2022年2月6日日曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(34) 〔571〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(34)


天平十四年(西暦742年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

八月甲戌。令左右京四畿内七道諸國司等上孝子。順孫。義夫。節婦。力田人之名。丁丑。詔授造宮録正八位下秦下嶋麻呂從四位下。賜太秦公之姓。并錢一百貫。絁一百疋。布二百端。綿二百屯。以築大宮垣也。癸未。詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。甲申。車駕幸石原宮。乙酉。宮城以南大路西頭。与甕原宮以東之間。令造大橋。令諸國司隨國大小。輸錢十貫以下一貫以上。以充造橋用度。癸巳。以民部大輔從五位上多治比眞人牛養等爲裝束司。是日。賜陪從人等祿各有差。甲午。以中務卿正四位下塩燒王。左中弁從五位上阿倍朝臣沙弥麻呂等六人。爲前次第司。宮内卿從四位上石川王。民部大輔從五位上多治比眞人牛養等六人爲後次第司。丁酉。制。大隅。薩摩。壹岐。對馬。多褹等國官人祿者。令筑前國司以廢府物給。公廨又以便國稻依常給之。其三嶋擬郡司。并成選人等。身留當嶋。名附筑前國申上。仕丁國別點三人。皆悉進京。己亥。行幸紫香樂宮。以知太政官事正三位鈴鹿王。左大弁從三位巨勢朝臣奈氐麻呂。右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂。爲留守。攝津大夫從四位下大伴宿祢牛養。民部卿從四位下藤原朝臣仲麻呂爲平城留守。即日。車駕至紫香樂宮。 

八月二日に左右京と畿内四ヶ國・七道の國司等に孝子・順孫・義夫(五世同居の当主)・節婦や力田人(農業に努めている人)の名前を上申させている。五日、以下のように詔されて、造営録の秦下嶋麻呂(秦忌寸牛麻呂の子。朝元に併記)に従四位下を授け、「太秦公」の氏姓と銭・絁・麻布・真綿を与えている。宮の垣を築造したことに拠る。

十一日に以下のように詔されている・・・朕は「近江國甲賀郡紫香樂村」に行幸しようと思う・・・。そこで造営卿の智努王(文室淨三)、輔の高岡連河内(高丘連河内;樂浪河内)等四人を離宮を造る司に任じている。十二日に天皇は「石原宮」に行幸している。十三日に石原宮城以南の大路の「西頭」と甕原宮以東との間で大橋を造らせるため、諸國司等に國の大小に応じて銭十貫以下一貫以上を納めさせ、端を造る費用に充てている。

二十一日に民部大輔の多治比眞人牛養(犢養)等を紫香樂行幸の装束司に任じている。この日、行幸に付き従う人等にそれぞれ禄を賜っている。二十二日に中務卿の鹽燒王及び左中弁の阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)等六人を行幸に際しての前次第司に、宮内卿の石川王及び民部大輔の多治比眞人牛養(犢養)等六人を後次第司に任じている。

二十五日に以下のように制している・・・大隅・薩摩・壹岐・對馬・多褹等の國の官人の禄は、筑前國司に命じ、廃止された大宰府の官物から支給させる。公廨(給与)についてもまた便宜の國の稲で通常のように支給せよ。壹岐・對馬・多褹の三嶋の擬郡司と叙位の条件を満たした者については、身柄はその嶋に留め、名前を筑前國に付託して上申せよ。仕丁は國ごとに三人を指名し、全て京に奉つれ・・・。

二十七日に「紫香樂宮」に行幸している。知太政官事の鈴鹿王、左大弁の巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)、右代弁の紀朝臣飯麻呂を恭仁京の留守官に任じ、攝津大夫の大伴宿祢牛養、民部卿の藤原朝臣仲麻呂を平城宮の留守官に任じている。その日のうちに天皇は「紫香樂宮」に到着している。

