2020年5月8日金曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅲ) 〔412〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅲ)


天萬豐日天皇(孝德天皇)は左右大臣の娘を娶り、天皇を頂点とする体制を確立すべく努められた様子が語られた。なかなかに気配りのある政令であり、「鍾匱(カネヒツ)」の制などでともすれば諍いが発生しやすい環境を何とかそれぞれが納得いくような仕掛けも用意したとのことであった。

また婚姻関係では、民を「良」と「婢」に分けて、この組合せで男女から生まれる子供をどちらが引き取るかを決めている。それは両者の婚姻を禁ずるのではなく、「良」の中に「婢」を入り混じらせないための令となっている。分断されていた時代を映し出しているようである・・・現在は、その分断が進行しているのであるが・・・。

さて、蘇我一族に燻っている筈の不満を解消できるのか、否や、まだまだ嵐の到来を伺う時期でもあったようである。前記に引き続き、大化元年(西暦645年)の出来事が伝えられている。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

癸卯、遣使於大寺、喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百濟明王、奉傳佛法於我大倭。是時、群臣倶不欲傳、而蘇我稻目宿禰、獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰、使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。朕、更復思崇正教光啓大猷。故、以沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙、而爲十師。別、以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等、宜能教導衆僧修行釋教、要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺、不能營者朕皆助作。今、拜寺司等與寺主。巡行諸寺、驗僧尼・奴婢・田畝之實、而盡顯奏。卽以來目臣(闕名)・三輪色夫君額田部連甥、爲法頭。

八月に入って、「大寺」…多分、飛鳥寺(法興寺)…に僧尼を集めて、もっと仏教を広めるように、と仰った。磯城嶋宮御宇天皇(欽明天皇)十三年、百濟の明王(聖明王:在位523-554年)が大倭(ミカドと読む?…古事記の大倭豐秋津嶋であろう)に伝えられ、譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)、小墾田宮御宇天皇(推古天皇)の御代に亘って、蘇我一族が熱心に布教を試みたが、なかなか広まらなかったと述べている。

十師を任命して、僧達を教導させ、寺が立ち行かなると助けよ、と指示されている。この当たりも心配りが伺える。十師の中に度々登場する「寺主僧旻」が見える。何処の寺?…おそらく集会の場所、飛鳥寺(法興寺)ではなかろうか…蘇我氏の菩提寺で、その業績を語った、と言うシナリオであろう。もう一つの「大寺」の候補、百濟大寺には「惠妙法師」がなっている。

三名の者を「法頭」(寺の財政面などの管理・監督役?)としたと記されている。自然崇拝的な神様では人心掌握は難しく、その点仏様は人々に耐え忍ぶ術を教える、これは都合が良いわけで、政教分離ではなく、政教不可分なのである。人間社会に支配(意識)構造が存続する以上、宗教は衰退しない、のかもしれない。
 
譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)

古事記では「沼名倉太玉敷命」であり、書紀の表記は渟中倉太珠敷天皇であるが、同一の場所を示していることを既に述べた。また坐したところは「他田宮」と記載されている。そして即位されて「譯語田宮御宇天皇」と名称が変わり、坐した宮は「幸玉宮」と記載されている。書紀も古事記に負けず劣らずの”ややこしい”名前である。地形象形させるために止む終えず、ってところであろうか。

文字列から意味を読み解くことは、全く不可であり、故に一文字一文字を読み解いてみよう。「譯」は通常用いられる「訳」の旧字体と知られているが、そのまま読み解くことが重要である。「譯」=「言+睪」と分解される。古事記で紐解いた「言」=「辛+囗」と分解され、言=刃物(辛)で耕地にした大地(囗)と読み解いた。
 
<譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)>
睪=両手に手錠をかけた様を表すと解説される。それから「点々と繋がる様」へと展開する。「驛(駅)」の意味を示す。

すると譯=耕地が点々と連なっているところと読み解ける。通常のように「言」を「言葉」とすれば、所謂「訳」の意味を表す文字となる。

同様に「語」=「言+吾」と分解する。更に「吾」=「五+囗」と分解される。「五」の古文字は「Ⅹ」である。即ち吾=大地が交差したようなところを表す文字と紐解ける。

古事記では邇邇藝命の父親である正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれていた。この長ったらしい名前に壱岐市勝本町新城東触の地形が見事に当て嵌まる。

谷間に流れる川が谷巾一杯に大きく蛇行している地形を表していると思われる。長い棚田は川を挟んで交互に並んでいる状態である。古事記は、それを簡略に「他」で表記したのであるが、書紀は実に丁寧である。勿論、長くて一見意味不明のような名前となったのである。

