2021年7月3日土曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(9) 〔525〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(9)


養老三年(西暦719年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

夏四月丁夘。秦朝元賜忌寸姓。乙酉。制。諸大小毅。量其任。与主政同。自今以後。爲官判任。丙戌。分志摩國塔志郡五郷。始置佐藝郡。

四月九日に「秦朝元」に忌寸姓を授けている。二十七日に以下のように制定している。軍団の大毅・小毅は郡司の主政に相当する。今後は判官(三等官)に該当するものとせよ、と記載している。二十八日、「志摩國塔志郡」の五郷を分割して初めて「佐藝郡」を置いている。

<牛麻呂・辨正・嶋麻呂・大宅>
● 秦忌寸朝元

突然の登場で戸惑うのであるが、調べるとかなり詳細な解説が見つかる。系譜は葛野秦造河勝の孫の「牛麻呂」、その子の「辨正」が父親だったと知られている。

「河勝」には秦忌寸石勝の系列が登場していたが、配置からするとこちらが本家で、「牛麻呂」は分家のような感じである。要するにその父親が不詳なのであろう。

秦忌寸牛麻呂牛=牛の頭を表したとすると図に示した場所と思われる。古事記の大山咋神が坐した葛野之松尾と推定したところであって、葛野の中心に位置する場所である。文武天皇紀に「山背國葛野郡の月讀神・樺井神・木嶋神・波都賀志神の神稻を中臣氏に給う」と記載されていたが、その樺井神の近隣でもある。

父親の「辨正」の表記は孝徳天皇紀の遣唐使(653年)に記された一員として、養老元年(717年)に「以沙門辨正爲少僧都」として登場するが、共に出自不詳であって時期的に合致しない人物と思われる。実は續紀には記載されていないが、大寶二年(702年)の遣唐使の一員で、「辨正」は帰国することなく唐で客死、「朝元」は当地で誕生したと知られている(Wikipedia参照)。

「辨正」の辨=辛+辛+刀=谷間が二つに岐れている様正=交差している様と読めば、「牛麻呂」の東側の谷間が出自と推定される。弟の秦忌寸嶋麻呂が後に(聖武天皇紀、秦下嶋麻呂[太秦公を授与])登場する。図に示した木嶋神の近隣と推定される。勿論「朝元」の出自の場所を求めるわけには行かず、であるが、希少な生い立ちであることには違いない。

後には学業に優れて褒賞を受けたり、通訳の指導をしたり、天平四年(732年)多治比眞人廣成を大使とする第十次遣唐使節に入唐判官として加えられたり(父親辨正の縁故で玄宗から厚く賞賜されている。唐との程よい距離を保つ使節団の役割に貢献したのであろう)と活躍され、外従五位上・主計頭だったとのことである。

と言うことで、一件落着かと思っていたら、川上富吉氏の『秦忌寸朝元伝考 : 万葉集人物伝研究(二)』のタイトルの文献が見つかった(こちら参照)。辨正と唐人との間で誕生したのではなく、渡唐する際に同行し(八歳)、その後、父親と兄の朝慶は客死したが、本人は帰国した、と結論されている。一見”唐風”の名前のように思われ、すっかり地形象形表記ではない、と思い込んだが・・・。

改めて読み解いた兄弟朝慶朝元の出自の場所を図に示した。朝=𠦝+月=山稜の端に挟まれて丸く区切られた様が特徴であり、その地形を「牛」の首辺りに見出すことができる。慶=鹿+心+夊=山麓で岐れた山稜が集まっている様元=〇+儿=区切られた地から山稜が延び出ている様と解釈すると、「朝」を挟んで西・東の谷間が彼等の出自の場所と推定される。どうやら、川上氏の提唱される説が真っ当なのかもしれない。

余談ぽくなるが、「嶋麻呂」の娘が「藤原北家」に、また「朝元」の娘は「藤原式家」に嫁いだと伝えられている(藤原四家はこちら参照)。葛城郡四社と藤原氏との関係が深いことが縁を取り持ったのであろう。「蘇我」が財力を背景にした権勢に対して「藤原」は「神」で繋がった背景を有していた。「阿倍」は、そんな何かを持合せていなかったのかもしれない。ともあれ、こんな平穏な時はいつまで続くのであろうか・・・。

志摩國:塔志郡・佐藝郡
志摩國:塔志郡・佐藝郡

志摩國は持統天皇紀の行幸記事に登場した。「山稜の端が細かく岐れた地」よりも「小間切れにされたような地形」の方が適切な國であった。

先ずは、その地に塔志郡があったと言う。「塔」はタワー状を意味するように思われるが、「塔」=「土+荅」と分解され、「荅」=「上に被せる様」を意味する文字と解説されている。正に五重塔の様子を示す文字なのである。

