2020年5月17日日曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅵ) 〔415〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅵ)


天皇の思いは、なかなか伝わらず、旧態然たる行いが横行している様子が伝えられる。そして遂に氏名、罪名の公表を行ったのである。前記は、夥しい数の、そして簡略な表記に、些か疲れて最後まで、お届けできなかった。今回は、その結末が述べられているところからである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。時は大化二年(西暦646年)である。

以此觀之、紀麻利耆拕臣・巨勢德禰臣・穗積咋臣、汝等三人之所怠拙也。念斯違詔、豈不勞情。夫爲君臣以牧民者、自率而正、孰敢不直。若君或臣不正心者、當受其罪。追悔何及。是以、凡諸國司、隨過輕重考而罰之。又諸國造、違詔、送財於己國司、遂倶求利、恆懷穢惡。不可不治。念雖若是、始處新宮、將幣諸神、屬乎今歲。又於農月不合使民、緣造新宮固不獲已。深感二途、大赦天下。自今以後、國司郡司、勉之勗之、勿爲放逸。宜遣使者、諸國流人及獄中囚、一皆放捨。別鹽屋鯯魚(鯯魚、此云舉能之慮)・神社福草・朝倉君・椀子連・三河大伴直・蘆尾直(四人並闕名)、此六人、奉順天皇。朕深讚美厥心。宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻、以其屯田班賜群臣及伴造等。又於脱籍寺、入田與山。

罪状記述の最初に登場した三人の臣:紀麻利耆拕臣・巨勢德禰臣・穗積咋臣については特に厳しく諭されている。上に立つ者が率先垂範の筈なのだが、よって国司、国造までが私利私欲に走っている。真に情けない有様と述べている。がしかし、新宮を造ったり、農作業の繁忙期でもあることから、「大赦」すると記載されている。

「鹽屋鯯魚(鯯魚、此云舉能之慮)・神社福草・朝倉君・椀子連・三河大伴直・蘆尾直(四人並闕名)」の六名の行いについて、「朕深讚美厥心」と、お褒めの言葉を頂戴している。「貸稲」は分け与えるようにせよ、と記載されている。大騒ぎであったが、事なきを得た臣下達だった。果たしてその後は如何?・・・。
 
讃美された六人

お褒めに預かった連中の居場所を求めてみよう。鹽屋鯯魚(舉能之慮)は前記で記載した。「縣犬養」の東側の地であった。繰返しになるが、四つの「犬養」については、「稚犬養」、「海犬養」と「縣犬養」の場所が判明した。残る「阿曇犬養」は書紀には登場することがなく、「阿曇」関連の記述に遭遇した時にでも紐解いてみようかと思う。また朝倉君」は、前記の紀麻利耆拕臣の罪状記述に登場した人物と思われる。

● 神社福草

福草」は前記の葛城福草に含まれる「福草」と同様の解釈であろう。「神社」は神社を意味するのであろうか?…とてもそんな雰囲気ではなさそうである。これも地形象形表記と解釈する。それにしても文字要素に分解すると「示」(高台)が三個も含まれている文字列である。
 
<神社福草>
「神」=「示+申」と分解される。「申」は雷(稲妻)を象った文字である。古事記に頻出する神=稲妻(申)の形の山稜(示)の地形象形と解釈した。


「社」=「示+土」と分解される。すると社=盛り上がった(土)山稜(示)と読み解ける。品陀和氣命(応神天皇)紀の説話(天之日矛)に難波之比賣碁曾社が登場するが、それに含まれている。

前記で「福草」=「並んでいる山稜(草)が酒樽(畐)のような高台(示)になっているところ」と読み解いて、繋ぎ合わせると神社福草=[神]の形と[社]の形の山稜(草)の端が酒樽(畐)のような高台(示)になっているところと紐解ける。ありふれた文字で表現されると反って解釈は簡単ではなくなる。古事記も同様であった。

さて何処にこの地形を求めるか?…やはり何の修飾もないことから「飛鳥」周辺として、探すと、現在の香春神社の東隣に「神」と「社」の山稜が見出せる。そしてその両脇に「福草」が鎮座していると見做すことができそうである。香春神社は石上神社と推定したが、神社の近隣であることを暗示しているのかもしれない。
 
<椀子連>
● 椀子連(闕名)

「椀子」を書紀で検索すると、幾人かの皇子が該当する結果となった。直近では、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)紀の御子、亦麻呂子王である。

