2020年5月20日水曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅶ) 〔416〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅶ)


「公地公民」の主旨を徹底させるために大変苦労された様子が記述されて来た。様々な反発が発生するもの至極当然であって、汗水たらして切り開いた土地を取上げられたような気持になるのは致し方がないところであろう。馬泥棒、また刀の紛失などが大罪と記述されていた。馬、刀が重要なものであったことを示している。

さて、年が明けて大化三年(西暦647年)の記述である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

三年春正月戊子朔壬寅、射於朝庭。是日、高麗・新羅、並遣使貢獻調賦。

夏四月丁巳朔壬午、詔曰。惟神(惟神者、謂隨神道。亦謂自有神道也、)我子應治故寄。是以、與天地之初、君臨之國也。自始治國皇祖之時、天下大同、都無彼此者也。既而頃者、始於神名・天皇名々、或別爲臣連之氏、或別爲造等之色。由是、率土民心、固執彼此、深生我汝、各守名々。又拙弱臣連伴造國造、以彼爲姓神名王名、逐自心之所歸、妄付前々處々(前々、猶謂人々也。)。爰以神名王名、爲人賂物之故、入他奴婢穢汚淸名、遂卽民心不整、國政難治。是故、今者、隨在天神屬可治平之運、使悟斯等而將治國治民。是先是後、今日明日、次而續詔。然素頼天皇聖化而習舊俗之民、未詔之間、必當難待。故、始於皇子群臣及諸百姓、將賜庸調。

神名・天皇名から始まって臣・連の「氏」、「造」等の「色」の名称が付けられ、そしてそれが下々にまで広がったと記している。ところが勝手気儘に付けると混乱が生じて国政までに影響が及ぶと懸念され、対策を講じようとしているが、具体的なことは述べられていないようである。

曖昧な表現となっているのは、「名前」の付け方に及んでは拙かったのであろう。「臣」、「連」を「氏」と記しているが、これも地形象形した名称であることを述べて来た。それを曝すことはできなかったであろう。直近の例では、古人皇子→古人大兄皇子→古人大市皇子→吉野太子の変遷は間違いなく居場所(及び領地)の変遷を物語っている。

古事記はぶっきらぼうに記し、書紀は微に入り細に入りであるが、それでも名称は地形に基づく表記と思われる。勿論、「淡海」に関わるところは、その法則を無視するのである。「是先是後、今日明日」と悩ましい表現は編者達の心根を吐露したものであろう。

是歲、壞小郡而營宮。天皇、處小郡宮而定禮法、其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再拜、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、聽鍾而罷。其擊鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。
工人大山位倭漢直荒田井比羅夫、誤穿溝瀆控引難波、而改穿疲勞百姓。爰有上䟽切諫者。天皇詔曰、妄聽比羅夫所詐而空穿瀆、朕之過也。卽日罷役。
 
<難波小郡宮>
難波大郡の南側にあった「小郡」の館を宮に作り替えたと述べている。礼法を定めて、「寅(午前四時)」に集まって日の出を見てから執務に取り掛かれ、遅れたら入門は不可、そして「午(正午十二時)」帰れ、とのことである。

太陽が昇っているいる間が行動の時間で、正午を過ぎたら自らの生活のことをする時間が必要だったとすると、こんな勤務時間になるのかもしれない。

図に纏めて関連する場所を示した。来客歓迎用の施設から宮にして、難波津の監視をより強固にしたものと推察される。

難波長柄豐碕宮の東方の国防施設の一貫であろう。日の出を見ろとは、東にある難波津の港を注意しろ、と言っているのかもしれない。前記したように各宮はその目的を持って造られたと思われるが、通説は宮の場所が定まらず、従って天皇は難波長柄豐碕宮が出来上がるまで、あちらこちらを彷徨された、かのような解釈である。

着船したと推定される場所の地形をあらためて見ると、現在の標高約6m以下で半円状に抉られたようになっている。当時の海面高さからするとここが港としての機能を果たしたのではなかろうか。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に豐國宇沙が登場する。「宇」=「山麓」と簡略に訳したが、「宇」=「半円状になっている山麓」である。天然の港であったことが解る。

倭漢直荒田井比羅夫の出自の場所については既に読み解いた。水田灌漑用の溝を間違えて造ったとのことであるが、「豐碕宮」の近隣かもしれない。「難波」に引いたとは、海水の逆流が発生したのであろうか。天皇の命令でしたこと、責められるべきは「朕」と仰っている。確かに・・・だが、普通には言えない、かも・・・。

