2020年6月2日火曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅺ) 〔420〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅺ)

 
穏やかな時が過ぎて行ったと述べている。仏像を刻ませ、船を造り、民に田を分け与えてその税率も明確にしたと伝えている。難波長柄豐碕宮もついに完成したようである。味經宮は幾度か登場する。立派な宮であったと同時に東國からのアクセスも都合が良い場所だったのであろう。

新羅の変貌、唐の属国化した有様を伝えている。それを倭國に見せびらかしに来たのかもしれない。唐の威光で倭國を味方に引き入れる算段だったのだろう。それを蹴った。極東アジア激動の時代へと進んで行く様子が伺えた記述であった。難波から筑紫海裏まで船を繋いで・・・あほらしい話で全く取り上げられたことがないようである。

あっと言う間に白雉四年(西暦653年)を迎える時になったようである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

四年夏五月辛亥朔壬戌、發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒(駒、更名絲)・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・辨正・惠照・僧忍・知聰・道昭・定惠(定惠內大臣之長子也)・安達(安達中臣渠毎連之子)・道觀(道觀春日粟田臣百濟之子)・學生巨勢臣藥(藥豐足臣之子)氷連老人(老人眞玉之子。或本、以學問僧知辨・義德、學生坂合部連磐積而増焉)幷一百廿一人倶乘一船、以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂(更名八掬脛)・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向、幷一百廿人倶乘一船、以土師連八手爲送使。是月、天皇幸旻法師房而問其疾、遂口勅恩命。(或本於五年七月云、僧旻法師臥病於阿曇寺。於是天皇幸而問之、仍執其手曰、若法師今日亡者朕從明日亡。)

五月十二日に総勢およそ百二十一人の遣唐使及び留学生を乗せた船を送り出したと記載されている。更にまた大使以下総勢百二十人を送り出したと伝えている。凄まじいばかりの唐詣である。ここに登場する人々の固有の名称が書き残されている書物が現存していることに感動を覚える。実に貴重であるが、彼らの出自の場所を全く読み取れていない悲しい現状でもある。

前記したが、白雉元年十月に安藝國で二艘の船を造らせていたが、多分この遣唐使用のものだったのであろう。用意周到と言ったところである。ところが頼りにしていた國博士の一人、旻法師が病に倒れた様子で、天皇が見舞ったと伝えるが、一説によると、それは白雉五年七月のことで、手を取って「若法師今日亡者朕從明日亡」と仰ったと伝えている。

登場した人物の出自の場所を順に読み解いてみよう。一艘目の大使・副使、吉士長丹吉士駒(絲)は、既に難波吉士胡床の場所に併記した。現地名は行橋市大字福原、南泉辺りと推定した。「吉士」の地からの人材輩出が目立つが、古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に記載された百濟から来朝した阿知吉師及び和邇吉師(論語十巻など)が住まった場所は「吉士」の近隣と推定した。そして渡来した彼らは祖となってその地に根付いたことも記載されていた。
 
<中臣:德-連正月-渠每連-連押熊-間人連老>
定惠は「內大臣之長子」と記載されている。「内大臣」は中臣鎌子連であり、次男が「藤原不比等」である。

後に定惠は無事に帰朝したことのみ記されている。安達は「中臣渠毎連之子」とある。

● 中臣渠毎連

高田醜醜(之渠雄)に含まれていた渠=水辺で[巨]字形に山稜が並んだ様と読み解いた。既出の毎=母が両腕で抱える様である。

狭い谷間なので自ずと小ぶりな形となるが、示された場所が見出せる(拡大)。

道觀は「春日粟田臣百濟之子」と記されている。既に読み解いたこちらの図を参照。この地も狭いところであるが、人材輩出であったと伝えている。「春日」の地、その辺境にあるが、違いはない。敢えてそれを知らしめるために付加したのであろうか。
 
● 氷連眞玉/老人・置始連大伯

「氷連老人」は「眞玉之子」と記されている。「氷」=「冫+水」と分解される。「水が固まった氷が割れる様」を象った文字と言われる。
 
<氷連眞玉/老人・置始連大伯(多久)>
古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、丹波比古多多須美知能宇斯王が誕生させた
比婆須比賣命の別名、氷羽州比賣命に含まれた文字である。

「連」=「山稜の端が長く延びた様」を表すとすると、氷連=山稜の端が長く延びた地が氷のようにひび割れたところと読み解ける。

さて、この地は何処にあるのであろうか?…書紀では初登場、後に幾度かお目に掛かるようであるが…調べると邇藝速日命の末裔、中でも物部一族のように『先代旧事本紀』などに記載されていることが判った。

