日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(10)
養老三年(西暦719年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
八月己丑。有司處分。別勅才伎長上者任職事。貢与初任同。癸巳。遣新羅使白猪史廣成等拜辞。
九月癸亥。以正四位下多治比眞人三宅麻呂爲河内國攝官。正四位下巨勢朝臣邑治爲攝津國攝官。正四位下大伴宿祢旅人爲山背國攝官。丁丑。詔。給天下民戸。陸田一町以上廿町以下。輸地子段粟三升也。」六道諸國遭旱飢荒。開義倉賑恤之。辛巳。始置衛門府医師一人。
八月四日、官司に以下のような処分を下している。特別な勅によって役所に常勤している技能者を職事官に任命する時は初めて任ぜられる者と同等に扱うようにせよ、としている。八日に遣新羅使の白猪史廣成(阿麻留に併記)等が暇乞いに来ている。
九月八日に多治比眞人三宅麻呂を河内國攝官、巨勢朝臣邑治を攝津國攝官、大伴宿祢旅人を山背國攝官に任じている。攝津官は按察官と同じ役目を担う。二十二日に以下のように詔されている。天下の民の戸に陸田(畑)一町以上二十町以下を与えたが、納入すべき地子(小作料)は一段につき粟三升と決めた。ところが六道諸國が干害で飢饉となったので義倉(備蓄)を開いて穀物を恵み与えている。二十六日、初めて衛門府に医師一人を置いている。
冬十月癸巳。大和國人腹太得麻呂姓改爲葛。戊戌。減定。京畿及七道諸國軍團并大小毅兵士等數。有差。但志摩。若狹。淡路三國兵士並停。辛丑。詔曰。開闢已來。法令尚矣。君臣定位。運有所属。泪于中古。雖由行。未彰綱目。降至近江之世。弛張悉備。迄於藤原之朝。頗有増損。由行無改。以爲恒法。由是稽遠祖之正典。考列代之皇綱。承纂洪緒。此皇太子也。然年齒猶稚。未閑政道。但以握鳳暦而登極。御龍圖以臨機者。猶資輔佐之才。乃致太平。必由翼賛之功。始有安運。况及舍人。新田部親王。百世松桂本枝合於昭穆。万雉城石。維盤。重乎國家。理須吐納清直。能輔洪胤。資扶仁義。信翼幼齡。然則太平之治可期。隆泰之運應致。可不愼者哉。今二親王。宗室年長。在朕既重。實加褒賞。深須旌異。然崇徳之道。既有舊貫。貴親之理。豈無於今。其賜一品舍人親王。内舍人二人。大舍人四人。衛士卅人。益封八百戸。通前二千戸。二品新田部親王。内舍人二人。大舍人四人。衛士廿人。益封五百戸。通前一千五百戸。其舍人以供左右雜使。衛士以充行路防禦。於戯欽哉。以副朕意焉。凡在卿等。並宜聞知。
「大和國」の人、「腹太得麻呂」の姓を改めて「葛」としている。十月十四日に京・畿内及び七道の諸國の軍団と大少毅・兵士などの定数を、地域に応じて減少させている。但し志摩・若狹・「淡路」の三國の兵士は廃止している。
十七日に以下のように詔されている。概略は、創世以来法令が作られて久しく、中古に及ぶまでそれに準拠して政治が行われ来たが、未だ整った法文ではなかった。近江(天智天皇)の世に至り、成文法として具備され、藤原の朝廷(文武天皇)の時に大幅な内容の増減が行われたが、これを恒法とした。そこで遠い先祖の正しい法典考えると、大きな事業を継承するのは皇太子(後の聖武天皇)であるが、まだ年少であり政治には未熟である。また補佐する人材を得ることによって天下を太平にし、天の運行を安定させるものである。舎人・新田部両親王は百年を経た松や桂のように木も枝も父子長幼の序列に叶っていて城石のように国家の重鎮である。この二人の親王は皇室の年長者であり、褒賞を与えて優れていることを表彰すべきである。德を尊び親族を貴ぶのは道理である。舎人親王には内舎人二人・大舎人四人・衛士三十人を与え、封戸八百戸を追加して二千戸とする。新田部親王には内舎人二人・大舎人四人・衛士二十人を与え、封戸五百戸を追加して千五百戸とする。
