天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(38)
天平十六年(西暦744年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
秋七月癸亥。太上天皇幸智努離宮。丁夘。故正四位下紀朝臣男人与故從五位下紀朝臣國益。相訴奴婢。依刑部判賜國益男正五位下清人。既而清人上表悉從良焉。戊辰。太上天皇幸仁岐河。陪從衛士已上。無問男女賜祿各有差。己巳。車駕還難波宮。甲申。詔曰。四畿内七道諸國。國別割取正税四万束。以入僧尼兩寺各二万束。毎年出擧。以其息利永支造寺用。
七月二日に太上天皇が智努離宮(珍努宮・和泉宮。天皇在位時に足繁く通われていた)に行幸されている。六日に紀朝臣男人と紀朝臣國益が奴婢をめぐってお互いに訴えていた。刑部省の判定によって「國益」の息子の清人(淨人)に奴婢が与えられている。現在までに「清人」は上奏し、悉く良民としている。
(戊辰?、七日か?)太上天皇は「仁岐河」に行幸されている。付随った衛士以上には男女を問わず、身分に応じて禄を賜っている。八日に難波宮(以下同様)に帰られている。二十三日に以下のように詔されている・・・四畿内。七道諸國では、國別に正税四万束を割いて國分寺・國分尼寺に各々二万束を施入せよ。毎年出挙して、その利息で永く造寺の費用にあてるように・・・。
<仁岐河> |
仁岐河
日付が誤っているが、行宮を造るわけでもなく、おそらく智努離宮から日帰りで向かうことができた場所と推測される。片道5km前後以内の距離として、この河の所在を突き止めてみよう。
既出の文字列である仁岐の仁=人+二=谷間が二つ並んでいる様、岐=岐れている様と解釈される。少々舌足らずの表記なのだが、「仁」を頼りにそれらしき場所と探すと、図に示した河内國交野郡(茨田郡)と錦部郡の谷間が交差するようになっているところが見出せる。
当時の河の流路を推測するのは極めて難しいが、錦部郡を流れる川(現在名山崎川)と大首池となっている谷間を流れる川に分岐していたのではなかろうか。この地は河内國の各郡が寄り集まったようになっていて、当時の交通の要所だったと推測される。
書紀の皇極天皇紀に河内國依網屯倉が登場し、百濟王(翹岐)等を招いて射獵を観覧した場所と記載されている。と言うことは、それなりの施設があり、今回の行幸でも使用されたのではなかろうか。智努離宮からは、直線距離で1km強である。
八月乙未。詔授蒲生郡大領正八位上佐佐貴山君親人從五位下。并賜食封五十戸。絁一百疋。布二百端。綿二百屯。錢一百貫。神前郡大領正八位下佐佐貴山君足人正六位上并絁卌疋。布八十端。綿八十屯。錢卌貫。斯二人並伐除紫香樂宮邊山木。故有此賞焉。
八月五日に以下のように詔されている・・・近江國蒲生郡の大領の「佐佐貴山君親人」に従五位下と食封五十戸・絁百疋・麻布二百端・真綿二百屯・銭百貫を、また神前郡の大領の「佐佐貴山君足人」には正六位上と絁四十疋・麻布八十端・真綿八十屯・銭四十貫を与えている。この二人は共に紫香樂宮周辺の山の木を伐り除いて延焼を防いだためであった。
● 佐佐貴山君親人・足人
近江國蒲生郡・神前郡については、書紀の天智天皇紀に百濟からの逃亡者を住まわせた地として記載されている。勿論、ここで登場の人物は出自の地が赴任していたのであろう。
「紀」=「糸+己」=山稜が畝ってまがる様であり、山系の形を示しているが、ここでは、幾度か登場した「貴」=「臾+貝」=「谷間を両腕で抱えるように囲んでいる様」と解釈した。すると、その地形を「佐佐」の山稜端を表していることが解る。
親人の「親」の文字が人名に用いられたのは、多分初めてであろう。「親」=「辛+木+目+儿」と分解される。それに含まれる文字要素は、既出の地形象形に用いられている。そのまま読み解けば、親=切り分けられた山稜が谷間で長く延びている様となる。親人は、「貴」の谷間にある山稜の端が出自と推定される。足人は、その西側に山稜の端と求めることができる。