「宮」は通常の意味ではなく、これも地形象形に用いられている。「宮」=「宀+呂」と分解される。すると田宮=山麓で田が積み重なったところと読み解ける。古事記の「茨田」を使っていない。デッドコピーを避けたのか、単に嫌だったのか、かもしれない。「御宇」は既出で同じであろう。

宮の名称が「幸玉宮」と記されている。古事記では「他田宮」(谷間で蛇のように曲がりくねった田の傍らの宮)と紐解いた。それでは場所の特定には至らず、おそらく現在の龍王宮辺りではないかと推測した。

「幸」=「両手に手錠をかけた様」、上記の「睪」と同様であるが、「睪」=「罒+幸」であって、「罒」=「点々と連なる様」を補足するのである。すると幸玉=両手に手錠を掛けられたように二つの玉が並ぶところと読み解ける。現地名、京都郡みやこ町勝山矢山にある龍王宮辺りを的確に示していることが解る。

<來目臣・來目舎人造>
法頭

「法頭」に任命された三名の居場所を求めてみよう。それにしても「三輪」(美和)からの調達が凄まじいようである。

①來目臣(闕名)

直近では來目物部伊區比がいるが、「來目」は、厩戸皇子の弟の來目皇子に関わる地であろう。

古事記では久米王と記載されている。「久米」=「[く]の字形に曲がる川が[米]の形に合流するところ」と紐解けるのであるが、その場所を「來目」と表記していることになる。

「來」は「麦の穂」を象った文字である。地形象形的には來=長く広がって延びる山稜を表すと読み解いた。書紀中では蘇我蝦夷親子が墓所を造った今來などで用いられている。些か崩れた山稜ではあるが、「來」の文字が示す山稜には変わりはないようである。そして、目=裂け目がある。

上記と同じように古事記の「久米」では、居場所の特定がやや曖昧なのであるが、「目」は判り易く、「臣」=「凹(窪)んだところ」と辻褄も合うように思われる。「來目皇子」とは何らかの繋がりがあったのではなかろうか。

ずっと後になるが、天武天皇紀に來目舎人造が登場する。「來」が更に延びた谷間の場所を表していると思われる。上図に併記した。

<三輪君:色夫・大口・甕穗・根麻呂>
②三輪色夫君

多数登場の「三輪君」であるが、今回も少々纏めて居場所を示した。当該の「色夫」の「色」=「人+巴」と分解する。

色=谷間にある[巴]の形のところと読み解ける。古事記では重要な文字であり、多用される。

例えば、大国主命の別名、葦原色許男などで[巴]の形に盛り上がった地形を表す。要するに、色=谷間(人)にある丸く盛り上がった地から山稜が延び出ている地形(巴)である。

図に示した谷にある盛り上がった山稜、二羽の「鳥」が並んでいる様とも記述されて来た。地形を一つの方向から見るのではなく、多様である。

今回は、「巴」であるが、そこから延びている山稜が重要なのである。延びた先で「夫」=「寄り集まって引っ付く様」で居場所を表していると読み解ける。流石に書紀の編者達の優秀さが伺える記述であろう。古事記とは一味違った趣がある。

「三輪君大口」はそのままで解釈できる。図に示した場所が大口=平らな頂の山麓で口を開けたようなところと見做せる。後にご登場なので、その場面でもう少し、補足してみよう。次が「三輪君甕穂」の「穂」=「稲穂のような山稜」として読めるが、「甕」な何と解釈するか?…「甕」=「雍+瓦」と分解される。「雍」=「両手で抱える様」を示す文字と解説される。

甕穂=両手で抱えられた()稲穂のような(穂)山稜が平らに並んでいる(瓦)ところと紐解ける。現在は足立公園となっているようで、当時を再現しているかどうかは些か不明だが、きちんと地形の要件を満たした表記と思われる。現在登録者七名、いや、まだまだ余裕が・・・またまた天智天皇紀に「根麻呂」が登場する。「大口」の南に隣接する山稜が延びた端のところと推定される。併せて記載した。

<額田部連甥・湯坐連秦吾寺>

③額田部連甥

「額田部」は、古事記では天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった「額田部湯坐連」に含まれる地名(部)である。

「湯坐連」はその地の長く延びた山稜の端に当たるところと推定した。

通説では御子達の養育担当の部署の名前かと解釈されているようであるが、これも立派な地形を表記した命名である。「大宰」などと同じく、部署名に用いられてのではなかろうか。

繰返しになるが、額田=額のように突き出た山腹の麓にある田と読み解ける。現地名は田川郡香春町高野の湯山(小字)と推定される。「額」は図中の椿台に該当する。「甥」=「生+男」と分解すると、甥=生え出た[男]であろう。図に示した地形そのものの表現である。

