大風雨が数ヶ日に及び、長さ三、四丈以下で二、三尺以上の一万五千本ほどの株が、國内の海浜に漂着した。]と言上している。

九月壬寅。正五位上石川朝臣賀美授從四位下。己酉。免官奴斐太從良。賜大友史姓。斐太始以大坂沙治玉石之人也。丁巳。甲賀郡調庸准畿内收之。又免當年田租。

九月六日に石川朝臣賀美(加美。枚夫に併記)に従四位下を授けている。十三日に官奴の「斐太」を解放して良民とし、「大友史」氏姓を賜っている。「斐太」は初めて「大坂沙」を用いて玉石を治した人である。二十一日に甲賀郡の調・庸を畿内に准じて収めさせ、今年の田租を免じている。

大坂沙とは?…古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀の挿入歌にある「伊知比韋能 和邇佐能邇」(壹比韋の丹[辰砂])を示していると思われる。大坂は大坂山の東南麓に長く延びる山稜を形を捉えた表記と解釈した。本文は「以大坂沙治玉石」と記載されている。まかり間違っても金剛砂のような研磨剤で玉石を研磨したのではない。

銅鏡の鏡面仕上げに辰砂が使われていたことが知られている。研磨剤としての機能もさることながら、摩擦による発熱で辰砂から発生する水銀が銅の表面に極薄の水銀(銅との合金)被膜を形成させていたのであろう。即ち、表面が傷付いた玉石を辰砂を使って鏡面に仕上げた、その手法を編み出した人物だったと推測される。既に知られていた錫(文武天皇即位四[700]年正月、こちら)との合金を用いた可能性が高い。

<大友史斐太>
● 大友史斐太

上記のように考え、「壹比韋」(現地名は田川郡赤村内田)近辺での出自場所探索を試みた。大友の文字列は書紀で登場した大友皇子(伊賀皇子)で用いられていた。大友=平らな頂の山稜が寄り添いように並んでいるところと解釈した。

山稜の端ではなく、谷奥の地であることから些か山稜の形が異なるが、「友」=「又(手)+又(手)」と分解される、「手」が二つ寄り添っている場所が見出せる。

斐太も既出であり巨勢斐太朝臣で用いられていた。斐太=交差するような谷間で山稜が平らに大きく広がったところと解釈した。「大友」の谷間の西側に当たる場所にその地形を確認できる。頻出の史=中+又=山稜が真ん中を突き通すような様であり、「友」の片手がそれを示していることが解る。

国土地理院航空写真1961~9を参照すると、その当時は「大友」の谷間を突っ切る道が通り、現地名京都郡みやこ町犀川大坂に抜けている。今からでは想像もできないくらいに人々が住まい、そして交流していたのではなかろうか。ひょっとすると、近飛鳥と遠飛鳥を繋ぐ、大坂越の道だったのかもしれない。古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に記載された山代之幣羅坂、また、後日に調べてみよう。

冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。壬午。東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。

十月十五日に以下のように詔されている・・・朕は、德の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継いで、その志は広く諸々の人を救うことであり、つとめて人物を慈しんで来た。この国土の果てまで、既に憐れみ深さと思いやりの恩恵を受けているけれど、未だ天下の果てまで仏の法恩はゆき渡っていない。そこでほんとうに三宝(仏法僧)の威力・霊力に頼って、天と地は安泰になり、万代までのめでたい事業を行って、生きとし生けるもの皆栄んことを望むものである。<続>

ここに天平十五年十月十五日に、朕は菩薩の大願をおこして、廬舎那仏の金銅像一体を、お造りすることにする。そのためには国中の銅を全て費やして像を鋳造し、大きな山を削って堂を建設し、広く仏法を全宇宙にひろめて、朕の仏道への貢献としよう。そして最後に朕も皆も同じように仏の功徳をこうむり、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。<続>

天下の富を所有する者は朕である。天下の権勢を所有する者も朕である。この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、こと容易いが、精神には到達しにくい。だからと言って、むやみに人を苦労させては、神聖な意義を感じることができなくなることや、あるいは非難する者が出て、かえって罪に陥ることを恐れる。従って参加し貢献しようとする者は、心を込めて至誠の志を持ち、各々が大きな幸福を招くという気持ちで、毎日三たび廬舎那仏を拝し、自らがその思いを持って、それぞれが廬舎那仏を造ることに努めるべきであろう。<続>

もしそれ以外に更に一枝の草や一握りの土を持って像を造ることを助けようという願いを心に抱いている人がいたならば、自由にそれを許そう。國・郡などの役人は、このことを理由にして百姓の仕事を侵し乱したり、無理やり物資を取り立てたりしてはいけない。遠近にかかわらず全国に布告して朕の意向を知らしめよ・・・。