地形象形的には、垂直方向ではなく、塔志=区切られた山稜が連なっている地の傍らで川が蛇行しているところと読み解ける。水平方向に回転して眺めた表現と解釈される。なかなかに興味深い文字使いのようである。

すると谷間から眺めると藝=延び出た山稜が揃って並んでいる様と映り、その佐=麓の谷間を佐藝郡と名付けていると思われる。「藝」の文字解釈については、古事記では、この解釈に「果てるところ」の意味を重ねているように思われたが、書紀・續紀では、そうではなく単純に地形を表す文字として扱っている。それが確認されたようである(こちら参照)。

五月己丑朔。日有蝕之。乙未。新羅貢調使級飡金長言等卌人來朝。癸夘。無位紀臣龍麻呂等十八人。從七位上巨勢斐太臣大男等二人。從八位上中臣習宜連笠麻呂等四人。從六位上中臣熊凝連古麻呂等七人。從八位下榎井連弄麻呂並賜朝臣姓。大初位下若湯坐連家主。正八位下阿刀連人足等三人並賜宿祢姓。无位文部此人等二人賜文忌寸姓。從五位下板持史内麻呂等十九人賜連姓。辛亥。制定諸國貢調短絹。狹絁。麁狹絹。美濃狹絁之法。各長六丈。濶一尺九寸。

五月一日に日蝕があったと記している。七日に新羅の使者四十人が来朝している。十五日、「紀臣龍麻呂」等十八人・「巨勢斐太臣大男」等二人・中臣習宜連笠麻呂(諸國に併記)等四人・中臣熊凝連古麻呂(同左)等七人・榎井連弄麻呂(倭麻呂に併記)に朝臣姓、「若湯坐連家主」・阿刀連人足(大石に併記)等三人に宿祢姓、「文部此人」等二人に文忌寸姓、板持史内麻呂(「連」として登場済み)等十九人に連姓を授けている。

二十三日に諸國が調として納める丈の短い絹・幅の狭い絁・質が粗く幅の狭い絹・美濃國特産の幅の狭い絁の規定を定め、各々の長さは六丈、幅は一尺九寸と制定している。

<紀臣龍麻呂-廣前・紀朝臣猪養>
● 紀臣龍麻呂

「紀(朝)臣」の地は、現在の豊前市大村辺りと推定して来たが、南北に広い地域であり、かつ多くの人物が既に登場しているところでもある。系譜は全く知られていないようで、名前だけからその出自の場所を求めることになりそうである。

「龍」を地形象形に用いた例は、意外に少なく、分り易いのが斉明天皇紀に葛城嶺(現在の福智山山系)を龍に見立てた表現があった。即ち龍の頭部には角らしきものが生えている様子である。

これに類似する地形を「紀臣」の山稜(現在の求菩提山・国見山から延びた最も東側の山稜)を探索しても、全く見当たらず、既出の「紀臣」ではないのか?…と一瞬疑う有様であった。

山稜が細長く延びている場所は、標高は違えど海辺に多く見られる場所であり、陰影を強くして調べると、頻出の「紀大口」系列が蔓延った場所に行き当たったようである。図に書紀も含めての登場人物を記載したが、その中で後裔の登場が少ない地に龍麻呂の地形を見出すことができた。

「大口」の子、「弓張」の系列のようにも見える配置であるが、定かではない。直ぐ後に紀臣廣前が登場する。同じように朝臣姓を賜っている。前=揃とすると、「龍麻呂」の東側の山稜端と推定される。

また新人登場の際に紀朝臣猪養が従五位下を授けられている。調べると眞人の子と知られているようである。既出の猪=犬+者=平らな頂の山稜が交差する様でり、養=羊+良=山稜に挟まれた谷間がなだらかな様と解釈した。その地形が図に示した場所に見出せる。

更に未だ登場はないが、その子の紀朝臣僧麻呂の出自の場所も併せて記載した。僧=人+曾=谷間で積み重なった様であり、父親の谷間の奥に当たる場所と推定される。

<巨勢斐太臣大男-嶋村・巨勢朝臣眞人>
● 巨勢斐太臣大男

上記と同じく「巨勢(朝)臣」も東西に広ろがった地域であり、かつ登場人物も多数である。ほぼ全域に行き渡った感じであるが、まだまだ見落としの場所が存在する筈であろう。