ならば、と探索すると図に示した場所を見出すことができた。眞玉=玉のような地(玉)が一杯に詰まった(眞)ところであり、その割れ目の一つが老人=谷間(人)が海老のように曲がっている(老)ところと紐解ける。おそらく「眞玉」は現在の北九州市小倉南区新道寺の小学校辺り、「老人」は谷間の上辺りではなかろうか。

「氷」の文字による地形象形は「記紀」共通に用いられていることが解る、好例であろう。何度も述べるように書紀の方が分り易い、のであるが・・・併せて後に登場する置始連大伯(多久)も図に示した。この人物の出自も物部一族であることが調べてみて漸く判った次第である。

「置」=「网+直」と分解される。網で覆い被せる意味を表す「网」=「閉じ込められたような様」と解釈する。すると置=閉じ込められたような真っ直ぐな様と読み解ける。谷間の出口に山稜が覆い被さるように延びている地形を表している。古事記の袁祁命(顕宗天皇)紀に登場した置目老媼に含まれていた文字である。

「始」=「女+台(耜+囗)」と分解される。そのまま始=嫋やかに曲がって耜のような山稜が延びている様であろう。「伯」=「人+白」と分解して、伯=谷間(人)がくっ付いた(白)様と読み解ける。地形の特徴をほぼ全て並べ上げた命名のようである。特とご覧頂きたい。「始」は「はじまる」として用いられる。「台」の「ム=耜」であり、女性に耜で手を加えることが物事の始まり、なんだそうである。多久=山稜の端の三角州がくの字形をしている様と読み解ける。しなやかに曲がっている地形が確認される。

ところで、お気付きであろうか、何故これらの人物に「物部」が付かないのか?…一族であることはその出自の配置を見ても納得できるのだが、何故?…答えは、実にしたシンプルである。「物部」の地域に入っていないからである。物部守屋大連は、その北限なのである。「勿」の文字形で囲まれた地に居た人物に冠される名称であって、それ以外には用いない、頑ななまでに地形依存の名称であることを示している。

<坂合部>
● 坂合部連磐積/贄宿禰

「坂合」の地名も唐突で不確かであるが、書紀中を検索すると、允恭天皇の御子、「坂合黑彥皇子」の名前が辛うじて見つかった。古事記の対応する名称は境之黑日子王である。

これは「サカ(ア)イ」ではないかと、思いながらやはり坂合=山稜が延びた端が出合うところと読む。幾度か登場の「坂」=「土+厂+又(手)」と分解して解釈して来た。

遠賀川と彦山川の合流地点、現在の直方市下境の地形を図に示した。英彦山山系の長く延びた山稜がこの二つの川で挟まれた端と福智山山系の枝稜線、雲取山が延びる山稜が交差するような地形を示している。そこが「坂合」であり、その近隣を「坂合部」と名付けていることが解る。

古事記及び書紀を通じて、坂合=境と記述されているのである。「境界」ではなく、山稜がぶつかり合う地点の名称なのである。特徴的な地形を捉えた表記、そしてその地を出自に持つ多くの人材が登場していることを記している。

<坂合部連磐積/贄宿禰>
「磐」=「般+石」で、磐=山麓の地が広がり延びた様と既に読み解いた文字である。「積」=「禾+責」と分解され、地形的には「積重なるように広がる様」と解釈できるが、それでは「磐」と重なった表記となろう。更に「責」=「朿+貝」に分解される。

即ち、積=禾(しなやかに曲がる山稜)+朿(棘のような盛り上がった形)+貝(貝の形)から成るところを表していると紐解ける。

上記と同様に地形の特徴を余すことなく盛り込んだ表記であることが解る。貝には舌がちゃんと付随している。図に示した出自の場所は、現地名の直方市下境にある羽高神社辺りであろう。

「坂合部連」としては書紀の雄略天皇紀に「坂合部連贄宿禰」が登場している。その後途絶えて久々に本天皇紀に登場している。「贄」=「幸+丸+貝」と分解される。幸=手錠の形であると解説される。すると「朿」の背後にある山稜がふた山になっているところを示していると解る。「宿禰」と付加されるから、その山稜の端の谷間であろう。
 
<室原首御田>
● 室原首御田

一艘目の乗船者が終わったようである。送使が「室原首御田」と記されている。調べると「倭國磯城郡」を出自とする人物だったようである。欽明天皇紀に「遷都倭國磯城郡磯城嶋、仍號爲磯城嶋金刺宮」と記載されている。

「金刺宮」の場所については、現在の田川市糒にある金川小学校辺りと推定した。金辺川と彦山川に挟まれた中州を「嶋」と表現したものと思われる。

磯城郡は、金辺川沿いに山稜が延び出ている場所を表していると思われ、その周辺で名前が示す地形を求めることにする。

「室」=「宀+至」=「山稜に挟まれた谷間が奥深く延びている様」と解釈される。室原=山稜に挟まれた奥深く延びている谷間に平らな地があるところと読み解ける。御田=田を束ねたところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。現地名は田川市夏吉である。

