2020年5月2日土曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅰ) 〔410〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅰ)


舒明天皇紀、皇極天皇紀と読み進めて来て、「乙巳の変」に届いた。その敵役となった「蘇我氏」の興隆と衰亡は古代日本の歴史上極めて重要な意味を示していることが明白になったと思われる。古事記解釈で既に述べたように、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、「建内宿禰」、そしてその子の蘇賀石河宿禰が切り開いた「蘇賀」(現在の京都郡苅田町)の地が天皇家を脅かすほどに豊かになっていたことを曝しているのである。

舒明天皇紀の冒頭に述べた蘇我氏系譜は正に「蘇賀」が発展する経緯を物語る。書紀の記述は極めて冷ややかであり、「石川宿禰」として応神天皇紀に登場させるのみである。天皇家が「葛城」の地(現在の田川郡福智町)を切り開いて大きく羽ばたいたのと全く同様である。それ故に脅威であったと思われる。恰もかつての大年神一族との葦原中國(出雲)における壮絶な争いを彷彿させる事態であった。

結果的に葦原中國(出雲)を放棄せざるを得なくなった過去の苦い出来事を繰り返さないためにも早期に手を打つ必要があったのであろう。それが「乙巳の変」の発生を促した背景と推測される。古事記は捻くれた表記を用いて何とか伝えようと試みたが、編集圧力が凄まじく、現在も闇に葬られている有様である。

この変以後、日本は中央集権的な国家体制へと歩むことになる。列強中国、それとの間でもがき苦しむ朝鮮半島諸国、そして極東の日本、地形が変わらなければ今も同じ情勢の中に配置されているのである。古事記、日本書紀の編者達が苦闘しながら書き残した史書から学ぶところが多い・・・いや、その前にこれらの史書が真に伝えることを読み解くことであろう。

全く予期せぬことから天皇を引継ぐことになった「輕皇子」の物語が始まる。大化元年(西暦645年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

天萬豐日天皇、天豐財重日足姬天皇同母弟也。尊佛法、輕神道(斮生國魂社樹之類、是也)。爲人柔仁好儒。不擇貴賤、頻降恩勅。
 
<天萬豐日天皇(孝徳天皇)>
天萬豐日天皇は天豐財重日足姬天皇(皇極天皇)の同母弟、「輕皇子」として登場していた。

「輕」の文字が示す場所は、古事記の倭建命の段に記述される吉備臣之祖:御鉏友耳建日子の「鉏」に当たると読み解いた。共に突き進んで行く様を表している。そして今度は「萬」が用いられている。

「萬」=「万」、数詞であり、また「全ての」などを意味する文字である。これでは何を伝えたいのか皆目なのであるが、「萬」=「サソリ」を象った文字と知られる。即ち原義そのものを表していると気付かされる。

「豐」=「多くの段差がある高台」、「日」=「[炎]の地形」と解釈すると、「輕」、「鉏」が一部の地形であったものを全体に拡げた地形象形であることが解る。

「萬」の古文字を図中に載せたが、そのままの形を示している。「天」=「頭部」であろう。確かに尻尾の部分は、些か曖昧、である。

皇子の時の名称は、軽く「輕」として即位後の名称は、実に丁寧である。海退と沖積の進行と共にサソリの触肢の全体が海面上に浮かび上がりつつあっただろう。

図に記載された「姫」は「皇祖」と呼ばれる。現在の天皇に、間違いなく、繋がる祖である。その祖先は「吉備」(現在の下関市吉見)に居た。二千年前に及ばんとする史書を神話の域に留める解釈から一日も早く脱することを願うばかりである。

仏法を尊び、神道を軽く見た天皇、「斮生國魂社樹」(生魂神社の木を斬った)と例示されている。また、儒教を好み、慈愛に溢れた人となりと、先進国中国かぶれの様子を告げている。これは後に起る事件の伏線であろうか。

さて、「生國魂社」は何処にあったのであろうか?…Wikipediaによると…「生國魂神社(いくくにたまじんじゃ、新字体:生国魂神社)は、大阪府大阪市天王寺区生玉町に鎮座する神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別称は「難波大社(なにわのおおやしろ)」など」・・・また、「旧鎮座地は現在の大坂城内(不詳)とも言われる」・・・と記載されている。
 
<生國魂社>
確定的な比定場所かと思いきや、決してそうでもなく、ましてやその名称の由来は不詳なのである。

何故「生國魂」という名称にしたのか?…それは何を表しているのか?…それを紐解いてみよう。重要なヒントは「難波大社」であり、難波の近隣と推定される。

魂=云+鬼=丸い塊り(鬼)にもやもやとした尾()がくっ付いている様と読み解ける。古事記では速須佐之男命の御子、宇迦之御魂神(上記大年神の弟)などに含まれる文字である。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた豐國宇沙、そこで歓待を受けた場所である足一騰宮があった近隣と思われる。一段高くなった足の先、そこを「魂」と表現したのである。