既出の文字である「斐」=「谷間を挟む山稜が交差するような様」、「太」=「平らに大きく広がる様」とすると、斐太=交差するような谷間で山稜が平らに大きく広がったところと読み解ける。

図に示した直方市と北九州市八幡西区との境にある場所と推定される。現在は広大な工業団地となっているが、多分、当時もなだらかな地形だったと思われる。「大男」はその名の通りの地形なのだが、些か広すぎて出自の場所を特定するには至らない感じであるが、それらしきところを表記した。

幾多の登場人物の出自の場所とは異なり、すっぽりと抜けていた地を「斐太」の表記で示していることが解った。埋もれた人材の発掘、正にその通りの配置である。天皇統治の領域が一歩一歩充実して行った有様を告げているように思われる。

この直後に巨勢朝臣眞人が登場する。立派な名前の持ち主であるが、系譜は定かではなく、眞人=谷間を寄せ集めた様と解釈すると、図に示した場所と思われる。當麻眞人のように遠祖の地に舞い戻って来ている感じであるが、さて、今後は如何なることになるのか?・・・。

後(聖武天皇紀)に巨勢斐太朝臣嶋村が外従五位下を授かって登場する。凄まじく地形が変形した地であり、とても出自の場所を見出せないであろうかと思っていたら、何と!、残してくれていたではないか・・・。「朝臣」姓を賜っていたようである。嶋村=山稜の端で手を拡げたような地が鳥の形をしているところと読み解ける。巨勢の谷間も至る所に人々は住まっていたことを伝えている。

<若湯坐連家主・小月・繼女>
● 若湯坐連家主

「湯坐連」と言えば、古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった額田部湯坐連なのであるが、勿論その場所ではないのであろう。

「若」が付く地名は伊邪本和氣命(履中天皇)の伊波禮之若櫻宮があった。現在の金辺川と呉川が合流する地域であり、若=叒+囗=多くの山稜が延びている様の地と推定した。現地名は田川郡香春町高野である。

湯坐連=水が飛び散るような急流の川がある谷間が両側にある山稜が延び連なったところと読み解いた。その地形を「若」の奥に見出すことができる。「額田部」ほどではない小ぶりな「湯坐」がしっかりと存在していたのである。皇子の産湯を担当する役目と読んでは、勿体ない、である。「湯」の解釈を真っ当にすることが先決であろう。

少々驚きなのが、名前の家主=谷間にある真っ直ぐ伸びた山稜の端が豚の口のようになっているところが確認されることである。一文字一文字余すことなく地形を表していることが解る。書紀では「稚櫻」と記載されていた。ここでも續紀は古事記の文字使いを踏襲しているようである。

後(聖武天皇紀)に若湯坐宿祢小月若湯坐宿祢繼女が、それぞれ”外従五位下”に叙爵されて登場する。飛鳥の近傍であり、かつては天皇の宮があった地に”外”を付けるとは?…思い切った叙爵であるが、若者を叱咤激励する政策だったとか・・・。小月=端が三角形になっている三日月の形をしたところと読み解ける。図に示した家主の北側の谷間と推定される。また繼女は、延び出た山稜を居処としていたと思われる。

<文部此人-黑麻呂・悉斐連三田次>
● 文部此人

「文」は直近では河内國の文忌寸禰麻呂・馬養親子が登場していた。「部」が付加されているので、少し離れた場所であろう。

「此」は何と読み解くのか?…この文字は古事記で登場する「紫(此+糸)」や「柴(此+木)」に含まれている。筑紫嶋、水齒別命(反正天皇)の多治比之柴垣宮などがあった。あらためて文字解釈を述べることにする。

含まれる「此」=「止+匕」と分解される。「人が歩くのを止めて、少し足を広げて立ち止まった様」を表す文字と知られている。人体の形を山稜が描く地形に置き換えて「此」=「谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている様」と解釈される。

すると此人=谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びているところと読み解ける。図に示した辺りが出自の場所と推定される。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田、勝山神社がある地、この近隣がみやこ町の中心の地となっている。

少し後に文部黑麻呂が登場する。同様に十一人に「文忌寸」姓を授けたと記載されている。既出の黑=囗+米+灬=谷間に炎のような山稜が延びている様と解釈したが、「此人」の東側にある山稜の端が広がった場所を示していると思われる。多分、”勝山黒田”の由来であろう。