後に登場するのであるが、「額田部湯坐連(闕名)秦吾寺」も併せて紐解いてみよう。「湯坐連」は古事記と同様に解釈される。既出の「湯」=「急勾配の斜面を流れる川」である。地図上では川の表示は見られないが、航空写真に幾つかの堰が見られる。かつては急流があったと推定される。

「坐」=「谷間が二つに分かれた様」を表す。それが延びたところが「連」である。「闕名」であるが、「秦吾寺」が付加されている。「秦」=「二つに分かれて広がり延びた山稜」であり、「吾」は上記と同じく「」の形を示す。「寺」=「蛇行する川」である。合わせると秦吾寺=二つに分かれて広がり延びた山稜の端が蛇行する川の傍で交わっているところと紐解ける。

「寺」は無名の川、及びそれらが合流する金辺川も含めての表記であると思われる。凄まじいくらいの文字の羅列であるが、全て地形表記に必要な要素が盛り込まれている感じである。余談だが。「湯」が登場するから産湯を連想されているようである。「お湯」ではない。生まれた子を「湯」に浸けては溺れてしまうであろう。更に「闕名」が明かされると、家にまで届きそうである。

九月丙寅朔、遣使者於諸國治兵。(或本云、從六月至于九月、遣使者於四方國、集種々兵器。)戊辰、古人皇子、與蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田來津、謀反。(或本云、古人太子。或本云、古人大兄。此皇子、入吉野山、故或云吉野太子。垂、此云、之娜屢。)丁丑、吉備笠臣垂、自首於大兄曰。吉野古人皇子、與蘇我田口臣川掘等謀反、臣預其徒。(或本云、吉備笠臣垂、言於阿倍大臣與蘇我大臣曰。臣、預於吉野皇子謀反之徒、故今自首也。)中大兄、卽使菟田朴室古・高麗宮知、將兵若干討古人大市皇子等。(或本云。十一月甲午卅日、中大兄使阿倍渠曾倍臣・佐伯部子麻呂二人、將兵卅人、攻古人大兄、斬古人大兄與子、其妃妾自經死。或本云。十一月、吉野大兄王謀反、事覺、伏誅也。)

九月に入って諸国の兵を治めさせた。或る本に記載されているように武器を集めて取上げたのであろう。それが引き金になって古人皇子の謀反に繋がって行ったと告げている。謀反人として征伐するには動機が必要で、今回は仲間の自首で発覚したと述べている。武器の収集も一つの仕掛けであったと思われる。

謀反仲間となった連中のその後は如何なることになったのか、語られないが、簡単に片付いたような記述である。いずれにしても蘇我一族の中心人物が一人潰されたわけである。古人皇子の別名が並べられているが、最後の場所となった吉野太子・皇子で終わる。
 
謀反之徒

多数挙げられた謀反仲間を紐解いてみよう。何かを意味しているのかもしれない。

<蘇我田口臣川掘・筑紫>
①蘇我田口臣川掘

「田口」の場所は、特定するのが難しく、多くの候補があるように思われる。図に後に登場する田口臣筑紫も併せて示したが、この人物名が決め手となったようである。

こちらから詳しく述べよう。書紀の表記も古事記と同様に地形象形しているとすると、「筑紫」の地形は現在の企救半島、古事記に登場する比婆之山を象った表現と解釈した。

「蘇我(賀)」と「筑紫」は全く異なる地であって、これが重なる、隣り合うなどはとても信じがたい表現のように受け取れる。

それは「筑紫」が固有の地名と頭から信じ込んでしまった結末であろう。古事記の読み解きで、幾度となく「筑紫」は地形象形表現であることを述べた。しかしながら古事記中には他の場所での「筑紫」という表記は出現しなかったのである。

<筑紫>
それが、書紀の人物名に登場した、と解釈される。では、この地に「筑紫」の地形は存在するのであろうか?…図に示したように、見事にその文字形を表すところが見出せる。

古人大兄皇子の谷間の東側の平らな尾根から山稜が延びる山肌に、「筑」の文字要素が求めるコブのように突き出たところがある。

右図は「筑紫嶋」、「筑紫國」として登場するが、その謂れを読み解いた時の図である。こじつけ風の解釈のように思われるが、今、これが間違いなく「筑紫」の由来と言えそうである。

言葉で表現すれば、「二つの山稜が延びる平らな頂の麓に小高い地がある様」となる。そして「田口臣」の田口=田が口を開けたように並んでいるところと読み、「古人大兄」の谷間の入口に当たると読み解ける。

