皇祖母尊:斉明天皇(Ⅲ)
西方からの圧迫が日増しに強くなりつつ、それへの対応が求められていた時代である。「公地公民」制への移行は、取りも直さず、「集権」は「集民」でもある。天皇家の直轄民だけではなく、「公民」に広がった。この「公民」を活用例が前記の「渠・石垣」であった。民に「公民」の意味を知らしめるためでもあったろう。民の噂話しを使って「損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣」と記載したのは、数の真偽はともかく桁違いの動員力であることを告げていた。
いずれにせよ極東の、更に海に隔てられた東の地に漸く産声を上げた国家は、国を守ることを最優先として前進するわけである。物語は即位三年(西暦657年)七月と、ほぼ一年後に飛んでいる。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
三年秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫、言、臣等初漂泊于海見嶋。乃以驛召。辛丑、作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人(或本云、墮羅人)。
「覩貨邏國」の人が筑紫に漂着したと伝えている。孝徳天皇紀の白雉五年(西暦654年)に「吐火羅國男二人・女二人・舍衞女一人、被風流來于日向」と記載されていた。一説では、この時遭難者の一部ではないかと言われている。確かに「吐火羅(トカラ)」と読みは同じであろう。読みに拘る古代史解釈なのだが、漢字表記は異なる。
前記したが吐火羅=火を吐くような地が並んでいる(羅)ところと読める。「覩貨邏」を読み解いてみよう。「覩」=「者+見」と分解すると「山稜が交差して集まるような様」、「貨」=「化+貝」と分解され、「貝のような様」、「邏」=「辶+羅」と分解され、「ぐるりと並ぶ様」と読み解ける。
纏めると覩貨邏=山稜が交差して寄り集まる地形が貝のように窪んだ周囲にぐるりと並んでいるところと読み解ける。同じ読みでも些か地形は異なるように思われる。すると「吐火羅國」はチベット高原、「覩貨邏國」はタリム盆地をそれぞれ主とする表現ではなかろうか。前者には「舍衞女一人」が含まれていることも辻褄が合う、かもしれない(舎衛城)。
ところで彼らは、初めは「海見嶋」に漂着したのだそうである。通説は読みが優先、と言うかそれしか考えないので「奄美大島」となっている。既にその島は、舒明天皇紀に阿麻彌嶋と記載されていた。島の特徴が全く異なるのである。
「海見」だけではその場所を突止めるのは少々困難な状況ではあるが、幾度も登場したように「海」=「氵+屮+母」と分解され、母=母が子を抱く両腕の様と解釈する。古事記、書紀を通して登場していない場所でそれを求めると、現在の五島列島の久賀島が浮かび上がって来る。そこから対馬海流に運ばれて筑紫に辿り着いたのではなかろうか。「海」が解読できない古代史学には、存在しない島であろう。
飛鳥寺(法興寺)の西側に須彌山を作ったと記載している。何だかブームのようでこの後にも様々な場所で作ったようである。何を伝えたかったのかは、後に述べることにする。解けるとなかなかに興味深いもの、嵌るかも?…である。
九月、有間皇子、性黠陽狂、云々。往牟婁温湯、偽療病來、讚國體勢曰、纔觀彼地、病自蠲消、云々。天皇、聞悅、思欲往觀。是歲、使々於新羅曰「欲將沙門智達・間人連御廐・依網連稚子等、付汝國使令送到大唐。」新羅、不肯聽送。由是、沙門智達等還歸。西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(傴僂、此云倶豆磨)、自百濟還、獻駱駝一箇・驢二箇。石見國言、白狐見。
九月のこと、有間皇子は仮病を装って「牟婁温湯」に出向き、彼の地にいると自然に病も癒されると言うと、天皇も是非行ってみたいものだと応えたと伝えている。そもそも有間温湯が出自の皇子、わざわざ仮病をしなくても「温湯」の良さは十分ご存知で、あっさりと出向けば良いものを・・・何て考えても致し方なし。通説は、相変わらず「温湯」は「温泉場」なのである。