この二人の出自に関する情報は皆無のようである。”淡海”を抹消する書紀に依存するならば、当然の結果であろう。「佐佐」も「許勢」も曖昧にしてしまった書紀を正史とする史学は、いつまで支持されるのであろうか。續紀は、忖度しながらも、事実をありのままに記述しているように感じられる。
九月甲戌。遣巡察使於畿内七道。以從四位下紀朝臣飯麻呂爲畿内使。正五位下石川朝臣年足爲東海道使。正五位上平群朝臣廣成爲東山道使。從五位下石川朝臣東人爲北陸道使。正五位下百濟王全福爲山陰道使。外從五位下大伴宿祢三中爲山陽道使。外從五位下巨勢朝臣嶋村爲南海道使。從四位上石上朝臣乙麻呂爲西海道使。外從五位下大養徳宿祢小東人爲次官。道別判官一人。主典一人。乙酉。勅八道巡察使等曰。是行使等検問事條。國郡官司依實報荅者。縱當死罪。咸原而勿論。若有經問不臣被使勘獲者。事雖細小。依法不容。使宜慇懃告示。一事以上准勅施行。丙戌。勅頒卅二條於巡察使。事具別勅。因勅曰。凡頃聞。諸國郡官人等。不行法令。空置卷中。無畏憲章。擅求利潤。公民歳弊。私門日増。朕之股肱豈合如此。自今以後。宜依頒條毎四考終必加訪察奏聞。即隨善惡黜陟其人。遂令涇渭殊流。賢愚得所。若有巡察使諂曲爲心。昇降失理。當寘法律以明勸沮。無偏無黨。清風肅俗。拔自常班。處以榮秩。宜告所司知朕意焉。又口勅十三條具在別勅。又勅曰。爲検天下諸國政績治不。今差巡察使分道發遣。但比年以來。所任使人。訪察不精。黜陟有濫。吏民由是未肅。風化所以尚壅。故今具定事條仰令巡検。唯恐官人不練明科。多犯罪愆還陷法網。仍垂非常之恩。特開自新之路。其國郡官司雖犯謀反大逆。常赦所不免。咸悉除免一切勿論。但情懷姦僞不肯吐實。使人存意再三喩示。若是固執猶不首伏者。依法科罪。普天率土宜知朕懷焉。又口勅五條。語具別記。己丑。詔曰。今聞。僧綱任意用印不依制度。宜令進其印置大臣所。自今以後一依前例。僧綱之政亦申官待報。給鎭西府驛鈴二口。
九月十五日に以下のように任命して畿内・七道へ巡察使を派遣している。紀朝臣飯麻呂を畿内使、石川朝臣年足を東海道使、平群朝臣廣成(平羣朝臣)を東山道使、石川朝臣東人(枚夫に併記)を北陸道使、百濟王全福(①-❾)を山陰道使、大伴宿祢三中を山陽道使、巨勢朝臣嶋村(巨勢斐太朝臣)を南海道使、石上朝臣乙麻呂を西海道使、及び大養徳宿祢小東人(大倭忌寸)を次官に任じている。また各道には判官一人、主典一人としている。
二十六日に、巡察使に勅されている。勅の内容は・・・今回派遣の巡察使等は、事の次第を検問する場合、國・郡の官司が事実の通りに答えるならば、たとえその罪が死罪に当たると言っても皆許して論告してはならない。もし質問してみて臣下の務めを果たしていないことがわかり、巡察使の取り調べを受けることとなった者がいたならば、事実がたとえわずかなことであっても、法に照らして処置し、許してはならない。巡察使は丁寧に事の次第を告げ知らせ、一事以上法に触れることがあったら、勅に準拠して処理し施行せよ・・・。
二十七日に三十二条からなる勅を巡察使に頒布している。その内容は別の勅に詳しく載せられているが、因みに以下のようであった・・・あらまし此の頃聞くところによれば、諸國・諸郡の官人等は法令を正しく行わず、ただむなしく巻物の中に捨て置いて、法律を恐れ憚ることもなく、好き勝手に利潤を求めて、そのために公民は年々苦しみ疲れ、個人の家が日々富み栄えているという。朕の最も頼みとする部下達が、どうしてこのような状態でよかろうか。今後、頒布した条文に依って、四考(勤務評定の四年年限)が終わるごとに、必ずその人物を訪れて検察し、奏聞すべきである。<続>
