2020年5月26日火曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅸ) 〔418〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅸ)

 
謀反人と決めつけられて逃亡劇が始まり、そこに重要なランドマークが登場する。山背大兄皇子の場合は「膽駒山」、「斑鳩寺」であり、蘇我倉山田石川大臣の場合は「茅渟道」、「今來大槻」、「山田寺」である。それらの地点を時空的に地図上に再現されて初めて解読されたと言うべきであろう。

前記で記述した倉山田大臣の事件は、「蘇賀」の地形を…とりわけ北西部~北部…詳細に伝えていることが解った。日本書紀は、隠蔽するランドマーク以外(例えば古事記の「(近)淡海」、「美和」など)については原資料のまま、あるいはむしろ解り易く書き換えて、記載していることが明らかになりつつある。

古事記の行程記述は、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の東行(その一部)、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の山邊之大鶙の木國~高志國への旅程、倭建命の熊曾・出雲國及び東方十二道の例が挙げられるが、そこに登場するランドマークの位置関係を浮かび上がらせた。地図というものが存在しない時代には必要な記述であり、それが忠実に、些か戯れ気味に記載されていた。

そんな思いを秘めて先に進んで行こう・・・左右大臣を失った訳で、早速新任の大臣の登場である。大化五年(西暦649年)四月から、原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣、於小紫大伴長德連字馬飼授大紫爲右大臣。五月癸卯朔、遣小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等於新羅。是歲、新羅王、遣沙㖨部沙飡金多遂爲質、從者卅七人(僧一人・侍郎二人・丞一人・達官郎一人・中客五人・才伎十人・譯語一人・雜傔人十六人、幷卅七人也)。

空席となった左右大臣に巨勢德陀古臣(大紫:上位五番目)、大伴長德連字馬飼(同左)を当てたと記されている。既に登場した人物であるが、いつの間にやら小紫にまで昇進していたようである。「大伴長德連字馬飼」は「大伴連馬飼」から「長德」が付加され、その地を拡げたことを記していたと推測したが、「巨勢德陀古臣」は「巨勢德陀臣」に「古」が付加された名称である。
 
<巨勢德陀古臣・豐足臣・薬>
あらためて「巨勢」の地を示すと、「德陀」の場所から更に谷間を下流方向に進んだところに「古」らしき場所が見出せる。

「古」の付加は、領地拡大を表していることが解る。「巨勢臣徳太」との境界は曖昧なところがあったが、その端境が「徳陀」に付与された様子である。

土地の帰属は、勿論現在も変わりはないが、生死に係る一大事、やはり大臣就任のようなことが起こらない限り発生しないことであったろう。

「大伴」は「蘇賀」の西部であって東部の「蘇我」に靡いているわけではなかったのであろうが、一族には変わりはない。まだまだ「蘇賀」に出自を持つ人物が上位に立つ配置であったことを告げている。

「巨勢」も含めて古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、建内宿禰を遠祖に持つ一族である。書紀は「淡海」絡みでこの一族の出自を明確には語らない、やはり無理筋の改竄作業を強いられた編者達であったろう。

後に唐への留学生として「巨勢臣薬」及びその父親「巨勢豐足臣」が記載される。「薬(クスリ)」としてしまっては勿体ない、「薬」=「艸+糸+白+糸+木」と分解する。すると薬=二つの細長い山稜(糸・木)に挟まれた小高い地(白)が集まった(艸)ところと読み解ける。「薬(クスリ)」=「草を擦り潰して小さな粒状にしたもの」と解釈するそうである。

図に示した場所と推定される。また父親は豐足=段差がある山稜が長く延びたところであり、息子の東側に当たる。現地名の直方市上頓野、尺岳の西麓にある谷間の奥深くの地である。継体天皇には「巨勢男人大臣」が記載されている。天皇家には以前より貢献のあった人物が輩出していた地域なのであろう。

新羅へ「三輪君色夫」、「掃部連角麻呂」等を派遣したと記されている。三輪君色夫は既に読み解いて足立山西麓の谷間の入口付近を出自の場所と推定した。後者は初出である。ところが「掃部連」については、書紀中でも孝徳天皇紀になって初めて登場し、何らの情報も得られず、Wikipediaを見ると…、

