2022年1月31日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(33) 〔570〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(33)


天平十四年(西暦742年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十四年春正月丁未朔。百官朝賀。爲大極殿未成。權造四阿殿。於此受朝焉。石上榎井兩氏始樹大楯槍。辛亥。廢大宰府。遣右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂等四人。以廢府官物付筑前國司。癸丑。天皇幸城北苑。宴五位已上。賜祿有差。特齎造宮卿正四位下智努王東絁六十疋。綿三百屯。以勤造宮殿也。」外從五位下巨勢朝臣堺麻呂。上毛野朝臣今具麻呂並授從五位下。丙辰。賜武官酒食。仍齎五位已上被。主典已上支子袍帛袴。府生已下衛士已上絁綿各有差。壬戌。天皇御大安殿。宴群臣。酒酣奏五節田舞。訖更令少年童女踏歌。又賜宴天下有位人并諸司史生。於是六位以下人等鼓琴。歌曰。新年始邇。何久志社。供奉良米。万代摩提丹。宴訖賜祿有差。又賜家入大宮百姓廿人爵一級。入都内者。无問男女並齎物。己巳。陸奧國言。部下黒川郡以北十一郡。雨赤雪平地二寸。

正月一日に全ての官人が朝賀している。大極殿が未だ完成していないので仮に四阿殿を造り、朝賀を受けている。石上・榎井の両氏が初めて大楯と槍を立ている。五日に「大宰府」を廃止している。右代弁の紀朝臣飯麻呂等四人を派遣して廃止した府の官物を「筑前國司」に付託している。

七日に恭仁宮の北の苑に行幸し、五位以上の者を召して宴会し、それぞれに禄を賜っている。とりわけ造営卿の智努王(文室淨三)には東絁・真綿を賜っている。「巨勢朝臣堺麻呂」と上毛野朝臣今具麻呂(荒馬に併記)に従五位下を授けている。十日に武官に酒食を賜っている。それに従って五位以上には被(頭からかぶって用いた単物)、主典以上には支子(くちなし)色の袍(朝服の上衣)と帛(絹)の袴、府生以下衛士以上に絁と真綿を、それぞれ賜っている。

十六日に天皇は大安殿に出御されて、臣下と宴会している。酒宴が最高潮の時に五節の田舞が奏せられ、それが終わって更に少年・童女に踏歌(多数の人が足で地面を踏みならし、列を作り行進して歌い躍る)させている。また天下の位を持つ諸司の史生に宴会を賜っている。ここに六位以上の者等が琴を演奏して、次のように歌っている…新しき年の初めに かくしこそ つかまつらめ 万代までに…。宴が終了し、それぞれに禄を賜っている。また大宮の敷地内に入った民二十人に位一階を賜っている。都内に入った者には、男女を問わず皆物を賜っている。

二十三日に陸奥國が[管下の「黒川郡」以北の十一郡に「赤雪」が降り、平地に二寸積もった]と報告している。

<巨勢朝臣堺(關)麻呂-苗麻呂>
● 巨勢朝臣堺麻呂

調べると堺麻呂は「子祖父(邑治)」の子と知られていることが分った。左大臣の「徳太」から「黒麻呂」を経る系列となる。また伯父の祖父(邑治、中納言)の養子となっていたようである。最終官位は従三位・参議であった。

「子祖父」に関する記述は、和銅四(711)年四月に従五位上に叙爵された以降は見当たらず、上記の「堺麻呂」が養子となっていることからも早くに亡くなったのであろう。

既出の堺=土+田+介=山稜が[介]の形に寄り集まった様と解釈した(例えばこちら)。同様にその地形を「子祖父」の西南の地に見出すことができる。堺=境=坂合なのであるが、山稜の出合い方が「く」の字形に曲がっている場合に用いていると思われる。なかなか繊細な表記であろう。別名の關麻呂も、山稜が寄り集まっている様を表している。

