2020年5月23日土曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅷ) 〔417〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅷ)


大化三、四年(西暦647,648年)は大過なくの様相であった。難波長柄豐碕宮を造ったにしても難波への投資は半端ではなかったようである。加えて二つの柵(対新羅、蝦夷ではない)を設けるなど将来への布石の時であったと思われる。年が明けて大化五年(西暦649年)へと続く。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

五年春正月丙午朔、賀正焉。二月、制冠十九階。一曰大織、二曰小織、三曰大繡、四曰小繡、五曰大紫、六曰小紫、七曰大花上、八曰大花下、九曰小花上、十曰小花下、十一曰大山上、十二曰大山下、十三曰小山上、十四曰小山下、十五曰大乙上、十六曰大乙下、十七曰小乙上、十八曰小乙下、十九曰立身。是月、詔博士高向玄理與釋僧旻、置八省百官。

正月に賀正をして冠位を改め、十九階に増やしたと記している。最後の「建武」はその主旨を明確にするためであろうか「立身」となっている。また、二人の博士、高向玄理と釋僧旻に八省と百官を定めさせたとのことである。官吏は細分化され、そのぞれの役割分担がはっきりとして来たのであろう・・・という状況の中で事件が発生する。

三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。戊辰、蘇我臣日向(日向字身刺)譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。皇太子信之。天皇、使大伴狛連・三國麻呂公・穗積嚙臣於蘇我倉山田麻呂大臣所而問反之虛實。大臣答曰、被問之報僕面當陳天皇之所。天皇、更遣三國麻呂公・穗積嚙臣審其反狀、麻呂大臣亦如前答。天皇乃將興軍、圍大臣宅。大臣乃將二子法師與赤猪(更名秦)、自茅渟道逃向於倭國境。大臣長子興志、先是在倭(謂在山田之家)營造其寺。今忽聞父逃來之事、迎於今來大槻近、就前行入寺。顧謂大臣曰、興志請、自直進逆拒來軍。大臣不許焉。是夜、興志意欲燒宮、猶聚士卒(宮謂小墾田宮)。

己巳、大臣謂長子興志曰、汝愛身乎。興志對曰、不愛也。大臣、仍陳說於山田寺衆僧及長子興志與數十人曰。夫爲人臣者安構逆於君、何失孝於父。凡此伽藍者元非自身故造、奉爲天皇誓作。今我見譖身刺而恐横誅、聊望、黃泉尚懷忠退。所以來寺、使易終時。言畢、開佛殿之戸、仰而發誓曰、願我生々世々不怨君王。誓訖、自經而死。妻子殉死者八。是日、以大伴狛連與蘇我日向臣爲將領衆、使追大臣。將軍大伴連等及到黑山土師連身・采女臣使主麻呂、從山田寺馳來告曰、蘇我大臣既與三男一女倶自經死。由是、將軍等從丹比坂歸。

三月の半ばになって阿倍大臣が亡くなり、天皇は大変悲しみ、また全ての公卿が葬儀に参列したと記載されている。その一週間ばかり後に蘇我日向(身刺、身狹)が、もう一人の倉山田大臣が皇太子を殺害しようとしていると嘘の密告をしたと告げている。それを信じた中大兄皇太子が即座に行動を起こすのである。何とも簡単な動機付けであろうか。

その後の顛末の粗筋を述べると・・・天皇は三名の使者を大臣の許に送って事の真相を訊ねようとしたが、大臣は天皇直々に話すと言って取合わなかった。再度の使者にも同じ対応で、天皇は軍を差し向けることになった。一方の大臣は直々にお目通り叶わぬようだからと、全てを察して逃亡することにし、倭国国境を越えようとしたところで長男がそれを止めた、と記載されている。

結局、元の場所にある寺に戻って、従者諸共に自害することになる。ここで戦っては謀反人になる、と言ったという。何とも呆気ない最後であるが、深読みすれば様々に語ることができるようであるが、中大兄皇太子の奸計のようであろう。倉山田大臣の娘達は皇統に絡んで行く。かつての蘇我一族が再現されるとも限らない状況であったと思われる。