即ち政治の仕方の善悪に基づき功の無い者を降職・免職にし、功のある者を昇進させ、最後は清らかな涇水と濁った渭水に区別があるように、賢い者、愚かな者に、その才能に応じた地位を得させよ。もし巡察使が人に媚び諂う心が強く、官位の昇降に正当性を欠くようなことがあれば、法律に基づきその地位から外すことを明確にすべきである。行いに偏りがなく党派も作らず、風習を清らかにし生活を引き締めたならば、通常の地位より抜擢して高い身分を与えて優遇しよう。この内容を所司に告げて、十分に朕の本意を知らせるべきである・・・。
また口勅(口頭による勅)十三条は別の勅に詳しく載せられている。また以下のように勅されている・・・天下諸國において、政治上の功績が上がっているか否かを検査する為に今巡察使を任命して、各道ごとに派遣した。但し、近年このかた、以前任命した巡察使の訪問観察は詳しくなく、官人の降職・免職・登用・昇進がしまりなく行われ、このため官人も人民も未だに教化に努力しておらず、そのため政治がなお十分に行き渡っていない。そこで今具体的に行うべき事の内容を定めて、命じて巡察させることにした。唯、官人が明らかな法律の条項に習熟していないため、多くの罪を犯し、かえって官人が刑法の適用を受けることを恐れている。そこで罪を許し、特に自ら改めて新しい道を開くことができるようにする。<続>
國・郡司の官司は、謀反。大逆を犯すなど、普通の赦では許されない罪であっても、全て許して一切詮議してはならない。但し、邪悪で虚偽の心を懐いて、あえて真実を言わなければ、巡察使は特に注意して再三教え諭すようにせよ。もし、それでも固執してなお白状して罪に伏さなければ、法によって罪を科すようにせよ。天下の隅々まで、朕の思いを知るようにすべきである・・・。また口勅が他にも五条あったが、別に詳しく記載されている。
三十日に以下のように詔されている・・・今聞くところによると、僧綱は意のままに印を用いて制度に従っていないという。そこでその印を大臣のもとに置かせるようにすべきである。今後一切前例により、僧綱の政治もまた太政官に申告して、指図を待つように・・・。筑紫鎮西府に駅鈴二口を給わっている。
冬十月辛夘。律師道慈法師卒。〈天平元年爲律師。〉法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聰悟爲衆所推。大寳元年隨使入唐。渉覽經典。尤精三論。養老二年歸朝。是時釋門之秀者唯法師及神叡法師二人而已。著述愚志一卷論僧尼之事。其略曰。今察日本素緇行佛法軌模全異大唐道俗傳聖教法則。若順經典。能護國土。如違憲章。不利人民。一國佛法。万家修善。何用虚設。豈不愼乎。弟子傳業者。于今不絶。属遷造大安寺於平城。勅法師勾當其事。法師尤妙工巧。構作形製皆禀其規模。所有匠手莫不歎服焉。卒時年七十有餘。乙未。左大臣家令正六位上余義仁授外從五位下。庚子。太上天皇行幸珍努及竹原井離宮。辛丑。賜郡司十四人爵一級。高年一人六級。三人九級。行所經大鳥。和泉。日根三郡百姓年八十以上男女穀人有差。壬寅。太上天皇還難波宮。
十月二日に律師の道慈法師が亡くなっている(天平元[729]年に律師となった)。法師の俗姓は額田氏で、添下郡の人である。生まれつき賢く、人々に尊敬されている。大寶元(701)年遣唐使に随って唐に行き、経典を広く学んだが、中でも三論に精通していた。養老二(718)年に帰朝している。この時仏門で秀でた者は、道慈法師と神叡法師の二人だけであった(こちら参照)。
また道慈法師は『愚志』一巻を著述し、僧尼の事を論じている。その大略は[今、日本の僧侶・俗人が仏教を修行するきまりを観察すると、全く大唐の僧・俗が仏教を伝える法則と異なっている。もし経典に従って行うならば、国土を守ることができ、もし憲章(僧尼令)に従わなければ、人民の利益とならないであろう。一国の仏法も万民の家々での修善も、どうして形ばかりの申し合わせに従ってよかろうか。まことに気をつけなければならないことである。]と述べている。
弟子で法師の業績を引き継いでいる者は、今も絶えることがないようである。大安寺を平城に移転するに当たり、法師に勅してその事を担当させている。法師は、とりわけ工作の技術に詳しく、寺院の建築計画から部分の形態に至るまで、皆その手本の伝授を受け、朝廷の所有する技術者で感嘆・敬服しない者はいなかった。死去した時、年は七十有余であった。
