天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅴ)
元号大化を定め、多くの施策を作り上げる。それまでは各地の豪族が所有する領地を支配し、天皇も一豪族であった。勿論圧倒的な財力を保有してはいたのだが、仕組みそのものは豪族の集団であった。正に邪馬壹國の様相と変わりはなかったと思われる。それを一新した改革であり、公地公民として領地を定め、中央集権国家として歩み始めたと、記載されている。
蘇我氏の台頭は旧体制下では謀反ではなく、諍いである。そしていつ戦いに敗れて座を奪われてしまうかもしれない危うさを含んでいたのである。ある意味天皇家にこれを気付かさせた蘇我氏であったのであろう。いや、一日も早く中国(唐)のような体制にする必要性に駆られたと言える。
防御に徹すれば、崇神天皇が疫病対策をおこなったように、山・川に囲まれた地形が適するであろう。谷間の奥の峠が果たす役割は限りなく大きい。だが、一方国の発展を考えれば海に開かれた広大な地形に目が向く。洞海湾に面する地を出自とする仁徳天皇が難波に向う思いは、難波を切り開くことであった。
天萬豐日天皇(孝德天皇)の出自も下関市吉見の響灘に面する地である。広大な入江を切り開くことが未来に繋がると感じていたのであろう。難波長柄豐碕宮は難波之高津宮から更に海に近付いた場所と読み解いた。飛鳥を中心とする畿内を定め、それを守りつつ、己は先に出て、国の拡大を図る。綏靖天皇が葛城へ、仁徳天皇が難波へと向かった勇気ある天皇の一人であったと思われる。
中国・朝鮮半島の脅威も無視できない状況の中、幾つかの行宮・離宮などを整備し、防御も怠らなかった。なかなかに思慮深い天皇だったように伺える。が、まだまだ様々な事件が生じたことを伝
えている。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。時は大化二年(西暦646年)である。
二月甲午朔戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰。明神御宇日本倭根子天皇、詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓。朕聞、明哲之御民者、懸鍾於闕而觀百姓之憂、作屋於衢而聽路行之謗。雖蒭蕘之說、親問爲師。由是、朕前下詔曰、古之治天下、朝有進善之旌・誹謗之木、所以通治道而來諫者也、皆所以廣詢于下也。管子曰、黃帝立明堂之議者上觀於賢也、堯有衢室之問者下聽於民也、舜有告善之旌而主不蔽也、禹立建鼓於朝而備訊望也、湯有總術之廷以觀民非也、武王有靈臺之囿而賢者進也。此故、聖帝明王、所以有而勿失、得而勿亡也。所以、懸鍾設匱拜收表人、使憂諫人納表于匱、詔收表人毎旦奏請。朕得奏請、仍示群卿便使勘當。庶無留滯。如群卿等或懈怠不懃・或阿黨比周、朕復不肯聽諫、憂訴之人當可撞鍾。詔已如此。既而有民明直心・懷國土之風・切諫陳䟽、納於設匱。故、今顯示集在黎民。其表稱、緣奉國政到於京民、官留使於雜役、云々。朕猶以之傷惻、民豈復思至此。然遷都未久、還似于賓、由是、不得不使而强役之。毎念於斯、未嘗安寢。朕觀此表、嘉歎難休。故隨所諫之言、罷處々之雜役。昔詔曰、諫者題名。而不隨詔。今者、自非求利而將助國。不言題不、諫朕癈忘。
又詔。集在國民、所訴多在。今將解理。諦聽所宣。其欲決疑、入京朝集者、且莫退散、聚侍於朝。
高麗・百濟・任那・新羅、並遣使、貢獻調賦。乙卯、天皇還自子代離宮。
二月半ばに「明神御宇日本倭根子天皇」(孝徳天皇:下記に詳細に読み解く)は、「聖帝明王」を見習って、「懸鍾設匱」(鍾匱(カネヒツ)の制)を再度述べ、身分に関係なく「善言」には耳を傾けること、だと繰り返している。
ところが遷都に伴って、使役が多くなり、地方から引き摺り出された連中からの「諫之言」が増えたのであろう。これに悩まれている様子だが、挫けず、無記名でも良いからもっと多く出してくれ、「自非求利而將助國」ならば必ず聞き届けよう、と述べている。「聖帝明王」たらんとする心構えであろう。
高麗・百濟・任那・新羅からの「調」あり。「任那」が並記されている。「百濟」の”ごまかし”はなかったようである。二十二日には子代離宮から帰られたと伝えている。それにしても「調」であったかどうかは別にして、日本・朝鮮半島、対馬海峡を挟む国々の情報交換の頻度は高い。造船・航海技術の進歩及び港・宿場の繁栄に大きく寄与したことであろう。
明神御宇日本倭根子天皇
実にさりげなく「天萬豐日天皇(孝德天皇)」の別称が記載されている。これに含まれる文字列は通説に従うと、途方もなく大仰な意味となってしまうようである。例えば「明神」は「あきつ(み)かみ」と読まれ「現人神」と解釈される。「あらひとがみ」とは戦前までに言われた天皇を示す言葉であろう。孝徳天皇だけに付与されるものなのか?・・・。
また「日本」の文字は、「日本国」と言う国名に関わるところであり、これも何故孝徳天皇だけに付与されたのか?…など解釈不能の有様のまま今日に至っているようである。古事記の「神倭伊波禮毘古命(神武天皇)」を書紀では「神日本磐余彥天皇」、また同様に古事記の「倭建命」を書紀では「日本武尊」と記述されていることから「倭」→「日本」に置換えられたとされた。
すると孝徳天皇に含まれる「日本倭」は同じ意味の文字が並ぶことになり、それを「重ね言葉」として解釈されて来たようである。本居宣長以来、と言うか、その域を脱していないまま現在に至っているわけである。意味不明とされる「枕詞」に類似する解釈であり、とある解説本では「日本倭(ヤマト)」と読み下している。まるで「日本」は「倭」の「枕」のようである。