二艘目の大使・副使は高田首根麻呂(更名八掬脛)・掃守連小麻呂と記載されている。前者は「高田醜醜」に、後者は「掃部連角麻呂」に併記した。直近で登場する「高田」、「掃部(守)」の地である。送使は土師連八手と記されている。この人物も既出の「土師連身」に併記した。学問僧等の具体的な名称の記載は極僅かである。

遣唐使(遣隋使も含めて)の関する纏めもいつの日か述べてみようかと思うが、今のところは、先へと進めることにする。命懸けの旅に向かった先人達に敬意を評するに止めよう。さて、「旻法師」が危篤のようである。何かお見舞いでも持参しようかと思い立ったのだが、果たしてどこの病院、いや寺に伺えば良いのか…阿曇寺と聞いたが、その寺の場所は?・・・。
 
阿曇寺

阿曇氏に関連付けて幾つかの候補地が挙げられているようだが、不詳であろう。阿曇一族が大阪難波津にも拠点を持っていたことは容易に推測されるところであるが、故に阿曇氏の氏寺のような短絡は控えるべきであろう。書紀編者は、これだけの表記でこの寺の場所を突止められると考えていたと思われる。「阿曇」と言う表現は、むしろ重ねた表記を楽しんでいるかのようにも思われる。

「旻法師」の「旻(ミン)」の文字は地形象形?…出自もしくは彼の倭國における拠点(寺)があった場所に由来するのではなかろうか。「旻」=「日+文」と分解される。他の資料では「日文」と記載されているものもあるとのこと。ならば旻=日(炎)の地の麓で山稜が文(交差する)ようなところと読み解ける。
 
<僧旻法師・阿曇寺>
古事記に若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、袁邪本王が近淡海蚊野之別祖となったと記述されている。現地名は京都郡苅田町上片島である。

「蚊」=「虫+文」と分解して、蚊=くねって曲がる山稜が交差するようなところと紐解いた。更にこの地は大雀命(仁徳天皇)の御子、墨江之中津王に関連する近淡海の「墨江」の真っ只中でもある。

「阿曇連」は、墨江之三前大神の子、宇都志日金拆命が祖となったと記載されている。「阿曇(アズミ)」は「阿(ア)・墨(スミ)」であり、阿曇=隅(墨)にある台地であり、この呼称の所以でもあろう

そして、全てが繋がったことが解る。近淡海墨(隅)江にある野の地をと表記し、その地にあった寺を阿曇寺と名付けていたのである。蘇我蝦夷大臣の庇護の許、仏法を広めたのであろう。寺の場所は定かでないが、現在の平泉寺、但信寺辺り、山稜が交差するところではなかろうか。

漸く、伺うことが叶いそうになって…既に亡くなられたか・・・古事記が語る古代、そのまた古代における表記の理解なくしては辿り着けない、がしかし、そうあるべき(筈)と書紀編者達は考えていたのであろう。結局、現在に至るまでその理解は得られていなかった、と言うことになろうか・・・。

六月、百濟・新羅遣使貢調獻物。修治處々大道。天皇、聞旻法師命終而遣使弔、幷多送贈。皇祖母尊及皇太子等、皆遺使弔旻法師喪。遂爲法師、命畫工狛堅部子麻呂・鯽魚戸直等多造佛菩薩像、安置於川原寺(或本云、在山田寺)。

六月の記事で百濟・新羅が朝貢して来た。前回の時も高麗は入っていないが、勿論この時期高麗が倭國に使者を送れるような状況ではなかったであろう。旻法師が亡くなられて皇極上皇、皇太子使者を送って弔った記されている。また菩薩像を多く作って川原寺(一説には山田寺)に安置したと伝えられる。
 
<狛堅部子麻呂>
● 狛堅部子麻呂・鯽魚戸直

「畫工(画工)」二人の名前が挙げられている。「狛」どうも「高麗」の表記が嫌われているようであるが、高麗宮知の場所の近隣であろう。

既に登場した堅=谷間に延びた山稜の端が手のようなところと読み解いた。直近では伊勢阿部堅經などに含まれていた文字である。

図に示した場所が記載された要件を満たしているように思われる。がしかしかなり開拓が進んだようで、生え出た(子)「麻呂」の地形を微かに伺える状態のようである。

「鯽魚戸直」はこのままでは殆ど不詳の域に入ってしまう感じであるが、調べると景行天皇の子、神櫛別命(古事記では神櫛王)の後裔が讃岐国造(須売保礼命)となり、その子であったことが分かった。

古事記の記述では神櫛王は「木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖」と記載されていて、情報が錯綜としている有様である。取り敢えず、名前が示す地形が見出せるのかを検討し、その後の判断とする。とは言え、「魚」が絡む名称はなかなかに難しいのだが・・・。
 
