2020年6月6日土曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅰ) 〔421〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅰ) 

 
「乙巳の変」を経て、まさかまさかで即位した孝徳天皇は、天皇家の中央集権へ向けて「公地公民」の概念を民に植え付けるために様々な努力をされたと記載されていた。理想とする国たらんと旧弊との闘いでもあったようである。がしかし、一代でなせることには限りもあったであろうし、その中での葛藤も生じていたのであろう。結局は全てを治めることは叶わず、寂しい結末を迎えられたと記述されていた。

中大兄皇太子は、相変わらず表に立たず、皇太子の立場を活用した行いに徹したようである。そして、孝徳天皇崩御の後も、まだ即位はせず、それによって皇極上皇が再び即位したと伝ている。朝鮮半島の政情も益々不穏となる中での国の国の舵取り、実に繊細な一面も現れて来るように感じられる。

それにしても「天豐財重日足姬天皇」は、些か語弊があるかもしれないが、女傑風の趣を醸し出したようである。即位元年(西暦655年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

天豐財重日足姬天皇、初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子、後適於息長足日廣額天皇而生二男一女、二年立爲皇后、見息長足日廣額天皇紀。十三年冬十月、息長足日廣額天皇崩、明年正月、皇后卽天皇位。改元四年六月、讓位於天萬豐日天皇、稱天豐財重日足姬天皇曰皇祖母尊。天萬豐日天皇、後五年十月崩。

あらためて天皇のプロフィール、である。橘豐日天皇の孫である「高向王」との間に「漢皇子」を誕生させていたと記される。「高向王」の素性は不詳の部分が多いようである。古事記では天國押波流岐廣庭天皇(後の欽明天皇)が宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣を娶って誕生した御子の中に橘之豐日命、豐御氣炊屋比賣命(後の推古天皇)等に加えて「大宅王」が居たと記載されている。

この大宅王出自を蘇賀石河宿禰が祖となった高向臣の地と推定した。「大宅王」の息子とすると甥であり、孫ではなく、確かに不明な出自であるが、孫の方が皇統絡みで都合が良かっただけかもしれない。まだこの時期では蘇賀の内部は自由にローテーションできたであろうから、橘豐日天皇系列の御子が高向に入り込む余地はあったであろう。

「漢皇子」の名称は、母親が後に天皇になって後付けされたものであろう。すると「漢」は何処になるのか?…「角に曲がる川の近傍」の一般名称と解釈して来たが、果たして存在するか、である。前記で天豐財重日足姬天皇に含まれる「重日」は、伊柯之比と訓されると記載されていた。この「之」の中に、確かに「直角に曲がる川」が地図上で確認される。

元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、卽天皇位於飛鳥板蓋宮。夏五月庚午朔、空中有乘龍者、貌似唐人着靑油笠而自葛城嶺馳隱膽駒山、及至午時、從於住吉松嶺之上向西馳去。秋七月己巳朔己卯、於難波朝饗北(北越)蝦夷九十九人・東(東陸奧)蝦夷九十五人、幷設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人、冠各二階。八月戊戌朔、河邊臣麻呂等、自大唐還。冬十月丁酉朔己酉、於小墾田造起宮闕擬將瓦覆、又於深山廣谷擬造宮殿之材、朽爛者多遂止弗作。是冬、災飛鳥板蓋宮、故遷居飛鳥川原宮

即位元年(西暦655年)一月三日に飛鳥板蓋宮で即位された。五月に入って直ぐ、空に「唐人」の容貌をした者が龍に乗って「葛城嶺」から「膽駒山」に走って隠れ、その後「住吉松嶺」の上を西に走り去ったと記載している。何かを、と言うか、そのものズバリで、あろう。勿論実際にやって来たわけではなかろうが…。

七月に「北(越)蝦夷」と「東(陸奧)蝦夷」の二百名近く、及び百濟の使者百五十名を難波の朝廷で饗応したと述べている。蝦夷との融和策は継続している様子である。更に続いて「柵養蝦夷」、「津刈蝦夷」の十数名に冠位を授けたとのことである。八月には河邊臣麻呂が唐から帰朝。

十月には小墾田に宮を建てて瓦葺にしようとしたが、資材が調達できず断念したと記している。その後、飛鳥板蓋宮が火災し、「飛鳥川原宮」に移ったと伝えている。
 
<葛城嶺・膽駒山・住吉松嶺>
葛城嶺➡膽駒山➡住吉松嶺

不吉の予兆として語られた龍に乗った唐(らしき)人の軌跡を図に示してみた。葛城嶺は初出であるが、葛城の地に聳える山並であろう。

古事記が記述した第二代神沼河耳命(綏靖天皇)から第八代大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)、世に言う「欠史」の天皇が坐した地である。