「川掘」の「掘」=「手+屈」と分解され、「掘」=「山稜の先が大きく曲がっている様」を表すと読める。すると川掘=川が山稜の先が大きく曲がっているところに沿って流れるところと紐解ける。「川掘」と「筑紫」は、同じ「田口臣」のお隣さんだったことが解る。

いずれにせよ蘇我蝦夷臣が統治し、古人大兄皇子に譲ったと思われる地に住まい、一時の夢を見ることができた人々である。剃髪した古人大兄皇子の姿を見るに忍びなかったのかもしれない。衝動的な謀反、中大兄皇子・中臣鎌子連の周到さとは雲泥の差があったようである。

<物部朴井連椎子>
②物部朴井連椎子

「物部」の地で探してみよう。「朴」=「木+ト」=「山稜が枝分かれした様」と読みとく。

「椎」=「木+隹」と分解される。「集」と同じ要素からなる文字である。「木に鳥が集まっている様」を表して通常使われている意味となるが、集まり方が異なっているのである。

同様の文字で「堆」があり、「木」と「土」が異なる。これも「集まる様」を意味するが、「積み重なって集まる様」と解釈される。「椎」=「木の枝が積み重なって集まった様」と表す文字と解釈される。

「椎」は「背骨」の意味を示すが、漸く到達したようである。地形象形的には「椎」=「延び出た山稜がくっ付いて並んでいる様」と読み解ける。「井」=「囗に囲まれた様」、「子」=「生え出る様」とすると…、

朴井連椎子=枝分かれした山稜(朴)で四角に取り囲む(井)山稜がくっ付いて並んでいる地(椎)から生え出た(子)ところと読み解ける。

現地名は北九州市小倉南区市丸である。古事記の記述では、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が「宇陀之穿」を通り抜けて崖を下った時に兄・弟宇迦斯と遭遇した場所と推測される。「物部」の中心からやや外れたところのように見受けられるが、この謀反に連なったことに、それが関係するかは定かではない。

少々余談になるが、古事記で登場する針間國を現在の築上郡築上町椎田辺りと推定した。「針間」=「針のような細い隙間」と読むと「椎」の地形を表していることが解る。「背骨」と直感的に見た結果は、やはりきちんと文字解釈がすることによって確認されたようである。

<吉備笠臣垂・笠臣諸石>
③吉備笠臣垂

古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀に御子の若日子建吉備津日子命が吉備下道臣と笠臣の祖となったと記載されている。

「笠」は竜王山の西麓を西から眺めると笠の形に見えることから命名されたのでは、と推測した。「笠臣」は西麓に住まっていたと思われる。

「垂」に「之娜屢(シダル)」と訓されている。既に幾度か読み解いて「垂」の古字形が垂=垂れ下がるように延びた山稜に挟まれた広い谷間を表すと読み解いた。

之娜屢=しなやかに流れる川の傍にある小高い地が連なったところと読み解ける。「垂」だけでは今一場所の特定に困るが、これで見事に見出せる。吉備の入江に限りなく近づいた場所である。図に示した通り、この地は天豐重日足姫天皇(皇極天皇)の出自の地の北側に当たる。現地名は下関市吉見下である。

また、図に記載していないが、「吉備津」を挟んでその対岸は天萬豐日天皇(孝徳天皇)の出自の場所となる。「笠臣」は天皇家が吉備を最初に切り開いた末裔である。「蘇賀」の分断に類似するように感じられる。近隣する地は、融和と不和の振れ幅が大きくする、のであろう。

天智天皇紀に「笠臣諸石」が登場する。兄弟だとか言われているが、「諸石」の場所を求めておこう。「諸」=「言+者」と分解すると、諸=耕地が交差するような様と解釈される。頻出の石=山麓で台地が広がった様と読むと、「垂」の北側にその地が見出せる。兄弟揃ってではなく、リスク回避で二手に分かれたのかもしれない。

④倭漢文直麻呂

前記に登場した倭漢直比羅夫の近隣と紐解いた。こちらを参照。「倭漢」も多くの人材を輩出した地であろう。
 
<朴市秦造田來津>
⑤朴市秦造田來津

これはかなり省略された表記と思われるが、「秦造」の特徴は既出の葛野秦造河勝に関わる人物であろう。滋賀県のとある寺に親子とした系図が残っているとのことである。

さてその地で調べると・・・「朴」は「枝分かれした山稜」の姿を表記するのに便利だと見えて度々登場である。

「市」=「集まる様」と読む。すると朴市=枝分かれした山稜が集まるところと読み解ける。

「來」も頻出であるが、「麦の穂のように山稜が広がり延びる様」を示すと読んで来た。「田」が付加されていることから「山稜」ではなくて、田來=田が麦の穂のように広がり延びたところと読み解ける。そしてそれらが「津」=「集まる様」を表している。