いずれにせよ「蘇賀」で興隆した一族が歴史の表舞台から、天皇の血統に深く関わりながら、引き下がる切っ掛けとなった事件である。「公地公民」を唱える新体制、群雄割拠に豪族達への見せしめ的な要素も含んだ、一枚岩の体制へと歩む天皇家と思われる。

多くの登場人物、地名が記されている。本事件の現場検証を行ってみよう。通説の解釈では矛盾だらけ、のように思われるのだが・・・。先ずは登場人物の出自の場所を求めておこう。

● 蘇我臣日向(身刺)

倉山田大臣の異母兄弟と知られる。その出自の場所は、大臣の谷間を更に奥に進んだ、山背大兄皇子の場所に隣接する地と推定した。既に蘇我(日向)身狹臣として登場済みである。「字」の漢字表記が微妙に異なっていることが判る。
 
<蘇我臣(日向)身刺>
これらを纏めて読み解いてみよう。「身」=「弓+矢」を合せた文字で、身=弓状の形を表すと読み解いた。変えられているのが「狹」→「刺」である。

「狹」=「犬+夾」と分解して、狹=平らな頂の麓で山稜に挟まれた様と紐解いた。「狭い」と解釈しても何とか辿り着けるのであるが、「狭い」とする基準が曖昧であろう。

「刺」=「朿+刀」と分解される。「朿」=「棘」であり、刺=刀のような尖った棘のような様と読み解ける。図に示した場所に山稜から突き出た「棘」のような地形が見出せる。

おそらくこの「棘」の先端辺りが居場所であったと思われる。南は異母兄弟の倉山田麻呂大臣がしっかりと根を下ろし、東~北は犬上一族が広大な棚田とした地であり、その狭間で鬱積した日々を送っていたのではなかろうか。

古事記で大国主命の出自の場所を刺國と記載される。「棘」の形をした島、現在の福岡市西区にある小呂島と推定した。木(山稜)から突き出た「棘」ではなく、「棘」そのものの形を用いた表記である。併せて「日向」は竺紫日向で登場し、日向=炎のような山稜(日)が北に向かって延びている(向)ところと紐解いた。

「身狹」、「身刺」、「日向」の表記は、この臣の出自の場所の特徴を明確にしている。物語上は敵役なのだが、貴重な地形に関する情報を提供しているのである。不幸な生立ちであった、としておこう。使者三名、全て初登場である。
 
<大伴狛連>
● 大伴狛連

頻出の「大伴」の中で「狛」の地を求めることになる。「狛」は狛犬で使われる文字なのであるが、先ずは文字解釈を行う。

「狛」=「犬+白」と分解される。「白」は団栗の形を象った文字なのであるが、その色から展開した意味が重要である。

古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀で登場した青雲之白肩津の例を挙げておこう。「白」=「くっ付いて並ぶ様」と読み解いた。

余談だが・・・「狛犬」は朝鮮半島の高麗から伝わったことに由来する、と言うのが定説とのことである。「白」=「くっ付く、せまる(迫)」の解釈からの解説は見当たらないようである。「二頭がくっ付いて並ぶ、迫っている犬」と読めるのだが・・・。

元に戻って、すると狛=平らな頂の山稜の端(犬)がくっ付いている(白)ところと読み解ける。長く延びた山稜の端の平坦になったところが近接しているところを示している。狛犬と同じく、谷間の入口に当たると思われる。

図に示した場所、ここまで「大伴」と表現しているようである。これ以上の登場はご遠慮願いたいのであるが果たしてどうなることやら・・・。
 
<三國麻呂公>

● 三國麻呂公
 
通説では全くコメントされない「三國」なのであるが、舒明天皇紀に簡単に三國王として登場していた。

「麻呂公」と付記されている。詳細になっているのであるが、図に示したように、尾根に限りなく近接する谷間に、「公」=「ハ+ム(段差)」と分解して、公=谷間にある段になったところが見出せる。

