2020年6月16日火曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅳ) 〔424〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅳ)


唐の影が倭國のすぐ近くの西方に忍び寄る。怯えに近い感覚であったことを伝えている。それに備える宮の防備、「公地公民」による大量動員、人々は狂ったとしか思えないような行動を天皇が取ったと噂した。唐が直接接近して来るとは考えられず、朝鮮半島の新羅を使っての侵攻であろうと思っていたのであろう。防御の戦略の一環としての大土木工事であり、そして蝦夷攻略であった。

西方が騒がしいのに、せっせと東北征伐、そんな暢気なことをやってるから謀反が起こる?…いえいえ、九州は勿論のこと、津軽・北海道まで支配下に置いたヤマト政権だからこそ四方に目を配る必要があった・・・こんな暢気な解釈だと謀反が起こりそうなのであるが、その気配がないようである。

斉明天皇は、香山・石上山連峰の西側に「渠」及び東側には「石垣」を築いて守られた後飛鳥岡本宮に坐していたのである。それは田川郡香春町に鎮座する香春岳の麓にあったと結論した。そして本土決戦に至った時のために倭國内にいる新羅を出自に持つ「蝦夷」との融和戦略をとることにしたのである。即位四年(西暦658年)正月からの物語である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣(闕名)率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸。

「左大臣巨勢德太臣」が亡くなられたと記述している。左右大臣の影が薄いのだが、思い過ごしかもしれない。後釜の記載もないが、果たして何方がなられたのやら・・・。さて、いよいよ蝦夷討伐の船団が旅立ったと伝えている。現在の東北地方の地名(市・郡)…「秋田」、「能代」、「津軽」…がズラリと並んでいるような錯覚に陥るが、勿論そうではない。

「齶田浦」の戦いが始まるかと思いきや、あっさりと蝦夷は降伏したと伝えている。「群領」を「渟代」・「津輕」に定め、蝦夷に統治させたようである。帰還する際に「有間濱」で「渡嶋蝦夷」等と大宴会をしたと言う。「有間」≠「有馬」は分かるが、不詳となる。「渡嶋」=「北海道」としたくなるが、この時点での登場は怪しいとか・・・色々悩まれているのが現状であろう。書紀も読み解けていないことが露呈しているようである。
 
渟代郡・齶田郡・津輕郡

「蝦夷」の場所を「郡」として名付けた表記であろう。現存地名に拘ることなく、前記で登場した磐舟柵近隣に居た柵養蝦夷及び津刈蝦夷から更なる地を求めてみよう。「柵養蝦夷」の北側、谷間の奥に向かうと、小ぶりだが、やはり「蝦夷」の地形が見出せる。狭い谷間であることから「渟代」の可能性が高いと思われる。

「渟」=「水が留まるような様」を表すと読み解いて来た。書紀に頻出、古事記には全く登場しない文字である。続く「代」は真逆で、古事記で多用され、しかも重要な場所の表記である。例えば「山代」と表記されるが、書紀では「山背」である。書紀で使われる「背」は明らかに背中合わせの状態を示しているが、古事記の「代」は少々判り辛い感じである。
 
<渟代郡・齶田郡・津輕郡>
いずれにせよ、ここでの「代」は「背中」を表すのではないようである。「代」=「人+弋」と分解される。「弋」は「杙(クイ)」(杭)の原字とする解釈がある。

すると代」=「谷間(人)に杭のような山稜(弋)があるところ」と読み解ける。土中に刺す杭の先端部の形、これで意味が通るようになった。渟代=水が留まるような谷間に杭の形の山稜があるところと紐解ける。

「齶田郡」の「齶」=「齒+咢」と分解される。意外に解りやすく「牙(齒)のような山稜が突き出た(咢)様」と読み解ける。

図に示した長く延びた山稜の様子を示していると思われる。齶田=牙のように長く突出た地の傍らにある田と読み解ける。

「齶田浦」はその地にある入江、当時はかなり奥まで入り込んでいた地形であったと推定される。現在は採石あるいは団地開発、更に太陽パネル場となっているが、当時の地形を偲ぶには十分な状態のように思われる。

