2021年7月11日日曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(11) 〔527〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(11)


養老四年(西暦720年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月甲寅朔。大宰府獻白鳩。宴親王及近臣於殿上。極歡而罷。賜物有差。丁巳。始授僧尼公驗。甲子。授正五位下大伴宿祢宿奈麻呂。大伴宿祢道足。多治比眞人廣成並正五位上。從五位上三國眞人人足。阿倍朝臣秋麻呂。佐味朝臣加佐麻呂。上毛野朝臣廣人。大伴宿祢牛養並正五位下。從五位下民忌寸于志比。車持朝臣益。阿倍朝臣駿河。山田史三方。忍海連人成。榎井朝臣廣國。中臣朝臣東人。粟田朝臣人上。鍜治造大隅。石川朝臣若子並從五位上。正六位上佐伯宿祢智連。猪名眞人石楯。下毛野朝臣虫麻呂。美乃眞人廣道。高向朝臣人足。石川朝臣夫子。多治比眞人占部。縣犬養宿祢石次。當麻眞人老。阿倍朝臣若足。巨勢朝臣眞人。紀朝臣麻路。正六位下田中朝臣稻敷並從五位下。是日。白虹南北竟天。庚午。熒惑逆行。丙子。遣渡嶋津輕津司從七位上諸君鞍男等六人於靺鞨國。觀其風俗。庚辰。始置授刀舍人寮醫師一人。」大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。

正月一日に大宰府が「白鳩」を献上している。親王及び近臣と殿上で宴会をし、楽しみが最高潮になって終え、それぞれに物を賜えている。四日に初めて僧尼に公驗(身分証明書)を授けている。「白鳩」に関する記述は、この後に記載されることはないようで、そのまま「白い鳩」と解釈しておこう。

十一日に大伴宿祢宿奈麻呂大伴宿祢道足多治比眞人廣成に正五位上、三國眞人人足阿倍朝臣秋麻呂(狛朝臣)佐味朝臣加佐麻呂(賀佐麻呂)・上毛野朝臣廣人(小足に併記)大伴宿祢牛養に正五位下、民忌寸于志比(袁志比、比良夫に併記;和銅四[711]年四月従五位下)・車持朝臣益阿倍朝臣駿河山田史三方(御方)・忍海連人成(押海連)・榎井朝臣廣國中臣朝臣東人粟田朝臣人上(必登に併記)鍜治造大隅(鍜造大角)・石川朝臣若子(君子)に從五位上、「佐伯宿祢智連」・猪名眞人石楯(兄の石前に併記)・下毛野朝臣虫麻呂(信に併記)美乃眞人廣道(三野眞人三嶋に併記)高向朝臣人足(色夫智に併記)・「石川朝臣夫子」・「多治比眞人占部」・縣犬養宿祢石次(姉の縣犬養橘宿祢三千代に併記)・當麻眞人老(東人に併記)・「阿倍朝臣若足」・巨勢朝臣眞人(巨勢斐太臣大男に併記)・紀朝臣麻路(大人の子。古麻呂に併記)・「田中朝臣稻敷」に從五位下を授けている。この日、白い虹が南北にかかっている。

十七日、熒惑(火星)の運行が逆になったと記載している。現在も惑星(Planet:彷徨するもの)と言われ、地球から見た動きが逆方向になる時がある。古代中国の漢の時代に既に認識され、勿論これは凶兆とされたようである。二十三日に「渡嶋津輕」の津司、「諸君鞍男」等六人を「靺鞨國」に遣わして、その地の風俗を視察させている。

二十七日に初めて授刀舍人寮に医師一人を置いている。この日、大納言の阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)が亡くなっている。後岡本朝(斉明天皇)において筑紫大宰帥であった大錦上(正四位相当)比羅夫の子である。阿倍一族結集のボスが亡くなって、派閥解消かも?・・・。

<佐伯宿祢智連・式麻呂・首麻呂>
● 佐伯宿祢智連

連綿として登場する「佐伯宿禰」一族であるが、暫くは系譜が知られていたようで、それに従って出自の場所を求めることができていた。この人物は全く不詳であって、名前のみから求めることになる。

「智連」は、決して単純な地形ではなく、狭い谷間の地形に果たして存在するのか、少々不安な様相なのだが、下流域ではなく、上流域に遡ってみると、智=矢+口+日=鏃のような地の傍らに炎の地がある様が見出せる。

連=連なり延びている様と読むと、『乙巳の変』の立役者の一人、子麻呂の近隣と推定される。また、少し後に武藝が優れて褒賞を賜った佐伯宿祢式麻呂が登場する。「子麻呂」の山稜を式=折れ曲がった様と見做した表記と思われる。藤原式家で用いられていた。

更に後(聖武天皇紀)に佐伯宿祢首麻呂が蝦夷討伐の功績で登場する。図に示した「子麻呂」の北側の谷間を示していると思われる。巡り巡って元の鞘に戻った感じである。多くの一族が下流域へと広がり、そして元の上流域に戻る、ある意味自然な流れのように伺える。