<鯽魚戸直>
鯽魚」を如何に読むか?…「鯽」=「魚+卽」と分解できる。すると並べると鯽魚=魚+卽+魚となる。魚が二匹、卽(くっ付いて)並んでいる様を表していると読み解ける。

「戸」=「入口」、「直」=「真っ直ぐな様」であるから鯽魚戸直=二匹の魚がくっ付いて並んだ間の入口が真っ直ぐなところと読み解ける。

讃岐國、現在の北九州市若松区の東北の隅で探索すると、何と適合する地形の場所が見つかる。

古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子に香余理比賣命(妾の子として)が登場する。この地の近隣、どちらかと言えば内陸部であって、全く重なるわけでもないようである。

流石に八十名もの御子を誕生させた天皇の子孫の確認には梃子摺ったのかもしれない。いずれにせよ、名前から受ける印象とは大きく異なる画工であった。仏教が流布されるにつれて、仏師、絵師のニーズが誕生した。またそれらの作品が人々の心を鎮めるの役立ったのであろう。

 
<川原寺>

川原寺

どうも寺は唐突に登場することが多く、探索に手間が掛かるのであるが、この寺は、即に思い付くところである。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀の説話に謀反を起こした大山守命と宇遲能和紀郎子との戦闘場面がある。そこで記載される訶和羅が「川原」を示していると思われる。

現地名は田川郡香春町香春であるが、場所の特定は決して簡単ではないようである。おそらく谷間の出口辺りの台地、現在の勾金神社辺りではなかろうか。

「香春」に由来は「河(川)原」と、一説には言われるそうである。的を得た説かもしれない。仏画の安置場所について、一説に「山田寺」と記載されているが、例の事件があったこちらを参照。

秋七月、被遣大唐使人高田根麻呂等、於薩麻之曲・竹嶋之間合船沒死。唯有五人、繋胸一板流遇竹嶋、不知所計。五人之中、門部金、採竹爲筏泊于神嶋。凡此五人、經六日六夜而全不食飯。於是、褒美金進位給祿。

七月に二艘目の遣唐使船(大使高田根麻呂等以下総勢百二十人)が「薩麻之曲・竹嶋之間合」で沈没したと伝えている。生き残ったのは、たったの五人であった。上記で二艘目の乗船者名が大使・副使併せて四名のみであったが、記録が欠如していたのか、少々腑に落ちないところであったが、遭難事故が起こったために追跡確認できなかったのかもしれない。

更に奇妙なのは、一艘目の出発日は、五月十二日と明記されているが、二艘目は「又」と曖昧な表現を使っている。そのまま続けて読めば、同時出発のように思われ、ルートを違えて二艘送り出したかのような解釈もなされているようである。それは何故か?…「出発日・場所」と「遭難日・場所」が問題なのである。

同時出発ならば、難波(明記されずだが、おそらく)から薩麻之曲・竹嶋之間合」まで「二ヶ月前後」要したことになる。大阪難波と鹿児島薩摩の位置関係を暗示する表記になっているようである。言い換えれば、二艘目に関する記述を、二つの場所を暈すために、曖昧な表現としたのであろう。そのために名前を不詳にされた学問僧、留学生、真にご愁傷さまである。
 
薩麻之曲・竹嶋・神嶋

この三つの地名らしきところを求めてみよう。通説は「薩麻」=「薩摩」として間違いない、と状況であろう。魏志倭人伝の「投馬」=「薩摩」であり、これよりもっと確からしいと言う解釈なのである。ここまでは議論の余地なし、としても問題は「竹嶋」、加えて「神嶋」については諸説あり、の状況となって、結局よく分からん!…と放棄しているのが現状であろう。

これを読み解く鍵は、隋書俀國伝に記載された「度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國」に登場する「竹島」とその南にある「聃羅國」である。聃羅國=耽羅國であり、現在の済州島と読んだ。耽羅耽羅=大きな耳朶が連なったところと紐解いた。竹島は、その真北にある、現在の漢字表記では甫吉島と推定した。耽羅國=済州島は確定的な比定とされている。

では「薩麻」は何と読み解けるであろうか?…「薩」=「艸+阝(阜)+產」と分解される。「阜」=「段丘」を表す文字要素である。すると「薩」=「段丘(阝)が生え出て(產)並んでいる(艸)様」を表す文字と読み解ける。「麻」=「擦り潰したような様」であるから、薩麻=並んで(艸)生え出ている(產)段丘(阝)が擦り潰されたような(麻)ところと紐解ける。「曲」=「隈(隅)」と解釈すると、その地の「隅」を示していることになる。

