天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(35)
天平十五年(西暦743年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
十五年春正月辛丑朔。遣右大臣橘宿祢諸兄。在前還恭仁宮。壬寅。車駕自紫香樂至。癸夘。天皇御大極殿。百官朝賀。丁未。天皇御大安殿宴五位已上。賜祿有差。壬子。御石原宮樓。〈在城東北。〉賜饗於百官及有位人等。有勅。鼓琴任其彈歌五位已上賜摺衣。六位已下祿各有差。癸丑。爲讀金光明最勝王經。請衆僧於金光明寺。其詞曰。天皇敬諮卌九座諸大徳等。弟子階縁宿殖嗣膺寳命。思欲宣揚正法導御蒸民。故以今年正月十四日。勸請海内出家之衆於所住處。限七七日轉讀大乘金光明最勝王經。又令天下限七七日。禁斷殺生及斷雜食。別於大養徳國金光明寺。奉設殊勝之會。欲爲天下之摸。諸徳等或一時名輩。或萬里嘉賓。僉曰人師咸稱國寳。所冀屈彼高明隨茲延請。始暢慈悲之音。終諧微妙之力。仰願梵宇増威。皇家累慶。國土嚴淨。人民康樂廣及羣方綿該廣類。同乘菩薩之乘並坐如來之座。像法中興實在今日。凡厥知見可不思哉。
正月一日に右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)を先に恭仁宮に帰らせている。二日に天皇は紫香樂から恭仁宮に到着している。三日に天皇は大極殿に出御して百官の朝賀を受けている。七日に天皇は大安殿に出御して五位以上と宴会し、それぞれに禄を賜っている。
十二日に天皇は石原宮樓<城の東北にあり>に出御して百官及び有位の人等に饗宴を賜っている。勅により、琴を賜い、それを弾じて歌うことができた五位以上の官人には摺衣を授け、六位以下には、それぞれ禄を賜っている。
十三日に金光明最勝王経を読ませるために多くの僧を「金光明寺」に招いている。その時の詞は次のようである・・・天皇は慎んで四十九人の諸大德(高僧)等に相談する[朕は仏の弟子の宿縁に依って先帝より大切な天命を受け継いで皇位に就いている。そこで正法をこの世に延べ広め、諸々の民を導き治めたいと願っている。そこで今年正月十四日を以って国中の出家の人達に要請して住んでいる処で七々日(四十九日)を限って大乗金光明最勝王経を転読させることにする。また天下の人々に対して、七々日を限って殺生禁じ雑食を止めさせることにする。<続>
それとは別に「大養德國金光明寺」で特に優れた法会を丁重に設けて天下の模範としようと思う。諸大徳の方々は或いは当代の有名な人々であり、或いは万里の彼方より渡来の嘉い賓客であり、皆は、あなた方を人の師と言い、また国の宝と褒め称えている。朕の願いは、その学德の高い方々に願って、朕の請いに従ってもらい、初めは慈悲の言葉をよく通じさせ、ついには仏の微妙な味わい深い力を行き渡らせてもらいたい。<続>
そして寺院がその威厳を増し、皇室に慶びが重なり、国土は厳かで浄く、人民は健やかで幸福があり、それが広く諸方に及んで、ながく諸々の人々を包み、等しく菩薩の乗り物に乗って、共に如来の座に坐ることを、仰ぎ願いものである。像法(釈迦没後の時代を正法・像法・末法と分ける思想)の中興の時は、まさに今日にある。およそ以上のことを知見する者は、どうして思わないでいられようか。]・・・。
<大養德國金光明寺(金鍾寺・東大寺)> |
大養徳國金光明寺
天平十三(741)年三月、國毎に金光明四天王護國之寺を造れと命じられていた。その内の一つである大養德國に造られた寺を示すのであろう(こちら参照)。
また、白髮大倭根子命(清寧天皇)が坐した伊波禮之甕栗宮は、”甕に栗が入っているような地形”と見做した表記であった。その「甕」をひっくり返して「鍾」と表現したと気付かされる。「金鍾寺」は、「金」の台地の上に造られていたと推定される。正に「金」で「鍾」を突いている様の地形である。
