2022年2月25日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(37) 〔574〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(37)


天平十六年(西暦744年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十六年春正月丙申朔。廢朝。饗五位已上於朝堂。庚戌。任裝束次第司。爲幸難波宮也。戊午。太政官奏。鎭西府將軍准從五位官。判官准從六位官。主典准從七位官。倍給二季祿及月料。並留應入京調庸物相折。通融隨時便給。又特賜公廨田。將軍十町。副將軍八町。判官六町。主典四町。奏可之。辛酉。給鎭西府印一面。

正月一日、朝賀を取り止め、朝堂で五位以上の官人を招いて饗応している。十五日に難波宮(以下同様)に行幸するために装束の次第司を任命している。二十三日に太政官が[鎮西府の将軍は従五位の官に、判官は従六位の官に、主典は従七位に准じ、二季の禄及び月料は二倍給うことにしたい。それとともに京に運ぶべき調・庸の物を鎮西府に留め、そのなかからとりわけてやりくりし、その時に応じて給いたい。また特に公田を将軍には十町、副将軍には八町、判官には六町、主典には四町賜ることを望みます。]と奏上している。二十六日に鎮西府に印一面を与えている。

閏正月乙丑朔。詔喚會百官於朝堂。問曰。恭仁難波二京何定爲都。各言其志。於是陳恭仁京便宜者。五位已上廿四人。六位已下百五十七人。陳難波京便宜者。五位已上廿三人。六位已下一百卅人。戊辰。遣從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。從四位上藤原朝臣仲麻呂。就市問定京之事。市人皆願以恭仁京爲都。但有願難波者一人。願平城者一人。癸酉。更仰京職令諸寺百姓皆作舍宅。乙亥。天皇行幸難波宮。以知太政官事從二位鈴鹿王。民部卿從四位上藤原朝臣仲麻呂爲留守。是日。安積親王縁脚病從櫻井頓宮還。丁丑。薨。時年十七。遣從四位下大市王。紀朝臣飯麻呂等。監護喪事。親王天皇之皇子也。母夫人正三位縣犬養宿祢廣刀自。從五位下唐之女也。

閏正月一日に詔されて、百官を朝堂に呼び集め、次のように尋ねている・・・恭仁・難波の二宮のいずれを都と定めるべきか。各々の考えを述べよ・・・。この問いに対して恭仁京が都合が良いと述べた者は、五位以上が二十四人で六位以下が百五十七であった。難波京が都合が良いと述べた者は、五位以上が二十三人で六位以下が百三十人であった。

四日に巨勢朝臣奈弖麻呂藤原朝臣仲麻呂を遣わして市に赴かせ、京をどちらに定めるべきかを尋ねさせている。市人は皆恭仁京を都とすべきことを願っていた。但し、難波を望む者が一人、平城を望む者が一人いた、と記している。

九日に京職に命じて諸寺の人々すべてに舎宅(住家)を造らせている。十一日に「難波宮」(難波長柄豐碕宮跡地)に行幸されている。知太政官事の鈴鹿王と民部卿の藤原朝臣仲麻呂を留守官に任じている。この日、「安積親王」は脚の病気で「櫻井頓宮」から恭仁京に還っている。十三日に「安積親王」が亡くなっている。時に年は十七であった。大市王紀朝臣飯麻呂等を遣わして、葬儀を監督・護衛させている。親王は天皇の皇子であり、母は夫人の「縣犬養宿祢廣刀自」、「唐」の娘であった(こちら参照)。

<安積親王・縣女王・不破内親王>
● 安積親王

この親王は、聖武天皇の皇子でありながら、初登場であり、それが死亡記事という扱いとなっている。

皇太子は姉の「阿倍内親王」が受けていることから、同じ縣犬養一族なのだが、「光明皇后」(父親は不比等)と「廣刀自」の系列の格差の大きさに驚かされる(こちら参照)。背景に存在する藤原一族の思惑が見え隠れするところであろう。