<近江國甲賀郡紫香樂村:紫香樂宮>
近江國甲賀郡紫香樂村:紫香樂宮

「近江國甲賀郡」は、記紀・續紀を通じて初出である。前出の志賀郡と共に續紀が登場させた郡名である。「志賀」は、古事記の近淡海之志賀高穴穗宮で記載された地名であり、それを受け継いで續紀が「志賀郡」としている。

「甲賀」は、全くその影すらも伺うことはできず、その文字列が示す地形からその領域を求めてみよう。

「甲」=「覆い被さるように山稜が広がっている様」と解釈した。「賀」=「加+貝」=「押し拡げられたような谷間」とすると、甲賀=覆い被さるような山稜が押し拡げられた谷間にあるところと解釈される。図に示した、吉野河(現小波瀬川)を挟んで南側の志賀郡、北側の甲賀郡という配置となることが解る。

紫香樂は、目新しく映るが、全て既出の文字列である。再掲すると、紫=此+糸=足を拡げたように山稜が延びている様香=禾(黍)+曰=四角く窪んだところから山稜がしなやかに曲がって延びている様樂=山稜で挟まれた地に丸く小高いところがある様と解釈した。それらの地形要素を満たす場所が、甲賀郡の山麓に見出せる。

現地名は行橋市福丸であり、京都郡苅田町との境にあることが分る。古代の國境が現在に繋がっているのではなかろうか。この地は、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の子、伊美賀古王の出自の場所と推定した。その係累が蔓延ってはいなかったのであろう。

尚、恭仁京から紫香樂宮までは、現在の徒歩ルート(前記の東北道参照)で約15kmと見積もれ、一日で到達できる距離と思われる。現在の地図上に記載されている恭仁京~紫香楽宮跡は徒歩で約33km、当時の一日の歩行可能距離を越えているようだが・・・。

<石原宮>
石原宮

この宮の所在については、續紀の記述を忠実に解釈することができず、と言って無視することもできず、曖昧なままで放置されているようである。

真面に本文の記述を追跡すると、この宮と甕原宮とは大河で挟まれており、その間に大橋を架ける作業をさせている。

原文を引用すると「宮城以南大路西頭。与甕原宮以東之間。令造大橋」と記載されている。「大路」に惑わされて、「宮城=恭仁京」としてしまっては、前後の文脈を無視した解釈となろう。「宮城=石原宮」である。

大路=平らな頂の山稜の端が二つに岐れているところの地形象形表記である。西頭=[笊]の形をした地にある頭のように丸く小高くなっているところと読み解ける。上図に示した地形を表していることが解る。すると石原=磯原(イソノハラ)であることに気付かされる。飛鳥の石上=磯上(イソノカミ)に極めて類似した地形なのである。

大橋はこの西頭と甕原宮の東方の間で架けることになるが、おそらく現在の橋の場所に架けられたのではなかろうか。ここに橋を架けることにより、敵の侵入を遮断することが可能となる。鉄壁の防衛布陣の様相であろう。

後に石原宮樓があって、それが〈在城東北〉と注記されている。図に示した小高い場所に設置されていたと推測される。そして、この場所には川の下流域まで(宇治・山科辺り)を見通せる絶好の”物見櫓”を造っていたことが解る。

「石原宮」の地は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った伊須氣余理比賣が住まった地と推定した。天皇亡き後、比賣の子を殺そうと庶兄の多藝(當藝)志美美命が飛鳥に進入しようとした時に一早く知らせて難を逃れたと記載されている。見事に繋がった記述であろう。

九月壬寅朔。幸刺松原。乙巳。車駕還恭仁京。癸丑。大風雨。壤宮中屋墻及百姓廬舎。戊午。遣巡察使於七道諸國。又任左右京畿内班田使。己巳。授正五位上紀朝臣麻路從四位下。