冬十月甲寅朔甲子、天皇幸有間温湯、左右大臣群卿大夫從焉。十二月晦、天皇還自温湯而停武庫行宮(武庫、地名也。)是日、災皇太子宮。時人、大驚怪。

有間温湯は既出、それにしても歴代の天皇がよくお出掛けになる場所、何かを潜めた記述なのか?…決して温泉三昧ではないのだが・・・帰りに「武庫行宮」に立寄られたと記載されている。
 
武庫行宮

さて、この行宮は何処にあったのであろうか?…通説は、残存地名に拠って簡単に比定されている、のではなく、諸説あって定まらずの様相と思われる。それはともかく有間温湯からの帰りと書かれていることも念頭に探索してみよう。先ずは、文字解釈から・・・。
 
<武庫行宮>
「武」=「戈(矛)+止(足)」と分解される。「矛を持って進む様」を表すと解説されている。地形象形的にはそのまま
武=[矛]の地形と読み解く。

「庫」=「广+車」と分解すると、庫=山麓が延びて連なった様を表すと読み解ける。「車」=「転がり延びる様」を示し、頻出の「連」の解釈そのものである。実は地形象形表記としては、かなり”初歩的”な用法なのである。

それ地形を求めると、行橋市にある矢留山の北陵が延びた形を「武」と、その北麓が更に延びたところを「庫」と見做した表記であることが解る。

どこまで延びるかは、図を拡大すると明瞭に判別されるのであるが、当時は、その先は海(汽水域)であったと推測される。現地名は行橋市流末となっていて、川(犀川)の川尻を示している。

簡明な表記で、正確に地形を表している好例であろう。因みに書紀の応神天皇紀に「武庫水門」が記載されている。

「武庫行宮」の南西側は大きな湾状の地形を示し、五百隻もの船を集められた場所と推定される。即ち「武庫」の地は内陸部ではないことを告げているのである。
 
<有間温湯宮→武庫行宮→小郡宮>

有間温湯宮を出て西に向かうと、大河祓川に出合う。古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する久須婆之度(渡し)があった場所である。実に都合よくできている。更に西に向かえば武庫行宮に到着する筈である。ただ、ここは「吉士」の地であって、数多くの渡渉を伴う行程であり、東西間の移動は梅雨時には大変だったかも?…である。

「是日、災皇太子宮。時人、大驚怪」と記されている。中大兄皇太子へ不満を持つ連中の存在を匂わせて、この段を閉じている。

是歲、制七色一十三階之冠。一曰織冠、有大小二階、以織爲之、以繡裁冠之緣、服色並用深紫。二曰繡冠、有大小二階、以繡爲之、其冠之緣・服色並同織冠。三曰紫冠、有大小二階、以紫爲之、以織裁冠之緣、服色用淺紫。四曰錦冠、有大小二階、其大錦冠、以大伯仙錦爲之、以織裁冠之緣。其小錦冠、以小伯仙錦爲之、以大伯仙錦、裁冠之緣。服色並用眞緋。五曰靑冠、以靑絹爲之、有大小二階、其大靑冠、以大伯仙錦、裁冠之緣。其小靑冠、以小伯仙錦、裁冠之緣。服色並用紺。六曰黑冠、有大小二階、其大黑冠、以車形錦、裁冠之緣。其小黑冠、以薐形錦、裁冠之緣。服色並用緑。七曰建武初位、又名立身以黑絹爲之、以紺裁冠之緣。別有鐙冠、以黑絹爲之、其冠之背張漆羅、以緣與鈿異高下、形似於蟬。小錦冠以上之鈿、雜金銀爲之。大小靑冠之鈿、以銀爲之。大小黑冠之鈿、以銅爲之。建武之冠、無鈿也。此冠者、大會・饗客・四月七月齋時所着焉。

七色の十三階の冠を制定したと記されている。一目で身分が分かるようにしたとのことである。彩り艶やかな錦製であろう。詳細は他所を参照願うとして、初位の「建武」は「立身」を意味するようで、有能な人材の登用を目論んだのであろう。

新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談笑。造渟足柵、置柵戸。老人等相謂之曰、數年鼠向東行、此造柵之兆乎。
 
<中臣:德-連正月-渠每連-連押熊-間人連老>

新羅に派遣されていた「博士小德高向黑麻呂」と「中臣連押熊」を送り届ける使者、金春秋等が献上物を持ってやって来た。

この金春秋を人質にしたのだが、「美姿顏善談笑」褒めているが、悲壮感なしの人質のようである。

新羅について述べた後に、前記と同様のパターンで老人の噂話が続く。今度が「鼠」の東行と「柵」の設置が重ねられている。

既に「枯査」は「柵」を意味すると読み解いたが、その具体的な名称が記載されている。

その前に「中臣連押熊」について簡略に述べることにする。図は纏めて示した「中臣連」の配置でる。

「押」=「押し広げる様」、「熊」=「隈=隅」とすると、押熊=谷間が大きく曲がる隅で広がったところと読み解ける。

さて、枯査=山稜(木)が小高くなったところ(古)にある柵(査)と解釈したが、「渟足柵」は何処に設置されたのであろうか・・・「越」の民に造らせとして、その周辺を探索する。
 