その地形が「麻呂」と告げていると読み解ける。現在は登山道も通っていないような感じであるが、尾根近くの狭い谷間にあるなだらかな場所と思われる。

尚、現在の行政区分を図に示したが、北九州市小倉北区、小倉南区、門司区の分岐点になっていることが分かる。山名の富野山は小倉北区の麓の地名に因むものであろう。「記紀」の「國境」が現在の行政区分と重なる例に度々出くわすが、これも重要な”史実”として捉えたいものである。
 
<穂積嚙臣>
● 穗積嚙臣

古事記では、とっくの昔に歴史の表舞台から引き下がった筈の「穂積臣」がそれなりに登場する。邇藝速日命一族として有能な人材輩出の地であったようである。

「嚙」=「口+齒」と分解される。古事記で大雀命(仁徳天皇)紀に丸邇臣口子と記載される。「丸邇一族」が「穂積一族」の地を席捲した後のことである。

やはり元来の「穂積」を名乗っていたことを告げていると推察される。この地も現在の行政区分と重なって実に興味深いところである(香春町と赤村内田)。

「三國麻呂公」と「穗積嚙臣」は、二度も倉山田大臣の許に出向かされたわけである。下っ端では、なかなか上位者の説得は叶わなかったのであろう。そして予期せぬ方向に、いや、筋書き通りに大事に至るのである。
 
法師・赤猪(秦)・大臣長子興志

次男、三男の「法師」と「赤緒」の出自の場所は既に読み解いたこちらを参照。倉山田大臣の地に因む命名である。長子「興志」の出自の場所を求めていなかった。長男らしく早速行動を起こすのであるが、彼の居場所は重要な意味を持っている筈である。
 

<興志>

「興志」の興=多くの山稜に挟まれた筒型の谷間と読み解いた。法興寺で用いられた文字である。その谷間は容易に見出せる。

「蘇我」の特徴ある志=蛇行する川(之)が流れる谷間、おそらく住まっていたのはその出口辺りかと思われる。西の蘇我一族が東に出没することは珍しかったのではなかろうか。

乙巳の変が起こる前としたら、こんな交流もあったであろうし、山背大兄皇子の件でも、蝦夷大臣に真面には逆らえず、留保の態度を取り続けた父親倉山田大臣の気持ちも察しが付くようである。

ひょっとしたら人質だった?…ともかくも蘇賀の東西は決して融和な雰囲気ではなかったことの証であろう。彼は父親に合流して共に戦うよう説得するつもりで「今來大槻」で出迎えたと記されている。
 
茅渟道・今來大槻

倉山田大臣は二人の息子と共に逃亡した。その行程に登場するのが「茅渟道」と「今來大槻」と記載されている。目指したのは「倭國境」である。「茅渟」は既出で、茅渟王で用いられていた名称である。茅渟=水溜り(渟)の傍で[矛]が並んだ(茅)ようなところと読み解いた。「渟」は前記の渟足柵渟中倉太珠敷(敏達)天皇など書紀では多用されている。

この特徴的な地形は簡単に見出せる。既に読み解いた大伴鯨連の出自に関わる、その魚の尾鰭が示す場所である。当時の「渟」の地形とは異なるであろうが、山稜の基本的な様子には変わりはないと推測される。現地名は京都郡苅田町山口である。「茅渟王」との類似性は極めて高いものと思われる。

すると逃亡行程の最初の場所が浮かんで来る。大臣の家から少し北側、白山多賀神社の先の谷間を下るルートであろう。二人の息子の名前「法師・赤尾(別名秦)」が記載されるのは、彼らの居場所を通過するからと気付かされる。「秦」は谷間の麓までを含めた名称である。大臣になって「石川」が付加される。正にその川の上流近辺、蘇我の西部一帯を統治するかのような状況であったと告げている。

「大伴」の脇をすり抜け、更に「茅渟」の縁にある曲りくねった沼の畔を逃げ、辿り着いたのが「今來大槻」と記載される。「今來」は既出で、蝦夷大臣が息子の入鹿臣と大陵・小陵の墓所を造った地名(現地名は田川郡福智町弁城)であった。