これらの要件を満たす場所が容易に見出せる。「河勝」の谷奥が広がったところを示していることが解る。現在も標高約120m辺りまで棚田がなだらかに広がる地のようである。親子の関係、十分に納得できる位置関係であろう。

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ところが、「吉備笠臣垂」が寝返って「中大兄皇太子」(一説では阿倍大臣)に自首したと述べている。勿論理由は語られず、である。そこで二人の使者に「將兵若干」(一説では三十人)を添えて差し向けた、将軍の登場かと思いきや、使者であった。軽い扱いだったと告げている。使者二名に異説が合って「菟田朴室古・高麗宮知」(❶)もしくは「阿倍渠曾倍臣・佐伯部子麻呂」(❷)と記されている。
 
<菟田朴室古・菟礪>
❶菟田朴室古

またもや「朴」の登場であるが、果たして「菟田」の地で見出せるであろうか。

ポイントは「室」=「宀+至」と分解され、室=山麓の谷間(宀)の奥(至)を表す文字と読み解く。古事記に頻出の文字であって、全てこの解釈となる。

「古」=「丸く小高いところ」から、図に示した場所と推定した。些か後代に手が加えられた地形であり、判別に曖昧さを残す羽目になってはいるが・・・。

朴室古=枝分かれした山稜(朴)の谷間の奥(室)にある丸く小高い(古)ところと読み解ける。判り易い名称なのであるが・・・。

後に「菟礪」の地名が記される。「礪」=「石+厂+萬」と分解すると、礪=サソリの地形(萬)で山稜の端にある小高い地(厂・石)の傍らにあるところと読み解ける。現在の岩ノ鼻の麓辺りと推定される。

「菟田」の地にも多くの人々が住まっていたことが解る。それにしても「都(ツ)」を「ト」と読み、「菟(ト)」を「ウ」と読む。本居宣長のなせるところ(おそらく?)から一歩も脱却していない、混迷の古代史学であろう。
 
<高麗宮知>
❶高麗宮知

「高麗」は蘇我高麗、蘇我(宗賀)稲目宿禰の父親の場所であろう。まかり間違っても朝鮮半島の人物ではない。現地名京都郡苅田町に出自を持つ身である。

「宮」は上記の「譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)」と同様に用いられていると思われる。そして「知」=「矢+口」=「鏃の形」である。

宮知=山麓で積重なった地が鏃の形をしているところと読み解ける。かつては田畑があったと推測されるが、今は放置されているようである。勿論この地形では水田には不向きであろう。

「蘇賀」の東側、所謂蘇我氏台頭の礎を担った一人の後裔を使って古人大兄皇子を討つ。なかなか厳しいものがあろう。返り討ちにでもあったら、それはそれで好都合か?・・・真相は闇である。
 
<阿倍渠曾倍臣>
❷阿倍渠曾倍臣

阿倍大臣の出自の地であろう。この地は、何とも狭い上に現在は広大な墓地となっており、地形の変化が大きいようである。果たして合致する場所は見出せるのか、尻込みしても始まらないので、試みに入る。

「渠」は書紀で幾度か登場する。「渠」=「水+巨+木」と分解して、「水辺にある山稜が作る[巨]の形」と読み解く。通常使われる意味も「巨」を溝の形と見做せば理解できるようである。

再度出現の「倍」は同じく「倍」=「ふっくらと盛り上がった様」と読むと、渠曾倍=水辺にある山稜が作る[巨]の形(渠)に積重なった(曾)傍にふっくらと盛り上がった(倍)ところと読み解ける。

ややこしいようで、何とかその地形を見出すことができそうである。図に示した大臣及びその娘の小足姫の北側、現在は巨大な大久保貯水池となっている側の場所と推定される。阿倍大臣説なら、納得であろう。

❷佐伯部子麻呂

これは既出の佐伯連子麻呂であろう。山田石川大臣の北側、蘇賀日向の隣が出自の場所となる。二人揃って、微少な地を宛がわれ、現状への不満の塊り、だったと推測される。機会があれば命懸けで、かもしれない。発展膨張する中で土地と言う絶対的な制限が人の行動を支配する。これは古今東西変わらぬ動機となろう。

いやはや、膨大な登場人物である。遠慮会釈なく記載されるから、堪ったもんではない・・・と思いながらも貴重な情報に感謝する次第でもある・・・。