後(孝謙天皇紀)に息子の巨勢朝臣苗麻呂が登場する。橘宿祢奈良麻呂の謀反の記述の中であるが、特段の関りはなかったようである。「苗」が名前に用いられたの初見である。苗=艸+田=平らな地で僅かに山稜が延びている様と解釈すると、父親の近傍の場所であることが解る。

<陸奥國黒川郡>
陸奥國黒川郡

陸奥國は、多くの郡割をしたり、一部を割いて新しく國を建てたり、目まぐるしく行政区画を再編している地である。元来は陸奥蝦夷として表記されていたが、帰順する地域が増えて行ったことを反映しているのであろう。

元明天皇紀の和銅五(712)年十月に陸奥國の「置賜郡・最上郡」を出羽國に転属したと記載されていた(こちら参照)。「置賜郡」は、地形から推定すると長い谷間の出口辺り、現在畑貯水池となっている領域と思われた。

すると、その西側の谷間の奧を黒川郡と称していたのではなかろうか。頻出の黑=囗+米+灬(炎)=谷間の囲まれた地に山稜が炎のように延び出ている様であり、図に示した地形を表していることが解る。

この郡の以北に「十一郡」があって、赤雪が降ったと述べている。「赤雪」とは?・・・極地や高山の氷河・残雪の表面に、微小な藻類が多量に繁殖して赤色になったもの・・・と知られている。関西大学天然素材工学研究室のサイト(「赤雪」の画像あり)も参照。

上図に示したように「黒川郡」の北側は高山地帯であって、戸ノ上山~足立山山塊の東側の山稜である。冬季には降雪があり、その残雪に赤い藻(雪氷藻類)が繁殖したのではなかろうか。換言すれば、「黒川郡」は高山の南に位置する郡であったと記載しているのである。この藻は山間の平らに窪んだ場所に棲息していたのであろう。「平地二寸」が教えるところである。

二月丙子朔。幸皇后宮宴群臣。天皇歡甚。授正四位上巨勢朝臣奈氐麻呂從三位。從五位上坂上忌寸犬養正五位下。正八位上縣犬養宿祢八重外從五位下。宴訖賜祿有差。戊寅。免中宮職奴廣庭。賜大養徳忌寸姓。大宰府言。新羅使沙飡金欽英等一百八十七人來朝。庚辰。詔以新京草創宮室未成。便令右大弁紀朝臣飯麻呂等饗金欽英等於大宰。自彼放還。是日。始開恭仁京東北道。通近江國甲賀郡。
三月己巳。地震。

二月一日に天皇は皇后宮に行幸し、臣下達と宴会している。大そう喜び、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)に従三位、坂上忌寸犬養に正五位下、「縣犬養宿祢八重」に外従五位下を授けている。宴が終わって、それぞれに禄を賜っている。三日に中宮職の奴である「廣庭」を免じて、「大養德忌寸」の氏姓を与えている。また、大宰府が[新羅の使節の金欽英等百八十人が来朝した]と報告して来ている。

五日、詔があって新京が草創期で、まだ宮室が完成していないため、そのまま右代弁の紀朝臣飯麻呂等に大宰府で新羅使を饗応させ、そこから帰らせている。この日に初めて恭仁京から東北に向かう道を造成し、「近江國甲賀郡」に通じるようにしている。

三月二十四日に地震があったと記している。

<縣犬養宿祢八重-姉女-内麻呂>
● 縣犬養宿祢八重

調べると縣犬養(橘)宿祢三千代・石次の妹と分った。葛井連廣庭の室であり、女官を務めて、最終官位は命婦・従四位下だったようである。

光明皇后が注力した写経事業に専心したことが記録に残っている。縣犬養一族の女性として活躍をされたことが伺える。

出自の場所は、既出の文字列である八重=二つに岐れた山稜が突き通すように延びているところと解釈される。残念ながら現在の地図では地形変化が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、その地形を確認することになる。

すると、「石次」の東側の谷間は、扁平な山稜の端が二つに岐れて延びていることが分かる。別名に(縣)犬甘命婦犬甘八重があったと知られている。「甘」は書紀で登場した甘檮岡に用いられた文字であり、甘=谷間から山稜が舌のように延び出た様と解釈した。この山稜の端を「甘」と見做した表記と思われる。「犬養」の「養」の谷間から遠く離れ、むしろ近接する「甘」の地を好んで用いたのであろう。

