2020年5月11日月曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅳ) 〔413〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅳ)


天皇は仏法を広める施策を講じると共に武器の取締りも行った。おそらくそれが古人皇子の謀反の引金になったのであろうが、それは中大兄皇子達のよって仕組まれたようにも受取れる。且つ、例によって古人皇子側の手勢の調査も十分に行われていたであろう。差し向けた官軍の規模からも推測されるところである。

いずれにせよ、二人の皇子は乱れの元と早期に手を打つ必要があったと思われる。蘇我蝦夷臣が手にしていた地、古事記では近淡海国安國と呼ばれたところ、その歴史ある土地を手中にしたのである。蘇賀山田石川大臣にしてみれば、「蘇賀」の地を本来の形にできたわけで、思いの通りであったろう。「蘇賀」は一つに纏まり、その地が生み出す財力に変わりはなく、蘇賀蝦夷・入鹿臣のような横暴さを抑えられれば、更なる発展も期待できる思いもあったに違いない。

だがしかし、歴史はより錯綜とした道に進んで行くようである。天皇による統治体制強化策が次々に打たれる。暫くは、その記述で物語は進行する。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。大化元年(西暦645年)の暮れである。

甲申、遣使者於諸國錄民元數。仍詔曰。自古以降毎天皇時、置標代民、垂名於後。其臣連等・伴造國造、各置己民恣情駈使、又割國縣山海・林野・池田、以爲己財、爭戰不已。或者兼幷數萬頃田、或者全無容針少地。進調賦時、其臣連伴造等、先自收斂然後分進。修治宮殿築造園陵、各率己民隨事而作。易曰、損上益下、節以制度、不傷財不害民。方今百姓猶乏、而有勢者分割水陸以爲私地、賣與百姓年索其價。從今以後、不得賣地、勿妄作主兼幷劣弱。百姓大悅。

九月半ば過ぎのこと。かつては「臣連」等は好き勝手に土地を割き、民から税を取り、また使役に使っていて、諍いが絶えない有様であったと述べている。そのためには、先ず「諸國錄民元數」をしっかりと把握し、「不傷財不害民」であるべき制度を作り、勝手に行為は禁止する・・・「公地公民」の概念とか言われるところであろう。まぁ、一歩前進の世の中に進めようとしたことが告げられている。いや、当時としては画期的だったのかもしれない。

冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。戊午、越國言。海畔、枯査向東移去、沙上有跡如耕田狀。是年也、太歲乙巳。

大化元年(西暦645年)十二月九日に「難波長柄豐碕」に遷都したと記されている。「前期難波宮」とも言われる。Wikipediaによると…、

この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有力な反証となっている。現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている。 

…と記載されている。これ程までに確定的に言われていることに棹を指すのだから、それなりの説得力ある論旨を展開しなくては・・・何て意気込んでみても致し方なし、素直に名称は地形象形表現として読み解くことである。「長柄」も「豐碕」も、その由来を紐解かれたことはないであろう。残存地名も、残念ながら見出せていないのである。

遷都した、と宣言しても建造中(約七年間)であって、天皇は幾つかの「宮」を巡られたと言われる。それらの場所も併せて求めてみよう。通説は、皆目見当もつかない…失礼、確定できない有様である(一部はこちらこちらを参照)。
 
難波長柄豐碕宮
 
<難波長柄豐碕宮・子代離宮・蝦蟇行宮・味經宮>
「難波」は既に登場した現在の行橋市の南部、御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の北麓辺りとして、「長柄」の場所を探索する。

この地は長い山稜が多数延びる場所であるが、「柄」=「木+丙」と分解すると、「丙」=「先が[人]形に分かれている様」を示すと解釈される。

地形象形表現では、長柄=長く延びた山稜(長)の端が二股に分かれている(丙)ところと読み解ける。

すると現在大祖神社が先端にある山稜が浮かび上がって来る。更に豐碕=段差(豐)がある先端()のところの地形を示すことも判る。現地名行橋市西谷である。

続いて幾つかの「假宮」の場所を求める。
 
子代離宮

「御子代離宮」の「子代」(名代)の意味だとして片付けらているが、「離宮」(別邸)として子代離宮=背後にある(代)生え出た山稜(子)の傍にある別邸(離宮)と紐解ける。現在の貴船神社の場所と推定されるが、航空写真を見る限り、実にゆったりとした佇まいの感じである。