後の天平十八(746)年十月に「天皇。太上天皇。皇后行幸金鍾寺。燃燈供養盧舍那佛」、そして天平勝寶元(749)年四月に「天皇幸東大寺。御盧舍那佛像前殿」と記載されている。上記の場所が今に知られる東大寺大仏の”本貫”の地であろう。
ところで「東大寺」は、平城宮の”東”にある寺と解釈されている。正にその通りであるが、そんな一様な命名ではなかろう。頻出の東=突き通すような様と解釈した。図に示したように「金」の頭が山稜に突き刺さっているように見える。やはり、万葉の表記を行っていることが解る。
二月辛巳。以佐渡國并越後國。乙未。夜月掩熒惑。丁酉。夜月掩太白。
三月癸夘。金光明寺讀經竟。詔遣右大臣橘宿祢諸兄等。就寺慰勞衆僧。乙巳。筑前國司言。新羅使薩飡金序貞等來朝。於是。遣從五位下多治比眞人土作。外從五位下葛井連廣成於筑前。検校供客之事。
三月四日に「金光明寺」の読経が終わっている。詔されて、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)等を遣わして寺の中で多くの僧を慰労している。六日に「筑前國司」が[新羅の使者、金序貞等が来朝した]と言上している。そこで多治比眞人土作(家主に併記)と葛井連廣成(白猪史廣成)を筑前に遣わして、客の接待のことを検討させている。
「大宰府」を廃止して、その任務を筑前國司が務めるようにした、と記載されていた。ところが、この國司(筑前守)について記述されたことがない。三年後の天平十八(746)年九月に「粟田朝臣馬養爲筑前守」で初めて記載されることになる。移管手続きのゴタゴタで誰かが代役を務めていたのであろうか、記述は曖昧である。
夏四月壬申。行幸紫香樂。以右大臣正二位橘宿祢諸兄。左大弁從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂爲留守。遣宮内少輔從五位下多治比眞人木人爲平城宮留守。乙酉。車駕還宮。辛夘。賜陪從五位已上廿八人。六位已下二千三百七十人祿有差。甲午。検校新羅客使多治比眞人土作等言。新羅使調改稱土毛。書奥注物數。稽之舊例。大失常礼。太政官處分。宜召水手已上。告以失礼之状。便即放却。
四月三日に紫香樂に行幸されている。右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)、左大弁の巨勢朝臣奈弖麻呂(奈氐麻呂。少麻呂に併記)、右大弁の紀朝臣飯麻呂を恭仁宮の留守官に、宮内少輔の多治比眞人木人を遣わして平城宮の留守官に任じている。十六日に帰還されている。二十二日、行幸に随行した従五位以上の者二十八人、六位以下の二千三百七十人に、それぞれ禄を賜っている。
二十五日に新羅の客を取り調べる使者の多治比眞人土作等が次のように言上している。[新羅の使いは調の名称を改めて土毛(その土地から産出するもの、土産)と称し、書の奥に物の数を注している。これは旧例を考えてみるに、大いに常の礼を失している]。太政官は次のように処分している。[水手以上の者を召して、礼を失している状態を告げ、即座に追い返せ]。
五月辛丑。自三月至今月不雨。奉幣帛于畿内諸神社祈雨焉。癸夘。宴群臣於内裏。皇太子親舞五節。」右大臣橘宿祢諸兄奉詔。奏太上天皇曰。天皇大命〈尓〉坐〈西〉奏賜〈久〉掛〈母〉畏〈岐〉飛鳥淨見御原宮〈尓〉大八洲所知〈志〉聖〈乃〉天皇命天下〈乎〉治賜〈比〉平賜〈比弖〉所思坐〈久〉。上下〈乎〉齊〈倍〉和〈氣弖〉无動〈久〉靜〈加尓〉令有〈尓八〉礼〈等〉樂〈等〉二〈都〉並〈弖志〉平〈久〉長〈久〉可有〈等〉隨神〈母〉所思坐〈弖〉此〈乃〉舞〈乎〉始賜〈比〉造賜〈比伎等〉聞食〈弖〉与天地共〈尓〉絶事無〈久〉弥繼〈尓〉受賜〈波利〉行〈牟〉物〈等之弖〉皇太子斯王〈尓〉學〈志〉頂令荷〈弖〉我皇天皇大前〈尓〉貢事〈乎〉奏。」於是。太上天皇詔報曰。