更に「御宇」=「宇内(天下)を御する」と読まれる。これでは上記の別称は日本国天皇の一般名称のようになってしまうのであるが、結局混迷のままなのである。古事記を全く読めていない、と述べたが、神話風に記述されていることもあって致し方なしの部分はあるが、正史日本書紀も同じく全く読めていない、と言い切れる。
<明神御宇日本倭根子天皇> |
「明」=「日+月」と分解される。すると古事記の品陀和氣命(応神天皇)が坐した輕嶋之明宮に含まれる「明」の解釈が思い起こされる。
明=三日月(月)の地形に[炎]の形がある(日)ところとなる。「神」は古事記頻出の文字で、例えば神倭伊波禮毘古命(神武天皇)に含まれる神=示+申=稲妻のように折れ曲がる(申)高台(示)と読んだ。
「日本」=「日(炎)+本(麓)」と解釈する。日本=[炎]の地形の麓である。「日出処」ではない。
「倭」=「人+委」と分解される。頻出の「人」=「谷間」を表し、「委」=「禾+女」と分解すると「しなやか(禾)に嫋やか(女)にまがる様」と読み解ける。
倭=谷間(人)がしなやかに嫋やかに曲がる(委)様と紐解ける。「根」=「山稜が木の根のように延びた様」、「子」=「生え出た様」であり、根子=木の根のように延びた山稜(根)から生え出た(子)ところと読み解ける。「御宇」の「御」の主語は「明神」と解釈するのが適切であろう。
すると「明神が宇日本倭根子を御(束ねる、寄せ集める)するところの天皇」と言う構文になる。「宇」=「山稜の端」として…明神御宇日本倭根子天皇は…、
稲妻のような(申)高台(示)で三日月(月)の地形に[炎]の形がある(日)山稜<明神>が
山稜の端(宇)である[炎]の地形の麓(日本)<宇・日本>にあって
しなやかに嫋やかに曲がる(委)谷間(人)<倭>の傍らの
根のように延びた山稜(根)から生え出た(子)<根子>の地を
寄せ集めた(御)ところ<御>の天皇
…と紐解ける。
とても文字列を目で追っても理解するのは困難な表記であるが、図に示したように「難波長柄豐碕」の地形を、より詳細に表現していることが解る。「難波長柄豐碕天皇」としなかったのは、「明神」、「御宇」、「日本」、「倭」の”壮大”な文字が使えそうだと思い付いたからか、加えて、これが難波の地形だ!、と鬱積した気持ちを書き残した、のかもしれない。
いずれにしても「長柄豐碕」さえも読めず、いや無視した比定しか行って来なかった古代史学者等には無用な表記だったかもしれない、真に不幸なことである。ましてや「難波」に向かうために「行宮・離宮」を配置したことなど全く眼中にない有様である。
三月癸亥朔甲子、詔東國々司等曰。集侍群卿大夫及臣連國造伴造幷諸百姓等、咸可聽之。夫君於天地之間而宰萬民者、不可獨制、要須臣翼。由是、代々之我皇祖等、共卿祖考倶治。朕復思欲蒙神護力、共卿等治。故、前以良家大夫使治東方八道。既而國司之任、六人奉法二人違令、毀譽各聞。朕便美厥奉法、疾斯違令。凡將治者若君如臣、先當正己而後正他。如不自正、何能正人。是以、不自正者、不擇君臣、乃可受殃。豈不愼矣。汝率而正、孰敢不正。今隨前勅而處斷之。
辛巳、詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫及國造伴造幷諸百姓等、咸可聽之。以去年八月、朕親誨曰。莫因官勢取公私物、可喫部內之食、可騎部內之馬。若違所誨、次官以上降其爵位、主典以下決其笞杖。入己物者、倍而徵之。詔既若斯。今問朝集使及諸國造等、國司至任、奉所誨不。
三月に入って、東國の国司等は、令を申し渡したにも拘わらず、それを守らない輩が出て来たのはどうしたことかと問われている。「正己而後正他」己を正しくできない輩に他を正しくすることはできない。先ずは自分からだと戒められている。二週間余りが過ぎても一向に埒が明かず、解任・降格もあるし、「笞杖」(竹の鞭打ちの刑)もあるぞ、と言われたようである。
そして、実名及び罪状が公表される。個人情報は・・・何てことは言わないで・・・咎がない者も含まれているので、これは勤務評定だったのかも、である。
於是、朝集使等具陳其狀。穗積臣咋所犯者、於百姓中毎戸求索、仍悔還物、而不盡與。其介富制臣(闕名)・巨勢臣紫檀、二人之過者、不正其上、云々。凡以下官人、咸有過也。其巨勢德禰臣所犯者、於百姓中毎戸求索、仍悔還物、而不盡與、復取田部之馬。其介朴井連・押坂連並(闕名)二人者、不正其上所失、而翻共求己利、復取國造之馬。臺直須彌、初雖諫上、而遂倶濁。凡以下官人、咸有過也。其紀麻利耆拕臣所犯者、使人於朝倉君・井上君二人之所、而爲牽來其馬視之。復使朝倉君作刀、復得朝倉君之弓布、復以國造所送兵代之物不明還主、妄傳國造。復於所任之國、被他偸刀。復於倭國、被他偸刀。是、其紀臣・其介三輪君大口・河邊臣百依等過也。其以下官人、河邊臣磯泊・丹比深目・百舌鳥長兄・葛城福草・難波癬龜(倶毗柯梅)・犬養五十君・伊岐史麻呂・丹比大眼、凡是八人等咸有過也。其阿曇連(闕名)所犯者、和德史有所患時、言於國造使送官物、復取湯部之馬。其介膳部臣百依所犯者、草代之物收置於家、復取國造之馬而換他馬來。河邊臣磐管・湯麻呂、兄弟二人、亦有過也。大市連(闕名)所犯者、違於前詔。前詔曰、國司等、莫於任所自斷民之所訴。輙違斯詔、自判菟礪人之所訴及中臣德之奴事。中臣德、亦是同罪也。涯田臣(闕名)之過者、在於倭國被偸官刀、是不謹也。小緑臣・丹波臣、是拙而無犯並闕名。忌部木菓・中臣連正月、二人亦有過也。羽田臣・田口臣、二人並無過也(闕名)。平群臣(闕名)所犯者、三國人所訴有而未問。