「掃守連氏」は宮殿の清掃・舗設を職掌とした「掃守部」を率いた伴造氏族で、『新撰姓氏録』「左京神別」には「振魂命四世孫、天忍人命之後也」とあり、高安郡掃守郷(現在の大阪府八尾市南高安町一帯)を根拠地としていたと推定される。

…と記載されている。すると「河内」と近隣と推定される。後に「掃守連小麻呂」も登場することから併せて該当する地があるかを探索することにする。「掃」=「手+帚」と分解される。「
帚」=「箒(ホウキ)」を象った文字と解釈される。掃=山稜の先が[箒]のような形をしたところと読み解ける。
 
<掃部連角麻呂・掃守連小麻呂>
図に示した、現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内と勝山矢山の間にある山稜が「箒」の地形を示していることが判る。


「掃部連角麻呂」の「角」=「隅」であり、延びた山稜の隅にある「麻呂」を表している。一方の「掃守連小麻呂」は「小さい」と読むと山稜の端の小高いところと推定される。

ここで実に丁寧な文字の使い分けがなされていることに気付かされる。「部」と「守」である。部=区切られた地であって、「箒」の山稜に直接くっ付いているのではなく、先端で小高く盛り上がった地形である。

既出の「守」=「宀+寸」と分解すると、守=肘を曲げたような(寸)山稜に囲まれた(宀)ところと読み解いた。

小ぶりなのだが、その地形を示していて、勿論地図上には川は記載されないが、幾つかの堰も見出せる。既出の物部守屋大連などに含まれていた。

「掃部連」と「掃守連」は通例に違わず、一文字一文字に地形象形の情報を埋め込んだ名称であることが解る。「河内」近隣として紐解いた結果は、申し分のない地形象形表記である。尚、それぞれの現地名は、京都郡みやこ町勝山岩熊、勝山浦河内である。

新羅が多くの従者と共に「金多遂」を送り込んで来たと伝えている。そして金多遂」を人質にしたようである。かつての「金春秋」と入れ替えなのであろうか。従者の中に「譯語一人」(通訳者)が含まれている。新羅は「倭人」とは異なる言語文化圏の中にあったのであろう。

白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮、觀賀正禮(味經、此云阿膩賦)。是日、車駕還宮。二月庚午朔戊寅、穴戸國司草壁連醜經、獻白雉曰、國造首之同族贄、正月九日、於麻山獲焉。於是、問諸百濟君、百濟君曰、後漢明帝永平十一年白雉在所見焉、云々。又問沙門等、沙門對曰、耳所未聞・目所未覩、宜赦天下使悅民心。道登法師曰「昔高麗、欲營伽藍、無地不覽。便於一所白鹿徐行、遂於此地營造伽藍、名白鹿薗寺、住持佛法。又白雀見于一寺田莊、國人僉曰休祥。又遣大唐使者持死三足烏來、國人亦曰休祥。斯等雖微尚謂祥物、況復白雉。」僧旻法師曰「此、謂休祥足爲希物。伏聞、王者旁流四表則白雉見。又王者祭祀不相踰・宴食衣服有節、則至。又王者淸素則山出白雉、又王者仁聖則見。又周成王時、越裳氏來獻白雉曰。吾聞、國之黃耈曰、久矣無烈風淫雨江海不波溢三年於茲矣、意中國有聖人乎、盍往朝之、故重三譯而至。又晉武帝咸寧元年、見松滋。是卽休祥、可赦天下。」是以白雉使放于園。

白雉元年(西暦650年)正月となる。元号「白雉」についての謂れが引き続いて記載されている。賀正礼は味經宮(阿膩賦)で行われたと言う。「車駕」味經宮から豐碕宮へパレードしたのであろう。二月に、その謂れが記載される。「穴戸國」とくれば、例の関門海峡近辺、勿論、そんな訳はないのだが、その近隣の山で捕獲した「白雉」を献上したと記している。

これは大変良い兆候だと、様々な識者が故事を引き合いに出して進言し、何と元号にしたと言う。百濟君まで登場するのだが、「人質」の解釈を何とかしないと、意味が通じないようであるが、興味薄なのでスルーである。
 
味經宮(阿膩賦)