現神御大八洲我子天皇〈乃〉掛〈母〉畏〈伎〉天皇朝廷〈乃〉始賜〈比〉造賜〈弊留〉寳國寳〈等之弖〉此王〈乎〉令供奉賜〈波〉天下〈尓〉立賜〈比〉行賜〈部流〉法〈波〉可絶〈伎〉事〈波〉無〈久〉有〈家利止〉見聞喜侍〈止〉奏賜〈等〉詔大命〈乎〉奏。又今日行賜〈布〉態〈乎〉見行〈波〉直遊〈止乃味尓波〉不在〈之弖〉。天下人〈尓〉君臣祖子〈乃〉理〈乎〉教賜〈比〉趣賜〈布等尓〉有〈良志止奈母〉所思〈須〉。是以教賜〈比〉趣賜〈比奈何良〉受被賜持〈弖〉不忘不失可有〈伎〉表〈等之弖〉。一二人〈乎〉治賜〈波奈止那毛〉所思行〈須等〉奏賜〈止〉詔大命〈乎〉奏賜〈波久止〉奏。」因御製歌曰。蘇良美都。夜麻止乃久尓波。可未可良斯。多布度久安流羅之。許能末比美例波。又歌曰。阿麻豆可未。美麻乃弥己止乃。登理母知弖。許能等与美岐遠。伊寸多弖末都流。又歌曰。夜須美斯志。和己於保支美波。多比良氣久。那何久伊末之弖。等与美岐麻都流。」右大臣橘宿祢諸兄宣詔曰。天皇大命〈良麻等〉勅〈久〉今日行賜〈比〉供奉賜態〈尓〉依而御世御世當〈弖〉供奉〈礼留〉親王等大臣等〈乃〉子等〈乎〉始而可治賜〈伎〉一二人等選給〈比〉治給〈布〉。是以汝等〈母〉今日詔大命〈乃期等〉君臣祖子〈乃〉理〈遠〉忘事無〈久〉繼坐〈牟〉天皇御世御世〈尓〉明淨心〈乎〉以而祖名〈乎〉戴持而天地与共〈尓〉長〈久〉遠〈久〉仕奉〈礼等之弖〉冠位上賜〈比〉治賜〈布等〉勅大命衆聞食宣。又皇太子宮〈乃〉官人〈尓〉冠一階上賜〈布〉。此中博士〈等〉任賜〈部留〉下道朝臣眞備〈尓波〉冠二階上賜〈比〉治賜〈波久等〉勅天皇大命衆聞食宣。」授右大臣正二位橘宿祢諸兄從一位。正三位鈴鹿王從二位。正四位下藤原朝臣豊成從三位。從四位上栗栖王。春日王並正四位下。從四位下船王從四位上。无位阿刀王。御室王並從四位下。從五位上矢釣王正五位下。无位高丘王。林王。市原王並從五位下。從四位下大伴宿祢牛養。石上朝臣乙麻呂。藤原朝臣仲麻呂並從四位上。正五位上多治比眞人廣足。佐伯宿祢常人。正五位下下道朝臣眞備並從四位下。正五位下多治比眞人占部。石川朝臣加美。從五位上藤原朝臣八束。橘宿祢奈良麻呂。正五位下阿倍朝臣虫麻呂。佐伯宿祢清麻呂。坂上忌寸犬養並正五位上。從五位上阿倍朝臣佐美麻呂。從五位下藤原朝臣清河。從五位上紀朝臣清人。石川朝臣年足。背奈王福信並正五位下。從五位下大伴宿祢稻君。百濟王孝忠。佐味朝臣虫麻呂。巨勢朝臣堺麻呂。佐伯宿祢稻麻呂並從五位上。外從五位下縣犬養宿祢大國。正六位上大伴宿祢駿河麻呂。從六位上大原眞人麻呂。正六位上中臣朝臣清麻呂。佐伯宿祢毛人並從五位下。從六位上下毛野朝臣稻麻呂。正六位上高橋朝臣國足。鴨朝臣角足。秦井手乙麻呂。紀朝臣小楫。若犬養宿祢東人。井上忌寸麻呂並外從五位下。」既而以右大臣從一位橘宿祢諸兄拜左大臣。兵部卿從三位藤原朝臣豊成。左大弁從三位巨勢朝臣奈弖麻呂爲中納言。從四位上藤原朝臣仲麻呂。從四位下紀朝臣麻路爲參議。乙丑。詔曰。如聞。墾田依養老七年格。限滿之後。依例收授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任爲私財無論三世一身。咸悉永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領少領三十町。主政主帳十町。若有先給地過多茲限。便即還公。姦作隱欺科罪如法。國司在任之日。墾田一依前格。丙寅。禁斷諸國司等不住舊舘更作新舍。又到任一度須給鋪設。而雖經年序。更亦給之。又各置養郡勿令煩資養。」備前國言。邑久郡新羅邑久浦漂着大魚五十二隻。長二丈三尺已下。一丈二尺已上。皮薄如紙。眼似米粒。聲如鹿鳴。故老皆云。未甞聞也。
五月三日、三月から今月に至るまで雨が降らなかったので、幣帛を畿内の諸神社に奉り、雨が降ることを祈願している。五日に群臣を内裏に招き、宴を行っている。そこで皇太子(阿倍内親王)は自ら五節舞(こちら参照)を舞っている。