さて、陳述で罪人と罪名が羅列される。一応記述の順でその居場所を読み解くが極力纏めた図を示す。
①穗積臣咋・富制臣(闕名)・巨勢臣紫檀
「穗積臣咋」(国司)は戸別に物を徴収した「所犯(犯せるところ:犯罪)」を悔いたが、全ては返さなかった。「介(次官)」の「富制臣(闕名)・巨勢臣紫檀」は、国司の罪を正さなかった罪である。
<穂積臣咋・膳臣百依> |
「穂先のような山稜の端が積み重なるように寄り集まって地形」を表すと読んだ。山の稜線が多く曲がる麓である。
咋=囗+乍=大地(囗)がギザギザとした(乍)様を表すと読み解ける。古くは大年神の後裔、大山咋神などに含まれる文字である。
また伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、石衝別王が祖となった羽咋君がある。この地は前記で東漢一族の場所と推定した。
それらと類似する地形を求めると図に示した場所に見出せることが判った。古事記では「穂積(臣)」の登場は若帶日子命(成務天皇)を最後に途絶える。書紀では継体天皇に復活し、その後も頻度は高くないが出現する。
当初は皇統に絡む人材を輩出した地であるが、隣接の「丸邇一族」の隆盛で影が薄くなったようである。この「穂積臣咋」もその地域の端に追いやられているように伺える。栄枯盛衰、今後も機会ある毎に述べてみたい。尚「膳部臣百依」も併記したが、後に述べる。
<富制臣> |
土地を私物化させないためもあろうが、人の交流は重要な意味を持つであろう。かつてからも盛んであったが、「公地公民」制度は、更にやり易くなった感じである。
「富制(フセ)臣」は唐突であって、書紀にもたった一度の出現である。この「闕名」の人物については殆ど情報がないようである。
類似する読みでは古事記で品陀和氣命(応神天皇)の孫、大郎子・亦名意富富杼王が布勢(フセ)君・酒人君等の祖となったと記載されている。
布勢=布を拡げた(布)ような丸く盛り上がった(勢)ところと読み解き、図に示した北九州市門司区寺内にある場所と推定した。ここは伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場する出雲之石𥑎之曾宮の地でもある。
「富」=「宀+畐」と分解される。地形象形的には、富=山稜に挟まれた谷間にある酒樽のような様と紐解く。古事記で頻繁に用いられる文字であるが、「富」=「山麓の境に向かう坂」と紐解いた(畐→坂は帶中津日子命(仲哀天皇)紀の説話を参照)。「布勢君」の隣に「酒人君」が配置されているとしたが、「酒」=「水+酉(酒樽)」と分解される。即ち「富」も「酒」も「酒樽」に因む文字であることが解る。がしかし、書紀ではそんな悠長なしきたりなどに構うことなく、そのまま「酒樽の形」として用いていると思われる。
「制」=「末+刀」で「端を断ち切る」とすると、富制臣=山稜に挟まれた谷間にある酒樽のような地が山稜の端で断ち切られた(制)ところと読み解ける。古事記と書紀は読みを同じくして異なる漢字を用い、同一もしくはその近隣を表していると思われる。両書が無関係に成立したわけではなく、深く関わり、そしてそれぞれの目的に適した表現方法を用いていることが伺える。
<巨勢臣紫檀・巨勢德禰臣> |
「此」=「同じような形が並ぶ様」を表すと読む。「比」に類似する文字形である。「糸」=「細長く延びる山稜」である。「筑紫」に含まれている。
「檀」=「木+亶」と分解される。「亶」=「平らに積み上げた様」と解説される。すると紫檀=細長く延びる山稜(紫)が平らに積みあがった(檀)ところと読み解ける。
やはり「臣」故に挟まれた谷間に居たのであろう。現地名は直方市頓野である。調べると父親が大海だと知られている。山稜が広がった台地のような場所で”大海”とは?…海=氵+每=水辺で山稜が母の両手のような様と読み解いた。
この山稜は一枚岩ではなく、大きくは二つに岐れていて、その合間に池(沼)が形成されていたのではなかろうか(現在ある池とは、多分異なる?)。「紫檀」の北隣の場所と推定される。「巨勢德禰臣」も併記したが、次に記す。
②巨勢德禰臣・朴井連(闕名)・押坂連(闕名)・臺直須彌
「巨勢德禰臣」も上記と同様の罪を犯したが、加えて田部(直轄領地)から馬を取上げたと記される。「介」の「朴井連・押坂連」も同様に正すことをせず、自分たちも国造から馬を取上げ、「臺直須彌」は初めは諌めたが、後に加わったと述べている。いやはや、民はたまったもんじゃない、ってところかも。
「巨勢德禰臣」は上図<巨勢臣紫檀・巨勢德禰臣>に示した通り、巨勢臣德太に隣接するところと思われる。山麓から延びる山稜が「太」→「彌」と更に広がった様を表しているようである。ここは古事記の許勢小柄宿禰が切り開いた地であるが、書紀では登場しない。何故か?…「淡海」に関わるからである。淡海之佐佐紀山の南麓の地である。
「朴井連(闕名)」は前出の物部朴井連椎子の近隣であろうが、「椎子」の場所ではないようである。幾らかの候補の地が浮かぶが、これより先は不明としておこう。「押坂連(闕名)」も息長足日廣額天皇陵の記述で登場するが、些か広く「闕名」では特定されず、であろう。
「臺直須彌」は難読である。書紀中「臺直」の文字列はここのみであり、その他の資料にも記載されていない様子である。
邪馬壹國か邪馬臺國かの時にも少しは触れたが、あらためて文字解きを行ってみよう。「臺」=「之+至+高」と分解されると解説されている。勿論「台」とは全くの別字である。
古事記及び書紀で用いられる「之」=「蛇行する川」を表す。「至」=「矢が突当たる様」として、構成要素として「高」は、正確にはこの文字の上部であって、上部で聳える様を示すと思われる。