既に難波長柄豐碕宮の場所と併記したが、あらためて、訓の「阿膩賦」の解釈も合せて紐解いてみよう。味經=尾根を横切る谷間の道の入口で山稜が突き通すように延びるところと紐解いた。「味」の文字は、頻度は高くないが、古事記、書紀を通じて極めて重要な地形を表す文字である。古事記では、山佐知・海佐知毘古の説話に登場する味御路、男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀の味白檮がある。そして書紀の「味經」に通じる。
 
<味經宮(阿膩賦)>
「阿膩賦」は何と読み解けるであろうか?…「阿」=「台地」、「膩」=「油が滲み出た様」、「賦」=「割って与える」と読む。

今までに出現しなかった「膩」は、辞書では「皮膚に滲み出た脂」と解説されている。「膩」=「月+弍+貝」と分解され、貝が二股の舌をそっと出した様ではなかろうか。

纏めると阿膩賦=滲み出た油()のような台地(阿)が割かれて引っ付けられた(賦)ところと読み解ける。「經」の地形の詳細を訓で表現していることになる。

実に精緻に、そして地形に忠実に表現していることが伺える。古事記は太安萬侶…勿論単独ではなかったであろうが…書紀編者達の洗練された文字使いは称賛に価すると思われる。

通説は豐碕宮の周辺に「味」が付いた地名を求めることに尽きる。その文字が表す極めて特徴的な地形を示す場所なのであろうか、古よりそう呼ばれて来た、では済まされないのである。故に何十年、いや、何百年かかっても確たる証拠が見出せない(であろう)考古学に全てを委ねることになるのである。
 
● 穴戸國司草壁連醜經・麻山

「宍戸國司」は書紀編者にしてみたら、してやったりの表記であろう。十中八九に「穴戸」の近隣に比定して来るであろうと読んでいたと思われる。都から遠く離れた地に白雉を見て、縁起が良い、「穴戸國」までヤマト政権の力が及んでいた証、と言うのであろうか・・・詭弁であろう。

既に示した図を再掲する。何度も述べたように「穴戸」は固有の名前ではない。「穴」=「宀+ハ」であり、穴戸=山稜に挟まれた(宀)谷間(ハ)の入口(戸)である。大伴連馬飼に含まれる「司」=「人+口」であり、司=谷間(人)にある隙間のようなところ(口)と読み解いた。頻出だが、あらためて「國」=「囗+或」と分解され、國=ある範囲を区切る様を表す文字である。
 
<穴戸國司草壁連醜經・麻山・白雉>
「穴戸國司」=「穴戸・國・司」に分けると、
穴戸國司=[穴戸]と[司]に挟まれた[國]と読み解ける。これが書紀編者の”してやったり”の”その心”である。

図に示したように金辺川の流れが「穴戸」で入り、「國」を通って「司」で抜ける地形を表している。
勿論、この地は「草壁」=「日下部」の場所である。現地名は田川郡香春町採銅所の宮原である。

「醜經」の二文字は、直近で見かけた文字で、高田醜醜に温まれる醜=酉+鬼=皺が縮んだように小高いところからもやっと山稜が延びているところと読み解いた。

味經宮に含まれる經=山稜が突き通す様である。即ち、凹凸のある山稜が真っ直ぐに延びているところを表している。図に示した「穴戸」の片割れの地形である。ご本人は、この「經」の西側の麓に居たのであろう。「國」の場所には、小字瀬戸と名付けられていたようである。

白雉を捕獲した麻山の麓に当たる場所である。頻出の「麻」=「擦り潰したような様」であり、そんな頂を持つ山と述べている。香春二ノ岳と三ノ岳の間にある尾根の形状そのものであろう。ダラダラっと尾根が繋がっているのではなく、ちゃんと区切られているから感動である。香春一ノ岳の状況を見ると、国土地理院には年代別の地形図が残されているように思うが、今後も、そうあるように願うばかりである。

「瑞鳥」を献上する記事が後の天武天皇・持統天皇紀に頻出するようになる。実はその時に漸く鳥の献上が意味することに気付かされた。それは「鳥の形の地」を献上、即ち「公地」とした物語だったのである。山麓、海辺など未開の地を開拓した事例を鳥の献上として記載している。現在に至るまで全く読み取れていなかったのである。白雉=二つくっ付くように並んだ矢のような鳥と読み解ける。麻山の所在もこれにて確信されることになったと思われる。