「麻呂」が示す地形は「椀」の形を示し、それから「子」=「生え出た様」の細く延びる山稜が見える。更にその先にある場所が「椀子連」の居場所と推定される。

もう一人の書紀に登場する椀子皇子は、古事記の袁本杼命(継体天皇)紀の御子、三尾の丸高王に該当するかと思われる。

おそらく「丸高」→「椀」の別表記かと思われ、闕名」である以上、どちらかを選択することは叶わないようである。一応上記の椀子皇子の場所に関連するところとして解釈する。書紀の表記には重なったものが見受けられる。これも何かの思惑があってことなのかもしれないが…。
 
<三河大伴直>

● 三河大伴直(闕名) 
 
「三河」は古事記の「三川」と読むと、三川之衣・穂の場所と思われる。頻出の「大伴」=「平らな頂の山稜を二つに分ける様」と読む。

処々にその地形がある、と伝えている。現地名が京都郡苅田町から小倉南区湯川及びその近隣に移ることになる。

足立山~砲台山にある谷間、切立つような崖の谷間である。既に何処かで述べたように、湯川の「湯」はこんな地形を表す文字である。

所在地の公式HPには、誰かがお”湯”に”足”を浸けて一時の安らぎを得たことが由来で、それで痛めた”足”が”立”つようになったとか・・・実に勿体ないことである。

「直」の地形は判別し辛くなっているが、おそらく谷の出口辺りではなかろうか。余りの急傾斜故に川の蛇行が少なくなっているように思われる。古事記には登場しなかった場所である。勿論筑紫嶋の「豐國」の範疇ではあり、現在も「豊」(豐とは別字)の名称が冠されている。全く場所は異なるが・・・。

● 蘆尾直(闕名) 

これは難読であろう。致し方なく「蘆」の文字をあらためて読み解くことにする。前記の鹽屋鯯魚(舉能之慮)にも関連する文字が見られるが、繰り返しながら読み解いてみよう。
 
<蘆尾直>
「蘆」=「艸+虍+囟+皿」と分解される。「虍」は「虎」を象った文字である。その特徴から虍=縦縞が連なる様と読み解いた。

古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれている文字である。囟」=「頭蓋の泉門」を象った文字である。地形象形的には囟=僅かな隙間がある様と読み解く。

皿=縦縞が揃って並んでいる様をそのまま表した文字と解釈する。「蘆」に続く文字が「尾」と記されていることから、全体的には「虎の尾」を示す表現と気付かされる。

これだけの情報で、先ずは「飛鳥」の近隣を探索する。すると図に示した場所、「長谷」にある忍坂(書紀では押坂)之大室地形を西側も含めて「虎」の全体像として見做せることが解る。現地名では田川郡香春町の紺屋園と地図に記載されているところである。

これで「尾」が即に見出せ、その「直」となったところを表していると読み解ける。この地の表現に「虎」を使ったとは、少々驚かされるが、言い得て妙の結果となったようである。そして古事記には登場しない場所なのであるが、古事記なら如何なる表記となったのであろうか・・・やはり「盧」は外せないように思われる・・・魏志倭人伝でも末盧國で使われるくらいだから。

さて、彼らは何らかの報償を受けたのであろうか・・・余計な心配は横に置いて、先に進める。

壬午、皇太子、使々奏請曰。昔在天皇等世、混齊天下而治。及逮于今、分離失業謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運、天人合應、厥政惟新。是故、慶之尊之頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇、問於臣曰。其群臣連及伴造國造所有・昔在天皇日所置子代入部・皇子等私有御名入部・皇祖大兄御名入部(謂彥人大兄也)及其屯倉、猶如古代而置以不。臣、卽恭承所詔奉答而曰。天無雙日、國無二王。是故、兼幷天下・可使萬民、唯天皇耳。別、以入部及所封民簡充仕丁、從前處分。自餘以外、恐私駈役。故、獻入部五百廿四口・屯倉一百八十一所。

中大兄皇子(皇太子)の久々のご登場である。懸案事項は、「公地公民」の考えだと天皇の直轄領としての「子代」も「私用」になるから、その地に関わる人も含めて「公地公民」にするべきと、述べている。筋の通った話なのであるが、具体的な数字「入部五百廿四口・屯倉一百八十一所」が記載されているが、全てなのか否や、敢えて、全てと言わないところが胡散臭い(?)、かもしれない。

甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。古之葬者因高爲墓、不封不樹、棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而已。故、吾營此丘墟・不食之地、欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過、飯含無以珠玉、無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也、欲人之不得見也。