九月一日に「刺松原」に行幸し、四日に恭仁京に帰っている。十二日、風雨が激しく、宮中の建物や墻(垣)、民の住居が壊れている。十七日に巡察使を七道の諸國に派遣している。また左右京と畿内の班田使を任命している。二十八日に紀朝臣麻路(古麻呂に併記)に従四位下を授けている。

<刺松原>
刺松原

休むことを知らない天皇は、刺松原に行幸されれたと記載されている。上記の石原宮同様に全く不詳なのであろうか、情報が欠落している。

「刺」の文字が用いられたのは、古事記の大國主神が誕生した刺國、また白髮大倭根子命(清寧天皇)紀に、皇統が途絶えて市邊忍齒別王之妹・忍海郎女が急遽執政した場所の葛城忍海之高木角刺宮に用いられていた。

「刺」が表す地形を、これらの場所で確認することができる。葛城忍海の地の「刺」をあらためて見ると、図に示したように”松葉”の先が二つの「刺」となっていることが解り、これを刺松と表記し、その先に広がるを示していると読み解ける。

帶中津日子命(仲哀天皇)の后である身重の息長帶日賣命が新羅等を歴訪し、筑紫で品陀和氣命(応神天皇)を生んだ後、倭に帰る際、庶兄の香坂王・忍熊王が待ち伏せた斗賀野と推定した場所であった。即ち、忍海の状態がここで終了し、狭い谷間を進入することになる。待ち受ける方としては格好の地勢となる。

――――✯――――✯――――✯――――

さて、目まぐるしい行幸の場所が明らかになって来ると、その目的が透けて見えて来るようである。最初に伊勢國から美濃國を経て近江國への行幸は、北方の海から外敵の侵入ルートを見定めることにあったと思われる。勿論、北から直接侵入しても深い谷間を通過することになり、防御は容易と思われたのであろう。

結局、東の難波津から現在の今川(犀川)から山背國へ、また小波瀬川から河内國・吉野(平尾台)への侵入ルートの危険性を改めて認識したのであろう。それに対応するのが前者では甕原宮・石原宮(兵器の強化と大橋)、後者では紫香樂宮の設営と思われる。

そして、西方の備えとしては、遠賀川・彦山川からの侵入に対して刺松原行幸を行い、現地の確認を行ったのであろう。だが、宮の設営をするまでもなく、自然の地形を活用すれば、防御可能と判断したのではなかろうか。

北からの直入は、登美能那賀須泥毘古の抵抗に遭い、兄の五瀬命を失って一旦退却を余儀なくされ、遺言である”日を背にして攻めろ”、に従い、東から吉野河(小波瀬川)を遡り吉野を経て倭に突入した神倭伊波禮毘古命(神武天皇)のルートを彷彿とさせる記述、聖武天皇は、しっかりと故事を学ばれていたようである。

ともあれ、平城宮の場所は、平時の宮であり、西海に不穏な動きがあれば、より堅固な防衛が可能な場所が求められたのであろう。それが山背國相樂郡の恭仁京だった、のである。續紀が伝える危機感を、通常の解釈では全く読み取ることは叶わないであろう。自由気儘に遷宮したのでは、決してない。

――――✯――――✯――――✯――――

冬十月癸未。禁正四位下塩燒王并女孺四人。下平城獄。乙酉。參議左京大夫從四位下縣犬養宿祢石次卒。戊子。塩燒王配流於伊豆國三嶋。子部宿祢小宅女於上総國。下村主白女於常陸國。川邊朝臣東女於佐渡國。名草直高根女於隱岐國。春日朝臣家繼女於土左國。

十月十二日に鹽燒王と女孺四人を平城の獄に入れている。十四日に参議の縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)が亡くなっている。十七日に鹽燒王伊豆國三嶋へ、女孺の「子部宿祢小宅女」を上総國(前記で安房國併合)へ、「下村主白女」を常陸國へ、「川辺朝臣東女」を佐渡國へ、「名草直高根女」を隱岐國(隱伎國)へ、「春日朝臣家繼女」を土左國へ配流している。いつもように流罪の詳細は定かでないようである。

