2020年5月5日火曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅱ) 〔411〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅱ)


図らずも即位となった天萬豐日天皇(孝德天皇)の娶りが記載される。なんと左右大臣の娘を平等(?)に、である。乱れた皇位が果たして穏当に継続されるのであろうか・・・前記に引き続くところから・・・原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、爲皇后。立二妃。元妃、阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛、生有間皇子。次妃、蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘。丙子、高麗・百濟・新羅、並遣使進調。百濟調使、兼領任那使、進任那調。唯百濟大使佐平緣福、遇病留津館而不入於京。巨勢德太臣、詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨、天皇所遣之使、與高麗神子奉遣之使、既往短而將來長。是故、可以温和之心、相繼往來而已。又詔於百濟使曰、明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以百濟國爲內官家、譬如三絞之綱。中間以任那國、屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人、觀察任那國堺。是故、百濟王隨勅、悉示其堺。而調有闕。由是、却還其調。任那所出物者、天皇之所明覽。夫自今以後、可具題國與所出調。汝佐平等、不易面來。早須明報。今重遣三輪君東人・馬飼造(闕名)。又勅、可送遣鬼部率意斯妻子等。

大化元年(西暦645年)七月の出来事である。上記したように娶りの記述があって、すぐに高麗・百済・新羅からの「調(ミツキ)」を持参した記事となる。特に高麗が親しくなって来たと告げている。また百濟は「任那」の分も併せて来たと記されている。朝鮮半島全体が一層”騒がしく”なって来たのであろう。

百濟が持参した「任那」分の「調」が怪しく、調べさせたと記されている。色々と駆け引きが行われていたのであろう。派遣されたのが「筑紫君」・・・いや、「三輪君」であったのだが、やはり「三輪」は「筑紫」にあったと述べているようなものである。後程、「任那」に関連して述べてみよう。
 
● 間人皇女・小足媛・有間皇子

さて登場人物などの場所を順次求めてみよう。皇后となった間人皇女は、舒明天皇紀に既出である。兄の中大兄皇子(葛城皇子)の東側、古事記の上宮之厩戸豐聰耳命の母親、間人穴太部王(書紀では穴穗部間人皇女)が坐していた谷間にある石上穴穂宮を出自の場所としたのであろうと推定した。

小足媛は「寵妃阿倍氏」として記述されていた。既にその父親「阿倍倉梯麻呂大臣」、当時は「阿倍内麻呂」と表記され、「内」→梯=谷間(倉)が段々(ギザギザ)とした(梯)様に置換えられている。この名称変更も、「倉梯」が示す場所は、長い谷間であり、左大臣への昇格に伴って領地が広がったことに由来するのではなかろうか。

思い起こせば、大国主命が大穴牟遲神から始まって宇都志國玉神へと幾度も改名するのは、その時その時の居場所を表していると読み解いたが、正に同じ手法を採用しているのであろう。改名・変名は重要な情報を含んでいるのである。結局大国主命は、速須佐之男命に申し付けられた宇都志國玉神には届かなかったのであるが・・・。

誕生した「有間皇子」の出自の場所は、既に幾度も天皇が訪れた有間温湯そこに有間温湯宮(温湯の畔か?)があったと記載されていた。「小足媛」には御子の食い扶持を与える地を持ち合わせてはいなかった。天皇直轄領を出自とするのは、至極当然のなのだが、蘇我氏の時代とは大変貌である。大豪族の娘は、もう懲り懲り、だったかも・・・。
 
● 蘇我山田石川麻呂大臣女・乳娘

「蘇我山田石川麻呂大臣」も改名されている。かつては蘇我倉山田麻呂であった。「倉」が削除され「石川」が付加された。間違いなく、限られた「倉=谷間」から麓の石川(現白川)までの領域を表す表記となったと思われる。蘇我一族の不満を和らげる役目もあったのかもしれない。遠祖「蘇賀石河宿禰」に限りなく近づいた名前となっている。

ここでは娘の一人「乳娘」が記載されるが、中大兄皇子に嫁いだ娘、この後の登場する幾人かの息子達が居たと伝えている。彼らの出自の場所を纏めて求めてみよう。情報少なく、全て(一名を除き)大臣の近隣に当て嵌めてみる。
 