倉山田大臣が居場所の現地名は京都郡苅田町本谷であり、いきなり田川郡福智町に飛んでしまうことになる。ではこの「今來」は別の場所を示す?…大事なことは地名と読み取れる表記は、勿論地形象形である。「今來」の地形、そしてこれに続く「大槻」の文字が示す場所を表していると解釈する。
 
<茅渟道・今來大槻>
今一度「今來」の解釈を述べると、「今」=「亼+一」と分解すると、地形象形的には、「今」=「蓋をするように覆い被さる様」と解釈される。

すると今來=覆い被さるように山稜が広がり延びているところと読み解ける。

それが「大槻」と述べているのである。「槻」=「木(山稜)+規」と分解される。更に「規」の原字は「䂓」であり、「䂓」=「矢+見」と分解される。「丸く描く様」(コンパス)を表す文字と解説される。

地形象形的にはそのまま用いて、大槻=平らな頂の山稜の麓が小高く丸くなっているところと読み解ける。その地の場所を図に示した。そして逃亡行程を推測すると図の二重破線のようであったと思われる。「山田之家」から奥の谷間を駆け下り、「大伴」の谷間を下って「茅渟道」に入る。曲りくねりながら進むと「今來大槻」の麓に着く。そこが「興志」と出会った地である。

ここから東北に駆け上れば「倭國境」を経て「三野國」(古事記表記、または神武天皇の熊野村)へ抜けることができる山麓である。神武天皇の時代とは異なるであろうが、やはり越え難い境だったであろう。「興志」はこの地のほぼ真南に当たる場所である。一早く父親に出合うには適切であったと思われる。
 
<黒山・丹比坂>
父親を説得して本拠地で戦うつもりであったが、父は拒んだと述べている。「倉山田」に戻るには2~3km、山道だから1~2時間を要したと推定される。

結局「山田寺」で自害することになった。親子、妻子の殉死者八名と記されている。現在の東伝寺辺りと推定される。勿論痕跡も残されてはいないであろう。

「興志」は小墾田宮を襲おうかと思ったと言うのは、やはり蘇我一族(蘇賀東部)の連中が許せなかった。一方にしてみれば入鹿臣を惨殺された遺恨もある。

そうして見ると蘇我一族の確執に付け込んだ中大兄皇太子(多分、中臣鎌子連も)の奸計の様相を示しているようである
 
黒山・丹比坂

攻め手の軍の行動について記されている。正面から攻めようとした行程であろう。「倉山田」に向かう道筋が示されている。「黑」=「囗+※(米)+灬(炎)」と分解される。

黑=稲作の田が[炎]の麓にあるところとなる。古事記に幾度か登場する文字である。仁徳天皇紀の黑比賣の例を示しておこう。すると倉山田大臣の娘の一人、遠智娘(天智天皇に嫁ぎ、持統天皇を生む)の場所に重なる場所と解る。

既出の丹=谷間から山稜が生え出た様と読んだ。それらが並んだ様(比)を表している。図中に稜線を辿る山道が、完全に繋がってはいないが見受けられる。麓の谷から向かうと黒山の南麓に届く。勿論この道が、現在は車道になって異なる経路で通じているが、表道であろう。
 
<土師連身/八手>
將軍の大伴連等が黑山に至った時に、山田寺の状況を偵察した「土師連身・采女臣使主麻呂」が既に事は決したことを告げて、将軍等は引き揚げたと記載されている。


● 土師連身

「土師」の地で「身」の地形を探すと、上記とは異なって「身」=「ふっくらとした腹の様」と読む。図に示した山稜の形を表していると思われる。

弓状の解釈は横から、「ふっくらとした腹」は正面から見た形となろう。「身」もそれなりに使い勝手が良いように思われる。故に多用されるのであろう。

また、後に「土師連八手」が登場する。八手=手のような山稜の前で山稜が二つに岐れているところと読み解ける。「土師連身」の西側と推定される。現地名は北九州市門司区松崎町である。