<子部宿禰小宅女>
子部宿祢小宅女

「子部宿禰」は、宿禰姓なのだが、初出であり、元が連姓としても、全く見当たらない。調べると宿禰姓を持ち、関連する文字列では少(小)子部連があり、天武天皇紀に少子部宿禰の氏姓を賜っていた(こちら参照)。

少(小)子部=山稜の端が削り取られたように三角に尖った地から生え出たところと読み解いた。適切に尾張國司守小子部連鉏鉤の出自の場所を表す表記であることが確認される。

ところが、生え出た地は、極めて限られていて周辺では地形象形表記とはなり難いことが解る。それ故、「少(小)」を省略したものと思われる。いずれにせよ、尾張の山稜が延びて広がった地形であり、「子」であることには違いないのである。

頻出の文字列である小宅=谷間に延びる山稜の端が三角に尖っているところと読み解ける。この人物の出自の場所は図に示した辺りと推定される。女孺は、後宮で仕えた女官であるが、勿論氏素性は、それなりの女性だったと思われる。如何なる事件に関わったのだろうか・・・。

<下村主白女>
● 下村主白女

天平六(734)年十二月に烏安麻呂(麿)が下村主の氏姓を賜ったと記載されていた。この「烏」を古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した八咫烏の地と推定した。

現地名は京都郡苅田町山口の八田山である。『壬申の乱』では村國小依隊が倉歷道を経て、近江に直入した場所でもある。記紀を解読する上に於いて、極めて重要なランドマークであろう。

それは兎も角として、今回登場の人物の名前には、些か戸惑わされた・・・名前が白女のみである。「安麻呂」の近隣の地形の特徴を表しているのであろうが、これほど舌足らずの表現となると、特定する根拠を導くのが難しくなりそうである。

「女」=「山稜が嫋やかに曲がっている様」の地形象形表記と女性とを重ねていると解釈すると、白女=嫋やかに曲がっている山稜がくっ付いているところと読み解ける。図に示した場所、山稜の間を道が大きく曲がりながら通じているところを表していると思われる。急傾斜の場所に造られた九折の道ではなく、山稜に従っていることが解る。地形象形における究極の表記のようである。

<川邊朝臣東女>
● 川邊朝臣東女

「川邊朝臣」は、元明天皇紀に登場した川邊朝臣母知以来と思われる。續紀は、多数の人材を輩出した「河邊朝臣」と区別し、と言っても地形に基づた表記なのであるが、きちんと出自の場所を表していた。

「河」=「氵+可」=「川が流れる谷間の出口」と解釈したが、それを忠実に守った表記としているようである(左図参照)。

東女の頻出の「東」=「突き通す様」としたが、多くは「東人」=「谷間を突き通すようなところ」と解釈される。それをそのまま用いると、東女=嫋やかに曲がって延びる山稜を突き通すようなところと解釈される。「母知」の南側で山稜が途切れたような場所が見出せる。

上記の「白女」と同じように、「女」を巧みに重ねた表記としていると思われる。書紀の『壬申の乱』では、息長横河と記載された場所である。そう言えば、尾張國司守小子部連鉏鉤は二万の兵を率いて寝返っていた。鹽燒王と四人の女孺達は、聖武天皇の国防体制に異論を唱えた一派だったのかもしれない。大宰府の廃止には、致命的な欠陥がある、とでも上申したのであろうか・・・。

● 名草直高根女 「名草直」は初登場である。ずっと後に「紀名草直」の氏姓を賜う記事が載せられている。紀伊國名草郡に由来する名称である。高根=皺が寄ったような山稜の端が延びて岐れたところではあるが、現在知られている、1960年前後も含めて、地形の変化が大きく、詳細を詰めることは叶わなかった。紀伊國造であった紀直摩祖・豊嶋の近隣であることには違いないであろう。