この宮には付加情報があって「難波狹屋部邑子代屯倉」を作り直したものだと言う。狭屋部邑=狭い尾根(狭)が延び至った(屋)地(部)の集落(邑)と読み解ける。「子代」は上記と同じで、図に示した細い山稜の周辺にある地からの収穫を貯えた「屯倉」と解釈される。「子代離宮」の位置を確かにしているのである。

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下段に「子代之民」と記述されている。「子代」を調べると「天皇が皇子,皇女のために設けた部民とする説が有力」とされている。古事記では垂仁天皇紀の皇子に、また武烈天皇紀に天皇の御子がなかったために「部」を定めたと記述されている。それを引継いでいると思われる。そして例によって上記の地形象形表記でもあろう。

いずれにしても、背後が「子」の狭い土地に作られた地が由来と思われる。頻出しない故に固有の名称には至らなかったのかもしれない。天皇、皇子の生前の有様を末永く留めるための機能もあったかもしれない。不祥な名称のようである。

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蝦蟇行宮

「蝦蟇行宮」はそのまま地形を表した表記と思われる。段差が微小で現在の航空写真を載せたが、見事に「蝦蟇」の形を示している。蘇我蝦夷臣に用いられた表現、「蝦蟇行宮」の方が頭部大きいようで、「夷」→「蟇」に置換えた、のかもしれない。
 
味經宮

最後は「味經宮」、重要な行事もこの宮で行ったと記載している。それなりの規模の宮であったようである。「味」は、古事記中、古くは豐玉毘賣命の許に向かった山佐知毘古が通った味御路、允恭天皇紀に出現した味白檮之言八十禍津日で登場する。味=口+未=尾根(木:山稜)を横切る谷間の道(一)の入口(口)と紐解いた。「未」=「木+一」である。

図に示したように御所ヶ岳・馬ヶ岳山系を越えて横切る谷間を見出すことができる。御所ヶ岳と馬ヶ岳の間にある峠道である。現在は使用されていないようであるが、京都郡みやこ町側には、ほぼ峠辺りまで車道が敷設されている。行橋市の麓から峠までの標高差約60m程度でかつては頻用されていたのではなかろうか。

既出の經=糸+坙=山稜(糸)が突き通す(坙)様と読み解いた。この二文字から図に示した山稜が見出せ、現地名行橋市津積の鋤迫辺りと推定される。残念ながら寺名は不明である。

纏めてみると、長柄豐碕宮の周囲に実に上手く配置されていることが判る。宮の防御体制としての各「假宮」の配置だったようにも思われる。とりわけ背後の山塊で大部分は防げるとしても、峠道に対して「味經宮」の存在は重要であったと推測される。多くの「假宮」の整備・行幸は、海辺に向かうことへのリスクヘッジだったのかもしれない。
 
枯査

老人等がこの春から夏にかけて、鼠が難波に向かって移動したのを見て、遷都の兆しだったか、と言ったと伝える。老人の言は含蓄多くて理解し辛いものがあるようで・・・引き続いて越國では「枯査向東移去」その跡は耕田のようだ、と言っている・・・と記されている。

「枯査」は「枯木の筏」、「流木の切り株(浮木)」などと解釈されているようである。がしかし、この文章そのものの意味もさることながら、前文の鼠の内容と繋がらない、のである。先ずは「枯査」を地形象形表現として紐解いてみよう。

「枯」=「木+古」と分解される。「枯れた」という意味は「古」=「頭蓋骨」を象った文字と言われる。それから通常に用いられる「古い、硬い(固)」などの意味に展開すると解説される。地形象形的には、枯=山稜(木)が丸く小高くなった(古)ところと読み解く。頻出の文字の組合せである。

「査」=「木+且」と分解されるが、「且」を横にした「冊」と同義であると知られている。即ち「査」⇄「柵」である。「柵」を横に倒したのが「査(筏)」である。目に見えるものの文字は分り易い。通常「検査」など用いられる「査」は、「柵」の隙間を通すことに基づくと解釈される。

