皇祖母尊:斉明天皇(Ⅱ)
唐の忍び寄る影を伺いながら三韓との接触を続ける日々である。地政学的にも百濟の状況を危ういと思っていたであろうが、百濟は日本と唐とを繋ぐ立場であり、彼らの政情不安は直に影響を受ける状況であったと推測される。そんな中で天皇は如何なる手を打って行ったのであろうか。内政の不安材料を払拭できたようにも見えるが、果たして・・・。
即位二年(西暦656年)八月からの物語となる。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
二年秋八月癸巳朔庚子、高麗遣達沙等進調。(大使達沙・副使伊利之、總八十一人。)九月、遣高麗大使膳臣葉積・副使坂合部連磐鍬・大判官犬上君白麻呂・中判官河內書首(闕名)、小判官大藏衣縫造麻呂。是歲、於飛鳥岡本更定宮地。時、高麗・百濟・新羅並遣使進調、爲張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室、天皇乃遷、號曰後飛鳥岡本宮。於田身嶺、冠以周垣(田身山名、此云大務)、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。(若據未成之時作此謗乎。)又作吉野宮。西海使佐伯連𣑥繩(闕位階級)・小山下難波吉士國勝等、自百濟還、獻鸚鵡一隻。災岡本宮。
高麗から朝貢があって、その翌月に使者を送ったと記載されている。新しい顔ぶれ、それぞれの出自の場所も、当然様変わりするわけである。飛鳥岡本宮を新しく、どうやら少し場所も移して造り直したようである。少々宮の補足説明がなされているので、おそらく突止められるであろう。
また土木工事を大々的に行ったのだが、度が過ぎると受け止められたか「狂心渠」と言われたと記している。唐・三韓に関する情報共有がなされていない状況では、「狂心」もあり得るかもしれない。後に考察してみよう。吉野宮を作ったと記載されているが、詳細は不明。宮も度々火災が発生するようである。
<膳臣葉積> |
「膳臣」は膳部臣百依で出現した場所である。非常に丁寧な表記であり、「膳」の地から「部」(別けられた地)である。今回は、「膳」そのものの地を表すのであろう。
「葉」は「葉の形」を象った文字である。それから展開・派生した意味を示すと解説されている。ここでは葉=薄い(段差が少ない)ところと読むことにする。
「積」は頻度高く登場して「積」=「禾+朿+貝」と分解される。単に「積重なる」の解釈ではなく、積=山稜が作る[貝]の形の地に[棘]のような突起があるところと紐解ける。既出の坂合部連磐積に含まれていた。
すると「膳」の地形を「貝」に見立てて、その先端に辛うじて判別できるような「薄い」台地がくっ付いていることが判る。
この地形を「葉積」と表記したと思われる。春日の地にある、何とも微妙な地形を、やはり微妙な意味を持つ文字で表記していることが解る。そして「膳」と言う、些か複雑な構成要素の文字が示す場所を突止めることができたようである。
● 坂合部連磐鍬/薬/石布/稻積
前述の坂合部連贄宿禰・磐積を含め「坂合部連」からの人材の登用が盛んであったようである。この後も引き続くことから纏めてそれぞれの出自の場所を求めてみよう。
「磐鍬」の前期と同様に磐=山麓が広がった様として、「鍬」=「金+禾+火」と分解する。既出の文字要素が並んでいることが解る。
金=「ハ」の字形に囲まれた高台、禾=しなやかに延びる山稜、火=炎の形の山稜と読み解く。すると、些か小ぶりではあるが、図に示した先端の地形を表していると思われる。
山稜の端に近付くにつれて、地形の変形が大きくなって来る故に明瞭ではなくなるが、基本の形は保持されているようである。正に木花之佐久夜毘賣(阿摩比能微坐)である。
「坂合部連藥」の巨勢臣薬に出現して、薬=二つの細長い山稜(糸・木)に挟まれた小高い地(白)が集まった(艸)ところと読み解いた。その通りの地形であろう。「白」の集まり方が少々異なるようであるが。「坂合部連石布」の「石」は「磐」と比べて広がりが少ない地形を表していると思われる。すると「薬」の東側に、石布=山麓で(厂)平らに広がった(布)台地のような(囗)ところが見出せる。居場所は谷間であろう。
最後に登場する「坂合部連稻積」にも「積」が含まれている。稻積=稲穂の形をした山稜(稻)が[貝]のように広がり[棘]のように突き出た(積)ところと読み解ける。「坂合部」の東端の谷間を表していると推定される。これも居場所を求め辛いが、[棘]の上ではなかろうか。最初に登場した「贄宿禰」から合せて六名である。春日の粟田臣などのように、ある時期に集中するのであろう。