古事記では「高」=「皺が寄った様」としたが、その一部(皺の盛り上がった部分)を表していると解釈する。通常「臺」=「山裾の高台」と解釈されるが、「曲りくねりながら突当たった」の部分が省略されていることが解る。
これをそのまま「之(蛇行する川)」が突当たったところの山麓を表すと解釈し、「直」=「真っ直ぐな凹(窪)んだ地」、「須」=「州」、「彌」=「弓なりに広がった様」とすると、臺直須彌=蛇行する川が突当たった高台(臺)の真っ直ぐな麓に弓なりに広がった州(須彌)があるところと読み解ける。
後の持統天皇紀に臺忌寸八嶋が登場する。「直」から「忌寸」姓を賜ったのであろう。「八嶋」は「臺」の山稜の西麓と推定される。「凡以下官人、咸有過也」連帯としての責任を問うている。上司がやっているから、ではないことを知らしめる必要があったのだろう。
③紀麻利耆拕臣・三輪君大口
「紀麻利耆拕臣」が人を使って「朝倉君」、「井上君」の馬を引っ張って来て視た(断りもなくか?)。朝倉君の弓や布を得たり、また「兵代」(武器)を持ち主に返還せずに、国造に渡した。更には出かけた先の国、倭国で刀を盗まれた。要するに武器の管理不行き届き、である。これは大罪であろう。よって、「河邊臣磯泊・丹比深目・百舌鳥長兄・葛城福草・難波癬龜・犬養五十君・伊岐史麻呂・丹比大眼、凡是八人等咸有過也」と「官人」の実名までが公表されている。
「紀麻利耆拕臣」の出自の場所を求めてみよう。「紀」は古事記では「木」で表記される地である。前出の紀臣鹽手などで読み解いた。
「麻」=「擦り潰された様」を表し、「鹽(真っ平らな様)」に通じる。同じく「利」=「禾+刀」=「切り離す」とする。これらの文字は、かなりの頻度で登場した。
「耆」=「老+日」と分解する。耆=大きく曲がった尾根(老)から炎のような(日)山稜が延びた様と紐解ける。
「拕」=「手+它(蛇)」と分解すると、拕=山稜先(手)が曲りくねって(它)いる様と読み解ける。「拕」は水平方向、「宇陀」の「陀」は垂直方向で曲がる様を表すと解る。
纏めると「紀麻利耆拕臣」は…、
…に居た「臣」と読み解ける。現地名は豊前市青畑である。おそらく中央付近の小高くなった場所に居たのであろう。「朝倉君」は対面の大山祇神社辺りと思われる。「朝倉」=「朝が暗い」と読む。「井上君」は図に示した池尾池がある「井」=「囗」地形を示し、その上の場所と推定される。
「介」の三輪君大口は前記で三輪君を纏めて読み解いた中に入っていた。現在の妙見神社西麓、霧丘中学校の東側にある「口」地形の場所と推定される。同じく「介」の「河邊臣百依」は下記で纏めて示すことにする。
● 河邊臣百依・磯泊・磐管・湯麻呂
連座した八官人の出自の場所を順に求める。最初の「河邊臣」はこの後引き続いて計四名が記される。纏めて示すことにする。「河邊臣」は、蘇賀石河宿禰が祖となった臣に川邊臣がに出自を持つと思われる。「百依」は上記の「膳部臣百依」と同様の解釈となろう(解釈の詳細は下記)。「連なる盛り上がった様」と読むと、図に示した場所と推定される。
後の天智天皇紀に登場する「河邊百枝臣」は、「百依」と同一人物とする向きもあるようだが、「依」は「百」の依=人+衣=山稜の端の三角州、枝=連なった先が岐れている(枝)ところと解釈する。周辺の平坦な川辺は収穫豊かであったと思われる。古くから開拓された地である。
②巨勢德禰臣・朴井連(闕名)・押坂連(闕名)・臺直須彌
「巨勢德禰臣」も上記と同様の罪を犯したが、加えて田部(直轄領地)から馬を取上げたと記される。「介」の「朴井連・押坂連」も同様に正すことをせず、自分たちも国造から馬を取上げ、「臺直須彌」は初めは諌めたが、後に加わったと述べている。いやはや、民はたまったもんじゃない、ってところかも。
「巨勢德禰臣」は上図<巨勢臣紫檀・巨勢德禰臣>に示した通り、巨勢臣德太に隣接するところと思われる。山麓から延びる山稜が「太」→「彌」と更に広がった様を表しているようである。ここは古事記の許勢小柄宿禰が切り開いた地であるが、書紀では登場しない。何故か?…「淡海」に関わるからである。淡海之佐佐紀山の南麓の地である。
「朴井連(闕名)」は前出の物部朴井連椎子の近隣であろうが、「椎子」の場所ではないようである。幾らかの候補の地が浮かぶが、これより先は不明としておこう。「押坂連(闕名)」も息長足日廣額天皇陵の記述で登場するが、些か広く「闕名」では特定されず、であろう。
<臺直須彌> |
邪馬壹國か邪馬臺國かの時にも少しは触れたが、あらためて文字解きを行ってみよう。「臺」=「之+至+高」と分解されると解説されている。勿論「台」とは全くの別字である。
古事記及び書紀で用いられる「之」=「蛇行する川」を表す。「至」=「矢が突当たる様」として、構成要素として「高」は、正確にはこの文字の上部であって、上部で聳える様を示すと思われる。
古事記では「高」=「皺が寄った様」としたが、その一部(皺の盛り上がった部分)を表していると解釈する。通常「臺」=「山裾の高台」と解釈されるが、「曲りくねりながら突当たった」の部分が省略されていることが解る。
これをそのまま「之(蛇行する川)」が突当たったところの山麓を表すと解釈し、「直」=「真っ直ぐな凹(窪)んだ地」、「須」=「州」、「彌」=「弓なりに広がった様」とすると、臺直須彌=蛇行する川が突当たった高台(臺)の真っ直ぐな麓に弓なりに広がった州(須彌)があるところと読み解ける。