● 采女臣使主麻呂
<采女臣使主麻呂>

「采女」の地にも多くの登場人物があったが、果たして何処に居たのであろうか?…「使」=「人+吏」と分解される。

更に「吏」=「史+一」=「中+手+一」と分解すると、頻出の文字要素から成ることが解る。吏=延びる山稜を真ん中で一つに纏めた様と読み解ける。

「主」=「灯火が真っ直ぐに上に延びる様」を象った文字と知られる。勿論古事記には頻出の文字である。

すると使主=山稜を真ん中で纏めてその先に延びた山稜を表していると読み解ける。

「麻呂」である以上、出自の場所は現在の八旗八幡宮(北九州市小倉南区長尾)のある小高いところの麓辺りではなかろうか。「采女」もほぼ埋まったのではなかろうか・・・。

この地は古事記の倭建命が伊服岐能山の神様に惑わされて、すっかり体力消耗の状態となって身体が「三重」になったと仰った地である。「使主」の文字が表す「三重」である。現在は三重県四日市市采女町に名前を残しているのだが、如何なものであろうか・・・。

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さて、この逃亡から自害に至る行程について、通説は殆ど解釈不能の状態のように思われる。この行程における重要な地(現地名で表記)は・・・①倉山田大臣の居場所:大阪府南河内郡 ②茅渟道:殆どが無視、一般に「太子町春日~堺市美原区平尾・黒山~堺市東区日置荘・関茶屋~和泉」と言われるが、「茅渟」の意味への言及はなしのようである。③今來大槻:橿原市、奈良県高市郡などで殆ど不詳の様相。④山田寺:桜井市山田、これは確定的な表現となっている。

通説の詳細を把握してはいないので、致命的なことのみを述べるが、どうやら倉山田大臣の最後は山田寺で決まりだから、大臣の逃亡はこの寺に向かっている筈と言う解釈のようである。逃亡する際に南河内から明日香村(飛鳥)を通り過ぎて、その東隣の桜井市に向かうことはあり得ないであろう。

書紀の表現も恣意的に曖昧な「倭國境」としている故に、河内から倭に向かったように読まれている。それに乗っかったのである。逃亡とはその国から遠ざかることであろう。「茅渟道」が上記ならば、それに沿って和泉に逃げた、これは理解できるところである。ならば「山田寺」は?…黒山の近隣の筈だが、不詳のようである。「山田寺」を桜井市に置けば、黒山・丹比坂などの解釈が不可欠であるが、これも難しいようである。

書紀編者が試みた高度な暈し手法など必要なかったと言える。そのまま記述しても全く問題なく取り違えた解釈で済まされたであろう。悲しいかな、これが日本の古代史の現状である。 

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上記のように一旦逃亡してから戻って寺で自害するパターンは山背大兄皇子と全く同じに映る。一旦、膽駒山に逃げ、そして戻って元の場所、斑鳩寺で自決する。追い詰められたら寺で自決が好まれる時代であったのか・・・と軽々しく述べる場合ではなかろうが、追い詰められる側の逡巡を表すような記述である。事の真相を知る術はないが、ある程度の脚色がなされていることも容易に推察されるところである。

行きつ戻りつの記述の中で自害するには勿体ないほどの人物であったと記述し、勝者はそれを認めつつ、完膚なきまでに己の立場を貫く、歴史を後から纏めればいつの時代も変わらぬ結末と言えるのであろう。それにしても古事記で記載された「蘇賀」で誕生した人々、それに続く書紀での登場人物、実に凄まじいばかりである。

事後処理が記載される。何とも悲しい出来事である。

庚午、山田大臣之妻子及隨身者、自經死者衆。穗積臣嚙、捉聚大臣伴黨、田口臣筑紫等、着枷反縛。是夕、木臣麻呂・蘇我臣日向・穗積臣嚙、以軍圍寺。喚物部二田造鹽、使斬大臣之頭。於是、二田鹽仍拔大刀、刺舉其宍、叱咤啼叫而始斬之。甲戌、坐蘇我山田大臣而被戮者、田口臣筑紫・耳梨道德・高田醜醜(此云之渠雄)・額田部湯坐連(闕名)秦吾寺等、凡十四人。被絞者九人、被流者十五人。