生國=生え出た大地と読み取れる。山稜が延びる端の塊り(鬼)の先に微かな「云」があって、更に脇から延びた細い山稜が見出せる(図の北西方向)。これを捉えた表記であることが解る。「生玉」ではないのである。「國」があって初めて、その地形を表すことができる。生国魂神社の旧鎮座地は、不詳の大坂城内ではなく、行橋市大字大谷、である。

この神社の祭神は「生島神・足島神」となっている。「記紀」には登場しない神様である。何故そんな神様を選んだのか?…やはり「生」と「足」なのである。実に辻褄が合った…合わせた?…物語ではなかろうか・・・全くの余談だが、五十数年前に、この台地にある高校に通っていて、「生玉さん」と呼ぶ神社名に「国」が挟まっているのを不思議に感じたことが思い出される。漸く、納得である。

天豐財重日足姬天皇四年六月庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望、不亦可乎。於是、中大兄深嘉厥議、密以奏聞。天豐財重日足姬天皇、授璽綬禪位。策曰、咨、爾輕皇子、云々。輕皇子、再三固辭、轉讓於古人大兄(更名、古人大市皇子。)曰、大兄命、是昔天皇所生而又年長。以斯二理、可居天位。於是、古人大兄、避座逡巡、拱手辭曰。奉順天皇聖旨、何勞推讓於臣、臣願出家、入于吉野、勤修佛道、奉祐天皇。辭訖、解所佩刀、投擲於地。亦命帳內、皆令解刀。卽自詣於法興寺佛殿與塔間、剔除髯髮、披着袈裟。
 
<古人大市皇子・大市連>
皇極天皇即位四年(西暦645年)の出来事が記述される。皇位を譲ろうと考えて天皇が、先ずは中大兄皇子に持ち掛けるのであるが、中臣鎌子連がそれを抑えて、輕皇子継投策を提案する。

輕皇子にしてみれば、年寄りが出張るところではないような、と思いつつ、中大兄皇子に従うが、一方の古人大兄(大市)皇子は、勿論御不満だが、怒って(恐らく)出家してしまったと伝える。

「中大兄・中臣鎌子組」は「古人大市」に皇位を継がせる気は毛頭なく、上記のような経緯など端からなかったように思われる。

いずれにしても大事件後の収拾を如何になすか、それが第一優先で、穏便にことが進めば良い、との考えであろう。「古人大市」謀反を起こすように仕向ける作業が始まっていたと思われる。

「古人大兄」の別名「古人大市」が記載されている。大市=平らな頂の山麓(大)で山稜が寄り集まる(市)様を表す。古事記頻出の文字である。その場所は谷間の奥にあることが解る。

この名前の移り変わりは、「大兄」が示す谷間全体のイメージから、グッと谷奥を上がって行ったことを暗示するのではなかろうか。後に「大市連」が登場する。皇子の食い扶持、いや、財力を支える仕事をしていた人物だったのであろう。

蘇我蝦夷大臣は、今は亡くなり下流域の支配を手放す羽目に陥っていたと推測される。これも当然の結果であろう。それとなく伝える古人大市皇子の苦悩の様である。出家先は吉野と記載されている。何処か突止められるであろうか?…全くの推測になるが、現在の吉野に千仏鍾乳洞がある。その由来は千仏院(行橋市叡山願光寺の末寺)があったことに拠るようである。
 
<井氷鹿(吉野首等)・石押分(吉野國巢)>
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が「吉野」に入った時の行程図を参考に再掲する。


「吉野河」(現小波瀬川)の上流の谷から「吉野」(現平尾台)に向かい、二人の「生尾人」に出合いながら、宇陀之穿を抜ける道筋である。

最初の後に「吉野首等」の祖となる「井氷鹿」と出会ったところで直進せずに少し谷間を遡れば「千仏」に到着する。

既に開かれた道筋であることが解る。前記:閑話休題としながら、どうしても「吉野」の詳細が知りたくなった結果なのである。

「吉野」は重要な地名である。それ故に「記紀」は揃ってあからさまには語らない地名でもある。何とかその実体を描いてみたが、実に様々なことが伺える。現在の奈良吉野に「首等」、「國巢」の地形を見出せるであろうか?・・・。