「積」は頻度高く登場して「積」=「禾+朿+貝」と分解される。単に「積重なる」の解釈ではなく、積=山稜が作る[貝]の形の地に[棘]のような突起があるところと紐解ける。既出の坂合部連磐積に含まれていた。
すると「膳」の地形を「貝」に見立てて、その先端に辛うじて判別できるような「薄い」台地がくっ付いていることが判る。
この地形を「葉積」と表記したと思われる。春日の地にある、何とも微妙な地形を、やはり微妙な意味を持つ文字で表記していることが解る。そして「膳」と言う、些か複雑な構成要素の文字が示す場所を突止めることができたようである。
<坂合部連磐鍬/薬/石布/稻積> |
前述の坂合部連贄宿禰・磐積を含め「坂合部連」からの人材の登用が盛んであったようである。この後も引き続くことから纏めてそれぞれの出自の場所を求めてみよう。
「磐鍬」の前期と同様に磐=山麓が広がった様として、「鍬」=「金+禾+火」と分解する。既出の文字要素が並んでいることが解る。
金=「ハ」の字形に囲まれた高台、禾=しなやかに延びる山稜、火=炎の形の山稜と読み解く。すると、些か小ぶりではあるが、図に示した先端の地形を表していると思われる。
山稜の端に近付くにつれて、地形の変形が大きくなって来る故に明瞭ではなくなるが、基本の形は保持されているようである。正に木花之佐久夜毘賣(阿摩比能微坐)である。
「坂合部連藥」の巨勢臣薬に出現して、薬=二つの細長い山稜(糸・木)に挟まれた小高い地(白)が集まった(艸)ところと読み解いた。その通りの地形であろう。「白」の集まり方が少々異なるようであるが。「坂合部連石布」の「石」は「磐」と比べて広がりが少ない地形を表していると思われる。すると「薬」の東側に、石布=山麓で(厂)平らに広がった(布)台地のような(囗)ところが見出せる。居場所は谷間であろう。
最後に登場する「坂合部連稻積」にも「積」が含まれている。稻積=稲穂の形をした山稜(稻)が[貝]のように広がり[棘]のように突き出た(積)ところと読み解ける。「坂合部」の東端の谷間を表していると推定される。これも居場所を求め辛いが、[棘]の上ではなかろうか。最初に登場した「贄宿禰」から合せて六名である。春日の粟田臣などのように、ある時期に集中するのであろう。
<犬上君白麻呂・佐伯連𣑥繩> |
「犬上君白麻呂」は、勿論「犬上」の地が出自の場所であろう。隣接する「佐伯連」と合せて読み解いてみよう。
両地は、限りなく狭い地域であって、残された土地に表記された場所が見出せるであろうか、無ければそもそもの場所の比定が誤っていることを示し、有ればより確実な比定となり、興味深い。
「犬上君白麻呂」に含まれる「白」は上記の「薬」の場合とは異なり、「狛」の解釈であろう。白麻呂=くっ付いて並ぶ(白)平らに盛り上がった(麻呂)ところと読み解ける。すると既出の犬上建部君の先端に段々になった「麻呂」が並んでいることが解る。
更に「佐伯連𣑥繩」は何処の地形を表しているのであろうか?…既出では見られない文字列故にその分解から始める。「𣑥」は「栲(タク)」の異字体と知られる。そのまま読めば「栲から作った縄」である。がしかしこれでは求める場所に届かない。
「𣑥」=「木+考」に分解する。更に「考」=「耂+丂」と分解すると、紆余曲折を経て行き着いた様を表す文字と解釈される。通常に用いられる意味が現れるのであるが、地形象形的には、そのまま𣑥(栲)=曲がりながら衝き至ったところと紐解ける。「繩」=「糸+黽」と分解される。「黽」は「昆虫の腹部のぽってりとした様」を示す。纏めると𣑥繩=曲がりながら衝き至った(栲)虫の腹のような(繩)ところと読み解ける。
そのものズバリの地形が狭い「佐伯」の谷間に向かう山稜が見出せる。何とも凄まじい場所で、現在は、耕地も、勿論人家も見受けることはできそうにない場所である。それ故に当時の地形が保たれているとも思われる。居場所の推定は困難である。
河內書首(闕名)は、田邊史鳥と併せて既に読み解いた。「首」の地形象形もすっかり定着したようである。「首(オビト)」と読み飛ばしては、実に勿体ない。「道」も同様である。ところで通説によると「河內書首」は、応神天皇紀に論語などを持ち込んだ和邇吉師と関連するように捉えられている。この吉師が「文首等祖」と古事記に記載されていることが一つの根拠のようである。全くの誤りと言い切れるが、横道に逸れるので・・・。