<渟足柵・磐舟柵>
渟足柵・磐舟柵

「渟」、「足」は頻出である。そのまま読んでみると「渟」=「水を留める様」、「足」=「帶:山稜が長く延びる様」である。併せると渟足=山稜が長く延びて水を留めたところと読み解ける。

この地形を「越」周辺に求めると、図に示した現在の北九州市門司区大積の谷間を流れる奥畑川が北と南から延びた山稜で堰き止められたような場所が見出せる。

これだけでは「柵」の場所は特定することは難しいが、上記の「枯査」と併せると、図に示した北側の山麓にあったと推定される。

下記で登場する「磐舟柵」については、「磐」=「般+石」=「広がった山麓の地」、「舟」=「舟の様」と読み解くと、磐舟=広がった山麓に舟のように見えるところと紐解ける。山深いところではあるが、台地の周りは現在の標高6m程度であって、当時は海面下にあったと推定される。この細長い台地を「舟」と見做した表記と思われる。

ところでこの柵は「治磐舟柵、以備蝦夷。遂選越與信濃之民、始置柵戸」と記されている。渟足柵から更に東に進んだところに造られた柵である。蝦夷対策だとされ、何となくそれらしき根拠で納得しかけるのであるが、どうも腑に落ちない位置関係と気付かされる。
 
<渟足柵/治磐舟柵(対蝦夷)>
図に古事記で読み解いた地域の名称を並べてみた。出雲(葦原中國を含む)の東~北方面には高志(書紀では越)があり、その先(高志前)には「利波」、「角鹿」が並ぶ。

北は「阿多」(隼人を含む)がある。神阿多都比賣此神(亦名:木花之佐久夜毘賣)の出自の場所である。

その北側には熊曾國がある。伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生み及び倭建命の段で熊曾建の居場所も求めた結果である。

ここまでが古事記記述の範疇であり、書紀では越邊蝦夷が登場し、ほぼ現在の企救半島北部全域を満たしたかに思われるが、そうではなく、最北部の地は全く「記紀」では語られない地として残っていたのである。

すると上記で求めた二つの柵は「越邊蝦夷」の南の谷間を東に進んだわけで、その向かうところは、正に不詳の最北部の南端であることが解る。

攻防は二つの谷間(奥畑川・山中川)が交差する「磐舟柵」の眼前となろう。柵を設置する場所として適切である。だが、その相手を書紀は「蝦夷」と記載するのである。

この最北部の地、現地名は北九州市門司区白野江・田野浦となっている。Wikipediaによると、門司区には多くの朝鮮半島由来の地名があり、百濟・高麗・新羅の所謂三韓の名残が現在も使われているとのことである。例えば「白野江」は「新羅」からの渡来人が住まった地であると言われる。

即ち二つの柵が防御する相手は新羅に関わる人々であると言える。だから新羅の記述に続いて柵の設置の記述となるのである。北陸地方にこれらの柵(新潟市沼垂・村上市岩船)を配置したとすれば、相手が新羅とするのは困難であろう。故に曖昧な”蝦夷(エゾ)”に置換えた、これが結論である。

言い換えるとこの最北部の地は、新羅にとって、倭國の任那のような位置付けのように思われる。上陸地点近隣の地、橋頭保としての役割だったのであろう。勿論、それぞれの成立の経緯は異なるであろうが。上陸する必要のない蝦夷(エゾ)に対して、北陸の海辺に柵を並べたとする通説では、全く意味不明の防御柵となろう。

上記のように解釈して来ると、朝鮮半島からの倭国(日本)への渡来は実に多様であったと推察される。倭人(中国江南地方)の朝鮮半島経由の渡来と共に朝鮮半島原住民の渡来も同時並行していたと思われる。それらの葛藤を倭人の一グループである「天神族」が結果的に倭国を支配し、その視点で書き残されたのが「記紀」であると思われる。話が横道に逸れ過ぎるので、いずれまた・・・。

四年春正月壬午朔、賀正焉。是夕、天皇、幸于難波碕宮。
二月壬子朔、遣於三韓(三韓、謂高麗・百濟・新羅)學問僧。己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