天皇自らが仰ったとして、埋葬は、徹底的に簡素にしろ、「無藏金銀銅鐵」貴重なものは省くのは勿論のこと、「後不知其所」後代では場所も分からないようにせよ、とまで述べている。巷で言われるようにこれが古墳時代の終焉と繋がるのであろうか?・・・横道に這い込みそうなので・・・。

廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。夫王以上之墓者、其內長九尺・濶五尺、其外域方九尋・高五尋、役一千人・七日使訖、其葬時帷帳等用白布、有轜車。上臣之墓者、其內長濶及高皆准於上、其外域・方七尋・高三尋、役五百人・五日使訖、其葬時帷帳等用白布、擔而行之(蓋此以肩擔輿而送之乎。)下臣之墓者、其內長濶及高皆准於上、其外域・方五尋・高二尋半、役二百五十人・三日使訖、其葬時帷帳等用白布、亦准於上。大仁・小仁之墓者、其內長九尺・高濶各四尺、不封使平、役一百人・一日使訖。大禮以下小智以上之墓者、皆准大仁、役五十人・一日使訖。凡王以下小智以上之墓者、宜用小石、其帷帳等宜用白布。庶民亡時、收埋於地、其帷帳等可用麁布、一日莫停。凡王以下及至庶民、不得營殯。凡自畿內及諸國等、宜定一所而使收埋、不得汚穢散埋處々。凡人死亡之時、若經自殉・或絞人殉及强殉亡人之馬・或爲亡人藏寶於墓・或爲亡人斷髮刺股而誄、如此舊俗一皆悉斷(或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。)縱有違詔、犯所禁者、必罪其族。

墓の続きで、身分によってその大きさなどを決めたと記載されている。かつての巨大陵墓に比べると極端に小ぶりになるが、殊更記述されているところから、反って巨大陵墓も彼らの祖先だと暗示しているようにも伺える。未だにその巨大陵墓の主が不明のままであることで過ごしている日本人とは、如何に鷹揚な・・・素直な民であろうか・・・。

後に天萬豐日天皇(孝德天皇)の陵墓名が記載されている。さて、如何なる場所、規模なのであろうか・・・。

復有見言不見、不見言見、聞言不聞、不聞言聞。都無正語正見、巧詐者多。復有奴婢、欺主貧困、自託勢家求活、勢家仍强留買不送本主者多。復有妻妾、爲夫被放之、日經年之後適他、恆理。而此前夫、三四年後、貪求後夫財物爲己利者甚衆。復有恃勢之男、浪要他女、而未納際女自適人、其浪要者嗔求兩家財物爲己利者甚衆。復有亡夫之婦、若經十年及廿年適人爲婦、幷未嫁之女始適人時、於是、妬斯夫婦使祓除多。復有爲妻被嫌離者、特由慙愧所惱、强爲事瑕之婢(事瑕、此云居騰作柯。)復有屢嫌己婦姧他、好向官司請決。假使得明三證、而倶顯陳、然後可諮。詎生浪訴。復有被役邊畔之民、事了還鄕之日、忽然得疾臥死路頭、於是、路頭之家乃謂之曰、何故使人死於余路。因留死者友伴、强使祓除。由是、兄雖臥死於路、其弟不收者多。復有百姓溺死於河、逢者乃謂之曰、何故於我使遇溺人。因留溺者友伴、强使祓除。由是、兄雖溺死於河、其弟不救者衆。復有被役之民路頭炊飯、於是、路頭之家乃謂之曰、何故任情炊飯余路、强使祓除。復有百姓就他借甑炊飯、其甑觸物而覆、於是、甑主乃使祓除。如此等類、愚俗所染。今悉除斷、勿使復爲。

我々は現代・近代を通して過去を視る、そのフィルターの向こうに古代を存在させる思考を行うのであるが、透けて見える古代は、現代に類似する。時は、やはり弁証法的流れを生み出しているのであろう。それにしても時=日+之+止の構成要素を持つこと、実に興味深いものである。

この自由さを良しとするならば、一歩間違えば不自由な世界に陥ることを意味する。「自由」を大切に守ることが現在の人の果たすべき役割であろう。姑息で得手勝手な者をいつまでのさばらすのであろうか・・・。