甲申、朝庭隊仗如元會儀、左右大臣百官人等爲四列於紫門外。以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時、左右大臣就執輿前頭、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎執輿後頭、置於御座之前。天皇卽召皇太子共執而觀、皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰「公卿百官人等奉賀。陛下以淸平之德治天下之故、爰有白雉自西方出。乃是、陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋。公卿百官及諸百姓等、冀磬忠誠勤將事。」奉賀訖再拜。

甲申(二月十五日)に「白雉」を捧げ祀っての儀式の様子が語れている。やはり元号にするにはお披露目が必要であったのだろう。「大八嶋」勿論日本列島と解釈されるのであろうが、伊邪那岐・伊邪那美の生んだ大八嶋とは異なる。「蝦夷」の地は全くの手付かずの時期に述べるのは矛盾があろう。故に「天下(地上)」と解釈するのだそうだ・・・簡単なことのようである。

三韓の来朝者、ご来賓とでも…国威発揚の場所には欠かせなかったかも、である。「有白雉自西方出」と記されている。「穴戸」を関門海峡にすると「北方」となる。難波長柄豐碕宮が中心の時である。奈良大和から見れば、誤差の範囲かもしれない。ずらっとお歴々が並んでいる。彼らの出自を求めてみよう。一人、極めて興味深い人物が登場する。

● 粟田臣飯蟲・三國公麻呂・三輪君甕穗

粟田臣飯蟲三國公麻呂三輪君甕穗の出自の場所は既に読み解いた。「粟田臣飯蟲」は粟田臣一族で細く短い谷間から幾人もの人材を輩出した地である。現地名は田川郡赤村内田の西端、大任町今任原に隣接するところである。「三國公麻呂」は前記で登場、現地名は北九州市門司区大里であるが、小倉北区と小倉南区の端境を示している。

最後の「三輪君甕穗」は多くの「三輪君」の中で北側に居た君である。現地名は北九州市小倉北区足立、現在は広大な公園となっているところである。舒明天皇紀以降、それぞれの先達が既に登場して来た土地であり、後裔達が順調に天皇家を支える立場になっていたことを告げている。

● 猪名公高見

興味深いと述べた人物名の登場である。関連する情報は「猪名部は木工を専業とした職業部(品部)」程度ある。書紀の中で検索すると…、

①応神天皇紀「當是時、新羅調使共宿武庫、爰於新羅停、忽失火、卽引之及于聚船而多船見焚。由是責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也。初枯野船爲鹽薪燒之日、有餘燼、則奇其不燒而獻之。天皇異以令作琴、其音、鏗鏘而遠聆、是時天皇歌之曰、・・・」

「枯野船」の木材を利用して「琴」を作ったと言う記述は、古事記では仁徳天皇紀に登場する。改竄の匂いがプンプンするところ、当然であってこの地は「淡海」に面する「出雲」であり、その「淡海」を走る舟が枯野號なのである。

更に古事記は”とんでもない”ことを記述していて、出雲にある高い木の影が「淡道」に届き、影の反対側は高安山を越えると言う。これは致命的な記述であって、現在の出雲では到底解釈不能な位置関係を示しているのである。少々の文字変更では抑え切れない有様で、結果上記のような大幅書換えとなった、次第であろう。

②天武天皇紀「是月、大紫韋那公高見、薨」

表記は異なるが、おそらく同一人物のようである。「大紫」であるから大臣並の地位であったのだろう。
 
<猪名公高見>
ここで、この大改竄の箇所に出くわすとは思いもよらず、実のところは、この人物の出自を求めるのにかなりの時間を要したのである。がしかし、上記の記述から、一気に氷解することになった。

木の影が指し示す「高安山」の麓は、大國主神(命)の後裔である葦那陀迦神(八河江比賣)が坐したと推定した場所である。

読んでの通り「猪名公高見(イナ・タカミ)」の名称と読み解ける。おそらく、ほぼヤケクソ気味の表記ではなかろうか。

では、得意のスルー方式も考えられたであろうが、この人物を略するわけには行かなかった。あまりにも記述時期との隔たりが少なく、”大物”として記憶に新しかったのであろう。そして「韋那」と近付けている。

「木工」を生業とすることも判り易いことである。近隣の「土師」と重ねてこの地の重要性、天皇家にとって、職能集団の発祥の地であったことが伺える。そして相変わらずこの地の南西部からは人材が出現しないのである。