後の持統天皇紀に臺忌寸八嶋が登場する。「直」から「忌寸」姓を賜ったのであろう。「八嶋」は「臺」の山稜の西麓と推定される。「凡以下官人、咸有過也」連帯としての責任を問うている。上司がやっているから、ではないことを知らしめる必要があったのだろう。
③紀麻利耆拕臣・三輪君大口
「紀麻利耆拕臣」が人を使って「朝倉君」、「井上君」の馬を引っ張って来て視た(断りもなくか?)。朝倉君の弓や布を得たり、また「兵代」(武器)を持ち主に返還せずに、国造に渡した。更には出かけた先の国、倭国で刀を盗まれた。要するに武器の管理不行き届き、である。これは大罪であろう。よって、「河邊臣磯泊・丹比深目・百舌鳥長兄・葛城福草・難波癬龜・犬養五十君・伊岐史麻呂・丹比大眼、凡是八人等咸有過也」と「官人」の実名までが公表されている。
<紀麻利耆拕臣・朝倉君・井上君> |
「麻」=「擦り潰された様」を表し、「鹽(真っ平らな様)」に通じる。同じく「利」=「禾+刀」=「切り離す」とする。これらの文字は、かなりの頻度で登場した。
「耆」=「老+日」と分解する。耆=大きく曲がった尾根(老)から炎のような(日)山稜が延びた様と紐解ける。
「拕」=「手+它(蛇)」と分解すると、拕=山稜先(手)が曲りくねって(它)いる様と読み解ける。「拕」は水平方向、「宇陀」の「陀」は垂直方向で曲がる様を表すと解る。
纏めると「紀麻利耆拕臣」は…、
畝る山稜(紀)の平らな地(麻)を切り離した(利)場所にある大きく曲がった尾根(老)から
炎のような(日)山稜が延びた麓(手)が曲りくねって(它)いるところ
…に居た「臣」と読み解ける。現地名は豊前市青畑である。おそらく中央付近の小高くなった場所に居たのであろう。「朝倉君」は対面の大山祇神社辺りと思われる。「朝倉」=「朝が暗い」と読む。「井上君」は図に示した池尾池がある「井」=「囗」地形を示し、その上の場所と推定される。
「介」の三輪君大口は前記で三輪君を纏めて読み解いた中に入っていた。現在の妙見神社西麓、霧丘中学校の東側にある「口」地形の場所と推定される。同じく「介」の「河邊臣百依」は下記で纏めて示すことにする。
● 河邊臣百依・磯泊・磐管・湯麻呂
連座した八官人の出自の場所を順に求める。最初の「河邊臣」はこの後引き続いて計四名が記される。纏めて示すことにする。「河邊臣」は、蘇賀石河宿禰が祖となった臣に川邊臣がに出自を持つと思われる。「百依」は上記の「膳部臣百依」と同様の解釈となろう(解釈の詳細は下記)。「連なる盛り上がった様」と読むと、図に示した場所と推定される。
後の天智天皇紀に登場する「河邊百枝臣」は、「百依」と同一人物とする向きもあるようだが、「依」は「百」の依=人+衣=山稜の端の三角州、枝=連なった先が岐れている(枝)ところと解釈する。周辺の平坦な川辺は収穫豊かであったと思われる。古くから開拓された地である。
<河邊臣百依・磯泊・磐管・湯麻呂・子首> |
「磐管・湯麻呂」兄弟、兄の「磐管」の「磐」=「般+石」=「崖下の地が広がる様」と読んだ。それが「管」のようだと述べていると解釈する。磐管=崖下の広がる地が管のようなところと読み解ける。
「河邊臣」であるからこの管の先辺りが出自の場所と思われる。現地名は京都郡苅田町の山口である。弟の「湯麻呂」は「湯」=「急流の川があるところ」である。すると兄の少し南側の場所に「麻呂」の地ある。やはり「河邊」であることが判る。
こうして配置されて来ると、元来は「川邊」=「川の端」(河口)を示す表現から、「河邊」=「川の畔」のように変化して行ったように思われる。
尚、後に登場する百枝、子首も併せて図に示した。住まう場所に因んだ命名であろうが、何せ狭いところに密集した様子である。保有する田がの背後に広がっていたと思われる。百枝は百依の更に下流域、子首は、山稜が分岐した付け根辺りと思われる。
「古事記における皇位継承での諍いの謀反人は、財力があることを示している。逆にだからこそ謀反した、のであろう。「墨江之中津王」もしかり、である。
この地は古くから開拓に成功したのであろう。要するに水との戦いに勝利したのである。これは伝播する。下流域から上流域、古代では真に珍しい出来事だったと推測される。「蘇賀」現在の京都郡苅田町の大きな谷間は特筆すべき発展を成遂げたと思われる。故に「蘇我氏」と言う怪物も出現したのであろう。
● 丹比深目・丹比大眼・難波癬龜
さて、話が横道に逸れそうなので元に戻して、「丹比」の地に移る。書紀中で反正天皇が坐した「河內丹比、是謂柴籬宮」と記載されている。古事記で該当する記述は多治比之柴垣宮となろう。「丹比」→「多治比」となる。
「深目」の「深」は情報満載の文字であることを知った。前記の深草などが例示される。「深」=「氵+穴+又(手)+火」からの構成要素から成る文字である。深目=山麓の谷間(穴)に川(氵)と手のような形(手)及び炎のような形(火)の山稜がある谷間(目)と読み解ける。
これだけの模様が見られる谷間は図に示した、出口に月輪寺があるところと推定した。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保である。
「大眼」はそのままの地形を表していると思われる。少し東側の山稜の端が眼を見開いたような地形が見出せる。「大」=「平らな頂の山」として、現地名は同上である。
「難波癬龜」何とも、よくもこんな名前を付けたものだと思いつつも、場所は何処であろうか?・・・。
「癬」=「疒+魚+羊」と分解される。疒=山麓、魚=魚の尻尾の様と読む。前出の大伴鯨連の「鯨」のように「魚」のそのまま地形象形したと思われる。
すると図に示した場所が浮かんで来る。「羊」はその谷間であろう。更に「龜」が続く。二つの山稜の左側(西側)の端が「亀の頭」らしく見受けられる。