由是、輕皇子、不得固辭、升壇卽祚。于時、大伴長德(字馬飼。)連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連國造伴造百八十部、羅列匝拜。是日、奉號於豐財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。中臣鎌子連、懷至忠之誠、據宰臣之勢、處官司之上。故、進退廢置計從事立、云々。以沙門旻法師・高向史玄理、爲國博士。辛亥、以金策、賜阿倍倉梯麻呂大臣蘇我山田石川麻呂大臣。(或本云、賜練金。)乙卯、天皇・皇祖母尊・皇太子、於大槻樹之下、召集群臣、盟曰。(告天神地祇曰「天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。皇天假手於我、誅殄暴逆。今共瀝心血。而自今以後、君無二政、臣無貳朝。若貳此盟、天災地妖、鬼誅人伐。皎如日月也。」)改天豐財重日足姬天皇四年、爲大化元年

輕皇子が即位する。なかなかに煌びやかな光景の描写がなされている。壇(タカミクラ)の右及び左に大伴長德(字馬飼)連と犬上建部君とが近習を務め、左大臣は阿倍內麻呂臣(寵妃の父親)、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂臣(乙巳の変の功労者)という配置であった。更に中臣鎌子連を「内臣」の特別職に付け、実権を奮ったと告げている。

推古天皇即位十六年(西暦608年)に留学した二人、旻法師(帰国:舒明4年、西暦632年)と高向史玄理(帰国:舒明12年、西暦640年)を「國博士」とし、学問のみならず国政の指南役を務めさせたとのことである。皇極天皇は「皇祖母尊」と称された。その母親の吉備姫王の「吉備嶋皇祖母命」を踏襲したのであろう。
 
<大伴長德連馬飼(國麻呂)・馬飼造>
いずれにせよ、乙巳の変の余韻が残る時勢の中で如何に群臣の迷いを無くすかが最大の課題であったことは疑えない。


蘇我氏が皇位簒奪を目論んでいたか否かは不明だが、それがあからさまなら簡単に乙巳の変の動機付けがなされたであろう。

まだまだ変後処理があるようで、それを読み解いてから述べてみよう。

登場人物の名前に少々工夫が凝らされている。「大伴長德(字馬飼)連」は、大伴連馬飼と記載されていた。

「長德」の「德」=「彳+直+心」と分解され、「長」と合わせて長德=長方形に凹(窪)んだ地の中心と読み解ける。

そんな訳で居場所がより明確になったようである。尚、後に登場する馬飼造某の場所も併せて示した。「造」に含まれる「牛」の古文字の地形が見出せる。現在は、やや荒れた地になっているようであるが…。息子に國麻呂がいたと伝えられる。ずっと後になるが(天武紀)、登場している。場所は「長德」の中の「麻呂」の場所と思われる。

任務を恙なくこなして、人手が増え、この谷間の開拓が一気に進んだのではなかろうか。上記の領地が減少した「古人大兄」→「古人大市」の記述と繋がっている。古事記では見られなかった表現手法であろう。もう一人は「高向史玄理」である。彼は高向漢人玄理と紹介されていた。
 
<高向史玄理>
漢人=谷間(人)の急激に蛇行する川の傍と読み解いた。「漢の人」だから渡来系などと気安く解釈しては、勿体ない。

本ブログは「記紀」を一貫して渡来系の物語として読んでいるわけで、「漢人」の表記に惑わされるようでは、「記紀」解釈は遠のいてしまう。

彼の場合は「漢人」→「史」に置き換わっている。「史」=「中+又(手)」と分解される。すると…、

史=真ん中を突き通すように延びる山稜を表す文字と解釈される。既に幾度か登場した文字である。

勿論、図に示したように「漢人」と表記された場所と異なるわけではい。むしろ、重ねた表現は、この場所の確からしさを示すことになったと思われる。

「史」が表すように、史書に通じた人を示す表記に変わったと受け取れる。はたまた、「國博士」の肩書ならば「漢人」は誤解を招く、と考えたのかもしれない。

● 犬上建部君

初登場なので、項を起こして記述する。「犬上」は既に犬上君三田耜で出現した。「蘇賀」の北西にある谷(現地名京都郡苅田町北谷)と推定した。
 
<犬上建部君>
今も見事な棚田が並ぶ地である。そこに「建部」を求めることになる。このまま読み下しても皆目見当もつかない有様となろう。


「建」=「廴+聿」と分解する。更に「聿」=「筆の形」を象った文字と知られる。「廴」=「長く延びた様」を表すとすると、建部=長く延びた筆の形(建)の地(部)と読み解ける。

さて、そんな地形が見出せるのか?…全くの杞憂であった。「犬上君三田耜」の南側、小字等覚寺に長く延びた山稜が見られる。

古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった建部君の東側に位置する場所である。「建部」が表す類似の地形となっていることが解る。

既出の人物名を添えたが、それぞれがすっぽりとこの「兄」の地に収まっていることが解る。既述したが、この地の棚田の風景は素晴らしい(こちらを参照)。

そして、年号「大化」(西暦645年)が建元されたと告げられている。正に”大化け”の始りの年であろう。続きは次回に・・・。