<薩麻之曲・竹嶋・神嶋>
済州島が火山活動によって生まれた地であることから、噴火した溶岩が流れ出た麓で、更に小噴火によって段丘が生じた地形である。

それが無数に生じた結果であろう。鹿児島も多くの火山活動によって類似の地形を持つと思われる。「薩摩」は実に適切な表記であることが分かる。

「神嶋」は、少し西側にある群島の最北部にある島と推定される。図中に拡大した島の形状を示したが、東西に細長い、稲妻の地形(神)を持つ(横千島)。

図では判別し辛いが、甫吉島と済州島の間に小さな島がある。この海域の水深が浅く、その一部が海面上に現れた地形であるが、おそらく沈没は座礁が原因であろう。島は海上の目印であると同時に座礁のリスクもある。

難破後、東から西に流れる対馬海流に流されて、竹嶋に辿り着き、更に筏で漕ぎ出しても西に流されて神嶋に漂着したのではなかろうか。ともあれ無事に帰朝できたようで、なによりである。

書紀記述の暈した表現の理由が解けたようである。次期をずらして(およそ二ヶ月)発船したと思われる。ルートは同じであって、俗に言う北路であるが、隋書俀國伝は対馬及び済州島を経由しない、と言うか必要なかった。それを逆行すると、経由地は壱岐島、竹島(休息と水補給程度か)、それから百濟の地となる(勿論天候見合いで身近な島に立寄った?)。唐との関係を保つには、やはり百濟は外せなかたのかもしれない。
 

<門部金>
繰り返すようだが、記載されていない発船場所は、いずこの難波津ではなく、筑紫の海岸である。

船が大型化したその時では企救半島の南を通過するのは困難となっていたであろう。故に船を並べて新羅を威嚇するのは筑紫海裏までであったと記載されていたのである。

● 門部金
 
難破船から無事帰還したのは、奇跡と思われたのであろう。名前が記載されている。「門部」を如何に解釈するかであろうが、「門」が地名に係るところは意外に少なく、「穴門」を思い付く。

その地で「金」の地形を探索すると、これも予想に反して特定ができたのである。

図に示した場所「金」の地形を示す山麓に住まって居たのではなかろうか。いずれにしても二~三十人…いや、もっとかもしれないが…の漕ぎ手の一人だったのかもしれない。

是歲、太子奏請曰、欲冀遷于倭京。天皇、不許焉。皇太子、乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等、往居于倭飛鳥河邊行宮。于時、公卿大夫百官人等皆隨而遷。由是、天皇、恨欲捨於國位令造宮於山碕、乃送歌於間人皇后曰、
舸娜紀都該 阿我柯賦古磨播 比枳涅世儒 阿我柯賦古磨乎 比騰瀰都羅武箇

多分上記の七月以降かと思われるが、皇太子が倭京に戻ることを進言して来たが、天皇は許可しなかったと伝えている。やっと難波長柄豐碕宮が完成して入居したのに、倭に帰ろうとは、如何なることかと言うところであろう。幾つかの行宮を整備し、都(京)として整えたところ、でもある。挙句に上皇、皇后更には公卿達までもそれに従ったのである。天皇は怒って「山碕」に宮を造ったと述べている。

歌の訳は、参考資料から引用して…、

鉗着け 吾が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか【訳】鉗という逃げないように首にはめる木を付けて飼っていた馬。大事にしていたから、厩舎から引いて出しもしないというのに、私が飼っている馬を、他人が見つけて奪っていった。

…のようである。「馬」=「間人皇后」歌を送った相手。
 
<山碕宮>
引き上げた人々は「倭飛鳥河邊行宮」と記載されている。この行宮は初出であるが、おそらく舒明天皇の岡本宮を行宮(假宮)(金辺川沿い)として用いたのではなかろうか(下図参照)。天皇が反対されている中で宮を新しく設けることは不可である。

さて、天皇が「山碕」に造られた宮は何処であろうか?…これも唐突で分かり辛いのだが、難波長柄豐碕宮の背後にある山系の端ではなかろうか。

推定した場所を図に示した。難波から更に先に進んだ突端に近い場所である。「恨欲捨於國位」の気持ちを表すには好適の場所であろう。それにしても、なかなか理解し辛い状況ではある。実権は皇太子にあったと言わんばかりの記述である。

真相は?…中臣鎌子連は如何に処していたのか?…などの疑問が湧いて来るが、後にスッキリとさせてくれるのであろう。目下のところは記載されたところを読んでおこう。

「倭京」の文字はここが初出である。書紀中計7回(孝徳紀1、天智紀1、天武紀5)出現する。勿論通説は奈良大和の京なのであり、今回のように難波にある宮に対する表記としては何となく通じるが、奈良大和内と思われる宮に対して用いられた時に些かぎこちなくなってしまうようである。怪しい解釈であるが、後に述べることにしよう。