そして続けて、新羅が言うことを聞かなくなったと記載している。日本にとっては唐との接触ルートの一つが遮断されたことになる。一方で百濟への使者が帰朝している。盛んな朝鮮半島情報の収集作業が進行していることが伺える。「石見國」…何処であろうか?…白狐を見た、と伝えているが、当然何かを重ねた表現であろう。
牟婁温湯
「有間温湯」、「伊豫温湯」は各々有馬温泉、伊予の道後温泉と揺るぎなく比定されている。そしてこの「牟婁温湯」は、何と白浜温泉(かつて周辺は牟婁郡と呼称されたとか)である。本ブログは、古事記の伊余湯以来、書紀も同様、一貫して「湯」の文字は温泉を示すのではなく、湯=滝のように流れる急流の地を表すと解釈して来た。そもそも「水が飛び跳ねる様」を象った文字なのである。温=囲み包む様であり、「温かい沸騰する水」は矛盾する解釈であろう。
更に書紀の通説の解釈で問題なのは、「牟婁」の文字は継体天皇紀及び欽明天皇紀に「任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣」として記載されているのである。同一場所の別表記はあっても古事記、書紀(全てではないが)の地名記述で重ねる表記は見出せない。同一地形による同一地名となるならば、何らかの修飾語(例えば、国名)が付記されている。即ち「牟婁温湯」は「任那國」にあったことになる。
<牟婁温湯> |
任那國は既に読み解いて、魏志倭人伝に登場する狗邪韓國である(詳細はこちら)。縣の「上哆唎・下哆唎」は実に分かり易い表現であろう。
この取り囲む山稜には、二つの途切れた谷間がある。川の上流部…即ち南側…の谷間の近傍を「上」と命名したと推定される。
「哆」=「口+多」と分解される。頻出の多=山稜の端の三角州とすると、「哆」=「出入口(口)にある山稜の端にある三角州(多)」と読み解ける。
「唎」=「口+利」と分解すると、「利」=「禾+刀」であり、「唎」=「出入口(口)で山稜(禾)が切り離された(刀)様」と読み解ける。纏めると哆唎=出入口(口)で山稜(禾)の端が三角州(多)で切り離された(刀)ところと紐解ける。「娑陀」はそのまま読み解いて、娑陀=崖(陀)がある嫋やかに曲がる水辺(娑)のところとなる。
最後の「牟婁」の「牟」=「ム(囗)+牛」と分解される。「ム(囗)」=「区切られた地」を示す。「牛」=「牛の古文字形」となる。頻出の文字である。「婁」=「数珠繋がりの様」と解説される。すると牟婁=[牛]の地形の傍らに数珠繋がりの地があるところと紐解ける。その通りの地形を示すところが残された「任那國」の西側にあることが解る。そして[牛]の角に当たる場所に「温湯」が見出せる。この地も「陀」の麓である。
国土地理院の地図のような精細さは望めないが、四つの縣の名前が示す地形を求めることができたようである。通説では「任那」も漠然としていて、当然四つの縣も不詳の有様である。逆にそれをいいことにして「牟婁温湯=南紀白浜温泉」とは、余りにも粗雑な解釈であろう。尚、後に「牟婁津」が登場する。角川地名大辞典によると古代には「牟婁郡」があったとのことである。書紀も引用されているが、『大辞典』と銘を打つならば、「温湯」の解釈からであろう。
また「紀温湯」が登場するが、これまた同じ温泉場としているようである。古事記の「伊余湯」は道後温泉であるが、流罪人を湯治場に向かわせることはあり得ない。皆、喜んで流罪人になろうとするかも、である。「温湯」は「隔絶された静寂な空間」のイメージであろう。天皇が好まれる所以である。
唐の圧迫による朝鮮半島内の混乱、それが大土木事業の根拠であった。その確認のために訪れた「牟婁温湯」、だがそこは至って平穏な地であったと述べている。この認識が皇子を狂わせることに繋がって行くのである。書紀の編者は、そう伝えるために「牟婁温湯」を登場させたと推測される。唐への使者になる筈だった人物が記載されている。初登場名の出自の場所を読み解いておこう。