大和國の人物と記載されている。續紀中で「大和」の表記は、これが二度目なのであるが、先回は國名羅列の中であり、具体的な人物名と共に記載されたのは初めてとなる。
勿論通常は大和=大倭であり、全く注目されるところではないが、續紀を調べると、「大倭」の表記が消えることはなく、今後は、この二種の名称が混在することになる。即ち、何らかのことを伝えるために区別された表記と思われる。
倭=人+委=谷間の傍の山稜が嫋やかに曲がっている様、和=禾+囗=山稜がしなやかに曲がっている様と読み解いて来た。前者は谷間と山稜が一体となり、曲がりくねる地形を表し、後者は、山稜の着目し、稲穂が垂れるように曲がっている地形を表している。
葛城(現地名福智町伊方~上野、福智山西麓)、伊波禮(現地名香春町高野、愛宕山西麓)が「倭」なのだが、師木(香春町中津原~田川市伊田)の地形は該当しない。がしかし、書紀・續紀では、「大倭國」として表記して来たのである。それを区別し、加えて後には「大倭」の表現を用いられることがなくなるのである。極めて重要な意味を示唆するところであるが、また、何処かで・・・。
さて腹太得麻呂の出自の場所を求めてみよう。腹=月+复(畐+夊)=山稜の端がふっくらと膨らんでいる様を表すと読み解ける。より直截的には、動物のふっくらと膨らんだ「腹」を示しているのであろう。師木の地でそれを探すと、ほぼ完璧な地形を見出すことができる。現地名は田川郡大任町今任原である。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の師木玉垣宮の南、少し離れた地である。
現在の航空写真でより明確に「腹」が確認される。太=平らに広がった様である。得=彳+貝+寸=山稜で囲まれた四角く窪んだ様であり、そのこんもりと盛り上がった地が四角く取り囲まれていることが解る。葛=艸+曰+兦+勹=遮られて閉じ込められたような様の姓を授かった、と記載されている。その通りの場所であろう。
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が戦った兄師木・弟師木、おそらく邇藝速日命一族のように思われるが、古くから多くの人々が住まっていた地だったのであろう。既に述べたように無位、無姓の人々が夥しく登場するが、真に単刀直入な名前を持っていたことが判る。”古事記風”でもあり、續紀編者が憚ることなく記載したのであろう。
<淡路國> |
淡路國
前記で續紀が記す國名については注意を要することを述べた。記紀の記述を踏襲している場合もあれば、また續紀編者なりの國名…地形象形表記であることには変わりはないが…を用いている。
それを念頭にして「淡路國」が何処を示しているのかを検討してみよう。勿論、素直に読めば古事記の淡道之穗之狹別嶋が該当するのであろう。
「路」=「足+各」=「足を開いて立ち止まったように山稜が延びている様」と読み解いた。書紀の路眞人登美(古事記:登美能那賀須泥毘古の谷間)などで用いられていた。すると「淡道之穗之狹別嶋」が示す地形の特徴とは、全く異なる場所を捉えた表記であることが解る。
北側の山稜が二つに岐れた地、現地名は下関市彦島山中町の地形を表現しているのである。古事記は向井町、田の首町の地形に着目し、「道」=「辶+首」を用いている。時を経て、天皇家に従う人々が広がったのであろう。國として体裁も整った様子でもある。志摩國、若狹國と共に、兵士を常駐させるには狭く、また周辺諸國が兼務することによって賄えると見做したのであろう。