右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が詔を奉じて、太上天皇に次のように奏上している<以下宣命体>・・・天皇のお言葉を慎んで奏上します。口に出すのも恐れ多い飛鳥淨御原宮で、大八洲國をお治めになされた聖の天皇(天武)が天下をお治めになり平定されてお思いになるのには、上の者と下の者の秩序を整え、和やかにさせて動揺なく安静にさせるには、礼と楽と二つ並べてこそ、平穏に長く続くであろうと、神としてお思いになられて、この舞をお始めになりお造りなったと天皇がお聞きになって、天地と共に絶えることなく、次から次へと受け継がれていくところのものとして、皇太子の王(阿倍内親王)に習わせ、謹んで身に付けさせて、我が皇天皇(元正太上天皇)の御前で舞をご覧にいれることを、奏上します・・・。
これに対して太上天皇より次のように返詔されている<以下宣命体>・・・現つ御神として大八洲國をお治めになる我が子である天皇(聖武、実の子ではなく甥)が、口に出すのも恐れ多い我が朝廷がお始めになりお造りになられた宝(舞)を国の宝として、この王に演じて奉らせているもので、天下に立てられて行われている国法は絶えることはないのだと、この舞を見聞きして喜んでいると奏上します、と仰せになる太上天皇お言葉を奏上します。また今日挙行された五節の舞をご覧になると、単に歌や舞の遊びではなくて、天下の人に君臣・親子の道理をお教えになりお導きになるということと思います。それ故に天下の人が承り身に体して忘れず失わずにあるように印として、一、二の人に褒賞して頂きたいとお思いになります。太上天皇のお言葉を奏上します・・・。
このことにより太上天皇が御作りになった歌は、次の通りである・・・そらみつ やまとのくには かみからしく とうとくあるらし このまいみれば・・・。また別の御歌は・・・あまつかみ みまのみことの とりもちて このとよみきを いまたてまつる・・・。また別の歌は・・・やすみしし わがおおきみは たいらけくながくいまして とよみきまつる・・・。
右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が詔を宣べている<宣命体>・・・天皇のお言葉として仰せになるには、今日挙行され太上天皇にお目にかけた五節舞によって、各御世御世に当たってお仕え申し上げている親王等や大臣等の子等を初めとして、褒賞のご沙汰のあるべき一、二人等を選ばれ、ご沙汰を下された。そこで汝等も今日仰せられたお言葉のように、君臣・親子の道理を忘れることなく、お継なられる天皇の御世御世に、明るく浄い心をもって先祖の名を大切に保持して、天地と共に長く遠くお仕え申し上げよというお考えで、冠位をお上げになり、ご沙汰される、と仰せなるお言葉を皆承れと申し渡す。また、皇太子宮の官人に冠位一階をお上げになり、この中に博士と任ぜられた下道朝臣眞備には冠位二階をお上げになりご沙汰される、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。
右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)に從一位、鈴鹿王に從二位、藤原朝臣豊成に從三位、栗栖王・春日王に正四位下、船王に從四位上、阿刀王(大市王に併記)・御室王(三室王)に從四位下、矢釣王(八釣王)に正五位下、高丘王(久勢王に併記)・「林王」・市原王(父親の阿紀王に併記)に從五位下、大伴宿祢牛養・石上朝臣乙麻呂(土左國配流から復活)・藤原朝臣仲麻呂に從四位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)・佐伯宿祢常人(豐人に併記)・下道朝臣眞備に從四位下、多治比眞人占部・石川朝臣加美(枚夫に併記)・藤原朝臣八束(眞楯)・橘宿祢奈良麻呂・阿倍朝臣虫麻呂・佐伯宿祢清麻呂(淨麻呂。