年が明けて大化四年(西暦648年)の正月礼を済ませた後に「難波碕宮」に入ったと記されている。その礼は武庫行宮で行われたのであろう。阿倍大臣が四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷らしい)を集めて仏像を迎えたり「靈鷲山像」(釈迦の浄土に関係するらしい)造ったりしたと伝えている。その場所が「四天王寺」、推古天皇紀に「始造四天王寺於難波荒陵」と記されている。
 
四天王寺於難波荒陵

Wikipediaによると…、

四天王寺は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音である。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺・難波大寺・御津寺・堀江寺などの別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。 

…と記載されている。ここではない!…なんてことになると仏様のバチが当たりそうな雰囲気なのだが、勿論全く違う場所である。

四天王寺の場所を示す重要な情報満載の文字が並んでいる。「難波・御津」は勿論のこと「荒陵」と「堀江」の別称である。「荒陵」の意味は、当時その地に多くの古墳があって、その陵を荒らして造ったからだとか・・・こんな解釈こそバチが当たる?…かも・・・真っ当に文字を読むことから始めよう。
 
<難波荒陵・四天王寺>
「荒」=「艸+亡+川」と分解される。構成要素からすると「草(艸)が一面に生えて覆い隠す(亡・川)」というのが通常使われている意味を示すことになろう。地形象形的には、より具体的な表現となる。
荒=山稜(艸)が川の傍で途切れる(亡)ところと読み解ける。

「陵」を墳墓と決めつけては「記紀」は読めないであろう。「陵」=「阝(段差)+坴(盛り土)」と分解される。陵=段になって盛り上がった地(段丘)である。墓に限られた文字ではない。併せると荒陵=段丘の山稜が川の傍で途切れているところとなる。

地図を探索すると、現地名の行橋市にある矢留山等の山塊から北に長く延びる山稜を犀川(現今川)が横切るところと推定される。多くの山稜の端が同様な地形となるが、上記の「武庫行宮」の場所もそうであり、「荒陵」はその山稜の北端に当たるところと思われる。

異なる地形は山稜の端が「陵」となっていることから、「荒」で断ち切られた様子を表わしているのであろう。更に別称が示す意味が浮かんで来る。この地は大雀命(仁徳天皇)が造った難波之堀江の場所に該当する。水深が浅く、江口に向かう船の航行を改善した大事業であった。

辞典によると…、

上代、今の大阪市上町台地の北側にあって大阪湾に通じていた堀。現在、北区と中央区との間を流れる大川(天満川)の流路にあたる。当時、淀川河口の付近からこの地の東方にかけて大きな潟湖があり、仁徳天皇一一年、その氾濫を防ぐために高津宮の北側を開削し、大和川(旧流路)とともに、その潟湖を大阪湾に直通させたと伝えられる。

…と記載されている。「堀江」は、あっちこっちにあったのであろうか・・・。

勿論、四天王寺の表記も地形象形している筈である。「四」=「囗+八」=「大地が二つに岐れている様」、「天」=「大+一」=「山稜が一様に平らな様」、「王」=「大きく広がる様」と解釈される。纏めると四天王寺=二つに岐れた一様に平らな地が大きく広がっているところの寺と読み解ける。標高差が少ない場所であるが、注意深く見ると、図に示したような地形をしていることが解る。図では省略しているが、現在の西法寺辺りが四天王寺の本貫の地であったと推定される。

夏四月辛亥朔、罷古冠。左右大臣、猶著古冠。是歲、新羅遣使貢調。治磐舟柵、以備蝦夷。遂選越與信濃之民、始置柵戸。
 
<信濃>
信濃

「磐舟柵」を造ったのは「信濃之民」と記載されている。”長野県民”ではなかろう。では何処を示しているのであろうか?・・・。

これも文字解釈を真っ当に行うことで見えて来る筈である。「信」=「人+言」と分解される。すると信=谷間(人)の耕地(言)と読み解ける。

これだけでは見慣れた風景となって特定には至らない。「濃」=「氵+農」と分解される。「農」=「二枚貝が柔らかい舌を出した様」と解説されている。

これがどうして「農業」に繋がるのかは、貝が道具の時代であって、「貝で土を柔らかくする様」となる。「言」=「刃物で土地を耕す様」と読み解いたから、共に土地の開墾作業に由来する文字となる。

「言」=「刃物(辛)で切り裂いたような隙間(口)から出る様」が通常であろうが…少々紙面の割り付けを考えて冗長に・・・。

信濃=谷間に耕地がある舌を出した二枚貝のようなところと紐解ける。現地名は北九州市門司区喜多久である。渟中倉太珠敷天皇の出自の場所であり、古事記では高志前之角鹿(都奴賀)江野財などと呼称された場所である。古事記には登場しない名称であるが、美濃はある。どちらかと言うと、書紀の方が分り易い感じである。

続きは次回としよう・・・。