進んで降伏したと述べ良られている「恩荷」についても紐解いておこう。「恩」=「因+心」と分解すると、「恩」=「中央(心)で重なる(因)様」と読み解ける。「荷」=「艸+何」と分解される。更に「何」=「人+可」と分解され、「谷間の出入口」を表すと読める。すると「荷」=「山稜に挟まれた谷間の出入口」と読み解ける。纏めると恩荷=中央で重なるように山稜に挟まれた谷間の出入口となる。

「津輕」は「津」=「水+聿」と分解すると「水辺の[筆]のような様」を表す。前記の「津刈蝦夷」の解釈と全く同様である。頻出であるが、再掲すると「輕」=「車+坙」で、「山稜が長く延びて突き進む様」と解釈して来た。即ち津輕=水辺で[筆]のような山稜が長く延びて突き出ているところと読み解ける。

図に示した場所に適切な表記であろう。前記したが、後の伊吉連博德書の引用箇所に「類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷」と記載されている。「津輕」を「都加留」と表記している。「都」=「幾つかの山稜が寄り集まった様」、「加」=「押し迫る様」、「留」=「卯+田」と分解される。「卯」=「隙間を押し広げる様」と解説される。

すると都加留=山稜が集まって隙間を押し広げるように押し迫ったところと読み解ける。目立つ山稜の一つを捉えて表現したのが「津輕」、人が住まう実際の土地の形を表したのが「都加留」であることが解る。麁蝦夷、熟蝦夷も併せてこれらの地形象形表記の巧みさが伺える。何処かで述べたように、今は、それを消失してしまったようである。日本の歴史の中に、突然消えてなくなる”文化”が多々見られる。「失われた〇〇」何かを教えてくれるかもしれない。

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余談だが、美濃市では「うだつがあがる」街並みとして観光化されている。この「う」=「卯」である。防火対策として考案されたものであろうが、裕福さを示すシンボルであったと言われる。上記で述べたように、「隙間を拡げる様」の「卯」を建てるとは、実に漢字の持つ意味が理解された表現であろう。

実際の構造は、決して隙間を開けたわけではないようで、ある意味”おまじない”の感のようにも伺えるが、洒落た表現とも言える。漢字遊び、やはり残しておくべき日本の文化ではなかろうか。「卯」は「留」の文字に出くわすまで、すっかり忘れていたようで、地形象形表記として、もっと多用されてもいいのでは?…と思ってみたり・・・。

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<有間濱・都岐沙羅柵・大伴君稻積>
有間濱

戦わずして大戦果を上げたわけで、その喜ぶ様を開放された浜の宴会で表現している。この所在については諸説あり、定まらずの様子である。

「有馬」と言う地名が残っていれば簡単に処理されたであろうが、不幸なことに見出せないのであろう。

有間温湯と類似の地形を表していると思われる。おそらく、「齶田浦」からそう遠くない場所であろう。

探すとすぐ西側の浦にあった。山稜の尾根が大きく湾曲し、幾つかの山稜が麓に届く地形を示している。その中に「間」の形が認められる場所である。

当時の海岸線は、かなりこの入江の奥深くまで後退していたと推定される。山が迫る、決して浜は広くはなかったと思われるが、百八十隻の船を繋いで(隻数は実数?)、宴会するには申し分なしであったろう。

この地は、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が小石比賣命を娶って誕生した御子に上王が居た。全く音沙汰無しの状態であるが、「蝦夷」ではなく、「越」に含まれる場所と見做されていたのかもしれない。尚、図には、近隣の登場人物などを併せて記載したが、後に詳細を述べる。
 
渡嶋蝦夷

ところで宴会のメンバーは「渡嶋蝦夷」、つまり討伐に引き連れて行ったのは、やはり「蝦夷」だったのである。しかしながら「渡嶋」と言う如何にも情報が少ない表記であり、特徴的な地形を表すでもなく、難問になったしまったようである。世界大百科事典(第二版)によると、「渡嶋」は…、