<蘇我山田石川麻呂大臣系譜>
伝えられるところでは、興志(後に述べる)、法師赤猪遠智娘姪娘乳娘、他に女子二人とされている。乳娘は三女である。

長女の遠智娘は、天智天皇に嫁ぎ、後の持統天皇の母親となる。また次女の姪娘は、同じく天智天皇に嫁ぎ、後の元明天皇を生むことになる。

斬った張ったの男性陣に対して沈着冷静な女性陣の様相かもしれない。きっと、才色兼備かも・・・ともあれ、皇統に絡む人物が輩出したようである。

息子三人は、後の事件で敢無く自害することなる。長男は、どうやら出自の地がこの倉山田ではないようで、後に読み解くことにする。

法提郎媛に含まれていた「法」=「人が住む川が流れる凹(窪)んだところ」とすると、法師=人が住む川が流れる凹(窪)んだ地に凹凸があるところと紐解ける。

「赤緒」の「赤」=「大+火」と分解される。「赤」=「平らな頂の山麓に炎のような稜線がある様」と読める。「緒」=「糸+者」=「細い山稜が寄り集まっている様」とすると、赤緒=平らな頂の山麓で炎のような山稜が寄り集まっているところと紐解ける。別名「秦」は山稜の全体を捉えて、秦=両手を伸ばしたような山稜が広がっている様に由来する名称と思われる。

「遠智」の「遠」=「辶+袁」=「なだらかに延びる山稜の端に三角州があるところ」と読み解ける。古事記に頻出の文字である。「智」=「知+日(炎)」と分解する。更に「知」=「矢+口」=「鏃」と読み解ける。即ち「智」=「鏃のような地に炎のように山稜が延びる様」を表していると解読される。この文字も古事記で頻度高く用いられている。すると遠智=なだらかに延びる山稜の端に三角州がある鏃の形をした地から炎のように山稜が延びているところと読める。

「姪娘」の「姪」=「女+至」と分解すると、姪=嫋やかに曲がる山稜が延び至ったところと読み解ける。「乳娘」、実はこれが最も解釈し辛いようで・・・「乳」の形(二つの谷間が合わさるところ)、あるいは鍾乳洞の地から付けられたのかもしれない(ナウマンゾウの頭蓋骨化石が出土した青龍窟の麓に当たる;上宮乳部参照)。以上を纏めて図示した。
 
任那

「任那」は崇神天皇紀に登場する朝鮮半島内にあった地名である。Wikipediaによると…、

「一般的に『三国志』に登場する狗邪韓国(倭人伝)または弁辰狗邪国(韓伝)の後継にあたる金官国を中心とする弁韓、辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含む地域を指す地名とされる。任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと主張する説もある。後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。」

…と記載されている。三国志の「狗邪韓國」自体が決して明確ではないので、結局現在の全羅南道一帯を示すような解釈となっているようである。残念ながら古事記には「任那」の文字は出現しない。
 
<狗邪韓國>
と言うことで、「任那」の文字を紐解いてみよう・・・「任」=「人+
壬」と分解される。

「人」=「谷間」として「壬」の文字は何を象っているのであろうか?…辞書を読むと「真ん中が膨れた糸巻きの形」と、あっさり解説されている。

「任」の地形象形表記は、「任」=「谷間の真ん中が糸巻のように膨れた様」と読み解ける。

すると任那=谷間の真ん中が糸巻のように膨れたゆったりとしたところと読み解ける。この地は「狗邪韓國」そのもののを表していることが解る。

図<狗邪韓國>は、魏志倭人伝の読み解きで行った結果(古事記に記載された大国主命後裔の神々も併せて)である。古事記に登場した比比羅木の神々は、この巨大な「韓」の地には居なかったのである。「任那」も「狗邪韓國」も登場しなくて当然だったわけである。

書紀の崇神天皇紀に…、

六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。

…と記述されている。「去筑紫國二千餘里」は魏志倭人伝の「狗邪韓國」から倭国まで水行二千里余りの記述を受けているのであろう。

鶏林」=「新羅」であり、その西南方向にある。そして「北阻海」と記されている。当時の洛東江は現在よりも遥かに大きな川幅を有していたであろう。それを「海」と表記したと推測される。「狗邪韓國」に「北岸」があることは重要な情報である。

古事記、書紀そして魏志倭人伝の記述が実に辻褄が合っていることが解る。古代の中国江南の地を離れた倭人達の佇まいを垣間見ることができたようである。更に倭人が行った地形象形表記の確からしさも伺い知れたようである。
 