後(淳仁天皇紀)に縣犬養宿祢姉女が従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳のようである。姉=谷間が寄せ集められた様と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「石次」の子、縣犬養宿祢内麻呂(後に淳仁天皇紀に登場)と同族であったと知られている。この後、幾度か登場されることになる。

<大養德忌寸廣庭-佐留>
● 大養德忌寸廣庭

唐突に記載されて登場するのであるが、何か特別なことをしたのであろうか、氏姓を与えている。「大養德忌寸」は、以前の大倭忌寸であり、その地を出自に持つ人物と思われる。

廣庭の名前は幾度も用いられていて、阿倍朝臣廣庭などがいる。廣庭=麓で平らに広がったところと解釈した。

すると図に示した辺りが、その地形要件を満たす場所として挙げられる。既出の大倭忌寸一族とは少し離れた場所である。おそらく、罰を受けて中宮職の奴となっていたのを免じたのであろう。ただ、この後續紀に登場することはないようである。

少し後に大養德忌寸佐留が従五位下を叙爵される。佐留は、「柿本朝臣佐留」に含まれていた。書紀では「柿本臣猨」と記載された人物であり、「柿本朝臣人麻呂」の兄と知られている(こちら参照)。佐留=押し広げたように谷間から左手のような山稜が延びているところと読み解いた。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

<恭仁京東北道>
恭仁京東北道

恭仁京(宮)があった山背國相樂郡は、東北~南西に延びる山稜の谷間に位置する場所と推定した。賀世山東河に架けた橋は東南の方角に当たることになる。

地図を詳細に眺めると、宮の北側には幾つかの谷間が並列して延びてる地形であることが分る。元明天皇及び聖武天皇が足繁く通った甕原宮(離宮)も東北方角にあり、これらの谷間を経て向かったのであろう。

その行程を推測すると、宮を出て北に向かい、久仁里の谷間沿いに東~北上、更に東に進んで甕原離宮(現地名は京都郡みやこ町犀川大村)に辿り着いたのであろう(図中黄色の二重破線)。

するとここで記載された東北道は、「久仁里」で東に向かうことなく、そのまま東北の方角に谷間に沿って進む道と思われる。古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)が難波高津宮を焼け出されて逃げた道中に登場する當岐麻道と記載された道である。長い年月が経っての再見である。

確かにその後この道に関わる人物も登場せず、未開の通路だったのかもしれない。これを抜ければ近飛鳥の地に届き、更に千草山と鉄光坊山との間にある峠を経て河内國に向かうことが可能となる。元正天皇の行幸で登場した竹原井頓宮が、その谷間の先にあったと推定した。

上記の本文で「通近江國甲賀郡」と述べている。後世の國別配置からすると、この「東北道」の先が「甲賀郡」となって、すんなり受け止められているようである。後の八月の記事に「近江國甲賀郡紫香樂村」が登場し、離宮を造営することになった、と記載される。その時に場所を求めることにする。勿論、「東北道」は、上記したように河内國を経る近江國甲賀郡への最短ルートとなる。

夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。賜外從七位下日下部直益人伊豆國造伊豆直姓。甲午。天皇御皇后宮宴五位以上。賜祿有差。授河内守從五位上大伴宿祢祜志備正五位下。皇后宮亮外從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋從五位下。戊戌。授從四位下大原眞人門部從四位上。

四月十日に伊勢國飯高郡の采女の「飯高君笠目」の「親族縣造」等、皆に「飯高君」姓を、また、「日下部直益人」に「伊豆國造・伊豆直」姓を賜っている。二十日に皇后宮に出御して五位以上の官人と宴会し、それぞれに禄を賜っている。河内守の大伴宿祢祜志備(祜信備。小室に併記)に正五位下、皇后宮亮の中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)に従五位下を授けている。二十四日に大原眞人門部(門部王、高安王と共に臣籍降下)に従四位上を授けている。