古代の蝦夷関係の記事に散見する地名。《日本書紀》《続日本紀》《日本後紀》《三代実録》《日本紀略》《扶桑略記》《類聚三代格》などにみえる。7世紀半ばから9世紀末までの間,日本海沿岸の北部に存在した。その所在地については,渡島(おしま)半島付近とする説もあるが,記事によって,北海道津軽地方出羽国管内のいずれとも見ることが可能である。渡嶋に対する認識自体が時代によって変化している可能性もあり,所在地の比定は不可能

…とされている。伊吉連博德書の引用箇所、三つは既に埋まったわけで、その他の蝦夷となろう。ここで気付かされたのは、「陸奥(熟)蝦夷」は古事記の神八井耳命が祖となった道奧石城國造の地であることが解った。「熟」(地形)及び「最も近い」の二つの記述は貴重であった。この命が祖となった地に「常道仲國造」があったが、ここも後の記述には登場しない。
 
<渡嶋蝦夷>
その地を現在の北九州市門司区恒見町にある鳶ヶ巣山の西麓と推定した。なのだが、現在では山と名付けられているように島ではない。

海辺の山は、怪しい。今までも幾度も遭遇した古代の海水準である(勿論沖積の進行も含めて)。行橋市にある簑島山・沓尾山共に島であったと推定した。

更に調べると、鳶ヶ巣山山塊の北側は相割川、西方は吉田川が流れていて、沖積が進行していない時期には谷間で抉れていたように伺える。東、南側は海に面する地形故に島状であった可能性が高い。

また、ネットを検索すると門司区中吉田にある綿都美神社には、上記のような谷間で区切られていたと伝えているとのことである(引用資料はこちら)。

では、何故「渡」の文字で表現したのであろうか?…鳶ヶ巣山の「島」は、企救半島と南の貫山山塊が作る、周防灘に面した大きな湾の中にある「島」であることが分かる。そして、この湾の中の対岸を繋ぐ(渡す)島として表記したのであろう。
 
<鳶ヶ巣山周辺>
そして上記の「蝦夷」と同様に「カエル」の地形の場所である。蘇我蝦夷も含めて、出自の地形に因む名称である。書紀編者による恣意的な「蝦夷(エゾ)」との重複した表記である。

日本武尊が東北地方にまで出歩いたとする以上、避けられない矛盾を露呈する羽目になったのであろう。通説は、矛盾に出合う度に不明、不詳を繰り返すのみである。

百科事典は、「渡嶋に対する認識自体が時代によって変化している可能性もあり,所在地の比定は不可能」完全放棄の状況を、素直に、記述している。「蝦夷」は…、

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 

…とWikipediaに記載されている。

不明・不詳なことに基いて創作された、「記紀」が物語る時代以降の解釈であろう。

「阿陪臣(闕名)」だとしても、恒見町と城山霊園(阿倍臣)との距離約6km(七ツ石峠経由)、歩いて1.5hrも掛からない。「阿倍臣」の手勢となる関係だったのかもしれない。「渡嶋蝦夷」は水田稲作よりも航海技術に長けていたことは容易に推測できる。勿論、神八井耳命が祖となった以上、「天神族(系)」である。

登場した蝦夷の場所が定まって来ると、書紀編者の思いも伝わって来るようである。越=北、陸奥=東と日本列島の地形を念頭に置いた表記をしながら、伊吉連博德書の引用をしている。そこには、津輕(都加留)=遠、越(麁)=遠~近、陸奥(熟)=近、と記載されている。編者は、距離を方位で置換えたことになる。原資料の引用は、そうせざるを得なかった中での良心なのかもしれない。