ヤケクソ気味と記したが、書紀編者の良心と理解しておこう。読み解けるとは期待されてはいなかったであろうが、その出自の場所を突止めることが可能な表記をしていたのである。当時の官吏は命懸けの仕事をしていたであろう。その中では精一杯の”抵抗”であったように思われる。昨今の為体さ・・・無駄かもしれないが・・・。
 
<紀臣乎麻呂岐太>
● 紀臣乎麻呂岐太

「紀臣」の一族であろう、現地名の豊前市大村辺りで探索すると、図に示したところではなかろうか。

山稜の端が平たく、凹凸が少なくなって地図上では判別が難しくなってはいるが、文字が示す地形を何とか見出せるようである。

「乎」=「+丂」と分解される。この字は「呼」などの構成要素である。即ち「曲ながら分かれ出る様」を表す文字と解説される。魏志倭人伝に登場する卑弥呼などで出現している。

残りの文字は既出であってそれらの組合せで読み解ける。乎麻呂岐太=曲がりながら分かれ出た(乎)[麻呂]の地が広がり延びた山稜(太)と岐れた(岐)ところとなる。

「紀臣」一族は悪いこともするが、それなりに人材を輩出していた地であることが解る。地形を見る限りにおいて、豊かな水田を切り開いていたのであろう。故に元気な一族となっていたと推測される。ところで紀臣(氏)の本拠地は現在の奈良県生駒郡平群町辺りと言われているようである。すると「平群臣(氏)」は?…なるが同族だから近接する居場所となっている。いずれにしても建内宿禰の後裔に関しては、支離滅裂のようである。また、いずれかの時に・・・。
 
<倉臣小屎>
● 伊勢王・倉臣小屎

簡単に「伊勢王」と記載される。これも言わずもがなで理解できる場所なのであろう。

すると古事記で記述される沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の御子、寶王(別名糠代比賣王)であって、この王から「舒明天皇」が誕生する。父親は日子人太子である。皇祖が坐した地の王であろう。

「倉臣小屎」は「蘇賀」の「倉(谷)」の入口辺りと思われる。「屎」=「尸+※(米)」と分解できる。屎=崖下にある米粒のようなところと読み解ける。現地名京都郡苅田町谷に求める地形が見出せる。

「蘇賀」の一族もそれなりに登用していたのであろう。バランスも必要、と言うところであろうか。元号も変え、一新した陣容での船出を煌びやかに飾ったのであろう。更に事の謂れが語られている。

詔曰「聖王出世治天下時、天則應之示其祥瑞。曩者、西土之君周成王世與漢明帝時白雉爰見。我日本國譽田天皇之世白烏樔宮、大鷦鷯帝之時龍馬西見。是、以自古迄今祥瑞時見、以應有德、其類多矣。所謂鳳凰・騏驎・白雉・白烏、若斯鳥獸及于草木有苻應者、皆是天地所生休祥嘉瑞也。夫明聖之君獲斯祥瑞適其宜也、朕惟虛薄何以享斯。蓋此、專由扶翼公卿臣連伴造國造等各盡丹誠奉遵制度之所致也。是故、始於公卿及百官等、以淸白意、敬奉神祇、並受休祥、令榮天下。」又詔曰「四方諸國郡等、由天委付之故、朕總臨而御寓。今我親神祖之所知穴戸國中有此嘉瑞、所以、大赦天下・改元白雉。」仍禁放鷹於穴戸堺、賜公卿大夫以下至于令史、各有差。於是、褒美國司草壁連醜經、授大山、幷大給祿、復穴戸三年調役。

天皇が仰るには聖王が天下を治める時には「祥瑞」(吉兆)が現れるもの、と過去の例が挙げられている。「朕惟虛薄何以享斯」(朕は空虚浅薄にしてどうしてこれを享けるに価しよう)と思う故に、これは全て公卿・臣・連・伴造・國造等の協力があってのことだ、と述べてられる。僭越ながら立派である。

夏四月、新羅遣使貢調。(或本云、是天皇世、高麗・百濟・新羅三國」、毎年遣使貢獻也。)

新羅の調貢のこと、一説には三韓から揃って毎年あったと伝えている。

一大騒動が漸く静まりそうな雰囲気を語ったようである。さて、続きは次回としよう・・・。