一説には、藤原朝臣仲麻呂による毒殺だったかも?…も存在するようである。同族間の確執が最も凄惨な事件を発生させることは、古事記が幾度となく語るところではある。それは兎も角、聖武天皇の御子ならば、出自の場所は限定的であろう。頻出の安=宀+女=山稜の挟まれて嫋やかに曲がって延びる様積=禾+責=積み重なった様と解釈した。図に示した場所を見出すことができる。

少し後に縣女王が登場する。全く系譜は知られていないようである。齋宮に入られるのであるが、何らかの事情があって延び延びになっていたと記載されている。確たる根拠はないが、図に示した場所が出自としたみた。平城宮の門前である。

後(淳仁天皇紀)に「井上内親王」の同母(縣犬養宿祢廣刀自)の妹、不破内親王が登場する。既出の文字列である不破=「不」の文字形のように山稜の端が広がった先に段差があるところと解釈した。図に示した場所にその地形を見出すことができる。

<櫻井頓宮>
櫻井頓宮

行幸に随行していた「安積親王」が脚の病気が原因で、その日出発した恭仁京へ帰ったと記載している。と言うことは、この頓宮は恭仁京から難波宮へ向かう途中にあった頓宮だったことになる。

櫻井は、かなりの頻度で登場する文字列であって、勿論、固有の名称ではない。櫻井=二つの谷間が寄り集まった前に四角く区切られた地があるところと解釈した。

恭仁京から難波宮に向かうには、前記の東北道を通り、現在の御所ヶ岳山塊(千草山の東側の峠)を横切って難波に出る行程と推測される。すると、上記の地形を示す図に示した場所に見出せる。現在の航空写真にも「櫻井」の「井」の地形を確認することができる。

「東北道」の山道を抜けたところで脚が動かなくなったのかもしれない。「櫻井頓宮」は、およそ恭仁京から4km弱の場所にあったと思われる。通説では、諸説あるが、全て30kmを優に超える距離であり、発ったその日に届く場所では、到底あり得ない。時空を超越した解釈をして平然としているのには閉口するのだが・・・。

二月乙未朔。遣少納言從五位上茨田王于恭仁宮。取驛鈴内外印。又追諸司及朝集使等於難波宮。丙申。中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂持留守官所給鈴印詣難波宮。以知太政官事從二位鈴鹿王。木工頭從五位下小田王。兵部卿從四位上大伴宿祢牛養。大藏卿從四位下大原眞人櫻井。大輔正五位上穗積朝臣老五人爲恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人。左京亮外從五位下巨勢朝臣嶋村二人爲平城宮留守。甲辰。幸和泉宮。丙午。免天下馬飼雜戸人等。因勅曰。汝等今負姓人之所耻也。所以原免同於平民。但既免之後。汝等手伎如不傳習子孫。子孫弥降前姓。欲從卑品。又放官奴婢六十人從良。丁未。車駕自和泉宮至。甲寅。運恭仁宮高御座并大楯於難波宮。又遣使取水路運漕兵庫器仗。乙夘。恭仁京百姓情願遷難波宮者恣聽之。丙辰。幸安曇江遊覽松林。百濟王等奏百濟樂。詔授无位百濟王女天從四位下。從五位上百濟王慈敬。從五位下孝忠。全福並正五位下。戊午。取三嶋路行幸紫香樂宮。太上天皇及左大臣橘宿祢諸兄留在難波宮焉。庚申。左大臣宣勅云。今以難波宮定爲皇都。宜知此状。京戸百姓任意往來。