訓として記された「倶毗柯梅」の文字列を紐解くと、俱=人+具=谷間に並んだ田と読む。古事記で登場の迦具夜比賣など用いられている。毗=田+比=毘=田を並べた様、柯=木+可=山稜の傍の谷間に区切られたところ(池・沼)がある様、梅=木+毎=山稜が母が両腕で抱えるような様と読み解ける。読みと地形象形を併せて表すと記述である。正に「癬龜」の地形を示していることが解る。上図を拡大してみるとその言わんとするところが読み取れると思われる。
書紀の記述に拠れば、この地は「難波」(行橋市津積)である。「丹比大眼」までが「河内丹比」(京都郡みやこ町勝山大久保)とされる。現在の行政区分と合致する。古事記の「多遲比野」には「河(川)内」は付加されない。勿論川の外だからである。書紀の河内の定義が曖昧になった所以であろう。
この地は古くから開拓に成功したのであろう。要するに水との戦いに勝利したのである。これは伝播する。下流域から上流域、古代では真に珍しい出来事だったと推測される。「蘇賀」現在の京都郡苅田町の大きな谷間は特筆すべき発展を成遂げたと思われる。故に「蘇我氏」と言う怪物も出現したのであろう。
● 丹比深目・丹比大眼・難波癬龜
さて、話が横道に逸れそうなので元に戻して、「丹比」の地に移る。書紀中で反正天皇が坐した「河內丹比、是謂柴籬宮」と記載されている。古事記で該当する記述は多治比之柴垣宮となろう。「丹比」→「多治比」となる。
「深目」の「深」は情報満載の文字であることを知った。前記の深草などが例示される。「深」=「氵+穴+又(手)+火」からの構成要素から成る文字である。深目=山麓の谷間(穴)に川(氵)と手のような形(手)及び炎のような形(火)の山稜がある谷間(目)と読み解ける。
<丹比深目・丹比大眼・難波癬龜> |
「大眼」はそのままの地形を表していると思われる。少し東側の山稜の端が眼を見開いたような地形が見出せる。「大」=「平らな頂の山」として、現地名は同上である。
「難波癬龜」何とも、よくもこんな名前を付けたものだと思いつつも、場所は何処であろうか?・・・。
「癬」=「疒+魚+羊」と分解される。疒=山麓、魚=魚の尻尾の様と読む。前出の大伴鯨連の「鯨」のように「魚」のそのまま地形象形したと思われる。
すると図に示した場所が浮かんで来る。「羊」はその谷間であろう。更に「龜」が続く。二つの山稜の左側(西側)の端が「亀の頭」らしく見受けられる。
訓として記された「倶毗柯梅」の文字列を紐解くと、俱=人+具=谷間に並んだ田と読む。古事記で登場の迦具夜比賣など用いられている。毗=田+比=毘=田を並べた様、柯=木+可=山稜の傍の谷間に区切られたところ(池・沼)がある様、梅=木+毎=山稜が母が両腕で抱えるような様と読み解ける。読みと地形象形を併せて表すと記述である。正に「癬龜」の地形を示していることが解る。上図を拡大してみるとその言わんとするところが読み取れると思われる。
書紀の記述に拠れば、この地は「難波」(行橋市津積)である。「丹比大眼」までが「河内丹比」(京都郡みやこ町勝山大久保)とされる。現在の行政区分と合致する。古事記の「多遲比野」には「河(川)内」は付加されない。勿論川の外だからである。書紀の河内の定義が曖昧になった所以であろう。
<百舌鳥長兄・土師連土德> |
「百舌鳥(モズ)」は、古事記の毛受でとしてみると、毛受=鱗のような地が引き続くところと紐解いた。仁徳・履中・反正天皇の陵墓がある地名であった。
百舌鳥(モズ)の読みの由来を調べると、いつもの如く怪しげな感じである。要するに読みに拘って解釈すると、野壺に嵌ることになろう。
「百舌鳥」の「百舌」が地形象形しているとして、読み解いてみよう。「百」=「白+一」=「丸く小高い地が連なっている様」であり、「舌」=「舌ような山稜が延び出ている様」と解釈した。纏めると、百舌=丸く小高い地が連なっている山稜が舌のように延び出ているところと読み解ける。
古事記の倭建命の白鳥御陵があった地を詳細に見ると、「白鳥」から「舌のような山稜が延び出ている」と見做せることが解る。これに関連する書紀の記述は饒舌であり、「白鳥」の行動は複雑になっていて、陵の所在を突止め辛くしているのであろう。「白鳥」の地形は明瞭であり、そして今回の「舌」も明らかに認められる地形である。
要するに「百舌鳥(モズ)」ではなく、「百舌のある白鳥」を表している、と解釈される。勿論、例によって地形象形表記としては、申し分のないものなのである。これに従って長兄=長く延びた谷間の奥が広がっているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。白鳥御陵の西隣の場所となる。
ずっと後になるが、續日本紀の称徳天皇紀に白鳥村主等が登場する(こちら参照)。續紀は古事記表記を引き継ぎ、素直に「白鳥」の表記を用いている。書紀の捻じれた表記に引き摺られては、古代は見えないであろう。
後に登場する百舌鳥土師連土德の土德=盛り上がった地が四角く窪んでいるところと解釈される。「百舌」にある谷間を表している。殯を取り仕切る役目を仰せつかったようで、多分、本家の土師連一族を出自とする人物だったのではなかろうか。
● 葛城福草
「福草」とは?…辞書によると…、
キノコ形に石を刻んで金精様(こんせいさま)と同様に祭り,また夫婦和合,子宝を願って,おかめがマツタケ形のキノコを抱く人形を古くから民芸品としてつくる地方がある。中国文化の影響をうけてからは霊芝を幸福の使者とするようになり,福草(さきくさ),幸茸(さいわいたけ)の名でもよんだ。