十一月乙夘朔。詔僧綱曰。朕聞。優能崇智。有國者所先。勸善獎學。爲君者所務。於俗既有。於道宜然。神叡法師。幼而卓絶。道性夙成。撫翼法林。濡鱗定水。不踐安遠之講肆。學達三空。未漱澄什之言河。智周二諦。由是。服膺請業者已知實歸。函丈挹教者悉成宗匠。道慈法師。遠渉蒼波。覈異聞於絶境。遐遊赤縣。研妙機於秘記。參跡象龍。振英泰漢。並以。戒珠如懷滿月。慧水若寫滄溟。儻使天下桑門智行如此者。豈不殖善根之福田。渡苦海之寳筏。朕毎嘉歡不能已也。宜施食封各五十戸。並標揚優賞。用彰有徳。辛酉。少初位上朝妻手人龍麻呂賜海語連姓。除雜戸号。戊寅。少初位下河内手人大足賜不下譯姓。忍海手人廣道賜久米直姓。並除雜戸号。
十一月一日に僧綱に対して次のように詔されている。概略は、才能ある者を優遇し智者を尊崇することは国を統治する者が第一とする事であり、善行を勧め学問を奨励することは君主の任務である。これは仏道においてもそうすべきことである。「神叡法師」は幼少から比肩する者がいないくらいに立派であり、仏道を修める素質が早くから備わっていた。それはあたかも鳥が仏法の林に翼を休め、魚が鱗を静かな水に浸しているかのようであった。「道安」や「彗遠」の講義を受けずに「三空」にまで達し、「仏図澄」と「鳩摩羅什」の教えを聞かずに叡智は「俗諦」と「真諦」の二諦の隅々にまで達している。それ故に身近に従って学業を受ける者は直ぐに真実の帰結を知り、師として教えを受けた者は皆仏法の棟梁となっている。「道慈法師」は遠く海を渡って異説を遠隔の地に究明し、唐に渡って珍しい文献によって奥深いかねめの事柄を研究した。高僧に教えを求め名声を中国にまで響かせた。二人とも戒律の珠は満月を懐いているようであり、知恵の水は青海原の水を注いだようである。天下の僧侶に、このような知恵と德行を備えさせたら諸善を生み出す豊かな田や俗世の海を渡る筏となるであろう。よって二人に食封五十戸を施し、手厚く褒めて徳のある者を顕彰する、と述べている。
「道安」(釈道安、314-385年)は、五胡十六国時代の僧であり、中国仏教の基礎を築く。師は「仏図澄」であり、弟子に「彗遠」(浄土教の始祖)がいた。同時期西域で高名であったのが「鳩摩羅什」、「道安」の進言で中国(長安)に招かれている。
「空」は釈迦の教えの中で根幹をなす概念の一つで、様々な解釈がなされている。ここでの「三空」は法相宗の解釈である「人空・法空・倶空」を示すのであろう。般若心経の「色即是空 空即是色」の「空」である。「諦」についても「三諦」(空諦・仮諦・中諦)と説かれ、三つの真理があるとされる。「俗諦・真諦」は世俗的・本質的な真理を述べていると思われる。
古事記で度々登場する「上・中・下」は、「三空」、「三諦」に基づく記述であることが解る。「三」の形式的な理解に止まる通説を批判したが、「倶空」及び「中諦」は、それぞれ二つの対極を媒介するのである。「色」と「空」の対極は、媒介されて存在することを安萬侶クンが述べていたのである。古事記は、多分續紀も、人も含めた自然現象を突き詰めて達した釈迦の教えが隅々に浸透しているように感じられる。
そんな背景で「道慈法師」(大和國添下郡、俗姓額田氏、今昔物語参照)は、現地で学び、一方の「神叡法師」(書紀持統天皇紀、693年学問僧として褒賞)は『大乗法苑義林章』七巻を独学した、と伝えられている。上記の「撫翼法林」はこれに重ねた記述であろう。二人は天皇の前で問答し、後者の独学が勝っていたとも言われる。前者は大安寺(右京)、後者は元興寺(左京)で研鑽したようである。
七日に「朝妻手人龍麻呂」に「海語連」姓を授け、雜戸(賎民)の身分から除いている。二十四日に「河内手人大足」に「不下譯」姓を、「忍海手人廣道」に「久米直」姓を授け、雜戸の身分から除いている。「手人」は、工匠・職人を意味すると解説されている。