二月一日に少納言の茨田王(茨田女王と谷間を分け合っていた?)を恭仁宮に遣わして、駅鈴と内・外印(天皇御璽・太政官印)を取りに行かせている。また、諸司及び朝集使等を難波宮に召集している。二日に中納言の巨勢朝臣奈弖麻呂は留守官が支給した駅鈴と内・外印を持って難波宮に到着している。知太政官事の鈴鹿王と木工頭の小田王と兵部卿の大伴宿祢牛養と大藏卿の大原眞人櫻井(櫻井王)と大藏大輔の穂積朝臣老(佐渡嶋配流から復活)の五人を、恭仁宮の留守官に任じている。治部大輔の紀朝臣清人と左京亮の巨勢朝臣嶋村(巨勢斐太朝臣)の二人を平城宮の留守官に任じている。

十日に「和泉宮」(珍努宮)に行幸されている(十三日に帰還)。十二日に天下の馬飼の雑戸の人達を解放して公民としている。そこで次のように勅されている・・・汝等の今名乗っている姓は人の恥じる姓である。そこで解放することを許し、平民の身分と同じにする。但し一旦解放された後、汝等の身についた技術をもし子孫に伝え習わせなかったならば、子孫はあまねく前の姓に降ろして卑しい等級に戻させようと思う・・・。また官奴婢六十人を解放して良民としている。

二十日に恭仁宮の高御座と大楯を難波宮に運んでいる。また使者を遣わして、水路を用いて恭仁宮の兵庫にあった武器を船で運ばせている。二十一日に恭仁宮の人民で難波に遷りたいと心から願う者には、自由にこれを許している。二十二日に「安曇江」に行幸されて、松林を遊覧し、百濟王等が百濟の樂を演奏している。詔して、「百濟王女天」に従四位下を、百濟王(慈敬・孝忠・全福)にそれぞれ正五位下を授けている。

二十四日に「三嶋路」を通って、紫香樂宮に行幸されている。太上天皇と左大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)は難波宮に留まっている。二十六日に左大臣が勅を次のように宣べている・・・今日から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえた上で、京戸の人々はその意に任せて旧都と新都の間を往来するように・・・。

<安曇江>
安曇江

何せ止まるところを知らない天皇であって、和泉宮に行かれたと思ったら、海辺の松林を御見学された、と記している。多分攝津國にあった場所と推測されるが・・・。

頻出の安=宀+女=山稜に挟まれた嫋やかに谷間が曲がっている様、幾度か登場の曇=日+雨+云=[炎]のような山稜がゆらゆらと延びている様と解釈した。古事記の阿曇連の解釈に類似する。

この地形は、現在の地図からでは求めることは叶わず、当時を推測すために現在の標高約10mを海岸線として見做すことにする。すると、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に謀反を起こした忍熊王に与した将軍、難波吉師部之祖・伊佐比宿禰の出自の場所に行き着く。

渡来系の人々を住まわせた難波吉師の地の周辺であり、百濟王の子孫もこの地に住まわせていたのであろう。天平六(734)年に難波宮に行幸された時には、四天王寺の僧等に布施をし、吉師部楽を観賞されたと記載されていた。十年も以前から天皇が着目していた地であろう。

阿曇(アズミ)の読みは、墨江之三前大神に由来すると思われる。そしてその地は「墨=隅」にある地である。上記の「安曇江」もそれを踏襲する場所、いや、そうでなければ「安曇」とは名付けることはなかったのである。

調べると・・・新羅江庄の文書に「東安曇江 南堀江」とある・・・と解説されている。新羅江そのものも不確かなのだが、書紀によると四天王寺があった場所は難波荒陵であり、新羅江は、「荒陵」の近辺と推測される(新⇔荒)。上図は、その位置関係を示していることが解る。古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に記載されている難波之堀江・小椅江(安曇江に該当)が續紀で復活した感じである。

● 百濟王女天 百済王昌成からの系譜で知られている郎虞・南典・遠寶の子等が多く登場している。それとは全く別系統だったのであろう。系譜不詳の人物のようである。然るに無位から従四位下に、いきなり叙爵されている。皇孫並みの扱いであるにも拘らず、出自が不明。抹消する理由があったようにも伺える。