人足に併記)・坂上忌寸犬養に正五位上、阿倍朝臣佐美麻呂・藤原朝臣清河・紀朝臣清人・石川朝臣年足(石河朝臣)・背奈王福信(背奈公福信)に正五位下、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)・百濟王孝忠(①-❼)・佐味朝臣虫麻呂・巨勢朝臣堺麻呂・「佐伯宿祢稻麻呂」に從五位上、縣犬養宿祢大國(筑紫に併記)・大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)・「大原眞人麻呂」・中臣朝臣清麻呂(東人に併記、最終正二位・右大臣)・「佐伯宿祢毛人」に從五位下、下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)・「高橋朝臣國足」・鴨朝臣角足(父親治田に併記)・「秦井手乙麻呂」・「紀朝臣小楫」・若犬養宿祢東人(檳榔に併記)・「井上忌寸麻呂」に外從五位下を授けている。また、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)を左大臣、兵部卿の藤原朝臣豊成、左大弁の巨勢朝臣奈弖麻呂を中納言、藤原朝臣仲麻呂、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を參議に任じている。
二十七日に以下のように詔されている・・・聞くところによると、墾田は養老七年の格によって、期限が満ちた後、例に従って収め授ける。そのために農夫は怠けて投げやりになり、折角土地を開墾してもまた荒れてしまう。そこで今から後は開墾した土地は希望に任せて開墾者に個人の財産として三世一身の法を当て嵌めることなく、全て悉く永年にわたって収公することないようにせよ。その土地の広さは親王の一品と一位には五百町、二品と二位には四百町、三品・四品と三位には三百町、四位には二百町、五位には百町、六位以下八位以上には五十町、初位以下庶民に至るまでは十町とせよ。但し、郡司には、大領・少領には三十町、主政・主帳には十町とせよ。もし以前に与えられた土地で、この限度より多いものがあれば、速やかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺く者があれば、罪を科すことは法の如くにする。國司が在任中の場合の墾田は、全て前格の規定に従え・・・。<以上を墾田永年私財法と呼ぶ>
二十八日に諸國司等が旧館に住むことなく、更に新しい建物を造ることを禁止している。また任命された國に行く場合は、そのたびごとに備品を支給すべきである。そして同一人物が年月を重ねて在任しても、更にまた備品の支給はしない。また各々の國司のための費用を賄う養郡を置くこととし、生活のための費用に心を煩わせることがあってはならない。
この日、備前國が次のように言上している。[「邑久郡新羅邑久浦」に「大魚五十二隻」が漂着した。長さは二丈三尺以下、一丈二尺以上で皮の薄いことは紙のようであり、眼は米粒に似ており、その声は鹿の鳴き声のようである。故老が皆言うには、いまだかつて聞いたことがない、とのことである。]
● 林王
調べても定かなことは知られていない人物のようで、一説に長屋王の子ではないかと推測されていることが分った。それを念頭にして出自の場所を探索してみよう。
「林」の文字で思い出されるのが、蘇我入鹿大臣を書紀の皇極天皇紀に「林臣。(林臣、入鹿也。)」と記載されていた。別名に「鞍作」があったり、多くの別称を持っていた大臣だったようである(こちら参照)。
林=木+木=山稜が小高くなって並んでいる様であるが、「入鹿」の谷間の出口の地形を表してると思われる。ならば、それに類似する地形を持つ場所出自に持つ王であったと思われる。図に示したように長屋王の北側、門部王の谷間の出口の地形を「林」と表記したことが解る。