<間人連御廐・大蓋> |
「間人」は間人皇女の谷間であろう。「廐」は「廐戸皇子」、古事記では上宮之厩戸豐聰耳命に含まれる文字である。
「廐」=「广+旣」と分解される。「旣」=「尽きる」の意味を示す文字である。すると「廐」=「崖の麓が尽きるところ」と読み解ける。
「御」=「束ねる」と訳すと、御廐=崖の麓が尽きる地を束ねたところと読み解ける。崖が幾つかに分かれている麓である。「連」は「間人」の谷の出口から少し延びたところを示している。図に示した場所が「間人連御廐」の出自の地と推定される。
後の天智天皇紀に「間人連大蓋」が登場する。百濟救援部隊の将軍である。「大蓋」はそのまま、山稜の端が「蓋」のような形をしているところと推定される。飛鳥板蓋宮で用いられていた文字である。地図上では些か小ぶりになって鮮明さに劣るが、立派な蓋の形状をしていると思われる。
鍾乳洞が並ぶ谷間から幾人かが現れたと「記紀」は記載している。確かにこの谷間の出口には斑鳩の地があったのである。そして「石上」の西端に当たるところである。奈良大和でこの配置を再現することに苦心したのではなかろうか。幸か不幸か、そんな苦悩など微塵も感じさせない古代解釈の通説と言ったところであろう。
<依網連稚子> |
これも修飾のない「依網」とくれば既出の河內國依網屯倉で出現した場所と思われる。現地名は行橋市長木辺りである。
依網=山稜の端の三角州が隠されているところと読み解いた。大首池に突出た山稜を捉えた表記である。そこから延び出たような地(連)が[隹(鳥)]の形をしていると見做した表現と思われる。
「稚」=「禾+隹」と分解される。そして更にその地から生え出たところを[子]で表したのである。出自の場所はこの山稜の端辺りと推定される。当時は大きな入江の状態であったと推定される。
古事記では、品陀和氣命(応神天皇)の墓所、川內惠賀之裳伏岡が、その少し西側の小高いところと推定した場所である。現在も小ぶりな前方後円墳らしき姿が認められるそうである。勿論、墓の主については不明である。
<阿曇連頰垂・津守連吉祥> |
「阿曇連」である以上、現地名の遠賀郡岡垣町の黒山近隣は外せないであろう。「頰垂」はそのまま読めば「頬が垂れる」であるが、そのままの表記であることが解る。
黒山のなだらかな山麓が長く延びたところを示していると思われる。西黒山辺りである。「垂」とは言うものの、最後は結構な崖状の地形の麓の地である。
後に津守連吉祥が登場する。既出の津守連大海の近隣として探し求める。「祥」=「示+羊」と分解される。「谷間の先にある高台の様」を表している。
吉祥=谷間の先にある高台が蓋をするように延びているところと読み解ける。図に示した場所、当人の出自の場所はその高台の南縁と推定される。
<津臣傴僂(俱豆磨)> |
「津臣」は「津國」に居た「臣」と考えて問題なしであろう。「津國」は津國有間温湯が含む国名である。現在の行橋市の覗山の麓と推定した。
「傴」=「人+區」と分解され、「傴」=「谷間が区切る様」と読める。「僂」=「人+婁」と分解され、「僂」=「谷間にある数珠繋がりの様」と読める。「婁」は上記の「牟婁」に用いられていた文字である。
すると傴僂=谷間(人)で区切られた地(區)にある数珠繋がり(婁)のところと読み解ける。有間温湯のある大きな谷間の東端に位置する場所と思われる。
数珠繋がりの小高いところは、些か小ぶりな故に陰影起伏図を添えた。この地は後代に手が加えられた形跡が見受けられるが、辛うじて残存しているようである。訓が付加されて、「俱豆磨」と表記されている。「俱」=「人+具」と分解される。
「具」は、古事記で多用される文字で、例えば迦具夜毘賣など、それが示す地形は「谷間にある田(棚田)」を象ったと解釈した。纏めると俱豆磨=谷間(人)の棚田(具)の傍にある高台(豆)が擦り潰された(磨)ようなところと紐解ける。数珠繋がりの小高いところが少々めりはりに乏しい有様を表している。補足の説明として十分であろう。