<三輪栗隈君東人・筑紫大宰帥>
● 三輪栗隈君東人

百濟の言うことは、どうも信用ならない。おい君、ちょっと見て来てくれないか…そんな感じに受け取れるのであるが、三輪君が引っ張り出されている。

数多く登場の三輪君であるが、「栗」は既出で栗隈采女黑女などで用いられていた文字である。「栗」=「栗の穂(雄花)が延びる様」を表すと読み解いた。

栗隈=栗の穂が延びた隈と読んだ。「東人」は佐伯連東人に含まれていて、東人=狭い谷間(人)を突き抜けるところと読み解いた。類似の地形と思われる。

また後になるが、既出の筑紫大宰に「帥(スイ)」が付加される。「帥」=「𠂤+巾」と分解され、「旗印の傍で指揮棒を持った様」を表すと解説されている。この地が「旗印」の形であることを示していると思われる。実に的確な表記であろう。

三輪君は、偶々、「任那」に向かうため筑紫辺りに派遣されていたのだろう・・・とでも言い訳するのであろうか・・・「三輪」は「美和」であり、奈良大和ではなく、企救半島南西部である。「(近)淡海」→「近江」の置換えと全く類似の操作が行われたことが明らかであろう。

尚、同時に記載されている馬飼造の何某については、「馬飼長德連」のところで読み解いた。こちらを参照。

書紀の立ち位置は日本が朝鮮半島の統治者であって、故に「調」と記載する。高麗も含めた記述であることから、全くあり得ない状況であろう。書紀の「調」の解釈として「手土産」ぐらいが適切なのかもしれない。唐の圧力・圧迫は益々大きくなって来る時勢の中で朝鮮半島内部の動きが一層活発になったのであろう。日本をも巻き込んだ動乱の時代である。

戊寅、天皇詔阿倍倉梯萬侶大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、當遵上古聖王之跡、而治天下。復當有信、可治天下。己卯、天皇詔阿倍倉梯麻呂大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、可歷問大夫與百伴造等、以悅使民之路。庚辰、蘇我石川麻呂大臣奏曰、先以祭鎭神祗、然後應議政事。是日、遣倭漢直比羅夫於尾張國、忌部首子麻呂於美濃國、課供神之幣。
 
<倭漢直比羅夫-荒田井比羅夫・倭漢文直麻呂>
七月半ばになって天皇は、如何に天下を治めるべきかを左右大臣に問われた。翌日
蘇我石川麻呂大臣が「先以祭鎭神祗、然後應議政事」と返答し、早速に尾張國と美濃國に使者を送ったと告げている。

仏法優先だったのが、コロリと変心?…戸惑いの最中に坐した天皇、と述べているようである。
 
● 倭漢直比羅夫

「倭漢」は既に倭漢書直縣で登場していた。百濟川が大きく曲がるところと推定した。

「比羅夫」の文字列は阿曇連比羅夫で出現し、比羅夫=二つに岐れた山稜が並んで連なっているところと読み解いた。それに類似する地形が見出せる。「直」に面する場所である。

併せて後に発生する古人皇子の事件に登場する倭漢文直麻呂の居場所も示した。図に示したように山稜が岐れて交差している様を「文」で表したと思われる。そこに「麻呂」(萬呂)の地形が見出せる。「比羅夫」と隣接する場所である。また同じく後に登場する倭漢直荒田井比羅夫の場所も示した。荒田井=四角く囲まれた平らな地が水辺で途切れているところと解釈される。比羅夫の地形に含まれている場所であることを表している。

「尾張國」に向かうのであるが、おそらくは「國造」のところではないかと推測し、古事記に登場した、倭建命が東方十二道に向かった行き帰りに立寄った家、尾張國造之祖・美夜受比賣之家としてみた。
 
<忌部首子麻呂・忌部木菓>
● 忌部首子麻呂

もう一人は、中臣連と並ぶ伊勢神宮の祭祀の役割持つ一族である。古事記の忌部首を参照して居場所を求めてみよう。

その表記の通り、「首」から突き出た「麻呂」の地が見出せる。ここが出自の場所と推定される。

後に忌部木菓が罪人として登場する。「木(山稜)」として、果物のそのもののふっくらとした地形をが見出せる。「首」にはくっ付いていなかったようである。

後の天武天皇紀に「忌部首子人」が登場する。近隣の地が出自の場所となるので併記した。「子麻呂」の「子」と解釈すると、子人=生え出た山稜(子)の前の谷間(人)と読める。