どうやら百濟王の子孫は安曇江周辺が出自と分った。地形が平坦で、尚且つ当時の海面を考慮する必要があり、極めて難解な状況である。後日に機会があれば、読み解いてみよう。

<三嶋路>
三嶋路

「三嶋」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)に登場した三嶋湟咋の出自の場所であろう。書紀は三野縣に置換えている。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。

すると難波宮から「三嶋」を経る行程を示していることが解る。即ち観音山の西麓を通過する行程である。東麓には和泉宮があり、それを経て紫香樂宮に達することもできる。

本文に「取三嶋路行幸紫香樂宮」と記載されている。同じような行程があるのだが、三嶋経由の道を”取捨選択”した、と述べている。通説は、きちんと読み取れているのであろうか?・・・三嶋郡なんて解釈したら選択の余地はないのでは?・・・。

多くの宮が登場し、且つそれを頻繁に往来している状況を記載している。関連する宮などを纏めて図に示した。北から紫香樂宮、和泉宮、難波宮の三つの宮の場所は、実に興味深いことに、”近淡海”の三つの入江、即ち墨江・長江・大江までの距離が、それぞれ最近接で1~1.5km以内に位置していることが分る。

聖武天皇は、”近淡海”(書紀・續紀は近江)のどの入江の奥に宮を構えるべきかを調査したのである。恭仁宮は、防御上は、極めて優れてはいるが、これでは山奥にすっこんだ状態となって、何ともその後の発展を見込めない有様と感じたのであろう。安曇江にまで足を運んだのは、この地が近淡海を一望する、とりわけ宮を海側から眺めることも加えて、都合が良い場所であったから、と推測される。

百濟王一族を昇進させたのは、この地が防衛上の最前線であり、そこに住まう人々の協力は欠かせないものと考えたのであろう。決して、百濟楽に感心したのではない。聖武天皇は、何としても”近淡海”に面する地に宮を置きたかったのではなかろうか。山稜に囲まれて海に面する「葦原中國」、それは天照大御神以来の天神族に課せられた使命だったのかもしれない。

三月甲戌。石上榎井二氏樹大楯槍於難波宮中外門。丁丑。運金光明寺大般若經致紫香樂宮。比至朱雀門。雜樂迎奏。官人迎礼。引導入宮中奉置大安殿。請僧二百。轉讀一日。戊寅。難波宮東西樓殿。請僧三百人。令讀大般若經。

三月十一日に石上(乙麻呂等)と榎井(廣國等)の二氏(共に物部一族)が大楯と槍を難波宮の中外門に立てている。十四日に金光明寺(大養德國)の大般若経を運んで、紫香樂宮に到着している。朱雀門に至るころ、雅楽が迎えて演奏され、官人は迎えて礼拝を行っている。大般若経を宮中に導き入れて大安殿に恭しく安置し、僧二百人を招いて一日中転読を行っている。十五日に難波宮の東西の楼殿に僧三百人を招いて大般若経を読ませている。

夏四月丙午。紫香樂宮西北山火。城下男女數千餘人皆趣伐山。然後火滅。天皇嘉之。賜布人一端。甲寅。廢造兵鍛冶二司。丙辰。以始營紫香樂宮。百官未成。司別給公廨錢惣一千貫。交關取息永充公用。不得損失其本。毎年限十一月。細録本利用状令申太政官。

四月十三日に紫香樂宮の西北の山で火事があり、城下の男女数千人が皆山へ行き木を伐って、その後火は消えている。天皇はこのことを喜んで各人に麻布一端を与えている。二十一日に造兵司と鍛冶司を廃止している。

二十三日、紫香樂宮を造営し始めたが、百官の官衙が未だ完成しないので、司別に 公廨銭を合計一千貫給い、それを元手にして利息を得て、永く公用に充て、その元本を失うことがないようにさせている。毎年十一月を限って、詳しく元本と利息の使用状況を記録して、太政官に申告させることにしている。