● 佐伯宿祢稻麻呂 群臣でありながら、初登場で従五位上に叙位されている。それから考えると別名で既に登場していたのではなかろうか。「稻」が示す地形に類するのは佐伯宿祢人足のように思われる。「百足」の子、淨麻呂の兄であり、天平三(731)年に外従五位下・右衛士督と記載されているが、その後登場されることがない。
多くの息子もあって、それぞれが活躍されたことも知られている(一人は正三位・参議)。この後の天平二十(748)年二月に「從五位上佐伯宿祢稻麻呂贈從四位上」と記載されていることからも「佐伯宿祢」の主要な人物であったことが伺える。
● 大原眞人麻呂
百濟王の子孫と伝えられいる高安王が天平十一(739)年に臣籍降下して賜った「大原眞人」姓である。兄弟である櫻井王・門部王も同様であったことが知られている。
また「高安」が前年の天平十四(742)年十二月に亡くなっており、どうやら息子だったような感じなのであるが、伝えられてはいない。
「麻呂」は、おそらく「萬呂(侶)」であろう。すると図に示した谷間にその地形を見出すことができる。この配置も親子関係であっても不思議ではないようである。初出が従五位下であることからも、素性は明確であったと推測される。
尚、「大原」の大原=平らな頂の山稜の麓にある平らに広がったところと解釈される。上記の市原王(安貴王の子)と同様である。
<佐伯宿祢毛人-木節> |
● 佐伯宿祢毛人
「佐伯宿祢」の狭い谷間に毛=鱗のような様を見出すことは不可能なのでは?…大概が山稜の端が広がった地であった。
ところが少し前に佐伯宿祢伊益が登場していた。「益」も平らな台地が広がった様であるが、ならば「伊益」の場所を「毛人」の出自場所では?…など悩ましい状況に陥った気分であった。
やはり山稜の端が平たく広がった様として探すと、図に示した場所、些か小ぶりではあるが、「鱗」の様相を示しているのではなかろうか。少し後に「人足」の子の今毛人が登場する。子であるから父親の近隣として求めた場所が上図「毛人」の下流である。
後(淳仁天皇紀)に佐伯宿祢木節が従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳であり、名前が示す地形を求めると、木節=山稜に節のような形があるところと解釈して、図に示した場所が出自と推定される。いよいよ中腹の斜面に蔓延ることになったようである。
● 高橋朝臣國足
古くから開かれた地であり、書紀・續紀に多くの人物が登場している。とは言え、実に狭い地であり、犇めき合っているような出自の場所となるが、ある意味見事に収まっているようである。
些か立て込んで来たこともあって、新たに図を作成したみた。頻出の文字列である國足=大地が長く延びているところと読むと、図に示した辺りがこの人物の出自と思われる。「國」=「大地」と読んで差し支えなしであるが、元来は「囲まれた地」を意味する。「國益」の「國」の地形である。系譜は知られていないが、何らかの関係があったのではなかろうか。
後に高橋朝臣男河・高橋朝臣三綱が従五位下に叙爵されて登場する。系譜を調べると、「國益」の子、「笠間」の兄弟に呼具須比がおり、その子であったようである。男河=[男]のような地が水辺の谷間の出口のところ、三綱=三段になった綱のような山稜の麓のところと読み解ける。父親の場所も併せて図に示した。”古事記風”の名称であるが、きっちりと地形を象形していることが解る。
更に後(孝謙天皇紀)に高橋朝臣子老・高橋朝臣人足が従五位下に叙爵されて登場する。系譜は不詳のようである。とすると谷間の西側と推測して、子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところ、人足=谷間ある足のように山稜が延びているところと地形が隣り合って図に示した場所に見出せる。