五月、皇孫建王、年八歲薨。今城谷上、起殯而收。天皇、本以皇孫有順而器重之、故不忍哀傷慟極甚。詔群臣曰、萬歲千秋之後、要合葬於朕陵。廼作歌曰、

伊磨紀那屢 乎武例我禹杯爾 倶謨娜尼母 旨屢倶之多々婆 那爾柯那皚柯武 其一
伊喩之々乎 都那遇舸播杯能 倭柯矩娑能 倭柯倶阿利岐騰 阿我謨婆儺倶爾 其二
阿須箇我播 瀰儺蟻羅毗都々 喩矩瀰都能 阿比娜謨儺倶母 於母保喩屢柯母 其三

天皇時々唱而悲哭。

五月、「皇孫建王」が夭折したと記している。この王は中大兄皇太子と蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘との間で誕生した御子である。蘇我日向の讒言で命を落とした倉山田大臣の孫でもある。大臣の怨念がもたらしたのか?…とも言える不幸な出来事である。それを悲しまれた天皇が詠われたと伝える。
 
<今城谷>
今城谷

墓所の地が記載されている。「今」は今來に含まれるが、その場所とは限らない。「城」=「土+成」から成る文字で、「成」は「盛」の意味を示す。即ち、「城壁」のイメージである。

すると幸運にも「今來」の北側に城=凹んだ(崖で囲まれた)地形の場所が見出せる。池が無数のあるので、錯覚しがちだが、池は除外である。

その凹んだ地(中に池があるが)の「上」方の谷間辺りを示していると思われる。かなり奥まったところにあった墓所である。

中大兄皇太子の場所を併せて図に示したが、例によって「建王」の「建」=「廴+聿」と分解すると、父親の「中」が示す細長い筆のような地形を表すと読み解ける。おそらくその先端部であろう。この親子関係から「中」の解釈が真っ当であったことが解る。

詠われた歌は、参考資料に準拠して…、

今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ (其の一)
(今木の丘の上に、雲だけでもハッキリと著しく立てば、何に嘆くことがあるのだろうか?)

射ゆ鹿猪を 踵ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに (其の二)
(射った鹿や猪の足跡を追っていくと川辺に生えている若草のよう若かった。私が思っていたよりもずっと)

飛鳥川 漲ひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも (其の三)
(飛鳥川のしぶきを上げて流れていく水のように、絶え間なく、思い出してしまうよ)

…のようである。

秋七月辛巳朔甲申、蝦夷二百餘詣闕朝獻、饗賜贍給有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階、渟代郡大領沙尼具那小乙下(或所云授位二階使檢戸口)、少領宇婆左建武、勇健者二人位一階、別賜沙尼具那等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上、少領靑蒜小乙下、勇健者二人位一階、別賜馬武等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授都岐沙羅柵造(闕名)位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙尼具那、檢覈蝦夷戸口與虜戸口。

是月、沙門智通・智達、奉勅、乘新羅船往大唐國、受無性衆生義於玄弉法師所。

さてさて、蝦夷の掌握が見えて来たところで、大盤振る舞いの宴会である。懐柔の常套手段でもあるし、これから働いてもらわなくてはならない人々である。それぞれ固有名詞が登場、地形情報と見做される。授位の最高位は、大乙下であり、「建武」は「立身」に変わった筈だが、蝦夷にはこちらの方が似合っているのかも。

下賜品は、蛸旗(旗の足が割れて蛸の足を垂れた様)、鼓、弓矢、鎧で、戦いに備えよ!…ってことであろうか。奴隷とするか、ジョイナスか…意欲か謀反か、天皇家はジョイナス戦略である。

<沙尼具那/宇婆左・飽田郡>
柵養蝦夷は既出だが、個人名が記述されず、情報なし。渟代郡の大・少領の名前が記されている。

● 沙尼具那・宇婆左

渟代郡の中で二人の出自の場所を求めてみよう。大領から、「沙」=「水辺」、「尼」=「尸+匕」と分解され、左、右を向いて尻を突き合せた様」を象った文字と解説される。

即ち、離れているものが近付く様を意味する文字である。古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)に含まれていた。既出の「具」=「谷間に並ぶ田(棚田)」と解釈した。