するとこの越國の話は、後に登場する渟足柵・磐舟柵のことを述べていると気付かされる。即ち枯査=山稜(木)が小高くなったところ(古)にある柵(査)を表していると読み解ける。これらの「柵」は「越國」の人が造り、その周辺にあった。そして「柵」設置は「渟足柵」から更に東にある「治磐舟柵」へと延びて行ったと告げている。勿論「柵」を造り、領地(耕田)として行ったのである。

「鼠」の難波行きと如何に繋がるであろうか?…天皇家は、宮もその領地も東へ東へと移って行ったことを示しているのである。言い換えれば、難波は飛鳥の東方にあったことを述べていると読み取れる。さりげなく挿入された一文、それは決定的な内容を含んでいたことが解る。現在までに全く解読されていなかった、あるいは恣意的に放置されて来た記述である。

書紀編者もたとえ読み解かれても、誤魔化せると踏んだのであろう。改竄せず原文のままに残した箇所と思われる。あるいは、彼らの良心が頭をもたげて来たのであろうか・・・。

二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊。仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛賜官人百姓、有差。又曰、大夫所使治民也、能盡其治則民頼之。故、重其祿、所以爲民也。其二曰、初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、(兄、此云制)西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依鈴傳符剋數。凡諸國及關、給鈴契。並長官執、無次官執。其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。凡五十戸爲里、毎里置長一人、掌按檢戸口・課殖農桑・禁察非違・催駈賦役。若山谷阻險・地遠人稀之處、隨便量置。凡田長卅步・廣十二步、爲段。十段爲町。段租稻二束二把、町租稻廿二束。其四曰、罷舊賦役、而行田之調。凡絹絁絲綿、並隨鄕土所出。田一町絹一丈、四町成匹。長四丈、廣二尺半。絁二丈、二町成匹。長廣同絹。布四丈、長廣同絹絁。一町成端。(絲綿絇屯、諸處不見。)別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄、亦隨鄕土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一匹。若細馬毎二百戸輸一匹。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者、改舊毎卅戸一人、(以一人充廝也。)而毎五十戸一人、以一人充廝。以充諸司。以五十戸、充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺、庸米五斗。凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者。(從丁一人、從女二人。)以一百戸、充采女一人粮。庸布・庸米、皆准仕丁。
是月、天皇、御子代離宮。遣使者、詔郡國修營兵庫。蝦夷親附。(或本云、壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。)

大化二年(西暦646年)正月一日に賀正の礼を済ませて、すぐに「改新之詔」を宣われた。その一は、民と土地の私有禁止、その代わりに「食封」を与える。これはそれぞれ相応の禄高のようである。その二は、「京師」、「畿内」の定める項である。「畿内國」の定義が東西南北で具体的に述べられている(後に詳しく検討する)。機内への出入りの監督のための施策などが事細かく記述されている。これは中国を模倣したものであろう。

その三では、税の徴収方法について定めている。そのための長さ・広さを定義している。その四では米以外の税の献上方法など、詳細な取り決めが記されている。あらためて見直してみて、さすが遣唐使を幾人も送り込んだだけあって、しっかりと国家体制が築かれつつある様子が伺える。また、いつの日か詳細を調べてみようかと思う。
 
畿内國

「東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、(兄、此云制)西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國」と記載されている。通説の解釈を整理してみよう。

①東限:名墾横河→三重県名張川
②南限:紀伊兄山→和歌山県かつらぎ郡背山・妹山
③西限:赤石櫛淵→兵庫県明石川、もしくは今の神戸市須磨区と垂水区の区境となる境川
④北限:近江狹々波合坂山→滋賀県大津市逢坂

見事に奈良大和を中心とした領域を表しているように読める。ただ西限には異説があるようで、「赤石」→「明石」の読みを重視したものと、鉢伏山麓が海岸にまで達する神戸市の境川(摂津国と播磨国の境)と言う地形を重視した説がある。畿内の四至としての報告がある。
 
近江狹々波合坂山

なるほど、と感心している場合ではない。④北限に「近江」が含まれている。再三再四、書紀は古事記の「(近)淡海」を「近江」に置換えたことを述べて来た。
 
<近江狹々波合坂山>
これを還元するのであるが、「近」が付く場合か否かであろう。これに続いて「狹々波」と記載されている。これで決まりである。この近江→近淡海である。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に、天皇が自らを蟹に喩え、高志(越)から近淡海(難波津)に海辺を伝い行き、上陸したところを沙沙那美と表現したところである。通説は、書紀に準ずる故にこの地を滋賀の地に求めている。