…と記載されている。そんな「幸茸」の産地であったんだ…ではないであろう。
上記した「畐」を含む文字が使われている。「福」=「示+畐」=「酒樽のような高台(示)」と紐解ける。前出の「草」=「艸+早」=「山稜が並ぶ様」である。福草=並んでいる山稜(草)の端が酒樽のようなに高台(示)になっているところと読み解ける。
葛城の地で探索すると、中大兄皇子(葛城皇子)の西側の谷間で、奥が二つに岐れた場所と推定される。葛城稚犬養連網田の近隣となる。古事記の「畐」の解釈と全く異なる解釈となったようである。
● 犬養五十君
恐らく「縣犬養」であろう、として読み下そうとしたが、後の天武天皇紀に「縣犬養」と「犬養」が並記されることが分かった。明らかに別の「犬養」であることを示している。「縣犬養」の詳細はこちらを参照。
<犬養五十君> |
皇極天皇紀に葛城稚犬養連網田が登場していた。また「五十」を頼りに関連する場所を探すと、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、五十日帶日子王に含まれ、五十=山稜が[Ⅹ]と[十]に交差する様と紐解いた。
「五十」だけの表記なので、おそらく山稜ではなく谷間が「五十」の地形を示しているのではなかろうか。すると上記の「網田」の谷間が「五十」となっていることが解った。
「葛城稚」が省略されているが、何らかの事情があってことであろう。書紀編者の得意な表現手法である。谷間が「五十」になる場所は、決して多くはなく、分かり易い、と勝手に判断されたかもしれない。
「犬養」は、実に便利な文字列なのだが、それなりに汎用的な地形でもあり、修飾されないとなかなかに求め辛い地となるようである。書紀中に記載された「五十」の場所を全て調べたわけではないので、修正があるかもしれず、些か消化不良の状態である。
● 鹽屋鯯魚(舉能之慮)
「鹽屋鯯魚(舉能之慮)」は、何とも戯れた名称で「コノシロ」と呼ぶそうである。鹽屋=真っ平らな(鹽)尾根が延びた端(屋)と読む。「鯯」=「魚+制」と分解する。頻出の「制」である。これは「コノシロ」の姿特徴を表した文字で、鯯=尾の端が断ち切られている(二つに分かれている)様を表していると解釈される。
<鹽屋鯯魚(舉能之慮)> |
勝山松田の小字上野となっている。訓を示す「舉能之慮」の「擧」=「持ち上げられた様」、「能」=「隅」、「之」=「蛇行する川」である。
「慮」=「虍+思」と分解する。虍=崖に虎の縦縞のように連なる様と読む。更に「̪思」=「囟+心」と分解される。「囟」=「僅かな隙間」、頭蓋骨の泉門の象形と言われる。残念ながら地図上での確認は叶わないようである。
すると舉能之慮=持ち上げられた地(擧)の隅(能)に蛇行する川(之)と僅かな隙間が連なっている崖(慮)があるところと紐解ける。どうやら居場所は二つに分かれた尾の北側であったと推定される。この人物の詳細は後に述べることにする。
「慮」=「虍+思」と分解する。虍=崖に虎の縦縞のように連なる様と読む。更に「̪思」=「囟+心」と分解される。「囟」=「僅かな隙間」、頭蓋骨の泉門の象形と言われる。残念ながら地図上での確認は叶わないようである。
すると舉能之慮=持ち上げられた地(擧)の隅(能)に蛇行する川(之)と僅かな隙間が連なっている崖(慮)があるところと紐解ける。どうやら居場所は二つに分かれた尾の北側であったと推定される。この人物の詳細は後に述べることにする。
この地は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った比賣多多良伊須氣余理比賣の元の名前、富登多多良伊須須岐比賣命に係る地であることが解る。「富登」の名前を嫌って改名したと述べているが、実は住処を変えたのである。その後も人々は住み続けていたのであろう。
● 伊岐史麻呂
舒明天皇紀に登場した伊岐史乙等の居場所と共に既に求めた。壱岐島の天津を挟んで対面となる配置である。高天原も、まだまだ人々の生業が栄えていたのであろう。
④阿曇連(闕名)・膳部臣百依
「阿曇連某」は、「和徳史」が病気の時に、国造に官物を送らせた。「湯部」の馬を取った。「介」の「膳部臣百依」は、「草代」(牧草)を私蔵した。また国造の馬を取って、他人の馬に交換してしまった。「河邊臣磐管・湯麻呂」の兄弟の犯罪については不明。「湯部」は皇子養育の費用をだすために置かれた部とか。
<和德史> |
この三文字は既出であって、「和」=「しなやかに曲がる様」、「德」=「真っ直ぐな様」、「史」=「真ん中を突き通す様」と読み解いた。
これを並べると、和德史=しなやかに曲がる地(和)と真ん中を突き通すような地(史)に挟まれた真っ直ぐな(德)ところと紐解ける。阿曇山背連比良夫の近隣と推定される。
「湯部」は、上記のような皇子養育に関わる地ではあるまい。「湯部」=「急傾斜を流れ落ちる川がある地」と解釈する。直近では有間温湯など、頻出する文字である。標高差40m程度だが、崖状の地形を示している。
「膳部臣百依」は上図<穂積臣咋・膳臣百依>に示した。古事記に「膳臣」が登場するのは、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の孫、比古伊那許士別命(父親は大毘古命)が祖となった記述である。「春日」の地、「穂積臣」の近隣に当たり、現地名は田川郡赤村内田である。「膳」=「月+善」と分解される。更に「善」=「羊+誩」と分解されると解説される。