ここでは、当然ながら、飛鳥(香春一ノ岳)周辺にある場所を示す。この地以外に「京」と付けられる地は見当たらないと思われる。

五年春正月戊申朔夜、鼠向倭都而遷。壬子、以紫冠授中臣鎌足連、増封若干戸。二月、遣大唐押使大錦上高向史玄理(或本云、夏五月遣大唐押使大花下高向玄理)・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀(或本云、判官小山下書直麻呂)・小乙上岡君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老(老、此云於喩)・田邊史鳥等分乘二船。留連數月、取新羅道泊于萊州、遂到于京奉覲天子。於是、東宮監門郭丈舉、悉問日本國之地里及國初之神名、皆隨問而答。押使高向玄理、卒於大唐。(伊吉博得言「學問僧惠妙於唐死、知聰於海死、智國於海死、智宗以庚寅年付新羅船歸、覺勝於唐死、義通於海死、定惠以乙丑年付劉德高等船歸。妙位・法勝・學生氷連老人・高黃金幷十二人・別倭種韓智興・趙元寶、今年共使人歸。」)

白雉五年(西暦654年)正月元旦夜、鼠が倭都に向かって移ったと言う。中臣鎌足連に紫冠を授けて、封を増し、配下の人数も増やしたとのこと。「子」→「足」への改名。「鎌」にくっ付いた「子」から、「鎌が長く延びた(足)様」、即ち「鎌」の先までを領地したような感じである。やはり、この谷間では”若干”の表現であろう。

二月になって、遣唐使を送ったと伝えている。今度は超大物、「大使」ではなく「押使」となっている。位も「大錦上」しかも唐に関しては右に出るものがないくらいの知識人である(異説があって、五月、大花下となっているとのこと)。総勢数は記載されないが、二艘に分乗したようである。

向かう経路も少し違っていて、「留連數月、取新羅道泊于萊州、遂到于京奉覲天子」と記述されている。たっぷりと時間を掛けて、「新羅道」(朝鮮半島内の新羅ー渤海を繋ぐ陸路)で渤海に出て対岸の「萊州」(山東省萊州市)を経て京に入って天子に謁見したようである。この経路を取ることに拠って新羅及び唐のその時点での状況をつぶさに見聞きすることができたであろう。

「押使」(高向玄理)も当地で客死、その他も多くのものが海で亡くなったと伝えられている。果たして現地査察をした結果は倭國に届いていたのであろうか。幾人かは無事に帰朝したようだから、何とか伝えようと努めたとも思われる。いずれにしても命懸けの外交であったと思われる。

大使の河邊臣麻呂は、既に登場した河邊臣湯麻呂であろう。「蘇賀」の地からの人材が相次いで消え去って行く中で、兄と共に「有過」とされたが、有能であったのであろうか、残ることのできた一族である。

判官の名前がズラリと並んでいる。書直麻呂倭漢文直麻呂のことと言われる。古人皇子の謀反に連座したと密告された一人であるが、これもまた復活している。そもそもこの連座した連中は後にも活躍の場が与えられているようである。と言うことはそもそも謀反がでっち上げか、の疑念…だそうである。
 
置始連大伯上記で読み解いた。物部一族である。中臣間人連老(於喩)は冒頭の中臣一族の中に記載した。「間人」の地形象形は、ここでもしっかりと守られている。訓の注記の「於喩」は如何に読み解けるであろうか?…「於」=「㫃(旗の原字)+二(区切る)」と分解すると解説される。地形象形的には、於=竿からなびく旗のような山稜が二つに区切られている様となろう。
 
<宮首阿彌陀>
「喩」=「囗+兪」と分解され、喩=大地が丸木舟のようにくりぬかれた様と解釈される。「間人」と併せて忠実に居場所の地形を表していることが解る。

それにしても谷間の奥深いところである。狭い谷間から多くの人材が登用されて行く、ある意味自然の成り行きと思われる。
 
● 宮首阿彌陀

「宮首」は殆ど情報がない有様であるが、古事記の倭建命が吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣を娶って誕生した「建貝兒王」が祖となった記述で登場する。

「讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別等之祖」と記載され、各地に子孫を作った王だったようである。

「宮首」の場所を御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が坐した師木水垣宮があった地と推定した。阿彌陀=広がる(彌)台地(阿)の傍らに崖(陀)があるところと読める。
 