十六日に東海・東山・北陸三道の二十五國の今年の調・庸などの物品を、全て紫香樂宮に貢納させている。十九日に皇帝(天皇)は紫香樂宮に出御されている。廬舎那仏像をお造りするために、初めて寺地(後の甲賀寺)を開いている。そこで行基法師は弟子達を率いて、多くの民衆を仏像建立に勧め誘っている。

現在に残る東大寺大仏造営の詔である。紫香樂宮に落ち着かれることはなく、それに伴って甲賀寺での廬舎那仏の完成は果たせず、仏像そのものは東大寺に移ったようである。さて、そんな経緯を垣間見ることができるのか、楽しみにしておこう。

「行基法師」は、元正天皇紀に、人心を惑わす不逞の輩として僧尼令で罰せられている。”弾圧”されても民衆からの信望は減じることはなかったのであろう。むしろ民衆の気持ちを煽ったのかもしれない。聖武天皇は、それを利用したわけで、この天皇は、前記での国防体制構築も含めて、なかなかの戦略家だったように伺える。

<甲賀寺(金鐘寺)>
ここで初めて開いた寺である甲賀寺の場所を求めてみよう。ただ「甲賀」の表記では、一に特定することが叶わないのであるが、金鐘寺と別称されていると思われる。

前記で東大寺の前身が金鍾寺と知られていると述べた。「鐘」、「鍾」は同じ意味ではないか?…一見ではそう受け取ることになるが、やはり、見事な地形象形表記を行っていることが解った。

そして前記で求めた紫香樂宮の詳細を明らかにすることができたように思われる。「鐘」=「金+童」と分解される。「童」=「突き通す様」を表す文字と解説されている。

「紫香樂」の「紫」が示す山稜を「釣鐘」と見立てて、「金」=「山稜が三角形の高台になっている様」から、金鐘=三角形の高台が釣鐘を突き通すようなところと読み解ける。金鍾=三角形の高台が釣鐘を突いているようなところと解釈した。釣鐘と金との位置関係が異なっているのである。

紫香樂宮は、図に示したような配置で造営されたのではなかろうか。後に朱雀路が登場する。現在に残る道は、その名残なのかもしれない。勿論、見事に南面する場所である。

十一月丁酉。天皇還恭仁宮。車駕留連紫香樂。凡四月焉。戊申。宴群臣於内裏。外從五位下倭武助授從五位下。五位已上賜祿有差。

十一月二日に恭仁宮に帰還されている。紫香樂宮での滞在は、およそ四ヶ月であった。十三日に群臣を内裏に招いて宴を行っている。倭武助に従五位下を授けている。五位以上の官人に、それぞれ禄を賜っている。

十二月己丑。始運平城器仗収置於恭仁宮。辛夘。始置筑紫鎭西府。以從四位下石川朝臣加美爲將軍。外從五位下大伴宿祢百世爲副將軍。判官二人。主典二人。初壞平城大極殿并歩廊。遷造於恭仁宮四年。於茲其功纔畢矣。用度所費不可勝計。至是更造紫香樂宮。仍停恭仁宮造作焉。

十二月二十四日に初めて平城宮にあった武器を運んで恭仁宮に収め置いている。二十六日に初めて「筑紫鎮西府」を置き、石川朝臣加美(賀美。枚夫に併記)を将軍、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)を副将軍に任じている。他に判官二人、主典二人を置いている。

最初に平城宮の大極殿並びに歩廊を壊し、恭仁宮へ移し替えをしてから四年が過ぎ、その工事は漸く終わっている。その造営に要した費用は、悉く計算することができないくらいに多額であった。ここに至って、更に紫香樂宮を造ろうとしている。やはり恭仁宮の造営は停止することになった、と記している。

<筑紫都督府>
新たに設置された筑紫鎮西府は、旧大宰府(筑紫大宰)と推定される。現在の北九州市小倉北区足原と推定した。

天智天皇紀に記載された筑紫都督府は、その東側であり、同一の場所ではない。現地名は同区足立・黒原となる(左図再掲)。

通説では、「大宰府」(現在の太宰府市・筑紫野市)は筑前國にあって、それを廃して筑前國司に全権を委ねた、とされている。筑前國司から「鎮西」が示す機能を分離して将軍等を任命した、とするのであろう。

更に後の天平十七(745)年六月に「復置大宰府」と記載されているが、筑紫鎮西府は大宰府の別称とされ、単なる名称変更と解釈されているようである。尚、前記で太宰府市は夜久(掖玖)、筑紫野市の一部は度感と推定したところである。

太宰府の機能は、西海からの使者を迎える正式な場所であり、唯一の外交拠点である。また西海道に属する國々を統括する役目を担っていたと記述されている。「鎮西」ならば、後者の役目を分離独立させたことになる。さて、物語の進行は如何なることになるのか、また、後日に述べてみよう。