倉山田大臣の仲間(伴黨:黨は党の旧字体)が連座する。取り締まる側の人物に「穗積臣嚙」、木臣麻呂」、そして仕掛けた「蘇我臣日向」が記載されている。また斬首役であろうか、「物部二田造鹽」が当てられている。連座したのは「田口臣筑紫」、「耳梨道德」、「高田醜醜」、「額田部湯坐連秦吾寺」等、およそ十四人と記されている。

「穗積臣嚙」、「蘇我臣日向」は上記で述べた。「額田部湯坐連(闕名)秦吾寺」は額田部連甥の場所に、「田口臣筑紫」は蘇我田口臣川掘の場所に各々併記した。それ以外の初登場の人物の出自の場所を求めてみよう。
 
<木臣麻呂>
● 木臣麻呂
 
書紀で「木臣」が出現するのは、ただの一度である。地名としての「木國」は登場しないのである。古事記で頻出の場所であるが、全く取扱い方が異なるようである。

書紀の全体を読み下していない現状では、更なる考察は控えたく思うが、建内宿禰及び後裔に関わるところである。

そんな背景ではあるが、「木臣麻呂」の名称は、現地名の築上郡上毛町の広々とした台地にある特徴的な「麻呂」を示しているのであろう。

居場所はその南西麓の谷間と推定される。現地名は築上郡上毛町大ノ瀬・八ツ並・吉岡が隣り合っている。後代の一時期には官吏が居た場所だったようである。

<物部二田造鹽>
● 物部二田造鹽
 
「物部」一族である。珍しく「造」が付く。とすると、山側の場所と思われるが、それだけでは多くの山際を探す羽目になるので、続く文字列を読んでみよう。

海辺ではないので、「鹽」=「鏡のように平らな様」と読むことにする。前記の鹽屋鯯魚にも使われていた。該当する地形があれば、なかなか使い勝手の良い文字である。

「二田」はそれが二つ並んでいる様を告げていると思われる。思惑通りの地形が見出せる。「物部」の大きな谷間の最北部、蛇行する川で平らな田が二つに仕切られているところと推定される。

「造」はその居場所を示し、谷間が二つに分かれる麓と解る。物部一族の役割は明確で、「殺し」の場面である。邇藝速日命の後裔であり、石上神宮を祭祀した一族と知られる。古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)紀に隼人を近飛鳥で殺害して遠飛鳥(石上神宮)で禊祓をすると言う説話が記載されている。死者の怨念を祓う術を持った一族とされたのかもしれない。

<耳梨道德>
● 耳梨道德
 
何の修飾もなく表記されるから「飛鳥」の近隣で探索する、がこれは「耳成山」に関連するのでは?…と気付く。

香春二ノ岳の東麓辺りを見回すと、「耳」に形の山肌の模様が見出せる。「梨」=「利*木」と分解できる。「利」=「切り離された様」と読んだ。前記の紀麻利耆拕臣などに含まれていた文字である。

耳梨=耳の形に山稜が切り離された様と読み解ける。「道」=「辶+首」と分解され、「首」=「首のように凹んだ様」を表す。これは頻出の文字である。

「德」も書紀では頻度高く出現し、「四角く真っ直ぐに広がった様」を表すと読み解いた。巨勢臣德太(陀)などで用いられていた。道德=首の形の地にある四角く真っ直ぐに広がったところと紐解ける。

現在の大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)の「耳成山」の由来となるのであろう。万葉集の中大兄皇子の歌(香具山・畝火山・耳梨山)に求めるなら、紛うことなく現在の香春一ノ岳(畝傍山)・二ノ岳(耳成山)・三ノ岳(香具山)となる。「香具山」、「畝火山」については後日に詳細を述べる機会があると思われるが、「畝火」=「畝のような火の形」であって、今は見る影もない往時の香春一ノ岳の姿を表していると思われる。「飛鳥」の姿である。
 
