2020年5月30日土曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅹ) 〔419〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅹ)

 
人心一新し、改元も行って、いざ、と言った時になったと伝えている。「公地公民」は旧豪族との絶え間ない戦いであったろう。該天皇は、それに怯むことなく立ち向かったようである。最も恐れなくてはならなかったのはむしろ身内だったのかもしれない。とは言え、中国を見習いながら、着実に中央集権的な体制造りに励んだ、と物語は続く。白雉元年(西暦650年)冬十月である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

冬十月、爲入宮地所壞丘墓及被遷人者、賜物各有差。卽遣將作大匠荒田井直比羅夫、立宮堺標。是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。是歲、漢山口直大口、奉詔、刻千佛像。遣倭漢直縣白髮部連鐙難波吉士胡床、於安藝國、使造百濟舶二隻。

難波長柄豐碕宮を建てるために、その地にあったものを移させた。その人達への心遣いであろう。宮の「堺標」を立てたと記載されている。現在も「境界標」と言われ、石、木材、金属製の杭を隅に打ち込んで作られている。それに該当するか否かは定かではない。

仏像のことは不詳なので引用すると、「丈六(ジョウロク=仏像の大きさの基準)の繡像(ヌイモノノホトケ=刺繍の仏)・侠侍(ケウジ=脇侍菩薩)・八部(=天竜八部)などの36像を作りました」とのことである。また千仏像を彫ったり、百濟船二隻を造らせたと記している。

「荒田井直比羅夫」は倭漢直荒田井比羅夫として既に読み解いた。宮近隣の水田灌漑用の溝を間違えて造ったと記載されてもいる。その訴えに責は朕、と天皇が仰ったと語られていた。土木工事全般を任されていた人物であろう。彼の出自の場所は、未だにスッキリとはしないが、当時から地形を変形させていたのではなかろうか。
 
<漢山口直大口>
「倭漢直縣」がすぐ後に登場するが、おそらく「倭漢書直縣」のことであろう。「荒田井直比羅夫」の場所の近隣である(上記引用参照)。

● 漢山口直大口

「倭漢」ではなく「漢」である。この地も狭隘な地なのであるが、果たして文字が示す場所が見出せるか?…二つもの「口」がある。

現地名の田川郡赤村赤の戸城山東南麓の谷間が求めるところと解る。「大」は戸城山を示し、そこへの登り口の「口」と解釈される。

父親が「山口都黃」と伝えられている。「都」=「者+邑」と分解され、都=斜めに交差するような山稜(者)が集まる(邑)様と読み解ける。頻出の文字である。

黃(黄)=四方に広がる様を表す文字であり、それらが示す地形が、「口」を少し登ったところに見出せる。意祁命(仁賢天皇)が坐した石上廣高宮などに含まれている文字である。

調べると、「山口大口費」として、「法隆寺金堂に現存の『四天王像』のうち『広目天像』の光背に名を残し,当時著名な仏師であったことが知られる」と辞書に記載されている。千仏像ばかりではなく多くの重要な仏像を制作してのであろう。

この地は邇藝速日命が登美能那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣娶って誕生した宇摩志麻遲命の居場所と推定した。彼の後裔は穂積、物部、采女と広がり、その地より多くの人材が輩出したと伝えているが、本家の場所からは殆ど出現しなかった。仏像彫刻でお目に掛かることができたようである。
 
<白髪部連鐙>
● 白髮部連鐙

「白髪」は古事記の白髮大倭根子命(清寧天皇)の出自の場所、仁賢天皇の御子、手白髪郎女に係る地であろう。また天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の出自の場所の近隣と思われる。

「鐙(アブミ)」を如何に読み解くか・・・「鐙」=「金+登」と分解すると、既出の金=山稜に挟まれた谷間に高台がある様と読み解いた。

また頻出の「登」=「癶+豆」と分解して、登=山稜が二つに分かれるところにある高台と読み解いた。有名な夜麻登に用いられた文字である。

勿論「ヤマト」と言う固有の名称ではなく、「夜麻登」の地形は別所にもある。例えば古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命が登場する。現地名は北九州市門司区羽山辺りである。

それはともかくとして、谷間に突出た山稜の形を古式豊かな「壺鐙」と見做したとも思われるが、真意は定かではない。
 
<難波吉士胡床・吉士長丹・吉士駒>
● 難波吉士胡床・吉士長丹・吉士駒()

「難波吉士」の、後に登場する人物も併せて読み解くことにする。かなりの登場数になるので、果たして余地はあるのか、取り敢えず先に進んでみよう。

「胡床」の「胡」=「古+月」と分解される。「古」=「丸く小高いところ」であり、「月」=「山稜の端の三角州」である。「古」の地形は「難波吉士」では既出の難波吉士身刺の「刺」に該当するところであろう。