復有百姓臨向京日、恐所乘馬疲痩不行、以布二尋・麻二束送參河・尾張兩國之人、雇令養飼、乃入于京。於還鄕日、送鍬一口。而參河人等、不能養飼、翻令痩死。若是細馬、卽生貪愛、工作謾語、言被偸失。若是牝馬、孕於己家、便使秡除、遂奪其馬。飛聞若是。故今立制。凡養馬於路傍國者、將被雇人、審告村首首長也、方授詶物。其還鄕日、不須更報。如致疲損、不合得物。縱違斯詔、將科重罪。罷市司要路津濟渡子之調賦、給與田地。凡始畿內及四方國、當農作月、早務營田、不合使喫美物與酒。宜差淸廉使者、告於畿內。其四方諸國々造等、宜擇善使、依詔催勤。

少し趣が異なる事例が記載されている。「百姓」が京に向かう時に「參河國」もしくは「尾張國」に馬を預けて京に入るのが通例のようなので、そうしたところ、「參河人等、不能養飼」で死なせてしまったり、また盗まれたとか、はたまた馬の子を掠め取ったりと言う事件が発生していると告げている。

「駅馬」のように乗り継いだのかどうかは不明だが、「參河國」は「三河國」であろう。何故「參」の文字を使ったのか?…少々気になるところである。古事記の三川之衣・穂は「三つの川」で仕切られた地域であることを示す。「參」=「多くものが入り混じった様」を表すと解説される。言い換えると「三」からは「多く」を示している。

すると「參河」と表記された場合は「三つ以上」の意味合いが濃く伝わって来る表現と解釈できる。この地は北九州市小倉南区湯川・葛原と推定した。 上記の「三河大伴直」の居場所近辺である。複数の流れ落ちる川では寄り集まることもなく、表面が渇いたような地となる。即ち牧草地ではないことを表していると推測される。固有の地名表記と地形とが”厳密に”リンクした表記を「記紀」はしていることが解る。

秋八月庚申朔癸酉、詔曰。原夫天地陰陽、不使四時相亂。惟此天地、生乎萬物。萬物之內、人是最靈。最靈之間、聖爲人主。是以、聖主天皇、則天御寓、思人獲所、暫不廢胸。而始王之名々、臣連伴造國造、分其品部、別彼名々。復、以其民品部、交雜使居國縣。遂使父子易姓、兄弟異宗、夫婦更互殊名、一家五分六割。由是、爭競之訟、盈國充朝、終不見治、相亂彌盛。粤以、始於今之御㝢天皇及臣連等、所有品部、宜悉皆罷、爲國家民。其假借王名爲伴造、其襲據祖名爲臣連。斯等、深不悟情、忽聞若是所宣、當思、祖名所借名滅。由是、預宣、使聽知朕所懷。王者之兒、相續御寓、信知時帝與祖皇名不可見忘於世。而以王名、輕掛川野呼名百姓、誠可畏焉。凡王者之號將隨日月遠流、祖子之名可共天地長往。如是思故宣之。始於祖子、奉仕卿大夫臣連伴造氏々人等(或本云、名々王民、)咸可聽聞。今以汝等、使仕狀者、改去舊職、新設百官、及著位階、以官位敘。今發遣國司幷彼國造、可以奉聞。去年付於朝集之政者、隨前處分。以收數田、均給於民、勿生彼我。凡給田者、其百姓家、近接於田、必先於近。如此奉宣。凡調賦者、可收男身之調。凡仕丁者、毎五十戸一人。宜觀國々壃堺、或書或圖、持來奉示。國懸之名、來時將定。國々可築堤地、可穿溝所、可墾田間、均給使造。當聞解此所宣。

あらためて「公地公民」の考え方の根拠、正統性などを述べ、役職を明確にして位を設ける。田の配分も再度公平にするように、言い付けている。新しい国家体制への移行、やはりそれは大変な事業だったことが伺い知れる場面である。

九月、遣小德高向博士黑麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調(黑麻呂、更名玄理。)是月、天皇、御蝦蟇行宮(或本云、離宮。)是歲、越國之鼠、晝夜相連、向東移去。

九月に入って高向博士を新羅に出向かせ、人質を貢がせ、任那の「調」は廃止したと記載されている。この月、天皇は「蝦蟇行宮」にお出ましになった。越國の出来事、今度は「枯査」ではなく、鼠が東に移り去ったと記述されている。前記したように全てが東へと移動しているのである。

「蝦蟇行宮」は既に読み解いたように難波長柄豐碕宮の北西に当たる場所にあったと推定した。現地名は行橋市津積、大島八幡神社辺りである。こちらを参照。

ここまで大化二年の出来事が語られた。切りが良いので、ここで今回は終わりとしよう・・・。