また直近では中大兄皇子(葛城皇子)の出自の場所と推定した。現地名では、福智山山塊の南部に当たり、焼立山、牛斬山などの山が連なる山塊である。

さて、この唐人が乗った龍は、見事なまでに「葛城嶺」の山稜に沿って南下していることが解る。そしてこの山塊の南の端にある「膽駒山」を通過して山を下り、住吉松嶺に至る。

「住吉」=「隅の江」と解釈される。金辺川が大きく蛇行し、その隅を作るところにある「松嶺」となる。「松」=「木+公」と分解される。更に「公」=「ハ+ム」であり、[ハ]の字形の谷間に挟まれた高台と読み解ける。

既出の三國公麻呂など幾つかの例があった。また、この地には欽明天皇が坐した磯城嶋金刺宮があったと推定した場所である。金=ハ+高台と解釈した。

住吉松嶺=川が曲がる隅にある[ハ]の形の高台で山が連なるところと読み解ける。そして龍はこの地を飛び越えて西に去って行ったと記載されている。葛城嶺からの飛行は、実にスムーズな動きであることが解る。

唐の気配を暗示するばかりではなく、宮の西側の地形を正確に教えているのである。もう少し深読みすれば、唐からの侵攻は、葛城嶺と川(金辺川・彦山川)によってかなりの程度まで防御可能であることを示しているのであろう。手薄なのは、やはり東側と考えていたと推測される。後の天皇の行動に係るようである。
 
蝦夷:北(越)・東(陸奥)・柵養・津刈

「北(越)蝦夷」は既出の越邊蝦夷であろう。「東(陸奥)蝦夷」は、書紀の日本武尊の活躍が語られた「陸奥國」に絡む地と思われる。とすると古事記では倭建命は、その地までは届かずに引き戻ったと伝えている。関連する表記は、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった道奧石城國造の地と思われる。

後の記述(伊吉連博德書の引用箇所)に「類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷」と記載されている。最も遠いのが「都加留」は「津輕」(下記で蝦夷の地の一つを津輕郡と定めている)であろう。「麁蝦夷」は上記の「越(邊)蝦夷」に該当すると思われる。最後の最も近いのが「熟蝦夷」、これが「陸奥蝦夷」に該当すると思われる。
 
<越(麁)蝦夷・柵養蝦夷・津刈蝦夷>
登場する文字列は、現在の東北地方の最北端までを示すような表記であり、さて、これらは如何に収まって行くのか、「渟足柵」、「磐舟柵」の記述で登場した「越蝦夷」から読み解いてみよう。


これを「麁蝦夷」と表現している。麁」の本字は「麤」であって、「鹿」を三つ重ねた文字である。すると麁=麓が三つに岐れたようなところと読み解ける。

全体が「蝦夷」の地形であるが、主峰砂利山の東南麓にある金山で三つに山稜が岐れて延びている地形を「麁」で表している。

実に痛快な地形象形表記である。簡明で的確な表現として記憶に留めておきたく思う。それはともかくとして、冠位を授けられた「柵養蝦夷」と「津刈蝦夷」の場所を求めてみよう。

「柵養」の「養」=「羊+良」と分解され、「谷間がなだらかに延びた様」と読み解いた。前記で幾度か登場の「犬養」の解釈である。柵養=柵の傍で谷間がなだらかに延びたところと読み解ける。

「津刈」の「津」=「氵+聿」と分解される。「津」=「水辺の[筆]の形の様」と読み解ける。「刈」=「メ+刀」と分解され、山稜の端が「刈り取られたような様」を示すと読み解ける。すると津刈=水辺で[筆]の形の山稜の端が刈り取られたようなところと読み解ける。
 
<東(陸奥)蝦夷・熟蝦夷>
図に示したように「磐舟柵」を取り囲むような配置の場所に居た「蝦夷」等であることが解る。最前線の柵の要員として欠かせない人々であったことが容易に想像できる。冠位を授けてモチベーションも向上、ってところなのであろうか・・・。


「東(陸奥)蝦夷」は、上記の「道奧石城國造」の場所と推定する。大河で遮られた陸奥(ミチノク)の地と思われる。

古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に、船で高志に向かった大毘古命とその息子建沼河別命が東方十二道を経て相津で出会う感動の物語が記載されている。