<大藏衣縫造麻呂> |
何とも古事記風の名称である。一文字一文字を紐解きながら進めることであろう。「蔵」の旧字体「藏」=「艸+戕+臣」と分解される。「戕」=「寝台」を象った文字と知られる。
「床」の原字「牀」に類する文字である。「臣」を含んでいることから「凹んだ様」を表すとすると、藏=山稜が並んで(艸)長方形(戕)の凹んだ(臣)ところと読み解ける。
「衣」=「山稜の端の三角州」と読み解いて来た。続く「縫」=「糸+逢」と分解される。更に「逢」=「辶+夆」と分解され、「峰」のように「高く盛り上がった様」を表している。
二文字合わせると「衣」は、山稜の端(麓)ではなく山腹を含めた様子として、合せて衣縫=衣のような形の山稜(衣)が寄り集まって盛り上がっている(縫)ところを示していると解釈する。
何の修飾もされないので「飛鳥」の近隣、「大」(平らな山稜の麓)とすると西側の現在の五徳川が流れる谷間と推定され、探すと図に示した「藏」と「衣縫」の地形が見出せる。現地名は田川郡香春町香春の五徳である。そして「造」と「麻呂」の地形も併せ持っていることが解る。「造(ミヤツコ)」と読んでしまっては、これまた勿体ない、である。
後飛鳥岡本宮
舒明天皇の飛鳥岡にあった岡本宮の近隣に宮を造られたと記載されている。度重なる宮の火災に対応するためだったのか、詳細は不明なのだが、何故か色々と関連する記述がなされている。即ち宮の別名に、兩槻宮、天宮などの示す意味について、通説は解釈不能である。勿論宮の場所は不詳である。そんな背景で、先ずは付加情報としての「田身嶺」(大務)から紐解いてみよう。
<田身嶺(大務)> |
「身」は既出で、蘇我身狹(日向)臣などに用いられていた文字である。身=弓なりに曲がった様を示すと読み解いた。この度は”大弓”である。そこが「田」となっていることを表している。
田身嶺=田が弓なりに曲がったところの山と読み解ける。「田身」は、現在の田川郡香春町の鏡山を流れる呉川、既出の南淵を形成している場所である。
すると「田身嶺」は現在の”小富士山”と呼ばれている、愛宕山からの尾根が長く延びた端にある山であることが解る。「務」=「矛+攴(手)+力」と分解される。大務=平らな頂(大)から[矛]のような太い山稜(攴-力)が延びる様と紐解ける。
世の中に多くある”小富士山”であるが、その均整の取れた山容もさることながら、山腹から麓に至るなだらかな、溶岩流で作られたような様相を捉えていて、素晴らしい命名であろう。その太めの山稜が二つ並んで延びていることが伺える。この天然の「槻」のように並ぶ「垣」で囲まれた谷間にある宮こそ、求める宮だと述べているのである。
<後飛鳥岡本宮(兩槻宮/天宮)> |
小富士山の西方、金辺川と呉川の合流点近くの香春一ノ岳の東麓にある西念寺近隣が宮があった場所と推定される。
「槻」は既出の今來大槻で用いられたように山稜が丸く小高くなった様を示す。図を詳細に見ると、それが「二段二列」に並んでいることが解る。
「天」=「二+人」と分解すると、谷間と二段の小高いところを表している。古事記の表記と比べると、書紀のそれは本気モードの感がある。勿論限られた場所だけであろうが・・・。
旧の岡本宮から南へ400m弱移動したことになる。果たしてこれで類焼を免れたのでろうか?…また違う目的があったのであろうか?…真意は定かでないが、宮の設置場所のあるべき姿を記述しているように思われる。
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少し先走りになるが、斉明天皇が建てた宮に「朝倉橘廣庭宮」がある。そこで崩御され、本紀を閉じることになる。この宮、大抵は「朝倉宮」とされ、現在の福岡県朝倉市の何れの地に比定されているのが現状である。「朝倉」の地名があるから、であろうが、異説は殆ど見られないようである(高知県朝倉神社)。宮を実際に探されているブログも散見される。勿論確たる兆しは見えないようであるが・・・。
付加されている「橘」…「廣庭」はそれなりの地形は見出せるであろうが…この文字が示す意味を取上げられた形跡は見出せない。「橘」が宮の場所の決め手なのである。古事記で登場、その謂れの記述、そしてそれは書紀にも受け継がれていることを既述した。重要なキーワード「橘」を含む宮の位置、これが未解明では日本の古代史は混迷から抜け出すことは不可能であろう。