<石川朝臣夫子>
● 石川朝臣夫子

この人物も、多く登場する「石川朝臣」一族の系譜には載っていないようである。結局分っているのは大臣「連子」系列だけであって、その他は確実な資料がなかったのであろう。

その系列も歴史の表舞台から遠ざかると共に系譜はあやふやになってしまう。そんな経緯と推測される。ともかくも「夫子」の文字を頼りに出自の場所を求めることにする。

頻出の夫=二つの山稜が交差するように近付く様子=生え出た様であり、その地形を図の場所が示していると思われる。宮麻呂の北側の山麓辺りと推定される。

上記と同様に上流域からの登場であって、正に『乙巳の変』の主人公であり、「石川朝臣」の発祥となる蘇我石川大臣(蘇我倉山田麻呂)の麓に当たる場所である。先祖の威光が叙位へと導いたのであろう。

<多治比眞人占部>
● 多治比眞人占部

この人物も系譜不詳である。麻呂及びその子の嶋大臣の系列はしっかりと記録されていたが、その他は途切れてしまったのであろう。この一族は東側に大きく広がっていった様子が伺えた。

「占部」は、前記の「常陸國久慈郡人占部御蔭女一産三男」で用いられていた。占=卜+囗=山稜が折れ曲がっている様部=近辺と読んで、その地形を探すと、御所ヶ岳北麓で長く延びる山稜が「占」の地形示す場所が見出せる。

現在はゴルフ場となっていて、詳細な出自の場所を求めることは叶わないようであるが、国土地理院航空写真1961~9を参照すると、この場所が広々と耕地となっていたことが確認される。

ところでこの場所は、古事記の水齒別命(反正天皇)紀に天皇の容姿を記載している箇所があった。「御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠」の中の”御齒長一寸廣二分、上下等齊”で表現された場所である。安萬侶クンの戯れた表記を思い起こさせられたようである。

<阿倍朝臣若足>
● 阿倍朝臣若足

大納言宿奈麻呂が亡くなると、直ぐに補充されているが、この人物も系譜が定かではないようである。名前が頼りに読むと、関係ありそうな人物が、かなり以前に登場していた。

大臣內麻呂(倉梯麻呂)の娘であり、孝徳天皇の”寵妃阿倍氏”であった、阿倍小足媛の近隣と思われる。

若足=多くの山稜が長くなだらかに延びているところであり、場所の特定が難しいが、図に示した辺りと推定される。そもそもは古事記の袁本杼命(継体天皇)が娶った阿倍之波延比賣の場所であり、その御子が阿倍の地に広がって行ったと記載されていた。正に本貫の地に舞い戻ったような状況かと思われる。

<田中朝臣稻敷-淨足-三上-少麻呂>
● 田中朝臣稻敷

「田中朝臣」の出自の場所は、香春岳の西麓、五徳川が流れる谷間と推定した。既に足麻呂等が登場していた。名前の稻敷は、稲を敷き詰めたような感じで受け取れるが、地形象形表記として、読み解いておこう。

「稻」=「禾+爪+臼」と分解される。稲穂を臼に入れて手で捏ねる様を表す文字と知られる。それを地形象形的に解釈すると、稻=臼のような地に三つの山稜が延びている様と読み解ける。

敷=広げた様であり、「臼」が広がっている地形を示している。これらの地形要素を満足する場所が図に示した辺りと解る。この地は五徳川の治水が最も重要な課題であっただろう。それが徐々に進展したのではなかろうか。

後(聖武天皇紀)に田中朝臣淨足・田中朝臣三上が外従五位下を、また更に後に田中朝臣少麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。既出の淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様足=山稜の端が二股に岐れている様とすると、その地形が「稻敷」の北側に見出せる。五徳川辺が出自と推定される。

三上=三段になった上のところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。その山稜の端が少=小+ノ=山稜の端が削られて尖ったような様の地が見出せる。「少麻呂」の出自の場所と推定される。
 
渡嶋津輕・靺鞨國
 
<渡嶋津輕:諸君鞍男>
「渡嶋」は、書紀の持統天皇紀に越度嶋として記載されていた。古くは斉明天皇即位六年(660年)に肅愼國との戦闘が行われた地である(こちら参照)。

思い起こせば660年は、唐・新羅連合によって百濟が滅亡した年である。西海の脅威に対するためにどうしても新羅の倭國における橋頭保である肅愼國を抑えておかなければならなかったのである。

肅愼國(紀)=熊曾國(記)であり、現在の企救半島北部に該当する。言わば中国江南を出自とする倭人と先住である朝鮮半島北部を出自とする人々との戦いであったと推測される。書紀が、その捻くれた表記をしながら、伝えてくれた重要な”史実”であろう。

今回は、その肅愼國の更に向こう側に「靺鞨國」なる國があると記載している。さて、如何なる地なのであろうか?…その前に渡嶋津輕及びその地の司である諸君鞍男なる人物の出自を求めておこう。