<飯高君笠目-親族縣造>
● 飯高君笠目

「飯高」は、直近では伊勢國飯高郡人伊勢直族大江が登場していた。現地名では北九州市小倉南区大字長行、大半は高野と記載されているところである。

古事記の天押帶日子命が祖となった飯高君に由来する地と思われる。中臣(藤原)一族が、その勢力を拡大し、せめぎ合うような場所である。

笠目の「笠」=「山稜の端が笠のような形をしている様」であり、「笠」は、古事記の若建吉備津日子命が祖となった笠臣、また、高橋朝臣笠間などに用いられていた。「目」=「[目]の形に山稜が延びている様」と解釈した。纏めると、笠目=山稜の端が[笠]のようになっている地の傍らに[目]の形に山稜が延びているところと読み解ける。

親族縣造と記載される人々の居処は、図に示した山稜が縣=県+系=首を吊るしたような様をしている場所を表している。おそらく親族の居処は、「笠目」の西側辺りを中心としていたのであろう。簡単に読み飛ばすことのできない記述である。一文字一文字に、地形が込められていることが解る。

<日下部直益人>
● 日下部直益人

「伊豆國造」の称号と「伊豆直」の氏姓を与えたと記している。即ち、元々は日下部直と名乗っていたのだが、「日下部」(書紀では「草壁」)という紛らわしい名前を変更させたのであろう。

言い換えると「日下部」は、この人物の出自の地形を表していることになる。日下=炎の形の山稜の下部であるが、飛鳥の日下部は、”垂直に燃えがる炎”に対して、こちらは”水平に燃え広が炎”を表していると思われる。

図に示した場所にその地形を見出せる。そしての地形の山稜が延びていることも確認される。益=八+八+一+皿=谷間に挟まれて平らに盛り上がった様と解釈した。その「直」の地形を表している。出自の場所は「益」の上部と思われる。

島の中央部であり、前出の伊豆三嶋の北隣となる。多くの配流者が住まった地、伊豆國の詳細が徐々に明らかにされているようである。後に「伊豆直」姓を持つ人物が登場するようであるが、その時に述べることにする。

五月丙午。遣使畿内。検校遭霖百姓産業。癸丑。越智山陵崩壞。長一十一丈。廣五丈二尺。丙辰。遣知太政官事正三位鈴鹿王等十人。率雑工修緝之。又遣采女女嬬等供奉其事。庚申。遣内藏頭外從五位下路眞人宮守等。齎種種獻物奉山陵。庚午。制。凡擬郡司少領已上者。國司史生已上共知簡定。必取當郡推服。比都知聞者。毎司依員貢擧。如有顏面濫擧者。當時國司隨事科决。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。
六月丁丑。上毛野朝臣宿奈麻呂復本位外從五位下。戊寅。夜京中徃往雨飯。
秋七月癸夘朔。日有蝕之。

五月三日に使者を畿内に遣わして、長雨に遭った百姓の産業を調べさせている。十日に越智山陵(斉明天皇陵)が長さ十一丈、広さ五丈二尺にわたって崩壊している。十三日に知太政官事の鈴鹿王等を派遣し、各種の工人を率いて山陵を修理させている。また采女や女孺等を派遣して、その工事に奉仕させている。十七日に内藏頭の路眞人宮守(麻呂に併記)等を派遣し、種々の献上品をもたらして山陵に奉らせている。

二十七日に以下のように制している・・・全て擬郡司の少領以上の者は、國司の史生以上が共同して選び定めよ。必ずその郡がこぞって推し、となりの郡にも聞こえた者を取って、各郡司ごとに定員に従って推薦せよ。もし顔面(媚び諂う?)みだりに推薦する者があれば、その時の國司は、事情に応じて罪名を定めて罰せよ。また采女は今後各郡毎に一人貢進せよ・・・。

六月四日に上毛野朝臣宿奈麻呂(長屋王の変に連座、天平元[729]年配流)を外従五位下に復させている。五日、京のところどころに飯が降ったと記している。

七月一日に日蝕があった、と記している。