「床」の原字は「牀」と言われる。「牀」=「寝床、寝台」を意味する文字である。すると胡床=丸く小高い地(古)の端にある三角州(月)が寝床の形(床)をしているところと紐解ける。

延びた三角州の東側に川がほぼ真っ直ぐに流れていて、正に寝台状の地形であることが解る。この「吉士」の居場所は特定し辛いが、おそらく現在の五社神社辺りではなかろうか。現地名は行橋市南泉(一)

「長丹」はそのままで長丹=長い山稜が谷間から延び出たところと読み解ける。行橋市矢留の裏ノ谷池がある谷間から延びた山稜のを表していると思われる。こちらも居場所を定めるには情報不足のようであるが、現在の五社八幡辺りと思われる。現地名は行橋市大字福原であるが、大字流末との境に近い。

「駒」もそのままで駒=馬の背のようなところと読める。また絲=撚り糸であり、これもその形を示す同じ山稜(小高いところ)であろう。現在は広大な団地開発で大きく地形が変化しているが、その一部が残っているようである。図に示した場所、現地名は行橋市南泉(三)で釜割池の西岸である。
 
安藝國

「倭漢直縣・白髮部連鐙・難波吉士胡床」の三名が派遣されて「百濟舶二隻」を造った場所である。「安藝」は既出ではあるが、この二文字を読み解いてみよう。「安」=「宀+女」=「山稜に囲まれた麓で嫋やかに曲がる谷間がある様」である。天安河などで頻繁に用いられている。
 
<安藝國>
「藝」は古事記に多用されているが、今一度この文字が表す地形を読み解いてみよう。「藝」=「艸+埶+云」と分解される。
「藝」は通常使われる「芸」とは別字、「芸」は中国では殆ど使われない略字(中国では「艺」)だそうである。

埶」=「土を盛り上げた様」で「艸」を冠すると、「蓺」=「盛り上げた土地に草(植物)を生やす様」を表す文字と解説される。それに「云」=「耘(クサギル)」の略字を加えて、植物を生やすだけではなく、雑草を刈取る作業、即ち植物を整えた意味も含まれている文字であることが解る。

これを地形象形表現とすると「藝」=「延び出た山稜が揃って並んでいる様」と解釈される。纏めると安藝=山稜に囲まれた麓で嫋やかに曲がって延び出た山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。

図に示した大きな谷間に無数の山稜並んでいる地形を示していると思われる。この地に東北の奥に、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が一時滞在した阿岐國之多祁理宮があったと推定した。現在の八所宮辺りではなかろうか。古事記は谷間を流れる釣川で台地が二つに岐れたように見えると記載している。同一地形の別表記である。

古事記で登場した「藝」は、藝=果てる(果てにする)と解釈した。自然のままの状態ではなく、手を加えて都合の良いものにしたことを意味する文字である。これを派生・展開すると「区切る、果て(にす、とな)る」を表す文字となったと解釈される。例えば、邇邇藝命多藝志などがある。「邇邇藝命」の場合は「邇(岐志國)が果てるところ」であり、「多藝志」では「(出雲の)多(賀)が果てにするところ」の解釈となる。場所の特定に有効であったが、上記の藝」=「延び出た山稜が揃って並んでいる様」としても、地形的には矛盾がないことが解る。多分、両意が重ねられた表記だったことに気付かされたようである。
 
<安藝國>
安藝國の周辺を眺めてみると、その西側は海(玄界灘)であり、南側には三郡山地が広がっている。

また大河釣川(当時はその中流域まで汽水の状態と推測)で分断された台地形状を表したと解釈される。確かに最果ての地に近いが、厳密はそうではない。

古事記の舞台の西方限界だとしても、おそらく書紀では更なる西方の地が登場する筈である。即ち、書紀では「最果ての地」ではないことになり、古事記のような重ねた表記は行っていないと思われる。

「安藝」は、通説では広島県西部に比定されている。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が奈良大和に届くには欠かせない地として扱われている。「藝」=「最果ての地」を意味することを重々承知でこの地に用いた書紀編者だったのであろう。取り敢えず、「安芸国」の”本貫”の地としておこう。

そんなこんなの見直しを行っていると、「安藝國」の範囲が見えて来た。西側の大きく広がった山稜は、「藝」には含まれないことになる。ずっと後になるが、續紀の文武天皇紀に周防國が登場する。詳細はご登場の時とするが、防=阝+方=台地が延びて広がった様と解釈され、図に示した場所の地形を表していることが解る。古事記の阿岐國は、書紀・續紀の安藝國周防國を併せた表記だったのである。尚、後の天武天皇紀に周芳國が出現するが、勿論、別の場所である。