実に凝った文字の用法である。「誩」=「言+言」と分解される。「言」=「辛+囗」(耕地にされた大地)の地形象形と解釈した。古事記に頻出の文字要素である。それが「二つ並んでいる様」を表しているのである。幅広い谷間に並ぶ耕地(田)を示すには最適の文字であろう。古文字の形はこちらを参照。名前の百依=丸く小高い地が連なった端に三角州があるところと解釈する。
通常、膳臣(氏)は「古代に朝廷の食膳を管掌した伴造氏族」と知られる。これも「大宰」のように出自の地形に基づく名前の持主がその職務に当たり、その後、その職務そのものを表すようになったと推察される。
「河邊臣磐管・湯麻呂」については上図<河邊臣百依・磯泊・湯麻呂・磐管>を参照。河邊一族の勢い、やや勇み足だった、のかもしれない。
⑤大市連(闕名)・中臣德・涯田臣闕名
「大市連某」は、「菟礪」の人の訴え、「中臣徳」の「奴(奴隷?)」の訴えを断った。「中臣徳」も同罪。「涯田臣」は倭國で官刀を盗まれた、と記載されている。
「大市連某」は「古人大兄皇子」の別称「古人大市皇子」に関わると思われる。「乙巳の変」以後に呼び方が変わったと告げている。蘇我蝦夷の豐浦から遠ざからざるを得なかったのであろう。その「大市」(平らな頂(大)から延びる山稜が集まる(市)ところ)の場所はこちらを参照。現地名は京都郡苅田町下片島である。
「菟礪」は。既に菟田朴室古と併せて読み解いた。「菟田朴室古」は古人大市皇子の征伐に遣わされた人物である。この事件に関連する訴えなのであろうか?…不詳である。「涯田臣」の情報は皆無である。おそらく古事記の宇陀に該当するのではなかろうか。
<中臣:德-連正月-渠每連-連押熊-間人連老> |
「中臣德」は頻出の「中臣連」の地であって、「連」が付加されない地形の場所であろう。
「德」=「真っ直ぐな様」を頼りに探すと、「中臣」の谷間の入口付近と推定される。
確かにここには「連」は存在しないように伺える。そしてこの後登場する複数の「中臣連」も併せて図に示した。
それにしても、この決して広くはない谷間にびっしりと埋まった「中臣連」、一族の隆盛を物語る光景であろう。個別の解釈は登場した場面で行うことにする。
⑥忌部木菓・中臣連正月・平群臣(闕名)
咎があるが、詳細は不明と記載されている。最後の平群臣は三國の人の訴えを放置している罪だと述べる。
「忌部木菓」は既に登場した忌部首子麻呂の居場所に併せて示した。この名前は、木の実そのものの姿を捉えた表記と思われる。小倉南区守恒の広域宅地に開発されている地域に引っ掛かるが、辛うじて判別できる、と言うか「木の実」だけは手付かずの状況のようである。「首」が付加されていない、丁寧な表記なのである。
「中臣連正月」の「正月」は目出度い月ではなく、「正」=「真っ直ぐな様」として、頻出の「月」=「山稜の端の三角州」とすると、正月=真っすぐな山稜の端の三角州と読み解ける。矛盾する表現であるが、谷間の南側の山稜の端がその形を示していることが解る。確かに山稜の端は三角形に削られるのが通常であろうが、この地は特異である。それを捉えた表記と思われる。
「平群臣某」は、古事記の建内宿禰の御子の一人が祖となった地と思われる。書紀には該当する記述はなく、仁徳天皇紀に「木菟宿禰、是平群臣之始祖也」で登場する。いずれにしても建内宿禰(書紀では武内宿禰)関連の記述は古事記と書紀では大きく異なっている。後に述べることになろう。
さて、古事記に従うと「平群臣」の地は、現地名田川市奈良・伊加利であって、上記の「菟田」の北隣りの地であると推定した。「闕名」では詳細を求めることは叶わない。「三國」は舒明天皇紀に登場した三國王が居た場所と思われる。企救半島の足立山・戸ノ上山山系にある谷山の尾根、古事記では御諸山と表現される場所である。
⑦小緑臣・羽田臣・田口臣・丹波臣(全闕名)
<小縁臣> |
「小緑臣」もこれだけでは特定することは叶わないが、文字が示す意味から類推すると、小縁=小の縁(フチ)と読める。古事記の「小月」(小が尽きるところ)と関連付けられる。
現地名は小倉北区赤坂である。「小倉」=「小の谷間」とすれば、立派な残存地名と思われる。古事記では「小河」(現在の延命寺川)が流れる場所の縁に当たる。
また神八井耳命が祖となった筑紫三家連に関わる地である。古くから屯倉のあった場所と知られる。古代~近代にかけての交通の要所でもある。
「羽田臣」は「波多」一族の名称と知られている。古事記の建内宿禰の長男、波多八代宿禰が祖となったと記載されている。現地名は門司区風師である。この地はかなり初期に切り開かれ、「淡海」に面する崖っぷちの地形を持つところである。淡海に関係すると書紀は、徹底的に逃げ腰である。勿論、建内宿禰の後裔の記述も希薄なのは、やはり「淡海」に関わるからであろう。
「田口臣」は前記で述べたところ、「闕名」なので「川掘」、「筑紫」とは異なるのかもしれないが、定かではない。
<丹波臣> |
それに該当するとはとても思えなく、類似の表記の尾張丹羽臣で、神八井耳命が祖となったと記載されている。この命に関連する記述が多い、重要拠点を切り開いた(その後裔も含めて)ことが判る。
「波」と「羽」で読みは共通するが、表す意味異なって来る。あらためて読み解くことにする。
「波」=「端」であって、「丹」=「突き出た様」から丹波=突き出た山稜の端と読み解ける。突出るところは谷間と推定すると、図に示した、かなり広域の山稜の形を捉えていることが解る。
天皇家の末裔達が住まっていたのであろう。彼らが歴史の表舞台に現れた、と言うシナリオである。自白の取り調べだから、もっと腹黒かった?…そんなこともないであろう。
と言う訳で、あと少し続くのであるが、それは次回としよう・・・。