五月庚戌。肥後國雷雨地震。八代。天草。葦北三郡官舍。并田二百九十餘町。民家四百七十餘區。人千五百廿餘口被水漂沒。山崩二百八十餘所。有壓死人卌餘人。並加賑恤。

五月庚戌(?)に肥後國に雷雨と地震があったと記している。「八代・天草・葦北三郡」の官舎と田二百九十余町、民家四百七十余区と人千五百二十余口が水中に漂い没している。更に山崩れが二百八十余所あり、四十人が圧死している。それぞれに憐れんで物を与えている。

<肥後國:八代郡・天草郡・葦北郡>
肥後國:八代郡・天草郡・葦北郡

大変は災害が発生したのだが、日付が怪しい。単なる記述ミスのようなのだが、貴重な記録が不確かになってしまったようである。

とは言え、肥後國の詳細が語られている。元正天皇紀の養老二(718)年に筑後守の道君(公)首名が亡くなった時に兼務した肥後國も含めて農業技術を現地人に教え、灌漑(味生池造成など)を行って素晴らしい成果を上げたと記載されている。

当時は郡建てが行われていなかったのであろう。その後に彼の努力の結果多くの人々が住まい、繁栄した地のようである。災害の様子から推測すると、津波による水没と背後にある山塊の崖崩れが発生したのであろう。入江に面して山稜に囲まれた地形を有する國であった、と告げている。

三つの郡名が示す地形を求めてみよう。八代=谷間に延びた杙のような山稜の前が二つに岐れているところとなる。「天草」の「天=阿麻」であろうが、「天」=「一+大」=「一様に平らな山稜が延びている様」と解釈すると、天草=一様に平らな山稜が草のように延びているところと読み解ける。

「葦北」の「葦」=「艸+韋」=「取り囲まれた地で山稜が延びている様」、葦原中國に用いられた文字である。「北」=「背中合わせの様」であり、葦北=取り囲まれた地にある山稜が背中合わせに延びているところと読み解ける。これら三郡が図に示したように寄り集まっていることが解る。現地名は、葦北郡が福津市、八代郡が古賀市、天草郡が両市に跨っている。

六月壬子。雨氷。

六月二十一日、参考にしている資料では、「氷が雨のように降った」と訳されている。現在では、「雨氷」は、「0℃以下でも凍っていない過冷却状態の雨(着氷性の雨)が、地面や木などの物体に付着することをきっかけに凍って形成される硬く透明な氷のこと。着氷現象の一種でもある。 」と解説されている。

以下のような解説もされている・・・雨氷は、物体表面に硬く滑らかで透明な氷の層を作る。同じ着氷現象の一種である樹氷や粗氷とは、色や性質により区別されている。樹氷は白色不透明、粗氷は半透明なのに対して、雨氷は透明である。また樹氷より粗氷の方が固いがどちらも手で触れば崩れる程度の硬さであるのに対して、雨氷は固く手で触った程度では崩れない。色や脆さの違いは、気泡の含有率に起因している。樹氷は小さな気泡をたくさん含むため白色で脆く、粗氷は樹氷よりは固いがそれでも気泡を多く含むため半透明を呈する。一方の雨氷は気泡の含有率が低いため透明であり、氷が形成されるとき水滴同士が融合しあうため表面が滑らかになる。雨氷の密度は約0.9であり、純粋な氷とほぼ同じである・・・。因みに”氷雨”は「空から降ってくる氷の粒のこと。あるいは、冬季に降る冷たい雨のこと。気象学で定義された用語ではない。」と記されている。

いずれにせよ、六月に見られたことが稀有なことだったのであり、ここで記載された雨氷(Wikipedia)のことであろう。記紀・續紀の自然現象の記述は、決して侮ってはいけない、のである。