<在りし日の香春岳>

現在の「耳成山」の山容から「耳(飛び出たところ)が無い」(目も、口もないとのこと)だとか・・・何とも哀しい山となっているが、香春二ノ岳が「耳梨」に関わることは明確になったようである。書紀には「耳梨」が二度登場する。推古天皇紀に耳梨行宮と記載されているが、図に示した二寺のどちらかだったのではなかろうか。

● 高田醜醜(之渠雄)
 
古事記風の命名であろう。さしずめ古事記では「色許男」と記されるが・・・勿論地形が異なるので用いることは不可である。それはともかく、ありふれた「高田」は、このままでは如何ともし難い名称である。書紀の中では「高田」と言えば特定される場所なのであろう。

検索すると、継体天皇紀に「尾張連草香女曰目子媛更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣國排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣國排盾尊」と記載されている。対応する古事記の記述は「娶尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女、生御子、廣國押建金日命、次建小廣國押楯命」である。「建小廣國押楯命」の別名に「檜隈高田皇子」があったと解る。

檜隈」の文字は、些か曲折があるようで既に「吉備嶋皇祖母命:檀弓岡」のところで述べたが、簡略に述べると古事記の「檜坰」を別の場所を示すように改竄したところである。皇統に関わる重要な欽明天皇の墓所が消失したからであろう。それらしき類似の地形で「高田」が選ばれたのである。

そんな訳で、「高田」と言えば、ピンと来る状況だったと思われる。前置きが長くなったが、極めて重要な場所なのである。「醜」=「酉+鬼」と分解される。「酉」は「酒」にも含まれ「縮む様」を表す文字と解説される。「鬼」=「〇+ム」の要素からから成る文字で、地形象形的には「丸く小高いところからもやもやと山稜が延びる様」と読み解ける。これも幾度か出現するもじである。
 
<高田醜醜(之渠雄)・高田首根麻呂(八掬脛)>
纏めると醜=皺が縮んだように小高いところからもやっと山稜が延びているところと紐解ける。それが二つあるから「醜醜」なのである。


そもそも高=皺が寄ったような様である。幾つにも重ねて、あるいは、「高」の字が読めなかった場合も含めて、表記したのであろう。訓は具体的である。

之=蛇行する川渠=水辺で[巨]字形に山稜が並んだ様雄=厷+隹=羽を広げた鳥の形と読み解ける。全て既出の文字である。

「醜」も併せて、これらを満たす地形の場所が特定される。古事記の「建小廣國押楯命」の近隣であり、「尾張連之祖凡連」の場所である。現地名は小倉南区横代・長野である。「高田醜醜」の居場所は、最も上流部の小高い地の麓辺りではなかろうか。

勿論、書紀の方が分り易く、精緻である。尚、後に登場する高田首根麻呂(更名八掬脛)も併記した。「根」は通常「長く延びた幾つもの山稜が並んでいる様」を表すと解釈する。少々地形の変形があるが、図に示した場所辺りと思われる。

更名が実に的確な地形象形表記であろう。八=谷間が大きく開いている様掬=手+匊=山稜が丸く中心に集まっている様脛=月+坙=三日月形の山稜の端が突き通すように延びている様と解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。その突き通す場所が首=首の付け根のように窪んでいる様となっている(現在は池)。いや~、何とも凄い表記である。

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こうもあっさりと処罰及びその対象者が述べられるとは、既に発覚済みのことのように思われる。田口臣筑紫は、近隣の地を好き勝手にした蘇我蝦夷大臣への恨みの反動で倉山田大臣との距離が近かったようにも思われる。殺伐たる情景に、更に後日談が付け加えられる。