更に後(淳仁天皇紀)に高橋朝臣廣人が従五位下を叙爵されて登場する。纏めて上図に併記した。廣人=谷間が広がっているところと読むと、谷間の奥で広がっている場所を示していると思われる。
● 秦井手乙麻呂
「秦井手」の「秦」は山背國に散らばった一族を表す表記であるが、「井手」は何処の場所にあったのか?…調べると山背國綴喜郡井手が知られていることが分った。
図に示したように井=四角く取り囲まれた様、手=山稜が手のように延びている様と解釈される。乙麻呂の乙=[乙]の文字形のような様であり、「手」の山稜の端に見出せる。
図に示した山背部小田は、書紀の『壬申の乱』で高市皇子の配下に属した人物と記載されている。図では省略しているが、その西側を出自として天武天皇の舎人であった山背直小林と同様に、吉野を脱出して不破で戦闘態勢を整える時に貢献した人達であったようである。歴史の表舞台に登場する機会は少ないが、古くから渡来系の人々が住まっていた地だったのであろう。
● 紀朝臣小楫
海辺で蔓延った系列ではなく、山側の地が彼等の出自の場所と推定した。おそらくこの人物も、未だ登場していない山麓に居処を構えていたのであろう。
既出の文字列である小楫=山稜の端に三角の形をした地がくっ付いているところと読み解ける。その地形を探すと、「馬主」等の北側の谷間に延びている山稜の端辺りを示していると思われる。男楫とも表記され、後に地方官を勤められて頻度高く登場されるが、昇進はなく、天平寶字四(760)年以降の消息は不明である。
後(桓武天皇紀)に紀朝臣楫人が従五位下を叙爵されて登場する。楫人=[楫]の山陵の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、もう一度登場している。
この人物に関する情報は皆無であるが、「井上氏」としては後代の氏族を含めて詳細に解説されている。その中の「東漢系井上氏」と分類された一族だったと推測される。
多くの天皇陵が造られた近淡海國を渡来人達が開拓していった歴史を物語っているのであろう。”近淡海=近江”としては、古代はロマンの世界に留まるばかりである。それは兎も角として、その地に井上=四角く区切られた地の上にあるところが見出せる。麻呂の「麻」=「萬」とすれば、図に示した場所が出自と思われる。
少々余談になるが、Wikipediaに「西安で墓誌が発見された奈良時代の日本人井真成をこの氏族の出身とする説がある」と記載されている。眞成=平らな台地が寄り集まった窪んだところと読み解ける。図に示した辺りが出自だったのではなかろうか。
備前國邑久郡:新羅邑久浦・大魚五十ニ隻
<備前國邑久郡:新羅邑久浦> <大魚五十ニ隻> |
些か戸惑わせる表記の新羅邑久浦が続く。邑久浦=邑久の傍らの水辺で広がったところと解釈される。がしかし、「新羅」は何とするのか?…通常は困り果てて、「新羅人」が多く住まっていたからであろう…ぐらいの解釈で済まされているようである。
何処かで述べたように、「新羅」も立派な地形象形表記なのである。新羅=切り分けられた山稜が連なっているところと解釈される。図に示した場所の谷間は、現在の標高で10m前後であり、当時は海面下であったと推測される。
その谷間の東側に「魚」の地形が見出せる。とりわけ尻尾に見える山稜の端が細かく岐れた様子が認められる。図の下方部に国土地理院航空写真1961~9年を示した。そして、最も興味深い表現が五十二隻であろ。「五十二匹」と読んでは、勿体ない・・・五十(交差するように)二隻(二匹)が並んでいる、と読み解く。
備前國の北方への広がりは、留まるところ知らないように見受けられる。「皮薄如紙。眼似米粒。聲如鹿鳴」の記述は、何やら告げているようだが、また後日に読み解いてみよう・・・現在は広大な宅地になっていて、些か地形を読むのは難しいのだが・・・。