更に悉斐連三田次が算術に長けた人物として褒賞されている。初登場の「悉斐連」(別名志斐連)であり、調べると中臣氏と同祖、即ち天兒屋命の子孫と伝えられ、和泉國が本貫の地であったと知られている。「悉」=「采+心」と分解される。「采」=「爪+木」から成る文字であり、「悉」=「三本の指を延ばしたような山稜が中央にある様」と読み解ける。

既出の「斐」=「非+文」=「山稜に挟まれた谷間が交差するような様」と解釈した。纏めると悉斐=三本の指を延ばしたような中央にある山稜に挟まれた谷間が交差しているところと読み解ける。「三田」の確認は難しいが、次=冫+欠=二つの山稜が口を開いたように岐れている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

この地は「和泉國」の本貫であり、邇邇藝命降臨に随行した天兒屋命が祖となっていたのであろう。と言うことは、例え文忌寸に挟まれていても同族にはならないのである。

六月丁夘。皇太子始聽朝政焉。庚午。從四位上平群女王卒。辛未。初令諸國史生主政主帳大少毅把笏焉。癸酉。制。穀之爲物。經年不腐。自今以後。税及雜稻。必爲穀而收之。丙子。令神祇官宮主。左右大舍人寮。別勅長上。畫工司畫師。雅樂寮諸師。造宮省。主計寮。主税寮算師。典藥寮乳長上。左右衛士府醫師。左右馬寮馬醫等。始把笏焉。」從四位下但馬女王卒。

六月十日に初めて皇太子が朝政を聴いている。十三日、「平群女王」が亡くなっている。十四日に初めて諸國の史生・主政・主帳・大少毅に笏を持たせている。十六日、以下のように制定している。籾殻は腐ることがないから今後は税・雑稻は籾殻で収めるようにせよ、と述べている。

十九日に神祇官の宮主、左右大舎人寮に特別な勅を受けて長上官として勤務する者、画工司の画師、雅楽寮の諸師、造営省・主計寮・主税寮所属の各算師、典薬寮の乳長上、左右衛士府の医師、左右馬寮の馬医師等にも初めて笏を持たせている。「但馬女王」が亡くなっている。

● 平群女王・但馬女王

残念ながらこの二人の女王の出自は全く不詳のようであり、求める手立てを見出すことはできない。後者については、但馬皇女(内親王、天武天皇の皇女)が登場していたが和銅元年(708年)六月に逝去されている。その地に関連した出自なのかもしれない。

秋七月辛夘。初置拔出司。丙申。遷東海。東山。北陸三道民二百戸。配出羽柵焉。庚子。從六位上賀茂役首石穗。正六位下千羽三千石等一百六十人。賜賀茂役君姓。」始置按察使。令伊勢國守從五位上門部王管伊賀志摩二國。遠江國守正五位上大伴宿祢山守管駿河。伊豆。甲斐三國。常陸國守正五位上藤原朝臣宇合管安房。上総。下総三國。美濃國守從四位上笠朝臣麻呂管尾張。參河。信濃三國。武藏國守正四位下多治比眞人縣守管相摸。上野。下野三國。越前國守正五位下多治比眞人廣成管能登。越中。越後三國。丹波國守正五位下小野朝臣馬養。管丹後。但馬。因幡三國。出雲國守從五位下息長眞人臣足。管伯耆石見二國。播磨國守從四位下鴨朝臣吉備麻呂。管備前。美作。備中。淡路四國。伊豫國守從五位上高安王。管阿波。讃岐。土左三國。備後國守正五位下大伴宿祢宿奈麻呂。管安藝周防二國。其所管國司。若有非違及侵漁百姓。則按察使親自巡省。量状黜陟。其徒罪以下斷决。流罪以上録状奏上。若有聲教條々。脩部内肅清。具記善最言上。乙巳。大宰大貳正四位下路眞人大人卒。丙午。補按察使典。

七月四日に初めて拔出司(相撲節会のための選抜を司る)を設置している。九日、東海・東山・北陸の三道民の二百戸を出羽柵(越後國出羽郡に設置)に配置している。和銅七年(714年)十月及び養老元年(717年)二月に合せて六百戸だったから、今回を含めると総計八百戸となる。蝦夷教化施策だったのであろう。