即ちここは東方の最果てであって、その地を「東の奥」と記述しているように受け取れる。「記紀」共通の捉え方であろう。「東方十二道」と言う言葉を使ったしまった故に起った混乱かと思われる。

それを正すように遠近で表現したのが、「伊吉連博德書の引用箇所」に当たる。この地を「熟」と表現している。「熟」の解釈に戸惑うところであるが、「熟(こな)す」の意味から入るといくらか理解しやすいようである。「こなす」=「粉に成す」で「小さく砕く様」を表し、地形象形的には熟=砕かれて平らになったところと紐解ける。

後代の人手がかかったものかと思いきや、そうではなく当時から平坦な台地形状の地形を有していたことが解る。後に「伊豫熟田津石湯行宮」にも含まれた文字で、この解釈でその場所を求めることができる。通常の意味(果実が熟すなど)での用法も混在する中で貴重な文字使いであろう。「津輕蝦夷」も含めて多くの蝦夷が登場するようであるが、その都度読み解くことにする。

「飛鳥川原宮」は既出の川原寺、またはその近隣と推定される。現地名は田川郡香春町香春である。正に假宮だったのであろう。即位一年に満たない内に災難が降りかかって来たと伝えている。事件の予兆か・・・。

是歲、高麗・百濟・新羅並遣使進調百濟大使西部達率余宜受・副使東部恩率調信仁、凡一百餘人。蝦夷・隼人率衆內屬、詣闕朝獻。新羅、別以及飡彌武爲質、以十二人爲才伎者。彌武、遇疾而死。是年也、太歲乙卯。

三韓揃い踏みであるが、百濟の総勢百人を超すとは、凄まじい・・・何とか日本を味方に引き込もうとする魂胆には違いなかろう。蝦夷と隼人が内属(属国)になったと記している。この蝦夷は上記の越()蝦夷であろう。しっかりと味方に引き入れるおもてなしが功を奏したわけである。他方、書紀中には幾度か登場する隼人(蝦夷・隼人の記述も)の話は、散見される程度である。直近での懐柔策も記載されていない。違和感のある記述であろう。
 
蝦夷・隼人
 
<隼人阿多君>
古事記では、そもそも隼人は、「火照命此者隼人阿多君之祖」と記されている。兄の「火照命」(書紀では火闌降命)=「海佐知毘古」である。

正真正銘の天神族なのであるが、末弟の火遠理命(山佐知毘古:皇祖)との諍いに敗れ、昼夜を問わずに守護人として奉仕することを誓った、と記されている。

何とも律義な人々かとも思うのだが、隼人の位置付けの所以である。この「隼人阿多君」が何処の地を指し示すのかは、極めて重要である。

古事記の図を示した。母親「神阿多都比賣、別名木花之佐久夜毘賣」の出自の場所「阿多」の隣の谷間を表している(こちら参照)。

天神族の兄弟争いは凄惨な様相を呈するようで、いや古事記が勝手に記載した、とは思えず、幾度も皇位継承事件が勃発する。最大は、出雲の出来事であろう。語り出すと長くなるので、また、別途に・・・。

ところでもう一人、隼人が登場する。これも悲しい役柄で、口車に載せられて、後に抹殺されてしまう人物がいた。「隼人曾婆訶理」である。その出自の場所を再掲する。
 
<隼人曾婆訶理>
伊邪本和氣命(履中天皇)紀に登場するのだが、出自の場所は上図<越(麁)蝦夷・柵養蝦夷・津刈蝦夷>の「越(麁)蝦夷」の南西麓の谷間に当たる。

「隼人」は「麁蝦夷」の西側の谷間を中心とした人々を指し、その東側の山稜の麓に生息していた人々を「蝦夷」と名付けたと思われる。

正に隣人としての配置であることが判る。共存・共生する(多分?)以上、彼らを区別することは不可能であろう。ある意味それを素直に表記したのが「蝦夷・隼人」と思われる。

通説は、「蝦夷」=「日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称」とし、「隼人」=「古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々」としている。

言い換えれば、「隼人」と「蝦夷」の間に天神族の倭國(日本國)を割り込ませた空間を作り上げたのである。現在から見れば、日本列島における配置のバランスが些か悪い状態のように見えるが、それは当時の、特に東方に対する、空間認識が欠如していたことに依存するのであろう。如何なる作業を行ったか、それはまた後日としよう。