「狹々波合坂山」の文字列は丁寧に読み解く必要がある。「狹々波」が「坂」と出合う「山」と解釈する。図に示したように「坂」(山の頂から延びた山稜)が「佐佐那美(狹々波)」が交差する「山」を表している。

近江狹々波合坂山=近淡海國(近江)にある頂から延びた山稜(坂)が狹々波の地と出合う(合)山と読み解ける。

通説では「狹々波」=「湖面の漣(さざなみ)」とされるようである。坂と湖が出合う、とは言わないのであろう。そして「北限」ではなく「東限」であると解釈される。次いで書紀で「東限」とされた「名墾横河」を読み解いてみよう。
 
名墾横河

この川が「西限」であることは容易に気付かされる。この地には英彦山山系(東西)から南北に延びる多くの山稜がある。即ちその谷間を大河が流れる地形を示している。むしろ、どの川かを定めることに困難さが感じられる。それを何と表現しているのであろうか?…「名墾横」の文字列を紐解くことにする。
 
<名墾横河>
「名」=「夕+囗」と分解され、「夕」=「山稜の端にある三角州」と読み解いた。古事記頻出の文字である。直近では
渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)の古事記名称「沼名倉太玉敷命」にも含まれている。

「墾」=「貇+土」と分解される。「貇」=「牙で傷を残す様」を表す文字と知られている。地形象形的には「墾」=「大地が牙のような尖った形をしている様」と解釈される。

「名」=「山稜の端に三角州がある様」、「横」=「東西の方向」と読む。纏めると名墾横河=山稜の端の三角(名)が牙のように尖っている傍らを東西に流れる川があるところと紐解ける。

現在名中元寺川、英彦山の北西にある戸谷ヶ岳・朝日岳(田川郡添田町中元寺)の谷間を源とする川である。

通説は「墾(ハル)」と読ませる。推古天皇の「小墾田(ヲハリダ)宮」も、古事記の小治田宮も同様である。これを「名張(ナバリ)」に繋げた解釈となっているようである。「横」は何処に?…凄まじく蛇行する川だから東西に流れることもある?…上記と同様、読み方の部分一致の比定である。ここが「西限」と解釈される。

尚、古事記では「那婆理」と表記される。伊勢・尾張の近隣である。おや、通説も・・・見事に転写したものである。次いで書紀では「西限」とされた「赤石櫛淵」は何処であろうか・・・。
 
赤石櫛淵

通説でも異説があるように、「赤」の文字を現存の地名の中に求めるのは難しいようで、地名類似の方法は放棄する解釈されているようである。奈良明日香村(難波もあるが…)を中心とするなら、西は海であって、当てられている場所は、西北になる。四辺で囲まれたところが畿内とすれば、大阪湾をすっぽりと含んでいることになる。当時の認識は今と異なっていて・・・で済ますのであろうか・・・。
 
<赤石櫛淵>
さて、残るは北限と南限であるが、これは何方であろうか?…「赤」と「淵」を頼りに南北に探索することにする。
書紀においても、「赤」は古事記で紐解いたように「赤」=「大+火」と分解して地形象形されている筈である。

大長谷若建命(雄略天皇)紀の説話に登場した引田部赤猪子に使われていた。そこには「美和(三輪)」も登場する。この地は直近で頻出する三輪君の麓、海辺に接する場所と推定した。

即ち「赤」は足立山西麓にある谷間に「隹・栗・色」で表される「丸く小高いところが突き出たところ」ある地形を示している。赤=平らな頂から延びる山稜が[火]の形をしているところと読み解いた。

この地形を探すと、現地名直方市、雲取山の南麓にあることが見出せた。そして現在は福智山ダムとなっているが、櫛淵=櫛のような山稜の淵が麓にあることも即座に気付ける。雲取山の北麓は「巨勢臣」(古事記では許勢臣)の居場所が広がるところである。

「石」=「厂+囗」と分解される。通常は崖下の岩のように解釈されるが、文字形は石=崖下の区切られたところである。当時はダムではないが、大きな沼の状態だったのではなかろうか。これが「北限」と決定される。
 