<岡君宜>
「建貝兒王」が祖となった宮首之別は、「首」の南側の地と推定されるが、「阿彌陀」は師木水垣宮があった台地そのものを示している。

崇神天皇の時代に開かれた地が引き継がれていたのであろう。この地に住まう人々の繋がりは定かではない。
 
● 岡君宜

「岡」とくれば「飛鳥岡」であろう。舒明天皇の岡本宮(後に河邊行宮)があった場所である。現地名は田川郡香春町採銅所の本町辺りと思われる。

「宜」=「宀+且」と分解される。「宀」=「山稜に囲まれた麓」と読み解いて来た。「且」=「段々に積み重ねた様」を表す文字である。

宜=山稜に囲まれた麓にある段々に積み重なったところと読み解ける。すると図に示した岡の上、鬼ヶ城(香春城)跡がある香春一ノ岳東側の中腹の高台と推定される。残念ながら地図上では確認できず辛うじて中腹にある棚状になった場所(君)と推定した。

<田邊史鳥・河内書首・書首根摩呂>
● 田邊史鳥

「田邊」も書紀中の登場回数は極めて少なく、古事記には登場せず、情報欠如の状況なのであるが、調べると河内國に関連がある名称であることが判った。

「河邊」の用法などを参考にすると田邊=連なる田の傍らのところであろう。河内國に該当する地で探索すると、図に示した場所が見出せる。史鳥=真ん中を突き通すように延びた山稜がある[鳥]の形のところと読める。

古事記では建小廣國押楯命(宣化天皇)が娶った之若子比賣(書紀では大河內稚子媛)居た場所と推定した。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田である。散見される人物の繋がりは定かではなく、上記の「宮首阿彌陀」と同じく、今後の課題であろう。

また後の斉明天皇紀に「河內書首(闕名)」が登場する。すぐ南隣の「首」の形のところと推定した。「書」=「聿+者」と分解される。通常の意味では、「筆が集まった様」で「文字が書き連ねられたもの」である。ここでは書=筆の先のような山稜が交差するように集まったところと読み解ける。更に先になるが天武天皇紀に「書首根摩呂」とフルネームでの登場がある。「根」が接近している「呂」で併記した。
 
伊吉博得(德)

「伊吉博得」が述べるところに拠ると・・・の引用が記載されている。「一書」とせずに『伊吉博得書』として引用されている。素性はWikipediaなどに記載されているが、中国周王の末裔で長安人の渡来子孫と記載されている。「伊岐・壱伎」と記されることから現在の壱岐島が出自の場所と推定されている。
 
<伊吉博德(德)>
「博」=「十+甫+寸([く]字形の手)」と分解され、
博=山稜(寸)がびっしり(十)と延び広がった(甫)様を表す文字と知られる。古事記の「博多山」などで用いられている。

「得」=「彳+貝+寸([く]字形の手)」と分解され、「出向いて貝を手に入れる」と解釈されるが、地形象形的には得=山稜()で窪んだ地(貝)を挟んだ(寸)様と読み解く。

壱岐でこの地形を示す場所は限られており、谷江川の河口付近と推定される。定かではないが、居場所はこの谷間の中央部ではなかろうか。

後の登場では「博德」と表記されている。「德」は幾度か登場した文字で、「真っ直ぐな様」を表すと読み解いた。「得は德なり、徳は得なり」と洒落て表現されるが、それをそのまま用いた、やはり「德」の文字のイメージが良いのかもしれない。

解読が進んで、なかなか意味が読み解けなかった「伊吉」の文字が示す場所が見えて来た。「吉」=「士(蓋)+囗」と分解される。即ち蓋の形をした地形を示していることが解る。図に示したように「博德」の出自の場所は「蓋」の地にあった。伊吉=谷間で区切られた山稜が[蓋]のような様と読み解ける。

ともかくも、この地は天神族に関わらなかった地である。おそらく彼等に先んじて渡来していた人々だったのであろう。古事記の舞台以外でも様々なドラマが演じられていたと思われる。

『伊吉博得書』には、実に正確に事実を書き記してあったのであろう。その書の存在を史書に残したが、そのもの自体は残存していない、いや、されなかったのであろう。彼の表記も見事な地形象形であることが判りつつある。ひょっとしたら、壱岐島のどこかに眠っているのかもしれない。

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白雉五年(西暦654年)二月の遣唐使は、旧唐書東夷伝の「貞觀二十二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)までの五十有余年間、遣使の記述が見られない」と記述の中にある。つまり中国史書の本記には記載がなく、他の史書の中に散見される。例えば『唐会要』に「永徽五年(西暦654年)に倭國が琥珀、碼碯を献上して、その立派なのに高宗が喜び、危急のことがあれば、助けよと述べた。」と言う記述などである。

倭國は「押使」として派遣したのであるが、唐の応対は決して重くは受け止めていなかったようである。手土産が立派なので、それなりの応対で済ませた、と言うところであろうか。唐にしてみれば重要なのは新羅で、それに同道しているなら、問題はなく、むしろ序列を新羅の下に見ていたようでもある。それぞれの思惑がぶつかり合う時が訪れようとしていたのであろう。