十三日に「賀茂役首石穗」・「千羽三千石」等一百六十人に賀茂役君姓を授けている。また、按察使を以下の國々に初めて設置している。伊勢國守の門部王に伊賀・志摩の二國、遠江國守の大伴宿祢山守に駿河・伊豆・甲斐の三國、常陸國守の藤原朝臣宇合に安房・上総・下総の三國、美濃國守の笠朝臣麻呂(尾張國守兼任)に尾張・參河・信濃の三國、武藏國守の多治比眞人縣守に相摸・上野・下野の三國、越前國守の多治比眞人廣成に能登・越中・越後の三國、丹波國守の小野朝臣馬養に丹後・但馬・因幡(書紀の因幡)の三國、出雲國守の息長眞人臣足に伯耆・石見の二國、播磨國守の鴨朝臣吉備麻呂に備前・美作・備中・淡路の四國、伊豫國守の高安王に阿波・讃岐・土左の三國、備後國守の大伴宿祢宿奈麻呂に安藝・周防の二國を管轄させている。

管轄する國の國司に違法行為などがあれば按察使が巡察し、状況見合いで官位を降格せよ、と命じている。徒罪以下は判決を下して刑を執行し、流罪以上は犯状を奏上すること、また教化の実績があり、治安も良ければ勤務評定の善・最(考課令の規定)を記録して報告せよ、と命じている。

十八日に大宰大貳の路眞人大人が亡くなっている。十九日に按察使の(主)典を任命している。靈龜元年(715年)八月に任命記事が記載されていた。

按察使(本籍も含めて)が取り纏める國々を整理すると、①遠江・駿河・伊豆・甲斐、②丹波・丹後・但馬・因幡(書紀の因幡)、③出雲・伯耆石見、④備後・安藝・周防の四つの組合せは(概略の配置はこちら参照)、一見、巡察できるような配置にはなっていない?・・・勿論、通説に従えば、最もらしい組合せである。

前記で述べたように土左國と阿波國が「境土相接 往還甚易」と記載し、その境界の地形を知らない者には、平地で隣り合ってるように思わせる記述がなされていたが(こちら参照、境界の地形はこちら)、ここでも續紀編者は、後の各國の配置を暗示しているように伺える。

一塊になった地域と読むのを見越した記述であろう。按察使としては、離れた國でも、与えられた使命を果たすことは可能であり、その地域が纏まっていれば都合よし、である。どうやら、續紀編者との”闘い”が始まったようである。さて、書紀編者と比べて、その実力は如何程であろうか?…連勝となるか、敢え無く敗退か?…前進するのみである。

<賀茂役首石穗・千羽三千石>
● 賀茂役首石穗・千羽三千石

「賀茂役首」は「賀茂(鴨)君(朝臣)」の近隣の地を表していると思われる。「役」は役君小角(現在の田川郡福智町にある雲取山の山稜)で登場した文字で、役=彳+殳=矛のような地が真っ直ぐに延びている様と解釈した。

「鴨」の地の西側に、かなり明確にその地形が見出せる。と言うか「鴨」の頭部に当たる場所と思われる。その「矛」の先端部にの地形があり、これらを寄せ集めて名前としたようである。

その「首」の近くに穗のように延び出た小高いところが見えられるが、それを石穗と名付けたと思われる。周辺の地形をそのまま用いて表記しているようである。

「千」=「人+一」と分解して、千羽=羽のような地が谷間を束ねているところと読み解けるが、現在の弁城川の川辺に広がった台地を示している。そこに、現在はバイパス道路の脚台のようになっている三つ並んだ台地が見出せる。三千石=三つの台地が谷間を束ねているところが表す場所と推定される。

百六十人と言う大勢に姓を与えたようで、またそれだけの人々が住まうことのできる広さがあった場所と思われる。「賀茂役君」姓は上記の「役君小角」に関連させた論考が散見される。葛木山(雲取山)の「役の地形」に準えて「賀茂の役」と名付けただけである。「賀茂(鴨)」の地形は、まかり間違えても修験する地形ではない。

閏七月癸亥。新羅使人等。獻調物并騾馬牡牝各一疋。丁夘。賜宴於金長言等。賜國王及長言等祿有差。是日。以大外記從六位下白猪史廣成。爲遣新羅使。辛未。散位從四位上忌部宿祢子人卒。癸酉。金長言等還蕃。丁丑。石城國始置驛家一十處。甲申。賜無位紀臣廣前朝臣姓。

閏七月七日に新羅の使節が調物と騾馬の牡牝各一匹を献上している。二十一日に新羅の使節を饗応。国王、長官にそれぞれ禄を授けている。この日、大外記の白猪史廣成(阿麻留に併記)を遣新羅使に任命している。十五日に散位(従四位下)の忌部宿祢子人(首)が亡くなっている。十七日に新羅使が帰国している。二十一日に石城國に初めて駅家十ヶ所を設置している。二十八日に無位の紀臣広前(龍麻呂に併記)に朝臣姓を授けている。