津輕は既出であって津輕=水辺で筆のような地が隙間に突き出ている様と読み解いた。図に示した場所を示していると思われる。前出の伊奈理武志の居場所がその北麓になる。諸君鞍男に含まれる頻出の諸=言+者=耕地が交差するような様鞍=馬の鞍の地形男=山稜が突き出ている様と解釈すると、それぞれの地形を満足する場所が見出せる。

<靺鞨國>
靺鞨國は、埋込みの図に示した通り、肅愼國を跨いで進んだところ、現地名の北九州市門司区田野浦辺りと推定される。

詳細図を右に示したが、文字が表す地形を読み解くと、靺=革+末=角のように山稜の端が延びている様鞨=革+曷=毛皮を広げたような山稜に閉じ込められたような様となる。

「曷」は葛城・葛野(葛=艸+曷)に含まれる文字要素であり、従って重要な地形象形表記となるのである(こちら参照)。

「肅愼」の地形では表現されない地がいつ登場するかと思っていたが、ここでお目見えである。「觀其風俗」とは、肅愼國のその先にまで漸く足を踏み入れることが可能となったのであろう。

通説を持ち出しても詮無いことなのだが、肅愼・靺鞨國は中国東北・朝鮮半島北部に位置付けられている。その地を統治できるわけもなく、全く意味不明で放置するか、無節操にヤマト政権の統治はそこまで及んでいた、と豪語するのであろう。勿体ないことである。

二月乙酉。令検校造器二司造釋奠器。充大膳職大炊寮。戊戌。夜地動。壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。

二月二日に器物を造る司に釋奠(儒教における孔子などを祀る祭祀、孔子祭)の器を造らせ大膳職と大炊職に充当した。十五日、夜に地震があったと記している。二十九日に大宰府が伝えるには、隼人が反乱して大隅國守の「陽侯史麻呂」を殺害したとのことである。

<陽侯史久爾曾・麻呂>
● 陽侯史麻呂

「陽侯史」は、隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の末裔を称する渡来系氏族と知られ、文武天皇即位四年(700年)八月の記事に僧「通德」を還俗させて「陽侯史久爾曾」の姓名を授けたと記載されていた。

出自の場所が全く不詳だったのが、「大隅國守」の手掛かりが得られたようである。しかしながら、「大隅國」の表記は日向國の近隣とする故に単純ではなく、捻くれた感じなのである。

中国の王の子孫を標榜する渡来系氏族ならば、南海の嶋(種子島)に渡来したのではなく(こちら参照)、やはり、本著の國別配置に基づいて日向國(遠賀郡岡垣町)に渡来し、その子孫が僧「通德」であったと推測される。

陽侯史」が示す地形を求めてみよう。勿論「達率楊候阿子王」に重ねた表記であり、その子孫であることを示唆しているのであろう。「陽」=「阝+昜」と分解される。「昜」=「日が昇る様、台上に玉が載っている様」を象った文字と言われる。これが決め手の地形であろう。山稜の端が丸く高くなった場所、遠賀町高山にある地形を示していると思われる。既出の「侯」=「人+厂+矢」=「山麓の谷間に矢のような地がある様」と解釈した。

纏めると、陽侯=台上に玉が乗っかっているような地の後ろにある山麓の谷間に矢のような地があるところと読み解ける。「史」=「中+又」=「山稜が谷間の真ん中に延び出ている様」であり、全ての地形要素を満たす場所であることが解る。久爾曾=くの字に曲がって広がった地にある積み重なって盛り上がっているところと読み解ける。図に示した場所と推定される。例によって麻呂=萬呂と読むと、「久爾曾」の東側の谷間(と言っても、当時は入江だったであろうが)を挟む山稜の麓辺りを示していると思われる。

和銅三年(710年)正月の記事に「日向隼人曾君細麻呂。教喩荒俗。馴服聖化。詔授外從五位下」と記載されていた(こちら参照)。古事記の熊曾(書紀では肅愼)は未開地ではなく、むしろ新羅からの渡来の人々が住まう、倭國同等以上の進んだ地であったと推測した。人々の”民意”は極めて高く強固だったと推測される。尚、”民意”について『世界大百科事典(第2版)』では以下のように解説されている・・・、

人民の意志のことであるが,民意とはつねに漠然としたものとしてあり,おもに為政者の側の用語として用いられる。いかなる支配であっても,それが持続するためには何らかの正統性を有していなければならず,支配者の私的利益を支配の目的として表明することはできない。支配が神意に基づくとされる場合でも,その神聖性が被支配者に受け入れられていなければならないだろう。とりわけ民衆の動向が政治社会に直接の影響を及ぼすようになると,支配は民意に基づくもの,少なくとも民意を反映したものとして弁証されなければならない。

・・・「少なくとも民意を反映したものとして弁証されなければならない」が保証されているのか?・・・古事記の袁本杼命(継体天皇)紀に「此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連大伴之金村連二人而、殺石井也」と簡単に記載されている。詳細は不明なのだが、邇邇芸命降臨の以前も以後も胸形・竺紫日向の地へは途絶えることなく渡来が続いていたのであろう。

早々に征伐隊が送り込まれたようだが、次回へ・・・。