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渠・石垣
「時好興事」文字通りに受け取るわけには行かないが、大土木事業を行ったのであろう。先ずは「渠」(人工の水路、掘割)を「自香山西至石上山」と記載されている。「香山」は、現在の香春三ノ岳である。その西は五徳峠と言われる場所となる。葛城嶺の南部が東に張り出したところとの接点である。「膽駒山」の東方に当たり、谷を挟んで対峙する地形である。
<渠・石垣> |
「石上山」は現在の香春一ノ岳西麓にある小高いところと思われ、「磯の上にある山」と解釈される。後にその山の南側に飛鳥淨御原宮(天武天皇)が造られることなる。
即ち、「石上山」まで掘割を造れば、金辺川の「磯」に達するのである。「渠」は水を流す事よりも「柵」を設けた「濠」としての機能を想定したのであろう。
「香山」の西方、それは即ち「膽駒山」の東方から谷間に設けた防御濠であったと思われる。
宮の東側は、金辺川に守られてはいるが、何せ川との距離が短い、故にその先の山裾に石垣を設けて防御の空間を造ったのである。
それは「磯」から北側へ向い、山が接近した「瀬戸」までであろう。前記で登場した宍戸國の南の「戸」である。天皇が考えた宮の防御体勢であり、唐・朝鮮半島(新羅)の動きを十分に察知しての大土木事業であったと思われる。
通説が奈良大和に印したランドマークでは、全く意味不明の状態であり、解釈は、ひたすら「狂心渠」に基づいた方向へと向かっているようである。また上記で述べた「朝倉橘廣庭宮」を福岡県朝倉市へと飛ばし、この天皇の行動には「狂」が付く様にしてしまっている。挙句の果てには皇極天皇時とのギャップから、実は別人などとも囁く始末である。お粗末なこと、である。
古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に疫病が発生する。その時に宮を取巻く場所に神々を配置する記述がある。当時の宮は師木(現在の香春町中津原)であり、そこから飛鳥の麓に移っている。些か異なるが、宮の防御の考え方は時代が変わっても大差ないように思われる。
また、吉野宮を作ったと記載されている。おそらく古事記で登場した吉野國巢の場所かと思われる。現地名は北九州市小倉南区の平尾台であり、「北への備え」であろう。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の侵攻ルート上にあった場所である。
「西海使佐伯連𣑥繩(闕位階級)・小山下難波吉士國勝等、自百濟還」と記されている。佐伯連𣑥繩は上記の犬上君白麻呂に併記した。難波吉士國勝は既出である(こちらを参照)。岡本宮で火災が発生したと記してこの段を閉じている。
宮の東側は、金辺川に守られてはいるが、何せ川との距離が短い、故にその先の山裾に石垣を設けて防御の空間を造ったのである。
それは「磯」から北側へ向い、山が接近した「瀬戸」までであろう。前記で登場した宍戸國の南の「戸」である。天皇が考えた宮の防御体勢であり、唐・朝鮮半島(新羅)の動きを十分に察知しての大土木事業であったと思われる。
通説が奈良大和に印したランドマークでは、全く意味不明の状態であり、解釈は、ひたすら「狂心渠」に基づいた方向へと向かっているようである。また上記で述べた「朝倉橘廣庭宮」を福岡県朝倉市へと飛ばし、この天皇の行動には「狂」が付く様にしてしまっている。挙句の果てには皇極天皇時とのギャップから、実は別人などとも囁く始末である。お粗末なこと、である。
古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に疫病が発生する。その時に宮を取巻く場所に神々を配置する記述がある。当時の宮は師木(現在の香春町中津原)であり、そこから飛鳥の麓に移っている。些か異なるが、宮の防御の考え方は時代が変わっても大差ないように思われる。
また、吉野宮を作ったと記載されている。おそらく古事記で登場した吉野國巢の場所かと思われる。現地名は北九州市小倉南区の平尾台であり、「北への備え」であろう。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の侵攻ルート上にあった場所である。
「西海使佐伯連𣑥繩(闕位階級)・小山下難波吉士國勝等、自百濟還」と記されている。佐伯連𣑥繩は上記の犬上君白麻呂に併記した。難波吉士國勝は既出である(こちらを参照)。岡本宮で火災が発生したと記してこの段を閉じている。