是月、遣使者收山田大臣資財。資財之中、於好書上題皇太子書、於重寶上題皇太子物。使者還申所收之狀、皇太子始知大臣心猶貞淨、追生悔恥、哀歎難休。卽拜日向臣於筑紫大宰帥。世人相謂之曰、是隱流乎。皇太子妃蘇我造媛、聞父大臣爲鹽所斬、傷心痛惋、惡聞鹽名。所以、近侍於造媛者、諱稱鹽名改曰堅鹽。造媛、遂因傷心而致死焉。皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。於是、野中川原史滿、進而奉歌。歌曰、
耶麻鵝播爾 烏志賦拕都威底 陀虞毗預倶 陀虞陛屢伊慕乎 多例柯威爾雞武 其一
模騰渠等爾 婆那播左該騰摸 那爾騰柯母 于都倶之伊母我 磨陀左枳涅渠農 其二
皇太子、慨然頽歎、褒美曰、善矣悲矣。乃授御琴而使唱。賜絹四匹・布廿端・綿二褁。

倉山田大臣の遺物を中大兄皇太子が収得したと記述している。冤罪であったと知った訳だが、名誉回復もせず、蘇我日向臣の処置も島流しのような雰囲気を示すのみで具体的な刑罰は記載されない。堪らないのは大臣の娘である蘇我造媛(遠智娘)であり、思い悩んだ末に亡くなってしまったとのことである。中大兄皇太子(影の中臣鎌子連)の奸計と、憚りなく述べているのである。

筑紫大宰帥ついては既に前記した。帥=段になった旗印のような様、居場所の地形を表す表記である。「筑紫大宰」は遠国への船が発着するところ、その船に乗せたようなそぶり、したたかである。
 
<蘇我造媛>
蘇我造媛

さて「蘇我造媛」は倉山田大臣の遠智娘であるが、別名表記となっている。調べると他にもいくつかの名前が付けられている。纏めて読み解いてみた。

「造」は頻出であり、「牛」の古文字の形を表すところと読み解いた。それを探すと「鏃」の西側の谷間がその地形を示していることが解る。

これによって、「造媛」の詳細な出自の場所が、その「牛」の根本辺りであることが導かれたのである。周辺では地形的に最も適した場所であると思われる。

「越智」の「越」=「足+戉」と分解される。即ち「越」=「鉞の形」を表していると解釈する。越智=鉞の地に鏃と炎の地形があるところと読み解ける。これも納得の表記と思われる。最後の「美濃津子娘」を紐解いてみよう。

「美」は古事記頻出の文字で、「美」=「羊+大」と分解される。「羊」は前記の「養」に含まれ、「山稜に挟まれた谷間」を表すと読み解いた。「大」=「広がる様」とすれば、美=谷間が広がったところと紐解ける。

「濃」は前記の信濃に含まれて、濃=舌を出した二枚貝のような様と読み解いた。それが「津」(集まる)ところから生え出た様「子」と解釈される。それぞれ「遠智娘」の地形を別角度から眺めた表現であることが解る。天智天皇との間に「鸕野讃良皇女(後の持統天皇)」を誕生させる。時代の変曲点の中心近くに佇まっていた女性である。
 
<野中川原史滿>
● 野中川原史滿

歌を献上したと記載されている。調べると「丹比野」に関わる人物と判った。古事記では「多遲比野」である。

「史」=「中+又(手)」であり、史=真ん中を山稜が延びる様を表すと読んだ。「滿」は「太鼓に革を張った様」を象った文字と知られる。滿=平らに広がった様と読み解く。

すると図に示した広がる川原のど真ん中を山稜が延びているところが見出せる。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保の図師である。

特徴的な地形なのだが、今まで全く登場しなかった場所である。まだまだ、未記載の地が残っているようである。歌の解釈は参照したものである・・・、

<其一>山川に鴛鴦二つ居て偶ひよく偶へる妹を誰か率にけむ
【通釈】山中の川に、オシドリが二羽並んで泳いでいるように、仲良く私と寄り添っていた造媛(みやつこひめ)を、誰が連れ去ってしまったのか。

<其二>本毎に花は咲けども何とかも愛し妹がまた咲き出来ぬ
【通釈】草木を眺めれば、ひと株ごとに花は咲いているのに、どうしていとしい妻は二度と咲いて来ないのか。

・・・という訳で、今回は悲しい事件の顛末であった・・・。