紀伊兄山

いよいよ残りの「南限」である。ここまで来れば何が何でも・・・通説のように、ではない。三つの文字が示す場所を求めてみよう。ところで通説は和歌山県かつらぎ郡背山・妹山に比定されている。「兄、此云制」の注記の読みに依存するのであろう。この地も素直に受け取れることが難しい場所にある。
 
<紀伊兄山>
上記したように明日香村からは南西方向、どちらかと言えば西に近い方向である。それを「南限」とは、理解し辛いところであろう。


紀伊半島特有の地形であって、紀ノ川から南側は熊野の山並が広がる地であり、半島南端まで続く山岳地帯である。

言い換えると明日香村は奈良盆地の南辺にあって、寧ろ「南限」とした方が理解しやすい状況であろう。

いずれにしても「兄(セ、セイ)」の読みと残存地名への拘りがもたらした結果であろう。紐解きに目途ができたので、通説論破に走っているようである。

止まれ、「紀」=「糸+己」と分解され、「紀」=「連なる山稜(糸)が[己]の形に曲がる様」と読み解ける。「伊」=「山稜が谷間で区切られている様」と読み解いて来た。また頻出の「兄」=「谷間の奥が広がっている様」で変わらず、である。纏めると、紀伊兄=連なって[己]の形に曲がる山稜が谷間で区切られたところの傍らにある谷間の奥が広がった様と読み解ける。
 
これだけの情報で「飛鳥」南部を探索すると、現地名田川郡大任町と赤村赤との境にある立石峠が見出せる。更に小ぶりな「兄」の地形もある。当然ながら「山背大兄」、「中大兄」「古人大兄」のように「大」(平らな頂の麓)は付加されず、「紀伊」とされる。

そしてこの「伊」が「紀」の山稜を「制」=「末+刀」(端を断ち切る)していることが解る。伊制=山稜を区切って端を断ち切る様となる。これこそ「南限」に相応しい「峠」の地形であり、そこを目印としたのである。通説は「紀伊・兄(制)山」と区切るが、全くの誤解であろう。

<畿内四至>
東限:近江狹々波合坂山には御所ヶ岳・馬ヶ岳山系を横切る唯一の県道242号線が走る。何よりもここは古事記の波邇賦坂と言う由緒があり、有名な峠道なのである。

西限:名墾横河は泌川の支流、これは納得であろう。古事記では、その近辺に櫻井田部連之祖嶋垂根之女・糸井比賣が登場する(現地名は糸田町)。

彼らは田川郡糸田町に住まって居たと推定した。それより西の人物は登場しない。

北限:赤石櫛淵は巨大な淵の存在を知らぬ者はいなかったであろう。この地の西側は大倭日子鉏友命(懿徳天皇)が坐した輕之境岡宮があった場所と推定した。現在に残る地名上・下境の地である。

南限:紀伊兄山は山背(代)國から飛鳥に抜ける峠の場所である。仁徳天皇の大后石之日賣命が嫉妬に狂って彷徨い、葛城の地を遠望するところと推定した。

万人に畿内を知らしめるのに相応しい場所が選定されていると思われる。国の中心、防人まで準備する体制である。重要なランドマークでなければならない筈である。「畿内」については様々な角度から考察されているようである。しかしながら、通説の比定場所から論じることが必要であろう。

古事記の「(近)淡海」を「近江」に置換える故に、書紀編者は「東限」→「北限」→「西限」→「東限」と回転させ、「南限」は据え置いた。上記したように南は手の施しようがなかったのであろう。「飛鳥」を現在の奈良県明日香村の地に遷移するならば、そこは「南限」の地形だったからである。

畿内の中心を難波に置く、という説もあるとのこと。がしかし、それでは畿内の西域は殆ど海になってしまう。あり得ない配置であろう。上図<畿内の四至>であったことを知りながらの作業、苦労が偲ばれる。それにしても地図がない時代でも、本来の姿を把握できていた彼らの空間感覚の確かさが伺えたようである。中国史書にしろ、些かの誤謬があったとしても、古の人々が書き記したものを勝手に変えてはならないのである。

この一月中、天皇は子代離宮(上図<難波長柄豐碕宮・子代離宮・蝦蟇行宮・味經宮>参照)で成務に励んだと記載している。さすが元号大化が記載されるだけあって、記述内容が異なる。伊邪那岐・伊邪那美が国を生んだ時を懐かしく思い起こす有様である。