● 道慈・神叡
「道慈」の出自の地、「大倭(和)國添下郡」は現地名の田川郡添田町辺りと推定した。俗姓の「額田」を頼りにして岩石山の西麓を探すと、容易に見出すことができる。少し北側にあるくっきりとした「額」である。
その麓を「額田」と称していたと推定される。すると更に明瞭に道慈の地形に辿り着けるようである。「道」=「辶+首」=「首の付け根のような様」、「慈」=「艸+絲+心」=「山稜に端が細かく岐れている様」となるが、纏めると、道慈=首の付け根のような地が山稜が細かく岐れた中心にあるところと読み解ける。
「神叡」に関しては出自不詳なのだが、「添下郡」にある「觀世音寺」で独学した、と記載されている。この寺の場所が図に示したところと推定される。極めて興味深いのが、岩石山の西麓は足立山の西麓に酷似していることである。大宰府の「宰」も含めて類似するとは、お釈迦様でも・・・勿論、「宰」の地形がなければ「音」の文字を使うことは許されないであろう(こちら参照)。
そんなことを思いながら地図を眺めていると、「神叡」の出自の場所が浮かんで来たのである。神=示+申=長く延びる山稜の先が高台になっている様、叡=睿+又=奥深い谷間と読み解いた。『今昔物語』に基づく解釈故に決めかねるところではあるが、かなり確度の高い場所かと思われる。
それにしても「觀世音」の地形象形は実に鮮やかな結果となった。現在に残る”添田観音”に関する情報は入手できなかったが、この場所こそ觀世音寺があったところと思われる。
● 朝妻手人龍麻呂:海語連
「朝妻」は何処?…一瞬初登場の名称に戸惑うが、これは古事記の男淺津間若子宿禰命の「淺津間」と気付かされる。書紀では「朝津間」であり、ほぼ間違いないと思いつつ、文字を読み解くことにする。
朝=𠦝+月=取り囲まれて丸く小高くなった様と解釈した。「妻」は初出で、少し詳細に述べると、「妻」=「屮+又+女」と分解される。「又」、「女」は頻出の地形象形文字である。「屮」=「簪(かんざし)」の形を模した文字と解説され、通常の「妻」の意味を示している。
すると「妻」の地形象形表記は、「屮」=「山稜の端が三つに岐れている様」と解釈される。妻=嫋やかに曲がっている山稜の端が三つに岐れている様と読み解ける。即ち朝妻は、朝と妻がくっ付いた場所を表していると解釈される。記紀で用いられた「淺(朝)津間」の申し分のない別名であることが解る。
龍麻呂の龍は少し前にも登場したが「朝」に角が生えたように見える場所を表していると思われる。海語連姓を授けているが、頻出の「海」=「氵+每」=「水辺で両腕で抱えるように山稜が延びている様」、「語」=「言+吾」=「耕地が交差している様」と解釈され、纏めると海語=水辺で両腕で抱えるように延びた山稜の谷間で耕地が交差しているところと読み解ける。
意味不明の「海語」の文字列は、見事に地形象形した表記なのである。もう少し意味らしいところを述べれば、当時の海面は耕地が交差する辺りまでに達していたと推測される。即ち、”海で交差する”場所だったのである。
<河内手人大足:不下譯> |
● 河内手人大足:不下譯
「河内國」は些か広い…更に「大足」となれば、一に特定することは到底叶わない有様である。ところが、ちゃんとヒントが記載されているのである。不下譯の「不」が極めて特徴的な地形を表している。
既に登場した河内國交野郡の南西部の山麓にその地形を見出すことができる。すると、その麓に大足=平らな頂の山稜がなだらかに延びた様を併せて見出せる。
出自の場所は、おそらく囲まれたような谷間かと思われるが、現在は住居もなく一面の水田となっているようである。図に示したように少し奥まったところと推定した。