また別名が忌部首首とされる。どうやら「首」の中にある「首」の地形を表しているようである。出自の場所は谷間中央の少し小高くなったところではなかろうか。何処かでも述べたように「忌部氏」は外宮の近隣に住まい、草創期は「中臣氏」より重要な神祇を受け持っていたことを示すように思われる。

勿論、「中臣氏」の隆盛によって立場が逆転するのであるが、粛々と純然たる神祇を担っていたのであろう。邇邇藝命の降臨に際して随行した神々の多くが伊勢神宮(佐久久斯侶伊須受能宮)を取り囲むように定着したと古事記は伝える。謎の多い記述である。原資料がなかったのか、敢えて簡略にしてのか、目下のところ不明である。

「美濃國」に派遣されたと言う。古事記に最初に登場するのが美濃國藍見河である。勿論、尾張國の隣、但し東方ではあるが・・・「美濃」→「三野」へと名称が変わる。下流域への広がりを示すものであろうが、三野國造之祖大根王が記載される。書紀の「美濃國」はこちらを示しているのかもしれない。

いずれにしても何故上記の二国だったのかは、不詳である。後日に調べてみよう・・・。

八月丙申朔庚子、拜東國等國司。仍詔國司等曰、隨天神之所奉寄、方今始將修萬國。凡國家所有公民大小所領人衆、汝等之任、皆作戸籍及校田畝。其薗池水陸之利、與百姓倶。又國司等、在國不得判罪、不得取他貨賂令致民於貧苦。上京之時、不得多從百姓於己、唯得使從國造・郡領。但以公事往來之時、得騎部內之馬、得飡部內之飯。介以上、奉法必須褒賞、違法當降爵位。判官以下、取他貨賂、二倍徵之、遂以輕重科罪。其長官從者九人、次官從者七人、主典從者五人。若違限外將者、主與所從之人、並當科罪。若有求名之人、元非國造・伴造・縣稻置而輙詐訴言、自我祖時領此官家治是郡縣、汝等國司不得隨詐便牒於朝、審得實狀而後可申。又於閑曠之所、起造兵庫收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者、可盡數集其兵。而猶假授本主。其於倭國六縣被遣使者、宜造戸籍、幷校田畝。(謂檢覈墾田頃畝及民戸口年紀。)汝等國司、可明聽退。卽賜帛布、各有差。

八月に入って、東國等の國司を呼び寄せて、戸籍・田畑の管理方法を事細かく指示をしたと伝えている。國造・郡領及びそれ以下の「介(次官)」、「主典」についても従者の人数などを決めている。任命されて赴いた国司と、その土地に古くから住む人との諍いも生じるであろうが、それを自ら始末するように、と述べている。また、兵庫(兵器の倉庫)の扱いについても言及している。

「税」を徴収する上の基本である戸籍・田畑の管理を具体的に述べているようで、実務的な段階での国家体制の確立へと進んでいる様子である。過去から存在する豪族達との確執は大きなものであったろうが、暫くは、旧体制との並立せざるを得なかったとも思われる。

ところで、何故東國だけなのか?…それは天皇家が国司を派遣して統治しようとするところが東方だからで、西方にはなかったからである。西を睨みつつ、東に目を向ける天皇家である。

是日、設鍾匱於朝。而詔曰、若憂訴之人、有伴造者、其伴造先勘當而奏。有尊長者、其尊長先勘當而奏。若其伴造尊長不審所訴、收牒納匱、以其罪々之。其收牒者、昧旦執牒、奏於內裏。朕、題年月便示群卿。或懈怠不理、或阿黨有曲訴者、可以撞鍾。由是、懸鍾置匱於朝。天下之民、咸知朕意。又男女之法者、良男良女共所生子、配其父。若良男、娶婢所生子、配其母。若良女、嫁奴所生子、配其父。若兩家奴婢所生子、配其母。若寺家仕丁之子者、如良人法。若別入奴婢者、如奴婢法。今剋見人爲制之始。

「鍾匱(カネヒツ)」の制と言われる訴訟制度を設けたと告げている。争いごとに関するリスクを考慮したものであろう。この時もちゃんと調べろ、と言っている。また人民を「良」と「(奴)婢」とに分け、誕生した子供の属性を記している。「父・母」→「子」の形式で表すと、「良・良」→「父」、「良・婢」→「母」、「婢・良」→「父」、「婢・婢」→「母」となる。「良」の中に「婢」を混じらせない、のようである。

さて、今回はこれくらいで、次に進もう・・・。