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夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舍衞女一人、被風流來于日向。秋七月甲戌朔丁酉、西海使吉士長丹等、共百濟・新羅送使、泊于筑紫。是月、褒美西海使等奉對唐國天子多得文書寶物、授小山上大使吉士長丹以少花下、賜封二百戸、賜姓爲吳氏。授小乙上副使吉士駒以小山上。

四月に「吐火羅國」及び「舍衞」から複数の人が「日向」に流れ着いたと記載している。調べると、前者はタリム盆地、後者はインド北部舍衞城辺りを示すと解釈され、かつてはそんな西方から来るとは思えないとして余り追及されて来なかったそうである。近年の中国西域の研究が、その地の古代における多くの謎を解き明かしつつあることが大きな刺激となっているようである。

本ブログでは、前記に秦の圧迫を受けた羌族の一部が朝鮮半島経由で渡来し、日本列島に住み着き、銅鐸を生み出したと述べた(妄想に近いが…)。書紀が記す時代より遡ること一千年以上も以前のことだが、西から人々が流れ着くことは決してあり得ないことであろう。言い換えると貴重な古代の出来事を書紀が書き残しているのである。

吐火羅=火を吐くような地が並んでいる(羅)ところでと読めそうだが、チベット高原を表すものなのか、命名の主体が不詳なのでこれ以上の考察は不可であろう。後の斉明天皇にも類似の人々が流れ着くようで、そちらでもう少し詳しく述べることにする。

書紀の「日向」は、現在の宮崎辺りと読み取れるように書かれている。また、蘇我日向に用いられてもいる。日向=山稜が北に向かって延びるところであり、斉明紀では、漂着したのは「筑紫」と記載されている。間違いなく、古事記の竺紫日向であろう。

白雉四年五月に遣唐使(大使)として登場した吉士長丹、一年二ヶ月後に「西海使」(遣隋使、遣唐使、遣高麗使、遣百済使など、中国・朝鮮につかわされた使節の総称…と辞書に記載)として登場している。「賜姓爲吳氏」とのことである。副使の吉士駒と共に昇進である。

冬十月癸卯朔、皇太子、聞天皇病疾、乃奉皇祖母尊・間人皇后幷率皇弟公卿等赴難波宮。壬子、天皇崩于正寢。仍起殯於南庭、以小山上百舌鳥土師連土德、主殯宮之事。

十二月壬寅朔己酉、葬于大坂磯長陵。是日、皇太子奉皇祖母尊遷居倭河邊行宮。老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。是歲、高麗・百濟・新羅並遣使奉弔。

十月に天皇の病状が悪化して、倭河邊行宮にいた皇太子、皇祖母尊、皇后などが難波宮へ赴き、十月十日に亡くなられたと述べている。殯を百舌鳥土師連土德(百舌鳥長兄に併記)が取り仕切った。「土師」は各地に散らばっていたのであろう。
 
<大坂磯長陵>
大坂磯長陵
 
十二月に亡骸を「大坂磯長陵」に葬ったと記載されている。皇太子などが倭に向かうと、巷では鼠が倭都に向かって、いよいよ遷都か、と噂されたとか。三韓からの弔使が来たようである。

墓は質素にしろ、と仰ったので、ひょっとしたら陵は作らないかと思いきや、そうでもなく・・・百舌鳥の仁徳天皇陵と比べては・・・。

墓所は決して簡単に見つかるものではないが、「大坂」と冠されていることから、比較的に的を絞って探索できる。が、問題は「磯」の文字である。

「磯」は通常使われる意味としての解釈で事なきを得て来たが、とりわけ古事記では「磯」よりも「石」で簡略表現されていた。

現地名の犀川大坂は大坂山の、正に麓に当たり、磯らしきところができるであろう犀川流域とは些か離れている。おそらく捻った文字使いではなかろうか。

「磯」=「石+糸+糸+戍(人+戈)」と徹底的に分解すると、地形象形表記の要素が並んでいることが解る。そもそもが地形を表す文字であるから当然であろうが。「石」=「山麓の区切られた地」、二つの「糸」=「川」、「戍(人+戈)」=「谷間にある矛の地形」と翻訳すると、磯=山麓の谷間にある区切られた地(石・人)が矛のような形(矛)をして二つの川に挟まれている(糸・糸)ところと紐解ける。

実に見事なくらいに当て嵌まる地が見出せる。図に示した場所は、現在県道及び旧道がそれを取り囲むように走り、大坂山の麓を抜ける峠道の入口に当たる。大化の改新と言う一大改革を推進された天皇、難波津を発展させ、西域の諸国との外交のインフラを整えられた。「公地公民」の意識改革に苦心した挙句、最後を寂しく迎えられたと伝えている。賢帝の一人と思われる。

長い孝徳天皇紀を終えようとしている。この紀から実に多くのことを学ばせて貰った。些か消化不良の面があるが、それは後日としよう。