余談だが、古事記で記載された息長帶比賣命(後の神功皇后)の妹、虛空津比賣命が坐した谷間と推定した場所である。皇后の三韓遠征に際して少なからず関与したと伝えられている比賣である。「虛空津」の文字解釈に戸惑った記憶が蘇った次第である。当時より人々が住まい、開かれた地になっていたのであろう。
石見國
「石見」とくれば「出雲」の西側、銀山があるところ・・・ではなかろう。と言っても手掛かりは殆どない状況であろう。「石見」=「石(岩:山+石)が見える」、岩山の傍らの地には違いない。それを地名にした表記は、古事記の記述に拠ると、倭建命が山代之玖玖麻毛理比賣を娶って誕生した足鏡別王が祖となった地、石代之別である。現地名は北九州市小倉南区石田である。
通常に用いられる文字の意味から推定される場所としてほぼ間違いないように思われるが、地形象形的には今一歩決め手に欠けているようでもある。「見」=「目+儿(足)」と分解すると、「延びた山稜の端にある谷間」と解釈される。「石」=「磯」と解釈すると、石見=磯の傍にある延びた山稜の端にある谷間と読み解ける。現在の標高から推測すると図に示した蜷田若園辺りは水辺の地であっただろう。谷間の出口が海に接する地形であったと思われる。
提供される情報は「白狐見」(白狐が見える)である。「狐」=「犬+瓜」と分解される。地形象形表記とすれば「平らな頂の麓にある[瓜]のような様」であろう。
<石見國> |
更に「見」=「目+儿」と分解される。地形象形的には、「見」=「谷間を挟む山稜が長く延びた様」と解釈される。「見える」と読んでも、大きくは変わらないが、やはり「見」の地形は重要な決め手となる。
とすると白狐見=平らな頂の麓でくっ付いて並ぶ[瓜]の地がある谷間を挟む山稜が長く延びたところと紐解ける。前記で登場した忌部木菓の場所を示していると解る。現地名は、上記の通りである。
勿論のこと、白=新羅を暗示する表記でもあろう。この地は筑紫の「海岸」に近い。更に新羅が着船した、その「海(岸の)裏」まで難波津から船を並べて威圧するべしと語られてた筑紫海裏に隣接する場所である。
唐突に「石見」ではなく、ちゃんと布石が打たれていた。唐突なのは読めていなかっただけであろう。新羅との関係のギクシャクは、いよいよ本物の様相を呈して来たようだ、と伝えている。国内は結束してことに当たらなければならなくなったのは間違いないであろう。
とすると白狐見=平らな頂の麓でくっ付いて並ぶ[瓜]の地がある谷間を挟む山稜が長く延びたところと紐解ける。前記で登場した忌部木菓の場所を示していると解る。現地名は、上記の通りである。
勿論のこと、白=新羅を暗示する表記でもあろう。この地は筑紫の「海岸」に近い。更に新羅が着船した、その「海(岸の)裏」まで難波津から船を並べて威圧するべしと語られてた筑紫海裏に隣接する場所である。
唐突に「石見」ではなく、ちゃんと布石が打たれていた。唐突なのは読めていなかっただけであろう。新羅との関係のギクシャクは、いよいよ本物の様相を呈して来たようだ、と伝えている。国内は結束してことに当たらなければならなくなったのは間違いないであろう。
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確かにこの地は「石」に関わる名称が引き継がれて来たことが解ったのであるが、そもそも「石」の由来は?…岩山ぐらいなら至る所にありそうな地形であろう。
古事記の邇邇藝命が降臨した時に随行した神々が伊勢の近隣に散らばって行った状況が語られている。その中の一人、「天石戸(門)別神」の”新居”を示した図を再掲した。
天石屋の「石」に酷似した(そう見做したのであろう)地が「忌部首」の南に位置する「岩山」と推定した。単なる「石」ではなく、「石」の神だったわけである。
いやぁ、恐るべし、である。「記紀」の編者達の知恵、と言うか、壱岐島の片隅から渡来して来た人達の望郷の思いが詰まった表記だったのである。(2020.08.05)
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進みが悪いが、今回はこれくらいで・・・。