譯=言+睪=耕地が次々に連なっている様であり、緩やかに下りながら棚田が続いている様を表していると思われる。「睪」は「驛(駅)」=「馬+睪」に含まれる文字要素であって、「譯(訳)」は文字が次々に連なっている様を表すと解釈されている。
● 忍海手人廣道:久米直
「忍海」は大倭國忍海郡を示すと思われる。記紀を通じて現在の田川郡福智町上野・市場であり、彦山川を挟んだ場所と推定した。
既に多くの人物が登場していて、果たしてこの名前の持ち主の出自の場所が見出せるか?…少々不安な感じがしないでもないが、廣道=広がった首の付け根のような地形が現在の赤池中学校(校庭)辺りに見出せる。
天智天皇が娶った忍海造小龍の色夫古娘、誕生したのが大江皇女、川嶋皇子、泉皇女と記載されていた。大江皇女は後に天武天皇に娶られることになり、「忍海」の地は、その後に生まれる長皇子等の母方の故郷となったと伝えている。
現在の地形から推測すると、この廣道の東側で当時の彦山川は大きく蛇行し、山稜の端が所々で突き出た淵の様相と想像される。それを久米=くの字形に曲がる谷間に幾つかの山稜の端が突き出ている様とし、「道」を直=四角く囲まれた様と表現したと読み解ける。
「臣」、「連」、「宿禰」、「首」、「直」など、古事記が教えるところは、その人物の出自の場所の地形そのものであった。天武天皇紀に『八色之姓』が制定されて本来の意味が霞んでしまったようであるが、まるで古に逆戻りしたかのような「姓」の命名であろう。換言すれば續紀は、そもそも「姓」とは如何なるものかを示唆しているのかもしれない。
十二月乙酉。充式部。治部。民部。兵部。刑部。大藏。宮内。春宮。印各一面。戊子。始制定婦女衣服樣。庚寅。始以外六位内外初位及勳七等子年廿以上。爲位分資人。八年一替。又五位已上家。補事業防閤仗身。自是始矣。戊戌。停備後國安那郡茨城。葦田郡常城。
十二月二日に式部・治部・民部・兵部・刑部・大藏・宮内の各省と春宮坊に各々公印を配布している。五日、初めて婦女の衣服の様式を定めている。七日に初めて外六位(八位?)と内外初位及び勲七等の者の子のうち二十歳以上の者を位分資人に任用し、八年毎に交替させることとしている。また五位以上の者の家に事業・防閤(守衛)・仗身(護衛官)を任じることが始められている。十五日に「備後國安那郡茨城」と「葦田郡常城」を廃止している。
備後國の郡は既に幾つか登場しいる。思い出すところでは龜石郡、韋田郡、甲努郡、品遲郡であり、それに今回安那郡が加わることになる(こちら参照)。
安那=山稜に挟まれて谷間が嫋やかに曲がりながらなだらかに延びている様と読み解ける。図に示したように石畑川の谷間と推定される。谷奥は現在ダムになっていて、何処までを郡内としたかは、些か不確かである。
文脈からすると茨城の「城」は地形を表すのではないと読める。その所在地が「茨」となるのであるが、既出の茨=艸+冫+欠=二つの山稜に挟まれた谷間が口を開いたような様と解釈すると、谷間の入口(西側)の山麓にあった城と推定される。
葦田郡にあった常城の常=向+八+巾=北向きに山稜が延びて広がっている様と解釈すると図に示した場所の山稜の地形を示していると思われる。城の位置は少々曖昧だが、おそらく山稜の先端部にあったと思われる。
この二城については現在の広島県福山市近辺だったとする説があるそうだが、定かではなく、續紀の記述にも疑いの目が向けられ、伝説の域を出ないと結ばれている。勿論証拠となる石塁など見つかる筈もなく、また発見されてもこの二城とする確証もないのであろう。幾つかの証拠があるとして、藤原宮(京ではない)の場所が検定教科書に記載されているが、確証がないのだから同様に伝説として扱うべきであろう。