六日に左大臣(橘宿祢諸兄)の家令(三位以上に賜る家政処理の職員)の「余義仁」に外従五位下を授けている。十一日に太上天皇は珍努(和泉)と竹原井の離宮に行幸している(前記のこちら参照)。十二日に郡司十四人に位一階、高齢の者一人に六階、三人に九階を、行幸の途中通過した大鳥・和泉・日根三郡の人民で年八十以上の男女に、それぞれ籾米を与えている。十三日に太上天皇は難波宮に還っている。
● 余義仁
元正天皇紀に「余眞眞人」が従五位下に叙爵されて登場し、その後に「余秦勝・余仁軍」が陰陽・呪禁による病気治療に優れて褒賞された、と記載されている(こちら参照)。
この人物も、間違いなく彼等の一族であったと推測される。近江國蒲生郡の周辺の地、現地名では京都郡苅田町小波瀬・与原辺りを居処としていたと推定した。
家令として如何なる業績があったのかは知る由もないが、渡来系の有能な人物であったのであろう。さて、その出自の場所は、既出の義=羊+我=谷間がギザギザとしている様、仁=人+二=谷間が並んでくっ付いている様と解釈した。
その地形を現在の二先山の麓に見出すことができる。現地名は京都郡苅田町二崎である。少々余談だが、東大寺大仏造営に用いられた銅の産地として知られる長登銅山(山口県美祢市の秋吉台南東)の遺跡から発掘された木簡(2017年度)に余義仁が左大臣の家令として記載されているとのことなのだが、後日に調べてみよう・・・。
後に大掾余足人が従五位下を叙爵されて登場する。「大掾」は國司の三等官を示すが、後の職人の称号かもしれない。足人=谷間に足のような山稜が延びているところと解釈すると「義仁」の東隣の谷間を表していると思われる。現地名は、京都郡苅田町与原である。「与」は、間違いなく「余」の残存地名であろう。
十一月壬申。甲賀寺始建盧舍那佛像體骨柱。天皇親臨。手引其繩。于時種々樂共作。四大寺衆僧僉集。襯施各有差。癸酉。太上天皇幸甲賀宮。丙子。太上天皇自難波至。庚辰。授正五位上藤原朝臣八束。正五位下紀朝臣清人並從四位下。外從五位下大宅朝臣君子。田邊史難波並從五位下。
十一月十三日に甲賀寺に初めて廬舎那仏像の骨組みの柱を建てている。天皇は親しく臨み、自らの手でその繩を引いている。その時、様々な音楽が演奏され、四大寺(大安・薬師・元興・弘福)の多くの僧が全て集まり、布施(襯施)を各々に与えている。十四日に太上天皇は甲賀宮(紫香樂宮)に行幸されている。十七日に太上天皇が難波宮から到着している。
十二月庚寅。有星。孛於將軍。壬辰。令天下諸國。藥師悔過七日。丙申。土一百人。此夜於金鐘寺及朱雀路燃燈一万坏。
<甲賀寺(金鐘寺)> |
参考している資料の注記に・・・「金鐘寺」は平城京の東郊にある寺であるから、朱雀大路は平城京のそれと一応考えられる。しかしこのとき、天皇も太上天皇も紫香楽宮(甲賀宮)にいるのであるから、平城京の寺や大路で盛大な仏事が行われるであろうか。金鐘寺は甲賀寺、朱雀大路は恭仁京のそれであるかもしれない。・・・と記載されている。
前記で述べたように「金鐘寺」と「金鍾寺」は別の寺である。再掲した図に示した通り、甲賀寺を金鐘寺と表記していると解釈した。後に登場する「金鍾寺」が東大寺の前身であり、大養德國金光明寺の場所に立てられていた寺である。勿論、近江國甲賀郡の紫香樂宮とは離れている。
恭仁京の朱雀路とするのは、あり得ないであろう。留守役しかいない恭仁京と紫香楽宮は、通説の場所とすると、山道30km以上も離れた地である。当然、紫香樂宮の朱雀路と結論される。吉野河(現小波瀬川)辺から山の中腹まで、一直線に燈火が並んだ荘厳な雰囲気を醸していた筈である。
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『續日本紀』巻十五巻尾