二年春三月甲午朔丁未、丈六繡像等成。戊申、皇祖母尊請十師等設齋。夏六月、百濟・新羅遣使貢調獻物。冬十二月晦、於味經宮請二千一百餘僧尼使讀一切經。是夕、燃二千七百餘燈於朝庭內、使讀安宅・土側等經。於是、天皇從於大郡遷居新宮、號曰難波長柄豐碕宮。

時が進んで白雉二年(西暦651年)三月~十二月の記事である。「繡像」(刺繍の像)が完成し、六月には百濟。新羅が朝貢したと記載している。十二月の晦日には味經宮で大勢の僧侶を集めて盛大な読経が行われたと伝える。天皇が大郡から難波長柄豐碕宮に移る、従前に起こった事件の厄払いのためかもしれない。いよいよ新宮にて天下を治めることになったと記述している。

是歲、新羅貢調使知萬沙飡等、着唐國服、泊于筑紫。朝庭、惡恣移俗、訶嘖追還。于時、巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅、於後必當有悔。其伐之狀、不須舉力。自難波津至于筑紫海裏、相接浮盈艫舳、徵召新羅問其罪者、可易得焉。

新羅の使者が「着唐國服」で筑紫に来たことを知って、追い返したと告げている。この時期の朝鮮半島内は唐と新羅の提携、それに従って百済との葛藤が激しくなりつつあったと思われる。それを知らないわけではない倭國としては心中穏やかでは居られない状況に陥っていたのであろう。
 
<筑紫海裏>
巨勢大臣が「自難波津至于筑紫海裏、相接浮盈艫舳」(難波津から筑紫海裏まで船の船首と船尾を接するように繋げる)ようにして、新羅を問い詰めよう、と提言したと述べている。戯言のようなので真面目に解釈されていないようだが、注目は「筑紫海裏」である。
 
筑紫海裏

「筑紫海」は従来より「有明海」の古名と言われて来たようであるが、定かではない、と断りが記載されている。だとしても「裏」は何処となると、全く不詳となってしまうであろう。

広大な有明海の裏は、この海の入口付近を除いて、結局九州島何処でも該当しそうである。幾度か述べたように「筑紫」は、有明海を囲む場所ではなく、企救半島の西部一帯を示す表記である。

すると「筑紫海」は、現在の北九州市小倉北区一帯、当時は大半が海面下と推定した場所を示すのであろうか?…やはりこれでは「裏」を示す場所が曖昧となってしまうようである。

解は「筑紫の海」は、古事記で宇美と言われたり、隋書俀國伝で海岸と呼ばれた場所と結論付けられる(図中北側の錨マーク)。「裏」の場所の現地名は北九州市小倉南区湯川・葛原辺りであろう。概算で難波津から24km、一艘の長さを約30mとすると、約800隻が必要となるが、武庫水門500隻集められるくらいだから、夢物語ではなさそうである。

まぁ、書紀編者の戯れとしておこう。注記すれば、遣唐使船の大きさをズバッと全長30m推定されている方がおられたので、それを採用。図中の船の全長は1,200m余計だが・・・。新任の巨勢大臣、頭がおかしいのでは?…浪速の難波からだよ!・・・全てを見越して書紀編者が残した記述であろう。

三年春正月己未朔、元日禮訖、車駕幸大郡宮。自正月至是月、班田既訖。凡田、長卅步爲段、十段爲町。(段租稻一束半、町租稻十五束。)

白雉三年(西暦652年)正月元日に儀式が終わって大郡に移られた。班田(分け与える口分田)が終わったようだが、少々文脈が読めないようである。三十歩=一段、十段=一町。(租税は段当たり稲一束半、一町では十五束)と決めれている。

三月戊午朔丙寅、車駕還宮。夏四月戊子朔壬寅、請沙門惠隱於內裏、使講無量壽經、以沙門惠資爲論議者、以沙門一千爲作聽衆。丁未、罷講。自於此日初連雨水至于九日、損壞宅屋傷害田苗、人及牛馬溺死者衆。是月、造戸籍。凡五十戸爲里、毎里長一人。凡戸主皆以家長爲之。凡戸皆五家相保、一人爲長、以相檢察。新羅・百濟、遣使貢調獻物。秋九月、造宮已訖。其宮殿之狀、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於內裏、設齋・大捨・燃燈。

三月になって豐碕宮に戻ったようである。色々と仏事を催したのだが、長雨が降って、損害が発生したとのことである。また戸籍を作って、戸数に合わせて里を定め、民生も組織化したようである。九月になって宮の造作が終了したのだが、災害対策中のことで、公にはしなかった。十二月晦日に僧尼を集めて仏事を行ったと記載されている。

こうして白雉三年が過ぎて、年明けを待つ時になったようである。さて、翌年は如何なる事件が勃発したのであろうか、次回へと・・・。