この地は、上記で述べたように神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が兄の五瀬命を葬った竈山の麓であり、ここで態勢を整えて熊野村から八咫烏に導かれて「吉野河之河尻」に侵出したのであった。どうやら、本事件の真相が垣間見えて来たような気分に・・・。

<春日朝臣家繼女>
● 春日朝臣家繼女

平城宮の獄に入れられたのは四人なのだが、配流された女性は五人と記載されている。おそらく、連座した廉での罰だったのであろう。「春日朝臣」ではなく、「大春日朝臣」の氏姓を持つ人物が幾人か登場している。

その中に大春日朝臣家主が元正天皇紀に従五位下を叙爵されていた。天平九(737)年に従五位上となるが、その後はぷっつりと音沙汰無しとなるようである。

家繼=家(主)を引き継ぐところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。罪人であることから「大」を付けなかったのであろう。また、連座ではなく、別件での処罰だったかもしれない。

――――✯――――✯――――✯――――

一年前の天平十四(742)年正月に記載された大宰府(筑紫大宰、現北九州市小倉北区足原・黒原)の廃止は何を意味しているのであろうか?…前記で伊勢國・美濃國・近江國への行幸から大宰府の位置関係は十分に理解された筈である。三國に近接していたのである。『壬申の乱』で天武天皇の伊勢桑名で逡巡したかのような振る舞いがそれを示唆していたのである。

即ち、西海からの使者が到着する場所が、余りにも近かったのである。防疫を優先するならば、大宰府の機能をより西方に移動させる必要があった。それが筑前國(現宗像市深田・田島)を西海からの使者を受け入れる場所と定めた根拠であったと推測される。

――――✯――――✯――――✯――――

十一月癸夘。參議從三位大野朝臣東人薨。飛鳥朝廷糺職大夫直廣肆果安之子也。丙午。免左右京畿内今年田租。壬子。大隅國司言。從今月廿三日未時。至廿八日。空中有聲。如大鼓。野雉相驚。地大震動。丙寅。遣使於大隅國検問。并請聞神命。

十一月二日に参議の大野朝臣東人が亡くなっている。飛鳥朝廷(天武朝)の糺職大夫・直広肆の果安(大野君果安)の子であった。五日に左右京と畿内の今年の田租を免除している。十一日に大隅國司が次のように報告して来ている・・・今月(十月)二十三日の未の時から二十八日まで空中に音がして大鼓のようであり。野の雉が驚き、地面が大そう揺れ動いた・・・。二十五日に使者を大隅國に派遣して事情を調べ訊ねさせている。併せて神のことばを求め聞かせている。

十二月丁亥。地震。戊子。令近江國司禁斷有勢之家專貪鐵穴。貧賎之民不得採用。庚寅。正四位下大原眞人高安卒。庚子。行幸紫香樂宮。知太政官事正三位鈴鹿王。左大弁從三位巨勢朝臣奈氐麻呂。右大辨從四位下紀朝臣飯麻呂。民部卿藤原朝臣仲麻呂等四人爲留守。

十二月十六日に地震があった、と記している。十七日に近江國司に命じ、勢力のある家ばかりが「鐵穴」を独占し、貧しい人民が採掘できない状態を禁止させている。十九日に大原眞人高安(高安王、臣籍降下)が亡くなっている。二十九日に紫香樂宮に行幸している。知太政官事の鈴鹿王、左大弁の巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)、右大弁の紀朝臣飯麻呂、民部卿の藤原朝臣仲麻呂等を恭仁京の留守官に任じている。

近江國の鐵穴(カンナ)は、文武天皇紀の大寶三(703)年九月に志紀親王(施基皇子)に賜ったと記載されていた。その地を後の依智郡犬上頓宮のあった谷間と推定した(こちら参照)。私有化されたために、その後に混乱が生じたのであろう。ともあれ、近江國は鉄の産地であったのである。

――――✯――――✯――――✯――――
『續日本紀』巻十四巻尾