纏めると沙尼具那=二つの谷間の水辺(沙)が近付く(尼)なだらかな(那)傍で田が並べられている(具)ところと読み解ける。

渟代郡の中央付近、二つの谷間が合流する場所と推定される。現地名は門司区白野江である。谷の西側は門司区清見佐夜町となっている。おそらくこの町までは大字白野江であって、サヤ峠から西は門司区清見となるのであろう。古代から繋がる”境”である。門司区清見は後に登場する。

少領の「宇婆左」は「宇」=「山稜に挟まれた小高いところ」、「婆」=「端」である。「左」は殆ど登場しない。概ね「佐」が用いられるが、解釈は「傍で支える」から「下(麓)にある」と訳する。すると宇婆左=山稜に挟まれた小高い地の端の麓にあるところと読み解ける。更に谷奥に進んで、少し広がった場所と推定される。現在の大山神社の麓辺りである。「佐」の「人」を省略したのは、「谷」らしくない広々とした地を示したかったのかもしれない。

作図の都合上、後に登場する飽田郡も併せて図に示した。「飽」=「食+包」と分解される。更に「包」=「勹+巳」と分解され、「巳」(胎児)を「勹」(丸く取り囲む)様を象った文字と知られる。地形象形的には、図に示したように飽=山稜が丸く取巻くような様の地形が見出せる
 
<津輕郡大領馬武・少領靑蒜>
この谷間の奥は上記の清見佐夜町である。古事記には全く出現しなかった地であるが、谷間の隅々まで早くから人々が住み着いていたことが伺える。


天皇家以前から渡来が度々あった地なのであろう。故に入り込めなかった分けである。渟代・飽田両郡の地形が確度高く推定されたようである。

続いて津輕郡の二人の名前が紹介される。

● 馬武・靑蒜

大領の「馬武」の「馬」は、「筆」の形が馬の背の形を示すことから名付けられたと思われる。既出の「武」=「戈+止」で「矛の形」を表す。

すると「馬」の先端から延びた「矛」の地形が見出せる。ご本人の居場所の推定は難しいが、おそらく「矛」の付け根辺りではなかろうか。

「靑蒜」の「靑」=「成りかけの様」を表す文字であろう。「蒜」=「艸+示+示」と分解すると、靑蒜=山稜の端が並んで(艸)高台(示)に成りかけ(靑)のところと読み解ける。こちらもご本人の居場所は些か判り辛いが、南側の高台の麓辺りと思われる。

大領の「馬武」は大乙上、少領の「靑蒜」は小乙下、更に「勇建者」には位一階を授けたと記載している。地の広さ、人の多さに拠ったものであろうか。最も遠い津輕は重きに置いたようである。と言いつつ、柵に係る人々にも、ちゃんと対応したと伝えている。都岐沙羅柵造(闕名)には位二階、判官位一階、また渟足柵造大伴君稻積には小乙下と言った具合である。上図<有間濱・都岐沙羅柵・大伴君稻積>を参照。

都岐沙羅柵造は名前が記載されておらず、柵の場所を求めた。都岐沙羅=二股になった山稜の端(岐)が集まり(都)水辺(沙)が連なっている(羅)ところと読み解ける。この柵について記載されるのはこれが最初で最後であって、渟足柵と磐舟柵の間にあったと推定したが、それ以外は不詳である。補強が目的なのだが、蝦夷との対話が思いの他順調のために途中で取り止められたのかもしれない。

渟足柵造大伴君稻積は柵の西側、「大伴」の地形がある麓と推定される。既出の「稻積」であるが、やはり「積」=「禾+朿+貝」と分解して、「貝と朿」の地形を見出すことができる。「朿」のところが出自の場所と思われる。こう見ると「大伴」の地形表記もなかなかに便利なものであることが解る。その地の谷間の特定に極めて有用である。

蝦夷の国が徐々にあからさまになりつつある。正に倭國の「東北地方」である。いや、まだまだ続きそうである。